104. SM (2001/7/5)


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私は SM が好きである。とはいっても、いわゆる SM をやったことはなく、その代償行為として SM 系の本やビデオを見たり、広義での SM が好きなだけである。

■導入

私は小さい頃に、色々と SM っぽい物語や状況を楽しんだ覚えがある。以下はその例である。

▼戦隊モノ

小さい頃、私は戦隊モノの番組を見ていた。あの、五人とか三人とかでカラフルなコスチュームで悪と戦う特撮モノの子供向け番組である。ちょうど私の頃はゴレンジャーなどをやっていた。一年かそこらで毎年シリーズが変わり、いまでも続いているようなので、全部でどのくらいの種類があるのか分からない。

ある日、こんな巻があった。絵本をつかって子供たちを操ろうとする敵が出てきた。たしか絵本の内容が子供を洗脳する、みたいな感じの話だったと思うのだが、もはや詳しくは覚えていない。おかしくなった子供たちをみて主人公たちは、その裏で敵が子供たちを操っているに違いないと気がつく。主人公たちの中で、女性隊員が一番最初に敵に近づいたのだが、敵の攻撃にあって絵本に閉じ込められてしまう。さらに敵はその絵本を火にくべて、絵本の中の世界が火に包まれる。結局、残りの隊員たちが敵を倒して本をなんとかするのだが、それまでにその女性隊員は熱い中をススにまみれながらも脱出を試み、耐えていた。その姿が非常に印象的だったのを覚えている。

なんだどこも SM ではないじゃないか、と言う人も多いだろう。このあたりは、広義の SM について説明するときにも重要になってくるので、あとで説明することにする。とりあえずは SM につきものの熱(ロウソク)と関連付けて納得していただきたい。

▼演劇

小学生の頃、各クラスで演劇をやった。その中で、女の子の役が捕らわれて縛られる、というシチュエーションがあった。私は小さいながらもはっきりと、このシチュエーションに興奮を覚えた。演劇なので、捕らわれていることが最低限分かる程度にしか演じられなかった。簡単な牢に一本のロープで輪を作った程度のものであった。多分その役はヒロインだったと思うのだが、私はこのヒロインが解放されるとなぜかガッカリした。

▼変形おにごっこ

よく覚えていないのだが、おにごっこの一種で、捕まったら牢屋のような場所に捕らわれる、という変形ルールのおにごっこをやった覚えがある。この例は先の二つとは逆で、自分自身が誰かに捕まるというシチュエーションに酔った。

また、クラスの人気者が捕まったときに、彼が色々と悪態をつきながら助けを待っていたのを見て、ある種のかっこよさを感じた。

▼ドリフ

ドリフのコントの中に、志村けんだったか加藤茶が捕まって拷問のようなものを受けるものがあった。残りのメンバーは助けに行くのだが、なかなか見つからず、彼らの見ていないところで罰ゲーム感覚で捕らわれの志村または加藤がひどいめにあうというものだった。

ご存知の方も多いだろうが、ドリフのコントはいくつかあるパターンが毎週毎週交代交代に行われる。有名なのは、いかりやが母親役で他のメンバーがその子供役の家庭コント、メンバーがどこかを探検して、ドジな隊員志村が自らに迫った危機に全く気づかずに「志村うしろうしろ!」とギャラリーの子供たちから声が掛かったことで有名な冒険コントなどである。

私は拷問タイプのコントが次にいつやるのか楽しみにしていたほどである。しかし、やはり何か問題があると判断されたのだろうか、ある時を境にこのタイプのコントは行われなくなってしまったように覚えている。

▼実際

実は言うと、私は本当に女の子を縛ったことがある。

私が北海道にいたころの話である。小学生の頃、近所に住んでいた姉妹がいて、よく家の側で二人そろって縄跳びで遊んでいた。この姉妹の姉が私と同じ学年だった。私と彼女とは、親同士はかなり仲がよく、信じられないことに十年以上たった今でも付き合いがあり、たまにいっしょに旅行に行くようである。しかし、私とその彼女とは仲が悪かった。というか、彼女の方は私のことをあまり見ず、私の方が彼女にちょっかいを掛けて気を引こうとして相手の嫌がることをしていた、という関係であった。

あるとき、なんの脈絡もなく、縄跳びの縄で縛ってどれくらいの時間で抜けられるか、という遊びを私は提案した。彼女は嫌嫌ながらもその遊びに付き合った。この遊びは多分一度しかやらなかった。縄を抜けたあとに彼女がつまらなさそうに「はい抜けたよ」みたいなことを言って立っている姿が私の記憶に残っている。

よく「お医者さんごっこ」と呼ばれる禁断の遊びについて語られることがある。私はやったことはないのだが、何かきっかけがあったらやっていたかもしれないなと思う。

ちなみにこの縄抜け遊びは男同士でもやった。

▼SM エロマンガ

とまあ小さい頃の思い出はそれなりに覚えているのだが、肝心の「女性が裸で縄で縛られている写真」との初めての出会いについては、不思議なことに何も覚えていない。写真のまえに漫画だったかもしれない。

中学のときに、友達といっしょに下校していると道端にマンガが落ちていた。拾って見てみるとこれがエロマンガであった。どれどれ、と友人が関心を示したので渡すと、その友人は見て「もろエロマンガだ」と言って道端の木立の中に捨てた。私たちはそのまま家に帰ったのだが、家がそこから近かった私は気になってあとで自転車でそれを取りに行った。そのエロマンガは SM 系の内容であった。

私はそのマンガを何度も読んだのだが、ある日突然、家のすぐ側を流れている小さなドブ川に窓からそのマンガを投げ捨ててしまった。小さいながらに気恥ずかしさを感じたからかもしれない。とっておけば良かったと今では後悔している。

■系統分析

ひとくちに SM と言ってもいくつかの系統がある。まず S と M という区別があり、それらもいくつかのタイプに分けられる。

▼女王様

一応 S の女性という風に分類されている。

皮でできたコスチュームを着てムチを振るって「女王様とお呼び!」と言うイメージから女王様という呼び名が定着したっぽい。私はこのあたりの歴史にあまり詳しくないのでよくわからない。ただ言えるのは、彼女らは中年のおじさんをいじめることに快感を感じているわけではなく、まあ多少は面白いかもしれないが、多くは職業上ただ演じているに過ぎない点である。

▼おねえさま

これも同じく S の女性なのだが、レズだという点で異なる。

年下の女性をいじめてかわいがる女性のことを、私はおねえさまと呼ぶことにする。実際にそのような女性は少ないだろう。私は男なので女性の事情は分からないが、男の事情からすると、男の間ではレズものというジャンルが確立していて、確実にファンがいるのである。

▼中年奴隷

女王様のカウンターパートで、M の男性である。

別に奴隷が中年である必要はないのだが、まことしやかに「特に中年男性には自分の現実社会での地位とは正反対に女王様への服従を快感に感じる人がいる」と語られていることから中年とする。

▼おとうと

おねえさまに相対し、M の少年である。

実在はたぶんしないだろう。どうしてこの性格の需要があるのかというと、多分 M の男性が少年に感情移入して楽しむのではないかと思われる。

▼ご主人様

M の女性と対応する S の男性である。

複雑なことに、S の男性にはいくつもの好みがある。中でも一番紳士的と言えるのがこのご主人様であり、M の女性との合意の上で SM という関係を楽しむタイプである。このタイプの特徴は、M の女性を基本的に楽しませようとしている点にある。

▼スレイブマスター

M ではない女性と対応する S の男性である。

このタイプの男性は、嫌がる女性を無理矢理従わせることに興奮を覚える。だから逆に、女性が M で奴隷であることを喜んでいるとすると興が失われる。

▼調教師

S の男性であり、M ではない女性を M にすることに喜びを感じるタイプである。いったん M になった女性を好むか避けるかはタイプによる。SM に限らずこのタイプはよくいると言われる。

▼女奴隷

M の女をここではこう呼ぶ。

最初に述べた通り、私自身は実際にやる SM とは全く縁がないので、SM もののモデルをやっている女性を見て楽しむだけである。なので女奴隷の嗜好については知らないし、知りたいとも思わない。私は M の女性には興味がないからである。

このタイプはとにかく服従と虐待を好み、ご主人様に絶対服従することを喜びとする。

▼ナルシスト

男女を問わず、厳密には M ではないが、とにかく自分が虐待されることを好むタイプである。

このタイプの特徴は、既に自分の中に、自分がどう虐待されるかのイメージがあり、そのイメージに自己陶酔したいがために虐待を受けることを好むという点にある。そのため、自分のイメージとは異なる隷属は望まない。

■一例・私の性癖

ここで具体的な例を挙げるために、私の性癖を紹介することにする。ただし、私はここで完全に正直に話すとは限らないのだということを断っておく。

私は M の女性は嫌いである。というのは、M は S に対して虐待を求めているからである。私は、嫌がる相手を無理矢理、というシチュエーションが好きなのである。ただし、相手が涙を見せて嫌がると引いてしまう。唇を噛んで耐えているのとか、やめてくれと訴えているのとか、恥ずかしがっているのを見るのが好きなのである。

私は多分 M の嗜好も持っているとは思うのだが、私は自信過剰の人間なので、よほどの相手でないかぎり服従したいとは思わない。ごくたまに、おねえさま的な人のいうことをききたくなることがあるが、私がこれぞおねえさまと思うような人はいない。いや、どこかにはいるのだが、そういう人は私のことを無視するだろうなと想像して楽しんでいるに過ぎない。

SM には商用のサービスが存在するが、やってみたいとは思わない。まず第一に金が掛かるからなのと、そういう店に行ってまでやってみたいとは思わないのと、多分期待が外れるだろうと思っているのとである。私が接している SM モノは、専門のプロのモデルが演じているもので、まあさすがに普通の AV とは市場の大きさが違うのでルックスが一つ二つランクが落ちるのだが、体型とかはあきらかに素人とは違う。それになによりも、S を演じるには技術がいる。ロウソクをたらすにも、ちゃんとノウハウがあるのである。縛るとなるとなおさらである。

私は基本的に、相手を屈服させることが好きなタイプである。それも、明示的に屈服させるのではなく、ほのめかして屈服させるのが大好きである。そして、相手がいったん屈服するとその相手への興味を失う。また、屈服させようとしてもなかなかうまくいかない場合の方が興がある。

■方法

SM にはいくつかの方法がある。

▼従属

相手にただ従うことを従属とする。人間、自分の意志で行動すべきであると育てられるものであるが、なぜそのように育てなければならないかというと、そもそも人間は誰かの言うことを聞いて生きていきたいからである。子供がそうだし、新興宗教にハマる人もそうだし、師匠に弟子入りするというのも場合にもよるがそうである。

ほとんどの人間は、たとえばいろんな人を支配したいと思っているものである。誰でも嫌やヤツの一人や二人はいるので、そいつを自分の意のままにしてやりたいと思うことは多いはずである。では、逆に支配されたいと思うとき、誰に支配されたいと思うのだろうか。一言で片づけるならば「愛する人」と言えるかもしれない。が、逆に、支配したいしされたいと思う相手のことを「愛する人」だと定義する向きもあるので、このあたりはよく分からない。私は、支配したいと思ったりされたいと思ったりするのは人間の本能だと思っているので、支配・非支配欲求こそが愛の原点だと結論している。つまり、支配を望む感情に理由はないのである。

▼痛覚

痛覚とは要するにムチやロウソクである。本当は「体の嫌がること」と言いたかったのだが、何かいやらしい感じがするので痛覚とまとめた。熱を感じる感覚は痛覚とは異なる。それと、あまりに肉体に打撃を受けると痛覚さえ麻痺する。

痛覚の分かりやすいところは、体で理解できることである。痛ければすぐに相手に支配されていることが分かる。

▼羞恥

羞恥は従属の一形態だろう。羞恥をさらすことにより従属を意識する。

なぜ羞恥がことさらに取り上げられるかというと、たぶんこの感情が人間の根本的な部分に影響を与えているからだろう。ただ、羞恥自体は本能からではなく文化から来ている。なにをもって恥ずかしいとするのかは文化によって異なる。裸を恥ずかしがらない人もいる。私の知る限りでは、古代中国の纏足をされて育った女性は、胸か股のどちらかを犠牲にして足を隠したらしい。

つまり、羞恥とはムチやロウソクよりも高度な SM の手段なのである。

羞恥の中には「言葉攻め」というものがある。相手を侮辱する言葉を投げつけることで羞恥を感じさせることである。これなんかは、文化による羞恥よりもさらに高度な羞恥と言えよう。

▼放置

いわゆる「放置プレイ」とは、恥ずかしい格好にさせたまま放っておく方法のことを言う。放置プレイの魅力(?)というと、放置されている間に誰か他人がそこを通りかかるかもしれない、という恐怖による支配感であろう。となるとむしろこれは羞恥の一種なのではないかと考えることもできる。違いはというと、放置される側が放置する側のいないところで羞恥を感じなくてはならないところだろう。

ただ、相手から無視されるということは、非常に大きな支配関係である。一言で言えば「相手にもしてくれない」ということだからである。しかし、この状態を人工的に作り出すには非常に無理がある。人工的という時点ですでに無視ではないからである。そこで、強引に無視という状況を作り出そうと工夫した結果が、広く知られる「放置プレイ」のさまざまなバリエーションとなっているのであろう。

■傾向

SM 風の描写が少しでもまじっている本やビデオを見ると、面白いことにそれらには共通する傾向を読み取ることができる。また、どういった種類のものが人気があるかどうかも分かる。

周知の通り、SM の描写のある本やビデオの需要のほとんどは男である。まあ私自身が男なので女性のことをよく知らないのでそう結論するのかもしれないが、普通に見てみると大抵のものが男を対象とした商品であることは確かである。そして、男は大抵 S として楽しんでいる。ちょっと品揃えのある本屋に行くと M 系の本も置いてあるが、量としては少ない。

▼拘束道具

もっとも一般的な拘束道具は縄である。とはいっても縄にも色々あって、マニアは麻縄と決まっている。麻縄というとチクチクと荒く編まれているので、縛られるとさぞかし痛いだろうなと思うのだが、実はそうではないらしい。むしろ自然の植物に近い状態で編まれているので、体にはぴったりとくるものらしい。他に布のカラフルなロープがあるが、見た目とは裏腹に人体をきつく締め付けるものらしい。

マニアの想像力は無限である。色々見ると、革とかラバーとかナイロンとか針金とか鎖とかラップとか色々ある。ヨーロッパ系から来た拘束道具には、革でさまざまな趣向をこらしたものがある。ファッションとしても優れている革のコスチュームもあれば、着ただけで露骨に卑猥なものとか、どこまでが身動きできなくなるのかも色々ある。

▼部位

足フェチとかがいるように、マニアは体の一部の部位にこだわる。

鼻フックというのは、相手の鼻の穴に鈎をつけて引っ張って変な顔にするものである。子供同士であれば楽しい遊びに過ぎないのであるが、これをすました大人の女性にやるところがマニアをくすぐるのである。その他、顔に洗濯挟みをつけたり、口とかも広げたりするのもある。

肛門もまだ人気のある部分である。特に浣腸をすると、排泄を我慢できなくなってついには大便をせざるをえなくなるので、SM の中でも人気の高い大きなジャンルの一つとなっている。子供の頃は、学校で普通にトイレで大便をしたことを知られることがおおごとになったりした覚えのある人は多いと思う。女性に目の前でウンコをさせるということがいかにすごいかということは理解できるだろう。が、反面、排泄物なだけに拒否反応を感じる人も多く、私もどちらかといえばあまり好きではない。排泄させるという状況はいいのだが、あの実物を見たいとは思わない。

泥でよごれた女性にひかれる人も多い。別に泥くらい普通に考えればなんでもないように思えるかもしれないが、小さい頃に自分が泥遊びをしている横でかわいい女の子がすまして遊んでいたという思い出とかから来ているかもしれない。ところで最近、サプリという清涼飲料水の宣伝で浜崎あゆみが顔に少し泥をつけて登場するコマーシャルがあったが、あれも狙ったものであることは疑いない。

▼責め道具

ムチは多分 SM の道具のなかで一番有名であろう。痛がらせるには、普通に手で殴ってもいいのだが、あえてムチという痛そうな道具を使うところに意味がある。それに、ムチはそもそも痛みを与えるために作られたものであり、決して相手にダメージを与えるためのものではない。出来る限り少ないダメージで出来る限り多くの痛みを与えるために作られたものなのである。

ロウソクもかなり有名である。ロウソクの良さというのは、やはり視覚的なものが大きいと思う。まず、ロウソクについた火が象徴的である。ロウソクのロウは、火から連想するとかなり熱いように見える。しかし実際には、ロウ自体の融点がそもそも低いのに加え、ロウがたれて落下するあいだに温度はどんどん下がっていく。だから、体から離しすぎると多分あまり熱くないのである。そして、ロウが体に付着して冷えて固まると、ロウソクの色に応じて赤とか白とかの斑点が素肌を彩る。重ねて垂らすといびつな形で固まって体を覆うので、なんだか残酷な感じがしてとても良い効果がある。

■逆説

いわゆる SM の内包する最大の矛盾は、それ自体が作り物であり演技だということに尽きる。なにしろ支配関係を強引に作り上げるのだから、あの手この手で色々な道具を使って面倒な手順を追って一つの人格を演じなければならない。SM を好きでも嫌いでもない人が SM について感じるのは、そういったことの持つ馬鹿馬鹿しさであろう。

イメクラについて考えてみれば分かる。イメクラという名称は私の知る限りではイメージクラブの略である。患者と医者だとか、女子高生と体育教師だとか、電車に乗りあわせた痴漢と被害者とか、シチュエーションを決めてその役割と筋書きに従って状況を楽しむ場所である。なんだ馬鹿馬鹿しい、と思う人もいるだろうが、こういうプレイは多分かなり面白いだろう。

よく考えてみれば、人間は演劇というものを作りあげたが、これも普通に考えればかなり馬鹿馬鹿しいものである。あんな狭い場所に観客を集めて、役者は衣装を着て別人になりきり、偽りの感情と行動を演じてドラマを織り上げる。我々は当たり前のように演劇を見て感動していて、たとえ舞台の袖で何かやっていても、舞台が終わったあとに役者がトイレから出てきても、興が冷めたりしらけたりすることはあっても、演劇という文化の存在意義を疑ったりはしない。

■二つの究極

となると、SM には二つの極点があると考えることが出来る。作り物だということを開き直って、その作り物であるところの SM を発展させていった先がまず一つ。その逆に、いっさい作らずに本物の関係を作り上げることが一つである。

究極の創作物である SM は、おそらくあまりの馬鹿馬鹿しさに大笑いしてしまうだろう。いまだって、ちょっと突っ込めば「なんでわざわざあそこまでぐるぐる巻きにするの?」とか「ロウソクなんて実はそれほど熱くないんだから」などと突っ込み放題である。

逆に一切作らずに SM を実現しようとしたら大変なことになる。なにしろ本当に支配し支配されなくてはならないのだから、傷害罪とか強制わいせつ罪で訴えられることを覚悟しなければならないし、やられる方はたまったものではない。

SM が変態である理由はこの二つである。

逆に言えば、ここまで行かなければ変態ではないし、そうなればそれらはもはや SM とは言えないのである。

そこで私は、支配関係を作る際に常識の範囲から少しでもはずれた行為を含むものを普通の SM と定義したい。

■楽しみかた

となると SM を楽しむ方法も明らかになってくる。

▼創作物

まず、創作物であるところの SM を楽しむためには、あまり突っ込まないことである。普通の小説やテレビドラマを見ていても、主人公やヒロインの感情や行動には突っ込むべきポイントが沢山みられる。が、我々が物語を楽しむためにはあえて突っ込んだりはしないし、むしろ気づかないようにうまく騙されて楽しむ。プロレスファンが八百長かどうかを深く考えないのも同じである。

バレーボールのアニメを例に挙げよう。コーチが選手に厳しい特訓をしたりするアレである。冷静に考えると、たかがバレーボールに何をそんなに熱心になっているんだ、命懸けるなんて馬鹿じゃないの、と思うのが当然である。しかし、そこにあえてそのような世界を作り出すことに価値がある。

人生には勝ち負けがある。まあ異論はあるだろうがそういうことにしてほしい。人間には、勝ち負けを好む人と、好まない人がいる。勝ち負けを好む人は、わざわざ不要な勝負を作り出してまで勝ち負けを楽しむ。チェスのうまいへたに一生を費やす人などはその究極である。甲子園で優勝することを目的に野球部を運営したり部員になったりするのもその一種である。もっとも、この場合は勝つことあるいは勝ち負けを競うことを目的としており、負けることを楽しもうとする人はいない。しかしよく考えてみると、勝負ごとにわざと負けて相手を喜ばせることを目的とする人もいるし、圧倒的な力の差を前にしても負けることが分かっていても挑戦することをやりがいとする人も多い。まあ、敗北の屈辱自体をかみ締めて喜ぶ人はそうそういないだろうが。

▼現実

本物の SM を楽しむためには、うまいこと状況を利用すればよい。支配関係は見渡せばいくらでもある。会社の中の階層とか、友達同士の力関係、社会の矛盾、身内の歪み、世の中には自然な支配関係を楽しんでいる人間が山ほどいる。

昔は、少ない食べ物をめぐって生死に関わる争いが起こったが、いまではせいぜい贅沢するために余分に金が欲しい程度のものである。肥大したプライドを掛けての勝負で失うものは、重要であれこそすれ生死とはあまり関係がない(まったくないわけではない)。

ただし、相手を支配するのは難しいだろう。九歳の女の子をかっさらってくることも出来るだろうが、その結果は我々の知るところである。

束縛されることを好む人は多い。時間に束縛されることを喜んでいる人は多い。不健康つまり生活習慣による束縛を自慢する人も多い。昨日は何時間しか寝てないよ、と自慢げに語る人をいままで何人見てきただろうか。仕事の鬼もツラさを誇らしく語る。彼が私をもう離さなくって…というのもある。電気ガスとめられちゃってさー、って違うだろおいと突っ込みたくなる。

他人に迷惑を掛けたことをさも自慢げに話す人も多い。まあ、他人への嫌がらせは普通に面白いので敢えて説明する必要はないだろう。私も本当はもっと嫌がらせをしたいのだが、大人なのであまりやらない。そのうち開き直って再開するかもしれないが。

■参考になる本

手軽に買える参考書を紹介する。

▼東京大学物語

SM というと裸にしてロープやロウソクで、というイメージが強いが、私に言わせるとそれはあくまで SM の中の一つの分類に過ぎない。SM には程度によってかなり大きな幅がある。ちょっと相手の軽口を叩くことも、いきなり相手を殺してしまうことも、私はすべて広義の SM としている。

このあたりで特に深くてなおかつ分かりやすい説明をしているのが、私の好きな漫画の江川達也「東京大学物語」である。後半部分に、露骨な SM がそのまま描写されていたり、言葉による恋愛のコミュニケーションが実は SM 的であると描写している部分があるので、ぜひ参照していただきたい。

江川達也が何を考えているのか知らないが、主人公に放っておかれたヒロインが自分で自分の状態のことを「放置プレイ」と言っているところなど、現実の恋愛のコミュニケーションを SM にたとえているところは、SM を通じて恋愛の原理を突き詰めようとしているようで、私にはその姿勢が大変素晴らしく思える。

全巻買うと 34冊になるのが弱点である。私はよく分からないが、どうやらこの作品は好みに分かれるそうなので、最初の数巻を買って駄目なようならばあきらめたほうが良いかもしれない。私はこの作品はこれまで読んだ全てのフィクションの中で一番か二番目に面白いと思っている。

▼紺野さんと遊ぼう

テレビドラマ「ショムニ」の原作マンガの作者である安田弘之が書いたナンセンスな漫画「紺野さんと遊ぼう」は、SM についての絶妙な説明をしてくれている。なぜ SM がいわゆる変態的な行為なのかということが分かるだろう。

このマンガには、紺野さんというセーラー服を着た一人の女性しか出てこない。この紺野さんはそんなに魅力的には描かれておらず、ごくごく普通の女性というつもりで書いているようである。ただ、その動作一つ一つが生々しい。素足でボーリングの玉をつかもうとしているところとか、なんともいえないリアルな表情を見せているところとか(普通に見るとあまり魅力的ではない)、やる気のない表情でくだらないコスプレをしているところとか、読んでいて非常に引き込まれる。

なんといっても目玉は幻の第0回となっているらしい巻末の一話である。と書きに「テグス(釣り糸)を巻いてみる」と紺野さんの腕を釣り糸でぐるぐる巻いた絵が出てくる。次に「目隠しをして縛ってみる」と、なんのエロティシズムもなく制服姿の紺野さんを目隠しして縄で縛った絵が出てくる。描かれた素足が私のようなフェチにはとても魅力的に写る。スカートの中に猫を入れてみたりもしているが、紺野さんは無表情で何も言わない。

*

なにか書きたりないような気がするのだが、すでに前回より一ヶ月以上間隔が開いてしまったことでもあるし、すぐに書きたせそうもないので、このまま載せることにする。多分、違うテーマといっしょに書くことになるだろう。

ここまで説明しても多分「いじめられること」「いいなりになること」に快感を覚えるということについて理解することはできないだろう。このあたりは文章の限界なので仕方がない。一度いじめられてみればほとんどの人は分かると思う。が、一度その感覚を分かってしまうとクセになる可能性が高いので、遊び半分でやるべきではない。相手をいじめる場合も、意識していじめると元に戻らないので、本気でない限りやるべきではない。


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