未解明事項五題

2004/11/20  






【その1】


 中学生の頃だったか、父と二人で富士山の風穴ふうけつを見に行った。
 富士山の周辺には風穴やら氷穴ひょうけつやら、自然が造り上げた洞窟がいくつも有る。そのうち一つをガイドブック頼りに見に行く事になったのだ。
 小学生の時に岩石と鉱物の図鑑を買って貰ってから、色々な石の種類やその分布とかに興味を持つと同時に、自然の造形物である鍾乳石しょうにゅうせきにも興味を持ち始めた。
 富士山近辺の風穴には、鍾乳石を形成する物も有るかも知れない。
 そんな期待を持って私は父について行ったのだった。
 電車を乗り継ぎバスに乗り、目的地に到着した。
 富士山の樹海、青樹が原が自殺の名所である事を当時の私は知らなかった。青樹が原という固有名詞どころか、樹海に迷い込んだら生きて帰れなくなるといううわさを耳にするのも、その後何年も経ってからだ。


 樹海に足を踏み入れた。
 風穴を見に来た観光客の為に、順路を示す立て札がそこここにある。
 迷う事が無いように、とナイロン製の紐が樹木の間を繋いである。
 足許は岩。
 富士山近辺の岩石は全て火成かせい岩。地質が積み重なって圧縮された堆積たいせき岩でも更なる圧力や熱で組成が変化した変成へんせい岩でもない。溶岩が冷えてこういう形になったのだ、とすぐに分かる様相を呈した岩々を踏み締めながら歩いた。
 富士山の噴火が江戸時代。だから当然その後に根付いた植物も多く、樹海を成している。
 道は平坦へいたんではない。道ですらないところも有る。
 順路に示された通りに進んだが、一体どこが目指す風穴なのやら分からない。時々溶岩でできた洞窟のようなものも有るが、大概観光客が捨てたゴミで埋まっていた。
「ここが、そうなんじゃないの?」
「いや、こりゃあ違うな」
 そんな会話をしながら歩いていた。
 やがて、少し拓けた場所に出た。道の両側には笹が生い茂っているが、高い木はまばらにしか生えていない場所だった。
「ちょっと、待ってろ」
 父が足を停め、地図を調べ始めた。
 私もその場で立ったままで休息をとった。
 音が聴こえてきた。
 三種類の音だった。
 一つはヘリコプターの飛ぶ音だった。木々の葉が邪魔をして、どこを飛んでいるのか見当がつかない。
 しかし上空を飛び回っているのだろう事は分かる。どこかを目指して飛んでいるのではなく、何かの偵察か監視をしているかのように思えた。
 確か自衛隊の富士演習場というのが有った筈だと思い出し、そこのヘリコプターなのかも知れない、とも思った。
 一つはブルドーザーのような音。これは地上から聴こえてくる音だった。
 何だか分からないがかなりの速度で移動している。そこが樹海の中だというのに、音は一キロも離れていないところから聴こえてくるような感じだった。
 横から聴こえてきたと思ったのに、いつの間にやら後ろから聴こえてきていたりする。
 仮にそれが一キロ離れた場所での音だとしたら、ブルドーザーはかなりのスピードで移動している事になる。
 その音の不思議を、私は父に訴えた。しかし父は相手にしてくれない。「そうか」と言って地図を見続ける。
 父は私のもう一つの音に対する訴えにも、無関心だった。
 三つめの音は、声のように聴こえるものだった。
「をー」
 男の声をいくつも合わせたような音だった。
 遠くから聴こえて来るのだが大きい音として耳に入ってくる。
 相当なでかい声を出す男だ。私はモアイ像が声を出しているのをイメージした。
 ブルドーザーの音源よりは近い。
 この音も動き回っていた。
 一人の声だとしたら息が続かない。音は間断無く聴こえている。人が発している声だとしたら、何人もの人が代わる代わるに出しているのだと思った。
 右前方から聴こえていたのが、いつの間にか後ろの方から聴こえてきている。
 近くに道路が走っていて、そこを走り回っている人が声を上げているのかのようにも感じられるが、そこは樹海の中だ。地図上には他に道は無い。
 なんとも不思議な感じだった。
 やがて地図を調べ終えた父が歩を進め始めた。
 岩々の上を歩いているうちに、気が付くと音は聴こえなくなっていた。




【その2】


 中学生になりサッカー部に入った。
 隣家の人が、二年上の先輩としてサッカー部に在籍していた。
 その人には小さい頃から遊んでもらっていた。
 実家が増築し、その先輩の家と面する部屋を私の部屋としてあてがわれた時、先輩は二階の窓伝いに遊びに来た。
 当然私の部屋の窓は常に開いている訳ではないので、窓を開けて私と顔を合わせた時にだけ「そっち行くぞ」と言って来るのだった。
 私の部屋の窓の下には、当時ビニールトタンの屋根が敷かれていた。その下は物置である。先輩は私の部屋に来る時、一度ビニールトタンの上に降りてから窓から入ってくるのだった。
 当然ビニールトタンがもろい事は知っている。だからトタンを釘でめているはりの上に足を載せるのだ。
 踏まれたトタンはミシミシと音を立てる。
 親に見付かったら私が怒られる。
 その音を聞きつけられないものか、私はヒヤヒヤしたものだった。


 夏の或る日。
 真夜中の事である。
 窓の外でミシミシと音がする。
 私は中学に入ってからはすっかりよいっ張りになっていたので、零時を回ったその時間でもまだ寝ていなかった。
 聴覚は良い。嗅覚もだ。
 ミシミシという音を聞き違える事は無い筈だった。ビニールトタンを踏む音に違いない。
 しかし私の部屋の雨戸は締まっている。だから先輩がビニールトタンの上に降り立ったとしても私の部屋には入れない。
――何をやっているんだ――
 クラブの先輩ではあるが幼い頃から遊んで貰った仲である。れ狎れしい会話もOKの関係だ。
 何か言ってやろうと思って、雨戸を開けた。
 しかし、夜の中、そこには誰もいなかった。
 見回してみるが動く者はどこにもいない。そしてミシミシという音も消えていた。
――空耳だったか――
 部屋の下のビニールトタン以外に、同じような音を立てる物を探してみた。
 しかし無い。
 雨戸を閉めた。
 しかししばらくすると再び音が聴こえてきた。発信元は間違い無く、部屋の窓の下。
 もう一度雨戸を開けて見た。
 やはり誰もいない。
 人ではなく、例えば猫がそのトタン屋根の上を歩いたとしても、同じような音がするだろう。しかし猫もいない。
 屋根の上には何も載っていない。
 猫だとしたら、私が雨戸を開けるのに合わせて姿を消すのが腑に落ちない。
――何なのか?――
 何か釈然としないが、仮にそれが泥棒だったとしても、物音ですぐに反応する住人を知ってこの家に入る気は失せるだろうと思われた。
 しかしまた、暫くするとまたその音が聴こえた。
 その日はもう雨戸を開けず、眠る事にした。


 ミシミシいう音は、その日だけに終わらなかった。
 雨戸を開けて見ても、どうせ何も見えないだろう。
 私は無視を決め込む事にした。
 しかし或る日。やはりどうにも気になった。
 音が聴こえたその時に窓を開けて外を見た。その時は雨戸を締めておらず、ガラス戸だけを締めていた時だった。即座に外を見る事ができると思った。
 しかしやはり、何も見えなかった。
 しかし音は、聴こえていた。
 ミシミシ、ミシミシ。
 発信源はビニールトタンの上。
 人がゆっくり歩くようなタイミングで音が発せられているのだ。
 姿の無い者が、その上を歩いているかのように。
 目を凝らして見たが、やはり何も見えない。
 やがて音はんだ。
 何が何だか分からないまま、その日は雨戸を締めて寝た。
 その後はミシミシという音が聴こえても窓を開ける事は無かった。
 やがて私が高校に入学する前に、音はしなくなった。




【その3】


 高校一年生の夏。
 同じ中学だったやつらと一緒にキャンプに行った。
 総勢六〜七人(一緒に行ったメンバーをはっきりとは思い出せない)。
 中学の時には別のクラスだった連中だったが、どういう経緯でか忘れてしまったがそいつらとキャンプに行く事になった。
 自転車で秋川渓谷にまで。
 目的地はキャンプ場だったが、宿泊はテント。
 私がそれに誘われたのは、単にテントを持っていたという理由だけだったのかも知れない。
 朝暗いうちに出発。
 朝食は弁当、昼食は食堂でラーメン。
 まだ若い私達は何時間も自転車を漕ぎ続けて到着した。
 キャンプ場に着いた私達はすぐにテントを設営し、川での水遊びに没頭した。
 そして夕食の準備。飯盒炊爨はんごうすいさんだ。
 私は固形燃料を持参したが、これは火力が弱くて役に立たなかった。
 まきで火をおこし、飯盒を真っ黒に焦がしながら、ようやく夕食にありつく事ができた。
 おかずには肉を持って行ったが、これが焼けない。コッヘルのフライパンをまきの火に載せても、肉はなかなか焼けないのだった。
 ご飯は「松茸ご飯の元」を入れていたので、基本的にはおかず無しでも食べられるものだったが、肉を必要とする年代の子供達だった。なんとか肉を焼いて食べようとした。
 誰かがどっかから、焼き網を拾って来た。
 キャンプに来た人が捨てていった物だろう。
 それを洗ってまきの火の上にかざして、肉を焼く事になった。
 既にご飯は食べ終わり、おかずだけを食べていない状態だった。
 薪は飯盒炊爨で粗方あらかた焼けてしまい、赤い火がおこっているような状態になっている。そこに焼き網を載せ、そしてその網に上に直接肉を置いて焼き始めた。
 捨ててあった網である。まともに使用できるのは二十センチ平方程度。おまけに火力は勢いが無い。
 自分で食べる分を自分が焼く。
 しかしなかなか焼けない。
 肉を焼いているのが、私ともう一人だけになった。
「よし、食ってみよう」
 そいつが勇気を出して肉を食べた。
「どうだ? 食える?」
 訊くとそいつは答えた。
「なんだかビニールパイプの味がする」
 そいつはビニールパイプを食べた事が有ったのだろうか。私は疑問に思った。水道管とか下水管とかに使っている、あの固いパイプの事だからだ。
「お前、そんなもん食った事あんのかよお」
 私は笑いながら言って、そして肉を試食した。
 ビニールパイプの味がした。
 薪の中に、ゴミと一緒に捨ててあったビニールパイプが混じっていたらしい。
「あー。これじゃねえのか?」
 燃えつつあるビニールパイプを見付けた。
 それが焼ける時の匂いが、肉に染み付いていたのだ。
 私もビニールパイプを食べた事は無かったが、その時の肉は確かにビニールパイプの味だった。


 夕食が済んでからしばらくした後。
 暗い中買出しに行っていたやつらが戻ってきた。
「これ、おごりだぞ」
 なんと彼らはアイスを買ってきてくれたのだった。
「いいのか?」
 親から貰う小遣いが唯一の収入源の子供達だ。アイス一本が10円とか20円の時代ではあるがこれは有難い。礼を言って皆で食べ始めた。
 テントを張ったのは河原。両岸の高くなったところには道が走っている。
「あ、なんだあれ」
「なんだ?あいつ」
 誰かが言ったので、私はそちらを見た。
 川の百メートルと離れていないところに橋が架かっている。私達がテントを張っている河原を渡る為の橋だ。川幅はせいぜい十メートル。橋も小さい。そこを渡り歩くのはキャンプ場に来た客ばかりだった。
 その橋を右側からゆっくりと歩いてくる人を見て、仲間は声を上げたのだった。
 橋を誰が歩いて渡ろうと、そんな事は我々には全く無関係な筈なのに、彼らは何か気になったのだ。
「なんだよ、あいつ。こっち見てるぜ?」
 ゆっくりと歩いて橋の真ん中まで来たその人は、橋を渡らずにこちらを向いた。そして欄干らんかんに両ひじを突くようにしてこちらを見ている。
「なんだよ。こっち見るなよ」
「うざってえなあ。どっか行けよ」
 声が相手に聴こえる距離ではない。こちらでの声も、相手に聞かせる為に言っているのではない。仲間内だけで聴こえるような声だ。
 当時の私はサッカーを辞めてしまい、視力がどんどん落ちている時期であった。だからその人がどういう顔をしていたかまでは見えない。しかしその風体ふうていは少し変わっていた。
 その人以外は、皆キャンプ場に来た客である事が分かる。半袖のシャツやランニング、みんな夏のキャンプ場に似合いのコスチュームだ。
 橋の欄干らんかんからこちらを見ている人は、白い浴衣姿。
 がらの無い生地というのも珍しいと思うのだが、橋の上を行き交う人達はその人を意に介していない様子だった。
「なんでお前ら、あの人の事気にしてんだよ」
「あいつ、俺たちの事追っ掛けて来たんだ」
 答えたのは買出しに行った者の一人だった。
 そして橋の上の人を気にしていたのは、いずれも買出しに行った者だったのだ。
「さっきのアイスな、あれ……」
 そいつらは話し始めた。
 買出しに行ったところ店はもう閉まっていた。しかしふと見るとアイスのケースは店の外に出ている。ケースには鎖が巻き付けられていたが、開けられそうに見えた。
 そして開けてみたら、隙間が開いた。
 手を入れる事ができた。
 それで誰にも見られないように、アイスを取り出して戻って来た。
 犯罪行為である。
 もう今から三十年近くも前の事ではあるが、これはいけない。全部で二百円足らずだとしてもだ。
 私は当事者ではないが、仮にその場にいたとしたら同じ事をしていたかも知れないので、彼らを責める事はできない。
 当人達もその時、罪悪感を覚えていたのだろう。だからその白い着物を着た人が気になったのだ。彼らがアイスを取って来た店は、橋を右側に行った方向に有った。
 その話を聞いてからは、その人が本当に我々を見ているように感じられた。
 私にはその人の目までは見る事ができなかったが、橋の上からこちらを見た時、そこには我々のテント以外は川の流れしか無いのだ。
 その時は当事者ではないように思っていた私は余り気にならなかったが、アイスを取って来た当人達は明らかにおびえている様子だった。
 何であろうが、悪い事だ。私もその共同正犯。
 心の中で謝った。
 数分。もしかしたら十分以上過ぎたのかも知れない。そこで橋の上の人は動きを見せた。
 欄干から離れゆっくりと歩きだしたのだ。橋の右側に向かって。
 つまりその人は橋を渡りに来たのではなく、橋の上からこちらを見る為にそこに来たのだ。
 地元の人であれば浴衣姿も納得がゆく。
 しかし仮にその人がアイスを置いている店の人だとしても、どうやってアイスを取ってきた犯人の目星を付けたのかが分からない。
 私が考えてもよく分からないうちに、その人は他の人と比べて倍以上の時間を掛けて歩き、橋の右側に姿を消した。
 買出しに行った者は、その後もっと近くにその人が来るのではないかと不安に思っていたようだが、それで終わりだった。




【その4】


 大学に入ってから私は、狭くなった四畳半の部屋から六畳の部屋に移っていた。
 その部屋は隣家と面しているのではなく市道に面していた。
 冬の或る日。
 よいっ張りの私が寝てしまっている時間の事だった。
 音で目を覚ました。
 キーンキーンキーンキーン
 何かが近付いて来るのだった。
 私の部屋は二階にある。南は庭で窓の外はベランダ。西が市道。
 西の方角から、空中を音が近付いて来ているのだった。
――うるさいなあ――
 すぐさま私は寝に入ろうとした。
 音の正体が何なのか、疑問に思う事も無かった。
 音はやがて、部屋のすぐ南、ベランダの上辺りで動かなくなった。
 キーンキーンキーンキーン
 音は壁のすぐ外から聴こえてきている。
 しかし眠い私にとっては騒音でしかなかった。
 音は近付いて来た時と比べれば周期が長くなったように感じた。
 そこにとどまっていた時間がどれ位だったのか分からない。ただずっと、騒がしいと思っていただけだった。
 音はやっと移動を始めた。
 市道とは反対側、東側に向かっていた。
――やっと行ったか――
 私は寝に入れると思って安心した。
 しかし、はっとした。
 何の音だったのだろうか。そう考え始めたのは音がすっかり聴こえなくなってからだった。




【その5】


 私が新卒で就職した頃。
 事務機器は発展途上にあった。
 コンピュータを導入している企業は「我が社はコンピュータを導入している」という売りにさえなっていた。
 ワープロも無い。
 電話機はダイヤル式の黒電話。プッシュホンが一般市場に登場する前の事だった。
 私が就職した会社でも黒電話を使用していた。
 外線に発信する時にはまず0を廻す。
 外線を受信する時には8を廻す。
 色々と細かいルールを憶えなければ、電話を使用する事さえできない時代だった。


 入社後の研修が終わり、私は本社の電算室に配属された。
 営業こそが会社の利益を生む部署であり、コンピュータを知る者が一握りの世の中では理解されにくい部署でもあった。
 周囲の人達からは理解されないままに、多忙なその部署で仕事を続けた。
 月に一度は売り上げ処理を行なう。これが時間の掛かる処理で、必ず会社に泊まる事になっていた。
 オペレーション自体は障害が発生しない限りはコンピュータ任せで構わないが、帳票が出力される際には絶対に人手が必要となった。ラインプリンタに制定用紙をセットし、それで各営業部署の売上表を印刷するのだ。
 印刷が終わったらそれを担当部署毎に分類しておかねばならない。翌朝にはその帳票を元に営業の仕事が始まるのだ。
 新しい得意先が発生すると、それをプログラムに組み込む為に一仕事。得意先から受け取る情報に変更が発生するとまた一仕事。
 後追い後追いで自転車操業のような開発作業を行ないながら、日々のオペレーションをこなして行った。


 その日私は、売り上げ処理で会社に泊まる事になった。しかしその日は同じ電算室の先輩も、プログラム開発の為に会社に泊まる事になっていた。
 帳票の分別は、当然先輩と私との共同作業となる。
 他の社員が全員帰った後、先輩に電話の使い方を教えてもらっていた。電算室業務では滅多に外線電話を使用しないのだ。
 発信する事は有るが外線を受信する事はまず無い。電算室宛の電話が掛かってきたとしても、まず事務の人が電話を取ってくれて内線で廻してくれるのだった。
 会社に一人しか残っていない時に営業宛に緊急の電話が入る時が有る。その時に電話を受け、適切な受け答えをする為に使用方法を教わっていたのだった。
 一通り使い方を習った後だった。
 営業の電話が鳴った。
 呼び出し音は外線。
 私は8を廻して受話器を取った。
 ツー・ツー・ツー
 受話器を上げるまでに躊躇ためらいがあった。呼び出し音が何回も鳴ってから出たので、先方も「深夜だから誰もいないのか」と諦めてしまったのかも知れない。
 しかし憶えたての使用法でもある。操作ミスだったのかも知れない。
 私は受話器を置き、もう一度ダイヤル8を廻して受話器を上げてみた。
 しかし外線電話を受ける事はできなかった。
 呼び出し音はもう鳴ってこなかった。
 使用法の復習を兼ねて、電話機を操作してみた。
 受話器を上げたままで8を廻した時だった。
 受話器は耳に当てている。
 ダイヤルが定位置に戻った時、受話器の向こう側から音が聴こえてきた。
 機械的な発信音ではない。何か風が流れるような音だ。
――どこかに通じてしまった――
 咄嗟とっさにそう思った。
 向こう側には受話器を上げている誰かがいる。
 しかしダイヤル8を廻しただけだ。それも受話器を上げている状態で。
 外線に発信される筈はない。
 とすると内線しか考えられない。その場に姿のない電算室の先輩が、どこか別の場所から受話器を上げているのかと思った。
――一体どこにいるのか?――
 よく分からないが、私は話してみた。
「もしもし」
 受話器の向こう側は、やはり風が吹き荒れているような音がしている。その中で、声が聴こえた。
「……はい」
 しゃがれた老人の声だった。
――!!――
 私は捨てるようにして受話器を置いた。
 何かとんでもないところに通じてしまったのだと思った。
 そこに便所に行っていた先輩が戻ってきた。
「今、電話出ましたか?」
 私が安心できるような答えを期待して、先輩に訊いてみた。
 しかし勿論もちろんいなだった。
 それで私は先輩に、その時何が起きたかを話した。
 先輩は信じてくれなかった。
 ダイヤルの一つだけを廻して、電話が他のところに通じる筈が無いのだ。
 そしてフックが上げられている電話機が、他からの回線を取る事はできないのだ。
 理論的に説明してくれた。
 私は先輩が見ている前で、先程と同じ事をやってみた。
 しかし何も起きなかった。
 以来私は、夜一人で会社に残っている時には、電話には手を触れないようになった。




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