歌う叔母

2003/10/13  






 私がまだ小学校低学年の頃の事である。


 お盆で母の実家に行った。
 昼間は父も一緒だったが、父の実家は母の実家と近かった。母の実家は父にとっては他人の家だ。父は自分の実家に泊まる事になった。


 その日母の実家に泊まる事になったのは、母と姉と私。それからそこに住んでいる祖父と祖母。もう一人お盆でやはり実家に帰って来ていたS叔母さん。母の妹だ。
 合計六人だった。
 祖父は自分の部屋に一人で寝る。S叔母さんは祖父の部屋の隣で一人で寝た。
 その二部屋を廊下で挟んだ仏壇のある部屋で、祖母と母、私の姉と私の四人が寝る事になった。
 部屋の一番仏壇に近い場所に祖母が、その隣に姉、次に母、そして仏壇から一番遠い場所に私が寝る事になった。


 まだ「おばけが怖い」という事を知らない頃である。
 テレビがカラー放送を始めてから二〜三年しか経っていない。当然テレビでは子供が見るような番組で「おばけ」を扱うような物は無かったのだと思う。有ったとしても知らなかった。
 四谷怪談や番町皿屋敷などは、大人が見る映画でしかなかった。


 皆が眠りに就いた様子だったが、私は目が冴えて眠れなかった。
 母の実家、つまり「いなか」は、当時の私にとって恰好かっこうの行楽地だったのだ。
 夏に行けば必ず、蝉を捕まえに出掛けた。
 でかい蜘蛛くもを捕まえてきて、戦わせて遊んだりもした。
 林間学校のような楽しさで眠れないのか、慣れない枕で眠れないのか、ともあれいつまでも布団の中でキョロキョロしていた。


 その部屋の南は玄関とを隔てるガラス戸が有り、反対側の北側に仏壇が置かれている。
 西側は隣の部屋とを仕切るふすま戸であり、東側が障子しょうじ。障子を開けて廊下に出ると、向かい側に祖父の部屋と叔母が寝ている部屋が有る。
 廊下を北方向に行くと突き当たりが洗面所で、その左が便所。廊下の南端が玄関の上がり間口となってる。


 玄関側のガラス戸を透しての光や、洗面所の窓から入って来る外の光で、私が寝ていた部屋は真っ暗ではなかった。
 人の寝顔が見分けられる程度の明るさだ。


 布団の中で部屋を見ていると、目に入って来る物が違った形になってくる。
 例えば天井板の木目模様や節目など。
 その模様から色々な物を想像し、空想の世界が広がって行く。
 時には人の顔となり、時には荒波を乗り越える船となる。
 その形が展開されて、頭の中では色々なドラマが繰り広げられるのだ。


 夜が怖くない私は、部屋の中の色々な物を見回していた。仏壇を見るのにも、何も臆する事は無かった。


 ふと気付いた時、障子の戸が動いていた。
 ゆっくり、ゆっくり、誰かが開けているのだ。


――誰だろうか?――


 この部屋以外で寝ている筈の人は、祖父か叔母のどちらかだった。
 私の寝ている部屋には祖母もいる。だから夜中でも、何か用事があって祖母を起こしに来たのだろうと思った。
 しかし障子の開け方は、ゆっくり、ゆっくり、だった。


 やがて障子は、人が通れる程度にまで開けられた。
 人の姿が現れた。
 ゆっくり、ゆっくり、だ。


 最初は爪先だった。
 爪がキラリと光ったように見えた。それほど綺麗な足だった。
 足を敷居から畳に擦り付けるように、ゆっくり、ゆっくり進めている。
 やがて半身が、そして顔が見えた。
 顔は横顔。鼻筋が通っていて綺麗な白い顔だ。


――なあんだ、S叔母さんだったのか――


 廊下を挟んだ部屋で寝ているS叔母さんが、何か祖母に用事があって起きて来たのだと思った。
 真っ直ぐに、そこに寝ている祖母だけを見ている。
 起こす事をはばかっているのか、見ているだけだった。
 並んで寝ている私達の家族には見向きもしなかった。


 ちゃんと黒い髪の毛も有り、少し大きめの浴衣のような物を着ていた。タオルのような生地でできているように、遠目に見た私は思えた。
 祖母は一番仏壇寄り、私は一番玄関寄りで寝ていたのだ。だからS叔母さんの姿も上方向ではなく、横方向に見ていた。


 それにしても、何か変な感じだった。
 障子戸を開けて半身を部屋に入れた状態で、ずっと、祖母の寝ている姿を見ているだけだ。
 何か得体の知れない物を見たような感じだった。
 母の実家に伝わる秘密が、何か有るのかも知れないと思った。
 そして、「おばけが怖い」のではなく、夜中に人の顔を黙って見続けているS叔母さんを怖く思って、私は布団を頭から被ってしまった。
 私がその様子を見ていたと知れると、何か怒られそうな感じがしたので、見ない振りをしていたのだ。
 耳を澄ませていたが、話し声は聴こえなかった。
 静かだった。
 もしかしたら、祖母を起こしては悪いと思って、戻ってしまったのかも知れない。
 そう思った私は、布団から顔を出して様子をうかがった。
 S叔母さんは、まだそこにいた。
 相変わらず立ったままだが、さっきよりもずっと中に入って来ている。
 全身を部屋の中に入れて、祖母の寝顔を横から見るような位置にいた。


――何やってるんだろうなあ――


 起こしては悪い、と思っているのなら、いつまでもここにいなければいいのに。
 そんな風に思った。
 思っていても、やっぱり怒られるかと思って、私はまた布団に潜り込んでしまった。


 やがて、声が聴こえた。


 部屋の外、廊下辺りから聴こえてきた。
「ら〜」だか「あ〜」だか、言葉にはならない声だった。まだ少女のような女性の声。
 大きな声ではなく、とても細い声だ。
 基本的には高い声だが、オペラの歌声のように或る時は高く、或る時は低くなる。
 歌っているように聴こえる。
 悲しみを訴えて、泣き声を出しているようにも聴こえる。


 その声はどんどん遠ざかって行った。
 最初は部屋のすぐ外の廊下辺りだと思っていたのだが、廊下を洗面所方向に行ったところへ。そして更に洗面所の窓を通り抜けて外に行き、空の彼方へ。


 寝ていた私の位置からは、離陸してゆく飛行機のようにゆるい角度で地上から離れて行くような感じだった。
 やがて聴こえなくなった。
 突然消えるのではなく、声の主が遠くに行ってしまったので聴こえなくなったのだ。


――今の声、みんなは聴こえなかったのだろうか?――


 寝ている人を起こすような声ではなかった事は確かだ。
 私もその時は、家のすぐ外に人がいて、その誰かが歌っているのだろうと思って納得していた。


 布団から顔を出して様子を窺ってみると、S叔母はもういなかった。障子も閉まっている。
 きっと諦めて部屋に戻ったのだろう、と思った。


 ホッとした所で、尿意を催した。
 隣に寝ている母を、私は遠慮なく起こした。
 その頃の私は、夜の便所は母を起こして行くもの、と決めていたように思える。
「さっき、Sおばちゃんが、部屋をのぞきに来てたよ」
 目を覚ました母に、そう教えた。
 しぶしぶ起きながら母は、「Sおばちゃんが夜中に覗きに来る訳ないじゃない」と言った。そして、便所までついて来てくれた。


 私が用を足していると、ドアの外で話し声が。
 便所を出ると、母がS叔母さんと話をしていた。
「ねえS、さっき私の部屋覗きに来たりしないよねえ」
「うん」
 S叔母さんが母の問いに答えていた。S叔母さんも便所に起きた様子だった。
「ほら。覗きに来たなんて、変な事言って」
 叱るようにして、母が私に言った。


 しかし奇妙な事に、その時S叔母さんが着ていたのは、パジャマだった。
 さっきはすその長い、バスローブのような白い浴衣を着ていた筈なのだ。


 不思議な感じを置き去りにし、その日はそれで終わった。




 私が「おばけが怖い」と思うようになったのは、テレビの映画で「シライデコブレの幽霊」というのを観た時だと思う。(※)
 当時の私には横文字は憶えにくく「シライデコブレ」だかそうでなかったのか、あやふやである。そんなような題名だった。
 幽霊という物がどういう物なのか? それを認識したのも、この映画を観てからだったと思う。
 この映画を観たのは、母の実家で叔母の姿を見た暫く後の事だ。


 或る日、私は家でアルバムを見ていた。
 私の写真ではなく、父と母の写真だ。結婚前からの写真が貼られていた。


 アルバムのページが、母の家族を写している写真になった。
 見慣れた背景。いなかの玄関の前だ。一枚に一人ずつ写っている。
 祖父母も叔父叔母もみんな若い。
――へーえ――
 叔父叔母が若い頃の顔を見て、今の姿を思い起こしながら楽しんで見ていた。


――あれ?――
 数が合わないのに気が付いた。
 写真の枚数が、叔父と叔母の人数よりも一枚多いのだ。
 それが一体どの写真なのか、よく見るとS叔母さんの写真が二枚有るのだった。
 しかしもっとよく見ると、一枚はS叔母さんではなく、よく似ている別の人である事が分かった。


「ねえねえ、お母さん」
「ん?」
「この人、誰?」
 私はアルバムの写真を指して訊いた。
「……その人はね。もう死んじゃった人なのよ」
 とても残念そうな顔で母が言う。


 どうして亡くなったのか、いつ頃亡くなったのか、その時は言ってくれなかった。だが、母の妹に当たる人だと教えてくれた。


 そしてその人こそが、私の叔母であり、あの夜母の実家で見た人なのであった。


 今、その時の事を思い出しても、怖いとかいう感じは湧いて来ない。何か悲しい、何かやりきれないような思いに包まれるだけだ。


 (※「シライデコブレ」ではなく「シェラ・デ・コブレの幽霊」が正しい題名だった。米国、1964年。映画ファンの間では、幻の恐怖映画として語られているそうである)




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