111. テロは妥当である (2001/9/20)


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最近はあらゆるメディアが、最近アメリカで起きたテロ事件を報じている。

私は昔はテロは卑劣だと考えていたが、いまは必ずしもそうではないと考えている。今回はまず一般的なテロについて、そして今回のテロの背景について書くことにする。

■テロは攻撃的か?

テロというと、過激派の組織が自分たちの要求をどこかの政府に受け入れさせるために行う暴力的な手段だということになっているようである。だから、テロが攻撃的かそうでないかといえば、当然攻撃的だという結論になるかもしれない。

ただ、過激派の組織が要求するものとして一番有名なのが、政府に捕まったメンバーの釈放である。政府はどこの国でも過激派を犯罪者と見なし、一切の取引を行おうとしない。もしこれがちゃんとした二国間の戦いであれば、捕虜交換条約とかを結んで釈放したりするのだが、過激派については原則的にはそんなことはしない。ときどき原則が破られることがあるが、それはやむないことだとされたり、または強い批判を浴びたりする。

過激派の組織が要求するものは、大抵が政府に対してなにかをやめろということに過ぎない。たとえば、金をよこせ、領土をよこせ、といった要求は聞いたことがない。大統領を辞任しろ、といった要求もあるが、政府を乗っ取ろうとしているわけではない。

つまり、彼らの行動は攻撃的なことに間違いないのだが、彼らの要求は攻撃的ではないのである。

■テロの限界

テロは軍事作戦と比べて明らかに限界がある。それは、軍事的に相手を弱体化させることが難しいことである。

たとえば、ある軍事施設に対して、テロを仕掛けた場合と、軍事作戦により攻撃を仕掛けた場合とで、成功したケースについて考えてみることにしよう。軍事作戦が成功したとしたら、それは軍事施設を占領あるいは機能の十分な弱体化を意味する。しかし、テロが成功したとしても、それは最高でもその軍事施設の最高責任者の暗殺、あるいは施設の一部を破壊できたに過ぎない。

市民を目標とした場合についても考えてみよう。テロが成功した場合、爆弾などによって市民を多数死傷し、生活の場である建築物を破壊することを意味する。しかしテロにはどうしても規模の限界がある。あれだけ騒がれたアメリカのテロでも、いまのところ五千人の死者行方不明者を出したに過ぎない。しかし、アメリカがイラクを攻撃したときには、少なく見積もってもイラク側の市民に十万人以上の死者が出たと言われている。

■テロの特効

テロが最大限に効果を発揮するのは、恐怖によるところが大きい。だから、恐怖にもっとも敏感な非戦闘員つまり市民を攻撃することが一番効果的である。

ただし、市民を攻撃しても政府にとってはなんともない場合もある。普通の民主主義国家では、市民の声はただちに代議員に反映され、代議員は行政つまり内閣や大統領に影響を及ぼし、その結果としてテロの要求を飲むこともあれば強硬な姿勢をとることもある。しかし、独裁国家の場合は、市民がいかに騒いだところで押さえつけられてしまうか、市民が教育により騒がずに黙って政府の言うことを聞いてしまうので、テロが一切効果がないのである。

つまり、テロは民主主義国家に対して行うときに最大の効果を得られるのである。

■アメリカは?

しかるにアメリカの場合はどうだろう。アメリカの市民は、大統領がテロに対して報復しようとしているのを支持しているように思える。彼らは、テロに対して報復することにより、自分の国がさらにテロに見舞われ、運が悪ければ自分も死ぬかもしれないというのに、心配していないのであろうか。もし私がマンハッタン島の住人であるならば、報復は絶対に支持しない。それよりは、イスラエルへの支援を打ちきってでも安全を求めるだろう。

逆説的に言えば、テロに弱い国こそが真の民主主義国家なのではないだろうか。

というわけで、私はアメリカが民主主義国家であるとは到底思えない。市民の勇気が、テロへの断固たる態度を求めているというのであれば、それは崇高な民主主義国家であると言えるかもしれない。しかし実際のところ、アメリカの市民はそこまで崇高な意志を持っているのだろうか。

仮にアメリカの市民が崇高な意志を持っていてテロに屈しない道を歩んだとしよう。その場合、たとえば独裁国家の市民が強い意志を持っていてテロに屈しないのと、果たしてどこが違うのだろうか。恐らく強力な独裁国家の市民は、独裁者のやることなすことをひたすら信じるがゆえに、独裁者の流すプロパガンダをそのまま信じて、やはりテロに対して強い態度をとるだろう。

アメリカと独裁国家との違いはあるのだろうか。もしあるのだとしたら、独裁国家は市民に対して秘密主義を取っているが、民主主義国家は十分な情報公開をしているという点が挙げられる。確かに民主主義国家群の旗手であるアメリカはもっとも情報公開の進んだ国だと断言できよう。しかし、彼らは戦争となると重要な情報を公開しない。実際のところアメリカの市民は、湾岸戦争でイラク側の兵士や市民が何万人死んだのか、はっきりと知っているとは言いがたい。現にアメリカ政府は、イラク側の戦死者を調べようとした自国の人口調査関連の役人の首を切っているそうである。湾岸戦争にとどまらず、これまでアメリカが世界中に行ってきた軍事作戦を、アメリカ政府やメディアは自国の市民に対して十分に情報公開してきたのだろうか。

となると、アメリカは民主主義国家を標榜しているが、実は独裁国家だと結論する以外にない。私は以上の主張を、アメリカ人も集まる BBS でしてみたのだが、私の英語力が足りないということもあるのだろうが、結局一人の中国系アメリカ人が「それはセンシティブな問題だ」と明言を避けただけであった。

■テロの目的

アメリカで起きた同時テロについて考えることにすると、このテロの目的はなんなのだろうか。そもそもテロにつきものの声明も要求も出ていないので何も分かっていないのであるが、要求については大体想像がついている。アメリカのパレスチナ情勢でのイスラエルへの過度の加担か、パレスチナ以外のどこかか、あるいは何の理由もないテロか、そのいずれかであろうと言われている。

ここでまず言っておかなければならないのは、アメリカがテロに狙われる理由はいくらでもあるという事実である。アメリカは世界中に影響力を持っているので無理はない。可能性だけで言えば、アメリカ軍基地のある沖縄などでアメリカ兵に恨みをもつ日本人がやった可能性もある。

もしこれがアメリカではなく日本だとしよう。日本が狙われる原因とは果たしてなんであろうか。中国人や朝鮮人は、理由はどうあれ日本の政府に恨みを持っているようであるが、彼らははっきりと日本の政府だけを対象としており、日本人の市民に対して恨みを持っているわけではない。だから、たとえ彼らが日本にテロを仕掛けたとしても、世界貿易センタービルのような民間の施設が狙われることはまずありえない。それに、それらは五十年以上も前のことで、過ぎたことである。いまなにか日本が彼らにすることがあるとすれば、それは金を払ったり謝罪をしたりすることだけである。

アメリカが敵対しているのは、いずれも今が問題となっている国である。パレスチナ人は、イスラエルに住処を追われて難民となっていることからも分かる通り、いまをなんとかしたいという動機がある。パレスチナ人だけの肩を持つのもなんなので逆にイスラエル人の立場に立つと、彼らは彼らでパレスチナの青少年による石投げいわゆるインティファーダなどをやめさせようと、パレスチナ人過激派組織の幹部をテロで暗殺した。これもやはりいまの問題である。

アメリカには敵が多い。これは事実である。しかもそれらは、アメリカが最初に手を出したものである。たとえそれらが「紛争の調停」という名であろうと、影響力を行使する以上は誰かを攻撃しているのと同じことである。アメリカは真珠湾以来、テロを除くと一度も攻撃されていない。攻撃されていないのに敵が多いということは、逆にアメリカが相手を攻撃したのに他ならない。

テロの目的がいかに大きなものであろうとも、首謀者はアメリカを支配しようとしているのではないことは明らかである。テロの目的は、アメリカの干渉をやめさせることにあるのである。つまり、テロの手段は攻撃的なのだが、目的は防衛的なものなのである。

ただし、このテロがアメリカの局所的な一地域の影響力とは関係なく総合的な影響力を弱めるために仕掛けられたものであるとしたら、目的も攻撃的だということになる。

■国際法

テロは国際的に禁止されている。ゲリラや空爆が認められているのに、テロが禁止されているのはなぜだろうか。

NATO が空爆で民間人の乗った列車を誤爆しても犯罪とはならないのに対して、過激派組織が爆弾などを使って同じことをやったら犯罪と呼ぶ。これは普通に考えると不思議なことである。

テロが心情的に憎まれているのは、いわゆる「罪もない人々が殺されるから」だと言われている。自分たちの選んだ議員や大統領が外国で民間人も含めて殺しているのによくそんなことが言えるなと私は思うのだが、なんにせよ非戦闘員が殺されることに対して憎むという考え方に変わりはない。

ではなぜ非戦闘員を殺してはいけないのだろうか。戦闘員なら何万人殺しても良いのだろうか。多分そういうことではないのだが、戦争ならたとえ装備に天と地ほどの違いがあったとしても、殺し合うのだから仕方がないということなのだろう。ベトナム戦争でのベトナム人ゲリラとアメリカ兵の戦闘効率を比べてもそういうことを平気で言える神経が私には理解できないが、兵士なら死んでも仕方がないという考え方は理解できる。

戦争は本来なんでもありだし、なんでもありだからこそ戦争と呼ぶのだろう。そうでなければ、人が何人も死んでも競技と呼ぶことができただろう。なにごとにもルールがあれば競技と呼べるからである。ところが、特に近代の戦争では、細かいルールがいくつも生まれた。それらは、捕虜を丁寧に扱えだとか、軍備と関係のない非戦闘員を攻撃するなとか、いずれも理由がありまともなものである。このようなルールはないよりはあったほうがいい。少なくとも私は、いまの日本に住んでいるとそう感じる。しかし、ルールはあくまでルールであり、双方の同意がない限りは存在しないものである。

戦争のルールは国際法と呼ばれる慣習法によって決められている。国際法というのは、破れば国際警察が処罰しにくるわけではなく、単に多国間で取り決められていて、どこかの国が破れば残りの国が破った国に対してなんらかの制裁をするようになっている。

国際法が条約と異なるのは、条約が当事者間の約束なのに対して、国際法はすべての国が守るように不特定多数の国の圧力によって存在している慣習である。だから、環境保護条約が何ヶ国間で結ばれたとしたら、結んだ国はそれを守らなければならず、破ったときは残りの国から何らかの制裁が与えられる。それに対して、環境保護の国際法があるとしたら、環境保護をしたい国で世界的に力を持っている国々が勝手に宣言し、それを世界各国に守らせようと圧力を掛けていることを意味する。

現在力を持っているのは、いわゆる自由主義陣営と呼ばれるアメリカを旗手とした西側各国である。彼らが非戦闘員を理由なく攻撃するなと宣言すれば、たとえばいま騒がれているタリバンは条約に何も調印しなくても、西側各国からの圧力を受けるわけである。

ご存知のように、西側各国はテロには基本的に弱い。だからこそ、テロを禁止しようと世界各国に圧力を掛けるのは、勝手なのだが同時にそれは自衛手段でもある。テロをやめさせようと思ったとき、ただやめろと言うのでは根拠がないので、色々なイデオロギーたとえば人命尊重などを掲げて、一国だけでなく同じ考えかたを持った何ヶ国と協調して、おおげさにもさも真理かのごとく高らかに宣言するのである。それは確かに虚飾なのだが、虚飾であるからこそ効果があるのである。

■動物同士の戦い

先の例をもう一度出すと、空爆とテロには違いがある。前に「武力の使い方」という回を書いたが、空爆とテロとでは武力の質が違うのだ。空爆の場合は、民間人の乗った列車だけでなく、敵の戦力を撃破する力を持っている。ところが、テロの場合は主に民間人を殺傷する力しか持っていない。

同種の動物同士の喧嘩を例に出そう。オスは、縄張り争いとかメスの取り合いなどの理由により戦うことがある。しかし、彼らは決して殺し合うまで戦ったりはしない。どちらが強いのか、戦いを続けたらどちらが死ぬかが分かった時点で戦いをやめる。ちなみに、どちらかが死ぬまで戦いをやめない唯一の動物が人間であるとも言われる。つまり、人間同士の戦いは、動物同士の戦いを最終的な見本として進化を続けていると言っても良いように思う。

そこで今度はテロとアメリカの戦いを例に出そう。テロ組織とアメリカという国家が全力をもって戦えば、アメリカが圧勝するに決まっている。唯一の問題は、勝者のアメリカ側も多くの犠牲者を出すことである。つまり、勝負は最初から決まっている。動物同士の戦いの例を出せば、テロ組織は勝負を仕掛ける前から既に敗北しているのである。だから、動物同士の戦いに習えば、テロ組織はおとなしく負けを認めるべきなのである。

ただし、動物同士の戦いの比喩は、もっと厳密に適用することもできる。市民の犠牲者を痛点つまり痛みを感じる神経だと考えればどうだろうか。いくら体が強くても、痛みに弱ければギブアップするしかないのだ。そう考えると、民主主義国家というのは実は、強力な肉体に脆弱な神経系を持った個体だと見なすことも出来る。この喩えでいくと、相手の骨を折ろうと蹴りを繰り出すよりも、むしろヘッドロックで相手の痛覚を攻撃するのが効果的であり、それはそのまま通常戦力による攻撃よりもテロで市民を攻撃するほうが効果的だと置き換えることができる。

市民を痛覚に置き換えるのは大胆かもしれないが、現にこれはアメリカが第二次世界大戦で日本を降伏させようと原爆を落とした言い訳にも使われている。アメリカ国民はいまだに、日本に原爆を落としたのは、日本を早く降伏させてアメリカ人と日本人とを問わず戦死者を最小限に押さえて戦争を終わらせるためだった、と教えられているようである。日本の通常戦力である陸海軍を攻撃して壊滅させるよりは、市民を殺戮して降伏を促した方が良い、という考え方はまさにテロである。

■ルールと時代

戦争のルールは時代によって異なる。捕虜をむやみに殺してはならないという決まり事を日本が破ったとかで責められたりしているが、このような決まりが生まれたのは近代になってからのことである。市民を攻撃してはならないという考え方も同様である。

我々が過去を評価するに当たってもっとも侵しやすい誤りの一つが、今のものさしで過去を測ることである。だがそれはなかなか理解しづらいことである。これを直感的に理解するには、過去ではなく未来のことを今から想像すると良いのではないだろうか。

私が思い描く未来の戦争の中で一番理想的なのは、すべての兵器が無人化することである。しかしなかなかそのような時代は訪れないだろう。ただ、いまでも既に無人の偵察機というものがある。偵察機というのは、敵に発見されるとかなり高い確率で撃墜されてしまうので、これを無人化するのは人道上とても良いことである。ただし、無人の攻撃兵器が歩兵を攻撃するという構図は非常にやりきれないものがある。

ところで日本はロボット大国である。ロボットといっても産業用ロボットであるのだが、日本は生産で世界一、そして全世界の半分のロボットが日本で稼動しているという話である。最近になって、日本の企業がいくつか、産業用ではなく遊び用のロボットをいくつも作っている。有名なのはソニーの AIBO やホンダの ASIMO である。面白いのは、外国の記者が日本の企業にこう質問するそうである。将来はロボットの軍事利用を考えているのか? これを聞いて思わず私は笑ったが、しかし彼らの常識では当然そういう質問が出て当たり前なのだ。

ここで仮に日本が世界に先駆けてロボット兵士を作ったとしよう。ただし、状況を完全に把握するのは不可能なので、たとえば突破用の戦闘ロボットを作ったとしよう。そのロボットは人間が物陰から操縦し、人間の兵士が突撃するまえに先陣を切ってまず敵の標的になり、敵を発見すれば装備しているガトリングガンなどで攻撃を行う。このようなロボットは使い捨てで良い。的になってくれるだけでも十分役立つ。恐らく、建物に立てこもるテロや過激派を攻撃するには最適の兵器である。

そこからさらに進めて、人型兵器では知れているので、たとえば遠隔操縦の戦闘機を作ったとしよう。実際には、私はよく知らないのだが、戦闘機となると実際に人間が操縦した方が遠隔操縦よりも明らかに戦闘能力が高いので、なかなか遠隔操縦にはならないだろう。遠隔操縦の利点は、戦死によって優秀なパイロットが失われることがないからである。無人の遠隔操縦された戦闘機が敵国を攻撃したとしよう。当然敵国はそれらの戦闘機を迎撃しなければならない。ところがその国は、遠隔操縦しているパイロットのいる施設を直接攻撃する手段を持っていたとしよう。無人戦闘機を撃墜しても人はしなずに人道的なのだが、パイロットを直接攻撃すると人が死んでしまう。この場合、パイロットのいる施設を直接攻撃しても人道的に許されるのだろうか。

これに似た例はいまでもある。戦闘機の場合、機体よりもパイロットの育成が大変だという声を聞く。だから、もし戦争になるというときに、パイロットの住所を調べて彼らを一人一人テロで殺していくのは人道的に見てどうなのだろうか。パイロットを殺さなかったら、彼らによって自国の兵士が、自国の市民や施設が攻撃を受けるとしても、人道上許されないのだろうか。

逆に、途上国に対しては、テロを行ってもあまり意味がない。なにしろ途上国には戦闘機がほとんどない。先進国と途上国が戦争をしたとき、途上国が勝てるとしたら、ベトナムのようにゲリラをするしかないのである。途上国にあるのは人人人だけであり、極端な例でいえば、中国人やインド人を何人殺したところで、十億を超える国家に損害を与えるのは途方もない話である。

テロが禁止されても、捕虜の扱いをよくしろといっても、結局それらはすべて先進国のためである。途上国は、自国がテロの被害を受けようが、捕虜が虐殺されようが、大した被害は受けないからである。むしろ途上国は、核戦力や通常戦力による攻撃の禁止だとか、経済封鎖の禁止、イデオロギーの押しつけの禁止などを望むはずである。

■現実

とは言ったが、現実的に考えると、日本はアメリカの尻馬に乗って繁栄している国である。日本は西側の民主主義国家であり、テロに対して断固たる態度をとるべき国である。我々日本国民は現在世界の勝ち組に属しており、中東やアフリカの人々を押さえつけて繁栄している側にいるのである。外国人が何人死のうがどうでもいいが、日本人が死ぬのは許せない国である。

日本は非常に中途半端な位置にいる国である。だから、メディアはそのような日本を情けないと報じたりもするが、私には逆に良い面もあるように思う。

アメリカがテロを受けたことで、日本もテロの攻撃を受ける可能性が十分あると言われている。しかし、まだ分からないが、日本がテロの攻撃を受ける可能性は、他の先進諸国と比べてかなり少ないのではないだろうか。そもそも今回のテロが「真珠湾ふたたび」とも言われるように、日本はアメリカと最後に総力戦を行った国である。それに、アメリカの重大な戦争犯罪である核兵器使用の被害国でもある。それから、先進国を見渡せば、白人が中心となって治められているのではない唯一の国である。湾岸戦争でも通常戦力を参加させずにアメリカに金を払って済ませた。クウェートが日本を感謝リストに入れなかったのは噴飯ものであったが、いま考えると逆によかったように思える。アメリカのとあるレポートでは、実際に戦力を派遣したイギリスよりも、金を出した日本の方がはるかに貢献したとされているようである。

つまり日本は、アメリカにとってはイギリスと比肩するほどの同盟国であるにも関わらず、アメリカの敵国からほとんど敵視されていないという非常に不思議な国なのである。これまで中途半端な外交政策をとってきたとメディアから叩かれてきた日本の外交だが、こう考えると実に見事だと言わざるをえない。

エシュロンという盗聴システムがアメリカと英国連邦というアングロサクソン同盟によって運用されていて日本がのけ者になっているという事実もあるが、イギリスは徐々にではあるが EU に確実に傾きつつあるし、EU は確実にアメリカ離れをしようとしている。そうなるとアメリカにとっての最大の同盟国は、太平洋を挟んだ島国である日本となるのである。

一方、今世紀に隆盛が見込まれる中国に関して言うと、最近はナショナリズムみたいな運動により反中国の動きがあるのは確かであるが、一方で相変わらず根強い親中国の勢力もある。また、日本人の教養はヨーロッパのプラトンなどの哲学や古典ではなく、相変わらず漢文が教育されている。異なる発展を遂げてきたのではあるが、漢字という共通の文化も持っている。現在、島国のイギリスと大陸のフランスやドイツが仲良くしているのをみると、将来日本は中国とも仲良くなれる可能性は十分にある。

*

というわけで、背景はどうあれ、私はテロリズムを支持しない。アメリカと仲良くすることも現時点では望む。日本がテロに攻撃されないことも望む。もしアメリカがテロに報復したとして、テロの被害が日本に及ぶようだと困るのであるが、アメリカや他の国だけがテロのターゲットとなるのであれば、むしろアメリカはテロに徹底的に報復してほしい。そして日本はアメリカにもヨーロッパにもアジアにも中東にもアフリカにも良い顔を見せつづけてほしい。


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gomi@din.or.jp