足音の怪

2005/8/20  






 不可思議な体験談は、粗方あらかたこのホームページ上に書いてしまった。
 そう思っていたのだが、思い出した事が有ったのでそれを忘れないうちに書いておこうと思う。


 会社での出来事である。
 私はコンピュータ・ソフト開発を行なう会社に派遣され、そこで仕事をしていた。
 その会社は大手であり、社員数も多い。
 私なんぞのような協力会社の人間も含めると、相当な人数がそのビルで仕事をしていた事になる。
 1フロアで200席位。それを数フロア借り切っていた。
 当時の私は真面目まじめに仕事をこなしていた。
 或る程度の経験を積み、お客様との交渉等も任されていた。
 プロジェクトの立ち上げ当初は、確認用書類作成の作業が突然発生する場合が有る。システム化に先駆けて、何をどのようにしたいのか? それの本当のところを聞き出して絵にするのだ。


 その日も私はコツコツと、翌日お客様に確認して戴く為の書類を作成していた。
 夜中に一人。
 徹夜の覚悟だった。
 私の席はそのフロアの一番端だった。後ろにはキャビネットの壁がそびえており、その向こう側は通路になっている。前方にはフロア全てを見渡せる。
 左側は机が並んだ向こう側に窓、右側にはエレベーターに続く廊下。
 私の席は右から三つ目。窓よりはずっと廊下に近い席だ。
 その頃はもう既に節電が徹底されていた。人がいない場所は消灯しなければならないのだった。
 私の席の上の蛍光灯は点いているのでフロアは暗闇とはならず、遠くの方でも机やらの形を見分ける事はできる。
 暗闇が怖いという年齢ではない。
 オバケを信じないのではないが、それが出て来ても多分怖く感じない。
 そのビルは建てられてから新しいのだが、近くに墓地が有ったせいかいくつか怪談が有った。
 そのビルの小便器は自動洗浄機能付き。便器の前に立つとセンサーがそれを捉え、小用を済ませてそこを離れると自動的に水が流れる装置が付いている。
「夜中に一人でその便所を利用すると、自分が使っていない隣の小便器の水が流れる」
 そんな話がささやかれていた。
 つまりその小便器の前には、姿の見えない何者かが立っていた事になるらしいのだ。
 へー。
 仮にそれが本当だとしても、人には何も悪影響は無いだろう。
 どうして誤作動するのかは分からないが、そんな事を聞いてもちっとも怖くはない。
 それでいつか夜中に一人で便所に行った時、本当にその現象が起きてしまった。
 ほー。
 本当だったのだ。
 何故だかは分からないが、私が立った小便器の一つ置いて隣の水が流れたのだ。
 昼間は決して起こらない。
 うわさを撒き散らかした人は、本当の事を言っていたのだ。
 それで「なるほど」と思った。
 それだけだった。
 ちっとも怖くはない。
 だから夜中に一人で仕事をするのは、私にとって何も問題ではなかった。むしろ他からの割込みインタラプトが入らない分能率が上がるので調子が良い。
 時間を忘れて作業に没頭する。
 終電の時刻を気にしていると身が入らない。だから翌日までの作業が発生した時には、そこではらくくる事に決めていたのだ。
 パソコン画面と向き合い、ワープロソフトと表計算ソフトを駆使してドキュメントを作成する。
 着々と書類が上がってゆく。
――ん?――
 廊下からの足音に気が付いた。
 私の席から見ると右前方にフロアの出入り口が有り、そこから廊下が伸びている。
 真っ直ぐ行ってフロアの中央部辺りの右側がエレベーター・ホール。更に進むと右に便所が有り、更に進んだ突き当たりの右が階段になっている。
 明確な足音だった。誰かが足を踏み鳴らすようにして歩いて来る。
 他の階からの訪問者だ。
 大きな会社である。別の階の人が「以前担当していたシステムの仕様書類を調べに」などと言って来ても不思議ではない。
 しかしエレベーターが到着した時にはチャイム音がする筈だ。
 こんな時間にエレベーターを使わずに来る人と言ったら、警備員だ。
 足音が荒いのは夜回りの恐怖を紛らわす為なのか、それとも廊下に漏れる電灯の明かりを見て「消さずに帰ったか」とはらを立てているのか。
 警備員には警備員の仕事、私には私の仕事が有る。
 入って来たら挨拶をしてやろうとは思いながら、私はキーボードを打つ手を休めなかった。
 足音は近付いて来る。
――そろそろか――
 足音が出入り口近くにまで来たので、パソコンに目を遣りながらも意識は出入り口に向けた。
 しかし警備員は姿を現さない。
――ん?――
 足音は続いている。
 発信源は、既にフロア内のように聴こえる。
 出入り口を入った足音は、そのままのリズムでこちらに向かって来た。
 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
――ん?――
 耳の感覚を誤ったのか?と思った。目測ではなく耳測とでも言うのだろうか。
 まだ廊下を歩いているのに、夜中で静かだから近くに聴こえるのだ。
 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
 足音は近付いて来る。
 聴覚が悪い訳ではない。フロアの反対側に設置されているシュレッダーのアイドリング音を聞き分ける私の聴覚は、他人よりは良い方だと思っている。
 音の発信源も、聞き分けられる。
 その私の聴覚が、足音がフロア内に入って来ていて、私に向かって来ていると告げていた。
――何だ?――
 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
 やがて足音は、私の机が置かれている机集団(=これを「島」と呼ぶ)まで来た。
 しかし、そこには誰の姿も無い。
 そして足音は、一番端の机の横を抜け、私に近付いて来た。
 すぐ右から、足音が聴こえるのである。
――何だ? こりゃ――
 そして足音は、私の後ろに来てから、ピタリと止まった。
 静寂が辺りを包む。
 私のキーボードを打つ手も停まっていた。
 仮に見えない何かがいるのだとしたら、そいつは私の真後ろにいる事になる。
 見えないが、足音を立てられるのだから体重が有るのかも知れない。
 小便器のセンサーが働くにも重さが必要。足音を立てるこいつにも、体重が有る可能性は無いでは無い。
 しかし、そんな事はどうでもいい。
 私は明日までに書類を完成させなければならないのだ。
 再びキーボードを打ち始めた。
 何かが起こるなら、起こればいい。明日、話の種になる。
 一度調子に乗れば、もう進むだけだ。
 その後も書類は順調に作成されていった。
 途中椅子を後ろにずらして「くー」と背伸びをしたり、便所に行ったりもしたが、結局その後は何も起こらなかった。
 その後会社は移転し、そのビルからは離れてしまった。
 あの足音が一体何だったのか? よく分からない。
 聞いたのが私一人だけなので、空耳という事にしておけば解決だ。
 しかし足音の主が、もし今でもそこにいるとしたら……。
 夜中そのフロアに誰かが一人だけ居残っているのを見計らって、また足音を立てて歩き始めるのかも知れない。




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