103. 金を偏在させるな (2001/6/3)


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ビル・トッテンという人はもともと日本人ではないのだが、日本のことを我がことのように考えてくれている人ではないか。この人のページを読むとそう思う。今回は、この人のページを読んでいくつか思ったことを書くことにする。

http://www.billtotten.com/

■個人投資家

マスコミのいまの論調に、グローバリズムを進めろ、いや惑わされるな、という軸が存在する。つまり、アメリカ式を取り入れることについての是非は大きく二つの相反する考え方が対立していることになる。しかし、アメリカ式の中の一つである個人投資家を増やそうという考え方については、あまり否定的な意見はなく、おおむねどのマスコミも賛成のようである。サラリーマンも株を買いやすくしろ、ということなのだから特に反対する理由もないのだろう。

しかしビル・トッテンはこの風潮に異議を唱えている。詳しくは覚えていないのだが、一億総ギャンブラー化である、みたいなことを言っていた。私はこの彼の言い分を聞く前は、個人が株を買いやすくなるのは選択肢を増やすことなのだから良いことだ、と漠然と思っていた。確かに私個人からすればその通りである。しかし、彼の言葉を聞いて気がついた。人々がいかに競馬やパチンコに金をつぎ込んできたのか。株も一種のギャンブルである。

ただ、私はいまデリバティブの解説本を読んでいるところなのであるが、この本を読むと株が決してギャンブルではないことが分かる。というのは、リスクが大きければ大きいほど、リターンの期待値が高いからである。通常のギャンブルというのは、胴元の取り分があるので、いくらリスクが大きくても儲かる期待値はつぎ込んだ金額よりも少ない。平たく言えば、千円賭けたときに千円以上になって戻ってくる確率は半分より少ないのだ。ところが、株を始めとした金融商品は基本的に千円以上になって戻ってくる確率の方が高いのである。

信じられないかもしれないが、これは基本的な原則なのである。逆を考えれば分かりやすい。あなたが生命保険に入ったとしたら、あなたはこれから掛かるかもしれない医療費の期待値以上の保険料を支払わなければならない。その代わり、大事故にあって多大な医療費が掛かるようなときでもお金の心配をする必要はない(保険契約にもよるが)。つまり、リスクが減れば余計に金が掛かるのと同様に、リスクが増えれば余計に金を貰える可能性が高いのである。

ただし、ここに落とし穴がある。人生のうち必ず必要な金は確実に運用しなければならない。そこで、必ずしも必要ではない金をどれだけ持っているかが一番重要なのである。これまで説明してきたことを当てはめると、必ずしも必要ではない金は大きなリスクの元で運用することができるので、当然期待値が高い。たとえば、私があなたにこう提案したとしよう。私がサイコロを振って 1 か 2 か 3 か 4 が出たらあなたに百万円を差し上げる、ただし 5 か 6 だったらあなたから百万円をもらう。言うまでもなくこの賭けはあなたに有利な賭けである。しかし、もしあなたが百万円というある程度まとまった金がなかったら、あるいはこれからの生活で百万円を失うことが多大な影響を及ぼすとしたら、あなたはこの有利な賭けにさえ乗ることができない。

つまりこういうことである。株式市場の活性化は、それ自体が不公平を生むのである。富める者は富を増やし、貧しい者は確実な糧を確保するためにリスクを減らす手数料を払わされるのだ。

個人投資家という概念の唯一の利点は、人々が過剰にリスクを求めて余計な手数料を払っていたのを適切な量にすることだけである。しかし、いったん個人投資家が増えると、人々は分不相応なリスクを追い求めて破滅していくのある。これからはギャンブルで身を滅ぼす人ばかりでなく、株で身を滅ぼす人をよく見るようになるだろう。

■消費不況の真の原因

リベラルな政治家が脚光を浴びているが、よく考えてみれば、庶民的なツラをしていながらも非常に反庶民的な考え方を平気で口にしている人がいる。その最たるものは、所得減税を訴える政治家である。

彼らに言わせると、不況なのは企業の元気がないからだという。だから、企業に掛かっている、サラリーマンよりも比率の高い所得税を低くしよう、ということだそうである。高い税率が企業のやる気を削いでいる、と一見まともなことを言っているようであるが、実はとんでもないことを言っているのだ。企業が儲けた金は配当金として株主に渡る。多額の配当金を受け取る人というのは金持ちのことである。所得減税は株主を利するだけなのである。従業員の給料を払っていっぱいいっぱいの会社はそもそも利益が少ないのだから税金も少ない。儲かって儲かってしょうがない企業ほど税金を多く取るべきなのは当然である。

ビル・トッテンは、ただ金持ちを利するのはやめろと言っているだけではない。貧乏人がますます貧乏になったから消費不況になったのだという主張を、きっちりしたデータをまじえて鮮やかに説明してみせている。一言で言えば、貧乏人ほど金をよく使う。普通に考えれば、人々は自分の持っている金に比して消費する、つまり貧乏人は安くて質の悪い物を買い、金持ちは高くて質の良い物を買うので、誰の手に金があっても同じ分だけ消費されるだろうと思うかもしれない。しかし、実際は金持ちは随分と余裕を持って貯蓄しているのである。

ここ最近の流れからすると、携帯電話が非常に広まったのは大変大きな変化である。人々は月々三千円から三万円くらいの金を携帯電話の通信費として支払うようになった。これだけで日本の個人消費は多大な伸びをみせるはずである。ところが実際は、人々は通信費を支払うために他の消費を控えるようになってしまった。消費したいものが増えたのに、収入がそれほど増えなかったからである。もし人々の収入がもっと増えていたら、こんな消費不況は訪れなかっただろう。ある雑誌の見出しに、なぜ誰も言わない/ドコモが消費不況の原因だと、みたいな文句が踊っているのを見たが、携帯電話会社ドコモ一社のせいにするのはおかしい。ドコモはむしろ我々の生活を向上させたかもしれない会社なのである。いや、現に我々の生活は向上したといえるのだが、人々が携帯電話を使う代わりに放棄した他の消費について考えれば、ドコモは単に他の業界の消費をぶんどっただけになってしまっていることが分かる。

考えてみればいい。人々の収入がもっと上がっていたら、人々が通信費を払う代わりに他の消費を放棄することもなく、そうすれば物が売れなくなることもなく、失業者が増えることもなかったのだ。何が原因かというと、富める者をますます富ませようとするシステムが、人々の収入向上を妨げたのである。その結果、富める者の足元をも脅かしているのはなんとも情けない。

■貯蓄額と金利

不況だ不況だと言われながら、依然貯蓄高の世界一高い日本である。

冷静になって考えれば、貯蓄高の高い国で金利が低いのは当たり前である。なぜなら、みんなが金を持っていると、借りる人の方が少ないので金利は下がるからである。逆に、みんなが金を持っていなかったら、金を借りたい人は金を持っている人のところへ殺到するから金利が高くなる。

老後にそなえて貯金している人と、金が余っているのでとりあえず預けている人とを比べると、その差は税金にしかあらわれない。というのは、老後にそなえて貯金している人の場合は、その目的が明らかであれば金利に掛かる税金が少なくなるからである。しかし逆に言うと、それ以外の面では金余りの預金と変わらないのである。

借りる人が少ないから金が余る、というのもあるが、むしろ貸す人が多いから金が余ると考えた方が良いのではないだろうか。ただ、どちらの場合で考えても、貸し渋りが起きる理由とは全く反対のものである。

■貸し渋りは我々の意志だ

マスコミは銀行の貸し渋りを糾弾する。かく言う私も文句を言った。しかしよく考えてみると、そんな私も相変わらず自分の貯金を銀行にすべて預けている。銀行とは、預金を確実に増やすことが求められるのだから、貸し倒れるかもしれない中小企業からは資金を引き上げても当たり前である。中小企業に金を貸しすぎて損をするかもしれないのは我々だからである。

我々の預金は、金融改革が進んだあとでも相変わらず一千万円までは守られるのだが、この守られる預金は各銀行が集まって積み立てている資金によって守られているのである。銀行の経営が悪くなってくると、この保険ですら積み立てるのが難しくなり、銀行法だかなんだか知らないが法律によって定められている保険が緩和されるかもしれない。そうなると、とても一千万円までの預金を保護できなくなり、最終的には五百万とか二百万くらいになってしまうことも考えられる。

もし本当に貸し渋りに反対だというのなら、銀行に預金するのをやめればよい。中小企業に金を回したければ、信用金庫とか地銀などのローカルな金融機関に金を預ければ、少なくとも都市銀行に預けるよりは良い。私のように、東京三菱だけに数百万預金していながら銀行を批判するのはアホである。

我々には、都市銀行に預けるよりも儲かる方法がある。しかし、ほとんどの人はそんなことを考えもしない。都市銀行や郵便貯金に預けておけば安全だし何の問題もないと考えているのである。

では、そんな我々が金を預けている都市銀行や郵便貯金はその金をどう運用しているか。同じである。国債を買っていればいい、大企業に貸し付ければいい、と考えていて、中小企業のようなリスクの高いところへ金を貸そうとしない、または貸す場合は常に土地などの安全な担保を要求する。

■財テクは金余りの結果

貸し渋りが行われるのは銀行の持つ不良債権が大きいからであると言われている。ではそもそもなぜ不良債権ができてしまったかというと、バブルの頃に企業に不必要に金を貸したり、土地を買いあさったりしたからである。ではなぜそんなことをしたのかというと、銀行には金が余っていたからである。

財テクという言葉が流行ったのは、庶民でもそのころはいくらか金が余っていて、その余った金をどう運用するかを考えるべきだということから来ている。黙って普通に預金するのではなく、もっと効率的なもの、将来確実に値段が上がりそうなものを買っておけば儲かる、というのが財テクである。

バブル真っ盛りだった頃には、主婦でさえ財テクに走ったと言われているから、かなり多くの人が財テクをやったに違いないとは思うのだが、しかし全体からすればそんなに多くの人がやったとは思えない。やらなかった人は、自分の金を相変わらず銀行や郵便貯金に預けていた。当然、銀行には金がどんどん入ってくる。すると銀行は、利子を払い利益を出すためにその金を運用する。

みんなが金を持っていると、その金は何かを買うために使われる。日本の場合、土地という資産が非常に安全で価値があると思われていたので、主に土地やその上に建てられる家やマンションが多く買われた。みんなが沢山金を持っていたので、それらの不動産がとてもよく売れるようになった。人気が出ると値段が上がるのは当然である。まして、不動産の数には限りがある。買いたいと思う人の数が、売りたいという人の数を上回っている限り、不動産の値段は上がりつづける。すると人々は、不動産はこれからもずっと値上がりを続けるものだと思い込んでしまい、ますます不動産の資産としての人気が上がり、値段がどんどん上がってしまう。かなり値段が上がってもさらに値段が上がりつづけたのは、買いたいと思う人がそんなに減らなかったからである。それは、買える分の金を人々が持っていたからである。

結果的に不動産の値段は上がるところまで上がってから急落した。買い手がつかなくなるほど値段が上がったからであるとも言えるし、いつまでも値段が上がりつづけるわけはないと人々が気がついたからかもしれない。

■何に使えばよかったか

以前 NHK かなにかで、作家の村上龍がバブルについて考える番組をやっていた。私はよく見ていないのでよく分からないのだが、どうやらバブルの頃に余っていたお金をどうしていたらよかったのかという意見を募集していたらしい。バブルの主な原因は、結果的に銀行が土地に過大な投資をしたからだということで大体話がまとまっていたので、ではもしあなたが銀行の担当者だとしたら、預金者から預かった金をどうやって運用していたら良かったのか、ということを広く聞いてみようとしたらしい。

私はこの番組を見なかったのでよくわからないが、ビル・トッテンは社会資本に当てていれば良かったと言っている。多分先の番組の結論も似たようなものだろう。社会資本とは、簡単に言ってしまえば、我々がタダだと思っている全てのものである。道路や図書館や公民館や公園や自然環境(の保全)や義務教育なんかである。これらは税金で作られ運営されているので、実際には我々は税金を支払っていることになる。

■民営と国営

小泉首相が誕生したことで、注目を浴びていることの一つに郵政事業の民営化がある。郵政関係の事業には、必ずしも国がやる必要がないもの、あるいは国が民間の事業を圧迫しているものがあると言われている。たとえば、郵便貯金は確か日本最大の金融機関で銀行の最大のライバルだとか、郵便事業は法律により排他的に業務を行っている(民間を締め出している)、と言われているようである。

民営化することにより競争原理が働きコストが下がる、ということが強く言われつづけている。これはおかしな話である。現に民営化により値段が上がった例は無視できないほど多いにも関わらずである。それに、原理的に考えて、コストが下がることはあっても、料金が下がるはずなどないのである。

民営化するということは、税金が使えなくなるということである。我々は税金を納めており、その税金で国の施設や国営の事業が運営されている。民営化というのは国営ではなくなることなのだから、同じ事業を続けようと思ったら当然料金を上げて税金の分を埋め合わせなければならない。民営化されることにより、これまでよりも業務が効率的になることは確かだろう。だから全体のコストは下がる。しかし、我々の払う料金はむしろ増える。本来ならば原理的には我々は、民営化されたのだからその分税金がいらなくなったはずだ、税金を下げろ、と言うべきなのである。むろんこの話は非常に原理的な話なので、必ずしも具体的ではない。

こうして民営化が進むと、我々の税金はどんどん下がっていく代わりに、あらゆるサービスの値段がどんどん上がっていく。原理的には、差し引きゼロとなるので、まったく問題はない。問題があるとしたら、貧しい者がサービスを受けづらくなることぐらいである。 では、民営と国営のどちらがいいのかというと、果たしてどちらがよいのだろうか。

■経済効率と個人資産

経済というものは、究極的にいえば、価値と価値の交換である。価値は主に労働から作り出される。ある労働から作り出された価値が、ある労働から作り出された価値と交換されることにより、我々は生きるために必要なあるいは生活を豊かにしてくれる物やサービスを手に入れることができる。

経済のシステムの効率化というものは、この交換の無駄を限りなく無くすことにある。交換の無駄が少なければ、積極的に交換を行うことによって、我々全員の得られる価値が上がる。たとえば、農業が得意な者だけが農業をし、織物が得意な者だけが織物を作り、それらを交換し合えば、我々一人一人が自分のことを自分でするよりも高いレベルの生活を送れる。

経済システムの効率化のためには色々な方法がある。我々人類は、物物交換の時代から、通貨を生み出すことで交換を活性化させてきた。通貨の持つ弱点はいくつかあるが、その一つは通貨が価値と価値との橋渡しをしている最中には何の役にも立たないことである。たとえば、着る物が欲しい人が自分の獲った魚を売ってお金に換えた直後は、お金を着て寒さをしのぐことができない。また、老後に備えて若いうちからお金を貯金している人は、意図的に価値を通貨として保存している。

通貨というのは、働いて通貨を得たいと思っている人間と、通貨を消費して価値を得たいと思っている人間とが、大体同じ数だけいなければうまく交換が行われない。通貨を得たい人ばかりだと、通貨を消費したい人のもとに人が集まり、その結果通貨の持つ価値が上がる。通貨を消費したい人ばかりだと、通貨を得たい人のもとに人が集まり、価値に対して人々がより多くの通貨を使うようになる。しかしこれらは、通貨と価値との需要と供給が崩れているからこそ起こるのであって、決して労働の価値が上下しているわけではない。

日本は個人資産の多い国だと言われている。個人資産が多いということは、通貨を保存している人が多いということである。通貨はある程度は保存されなくてはならない。なぜなら、人間は老いては通貨を得るために働くことができなくなるからである。多くの人が通貨をためるようになると、それ以上通貨をためることが段段と難しくなっていく。なぜなら、通貨を貯めたい人が多いのに、通貨を使いたい人が相対的に少ないからである。すると人々は、通貨を貯めるためにもっともっと働かなければならなくなる。逆に既に通貨を持っていてそれを使いたい人にとってはどんどん使いやすくなる。これが原理的なデフレである。通貨の価値が上がるというのは、原理的に言えば、誰も使いたがらないからなのである。

通貨の価値が上がるという現象で得をするのは、既に通貨を持っている人である。これから通貨を稼ごうという人にとっては、通貨の仮想的な価値が高いわけだから、その高い通貨を得るために多くの価値を生み出さなければならない。つまり、デフレという現象は、稼ぐ通貨と消費する通貨の双方が小さくなるのだから、通貨を保存したい人にとってはむしろ有利なのである。

■金持ちな老人と貧乏な若者

よく言われているのは、老人が金持ちだということである。私は実際に確かめたわけではないのだが、老人は金をたくさん持っているわりにはあまり金を使わないといわれている。よくマスコミでは、経済を活性化させるために、老人が金を使いやすいようにすればよい、と言っている。しかし、もともと使いたくない人間に金を使わせるという考え方にほとんど誰も疑問を持たないのは不思議である。

マスコミは基本的に読者のことを非難したりはしない。なぜなら非難すると読者が離れていくからである。このマスコミ最大のタブーに良くも悪くも影響を受けない私は本当のことを言うことができる。そもそも、老人が金を持ったまま老けてしまったことが悪いのだ。ろくに使いもしない金をいつまでも持ったまま墓まで行こうというのだろうか。誰が持とうと金は金なのだから、老人が金を持っているということはその金はいつでも使える状態に社会がなっていなくてはならない。つまり、老人が多額の金を持っているということは、それだけで我々の社会が債務を抱えていることになるのである。

私は老人に責任があるとだけ言いたいのではない。老人に金を持たせてしまった制度が主に悪いのである。

不良債権とは、自分には貸しがあるのに相手から返してもらえないことのことを言う。いわば返してもらえない借金である。一方、老人は債権を持っているのに使わない。若者は老人に金を返したいのだが、そのためには老人に価値を受け取ってもらわなければならない。しかし老人は価値を受け取りたがらないのだ。

一方、若者は常に価値を欲しがっている。欲しいものがたくさんあるのに、それらを買うためのお金がないので買うことができない。消費が冷え込んでいると言われているのだが、人々は倹約をしたいだけであって、お金さえあれば消費したいと思っている。

昔私は、子供はお金の価値がわからないから大金を持たないほうが良い、と言われて育った。しかし実際はどうだろう。子供の頃にある程度お金があったほうが、いまよりもっと有効に使えていたはずである。この矛盾はどこからくるのだろうか。

■企業が問題なのでは?

どうも話が私の思い通りに進まないので、一度仕切りなおすことにする。

ビル・トッテンは、日本は富裕者に金が集まっているから不況なのだと主張している。アメリカはいま好景気だが、富裕者に金が集まっている度合いは日本より大きいので実際には人々の暮らしは日本よりも悪いと言っている。

私は、彼の話を聞いて改めて考えてみた結果、お金が偏在しているので不況なのだと結論した。偏在する原因はいくつかあって、ビル・トッテンは所得減税と消費税導入が駄目だったと言っている。私は彼の話を聞いておおいに納得した。彼によれば、所得のほとんどを消費に回す低所得層が貧しくなり、所得のほとんどを貯金に回す高所得者が豊かになった、だから不景気でデフレなのだということである。

お金が偏在する理由はいくつかある。さきほど述べた老人と若者の例は実はそんなに大したことではないのかもしれない。私が臭いなと思うのは、企業である。

消費不況でどの企業も厳しいのだから、企業が金を余らせていると言ったら何を言っているのだと思うかもしれない。しかし少し考えれば分かるように、物が余っているということは企業が物を作りすぎたということである。物を作る材料または物を作る装置が余っているのだ。

企業は競争に勝たなければならないので、他社よりも優れた製品を低価格で売らなければならない。従業員に給料を多めに払うくらいならば、少しでも良い材料で少しでも良い装置を使って少しでも良い製品を作らなければならない。消費者に買ってもらえる製品を作ろうと思ったら、どの会社もたくさん設備投資をしなければならない。そうでなければ、売れなくなって潰れてしまうからである。我々消費者は、少しでも良い製品を少しでも安く手に入れようとしている。そこには強力な市場原理が働いているのだ。

我々の経済サイクルを見ると、どこもかしこも市場原理が働き、我々は大体良いものを安く買うことができる。しかしよく見てみると、一つだけ、市場原理のほとんど働いていないところがある。それは、給料である。初任給が大体どの会社も同じなのは、実質カルテルと同じようなものである。カルテル、つまり同じ分野の製品を作る企業が結託して、市場原理が働かないようにして高い価格を維持する、そうすると国が摘発するようになっている。しかし、給料に関しては、どこの会社が実際にどれだけ払っているのか、なかなか見えてこない。四季報にはその会社の平均賃金が載っているが、なぜ平均賃金しか載せないのだろうか。

そうやって企業は社員にあまり給料を払わず、その浮いている分の金も設備を買う足しにし、資産として保有しているのである。過剰な生産設備を持っているということは、金が余っているのと同じことである。いや、金が余っているのとは違うのだが、人々の労働の成果が無駄に使われていることには変わりない。

■人々に金をまわせ

いま企業はやっきになって人件費を削ろうとしている。そうでなければ世界的な競争には勝てないのだという。

人件費はもっと高くなるはずである。人材の市場は流動性が低くて情報が少ないので、被雇用者は不当に低い値段で買い叩かれているのだ。ろくに働かない中高年を抱えているから企業は不当に高い人件費を払っているように見えるかもしれないが、彼らは若い頃にいまの若い人以上に働いていて、それなのにあまり金をもらっていないのである。たとえ彼らが何もしていなくても、企業はその金を支払うべきである。

人件費が上がると、企業はそれまでと比べて作る製品のレベルが少し下がるだろう。それは仕方のないことである。いやむしろ、不要に質の高い製品を作らなくて済むので良いことである。加えて、いまのような消費不況で人々の収入が増えることは、人々が物を買うようになるということであり、景気の回復を推し進めることになる。

それができないのであれば、税金をなんとかするという手もある。所得税の税率を上げて消費税を無くせば、実質的に人々に金が渡ることになる。ビル・トッテンはこの税制の問題を第一に主張している。しかし私は、税金でなんとかするよりもまず先に、雇用市場を改革すべきだと考える。雇用市場の改革を行うと、ある程度以上仕事のできる人は高い収入を得られるようになるが、仕事のできない人は収入が落ちてしまう。その差を税金でカバーする、というのが正しい順序である。

税制は、他の方法で不可能なときの最後の手段であるべきである。その税金で、公営のサービスを提供することにより、人々の格差が小さくなり、概して豊かな社会が出来上がるだろう。なんでも民営化してしまえ、というのであれば、人々の格差を縮めるために人々から集めている税金をいったい何に使うのであろうか。民営の方が効率的なので、公営ではなく民間のサービスを利用するための補助金の制度を拡充するべきなのだろう。

■金を偏在させるな

所得税は金持ちほど脱税するので消費税の方がいい、と言われているのだが、少し考えるととんでもない理屈だということに気づく。脱税させないようになんとかするべきだったのではないか。そもそも最初から、所得税を下げるために消費税を作ったと見るのが妥当ではないか。

いまもなお、経済を活性化させるためには所得税を減らすべきだ、という論調を数多く聞く。私はあまり安直に考えたくはないのだが、富裕層が自分の取り分を増やすために所得税を減らそうとして消費税を導入したのであれば、ある種いい気味である。そのために人々の購買力が奪われ、企業の業績が下がり経済がどん底になったのだから。

しかし結局のところ、富裕層も貧困層も関係なく、金を使うことが下手だから問題なのである。私は、富裕層が金を稼ぐこと自体には文句を言わない。しかし、金を貯めるのはやめていただきたい。

誰が言ったのか忘れてしまったのだが、日本にもっと寄付を定着させれば良い、と誰かが言っていた。つまり、金を貯めたあとは、その金を名誉に変換するのである。金が名誉に変換されるときに、副産物として社会資本つまり人々のためになるものができるのだから、誰もが得をする。

金を持っている人は持っていない人に寄付をすれば救われる、という信仰のある地域がある。迷信ぶかい人々の信じている前時代的な習慣だと思ってはいけない。欧米先進国でも、金を持っている者が寄付をするのは当然だ、という考え方があるのだから。

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評論家は色々と自説を述べて、こうしなければ駄目になる、という風に自己の存在意義を訴える。私も同様である。しかし実際に社会がその評論家の言うことに従ったためしは少ないし、従わなかったからといって駄目なままであったことも少ない。

いまの日本で、世の中大丈夫だろうか、と思うような不可思議なことがいくつもある。たとえば、小学生までもが携帯を持つ時代になった、風俗が流行っている、老人が孫に甘すぎる、などなどである。しかしよく考えてみれば、これらは富の偏在を実に実に見事な流れで緩和しているのだ。遊びたい盛りの小学生が高価な携帯という道具を使って遊べる。金を持っている中年男性が、買いたいもののたくさんある若い女性に金を払うことで、男は若い女性との甘い時間を過ごすことができ、女は若い時分を消費三昧で過ごせる。老人は孫と自然なつながりを持つことができて、孫は遊び道具を得られる。社会の退廃と嘆くよりもむしろ、市場原理の成し遂げた効率の良い社会を謳歌するべきなのかもしれない。


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gomi@din.or.jp