優しく愛して

2001/10/13 投稿作品 






 笑わない子だった。


 河上陽子こうがみようこ。4歳。
 ベビーベッドの枠につかまり、そこに眠る赤ん坊を見ている。


 眠っている赤ん坊が、陽子の弟。
 河上翼こうがみつばさ。生後6ヶ月半。
 陽子が、翼を見ている。
 只、無心に見ている。


「あれが、陽子ちゃんと翼君です」
 担当の先生が声を抑えるようにして言った。
 幼い姉弟の様子を先生と一緒に見ているのは、まだ若い夫婦だ。
「……はい」
 高橋登紀子たかはしときこが答えた。
 夫であるひろしは登紀子の肩に手を置き、軽く頷いた。


 何らかの事情で親と暮らせなくなった子供達が、生活している施設だった。
 弘と登紀子は、養子縁組の面接を行なう為にこの施設を訪れた。
 本人との面接を行なう前に、普段の生活の様子を見せて貰っている。
 特別の計らいだった。


 二人は乳児室のドアの外から、ガラス越しに室内をうかがっているのだった。
 室内は暖房が効いているが、陽子は赤いジャンパーを着ている。黒いズボンの膝にはウサギのアップリケが当たっている。
 自分が見られている事に、気付いているのかいないのか。只、ベビーベッドの枠に両手でつかまり、弟である翼の顔を見ている。


「あの子は、ここに来てから、もう3週間になりますが、ずっと、なんですよ」
 先生が登紀子に告げた。
「……はい」


 先生が、陽子の生活態度を説明し始めた。


 この施設での小学生未満の子供は、幼稚園にも保育園にも通っていない。
 別居している親からの要請が有り、費用を負担すれば通える。しかし、それをする親は滅多にいない。
 学校に行っていない子供達をみんな集めて、昼間一緒に遊ばせる。
 お絵描き、お遊戯、工作、ゲーム、歌、ビデオ上映等。これで、子供の社会性を養う。


 陽子も、勿論もちろん参加する。
 しかし、只、参加するだけだ。
 周りの子供の動きを見習い、同じように行動するだけだった。
 みんなとの時間が終わると、必ずここに戻って来る。
 起きてから寝るまで、自由な時間には必ずここで、弟を見ていると言う。


 先生の口調は事務的だった。表情も変えない。
 しかしその裏には、感情を押し殺すすべに長けている様子がうかがい知れた。
 50歳に手が届くだろうか。服装次第で、どこにでもいる主婦のように変わるのかも知れない。
 しかし今は茶色のスーツに身を包み、自分の仕事を冷徹に遂行している。
 化粧気も無い。


「……では、面接室の方に行きましょうか」
 先生が促した。弘と登紀子は先生に従い、その場を後にした。
 二人共、言葉を失っていた。


 2029年1月。
 外は、木枯らしに枯葉が舞っている。


* * * * *


 登紀子が、自分が子供の出来難い体質である事を知ったのは、約2ヶ月前だった。
 2028年11月、弘と一緒に病院に行き、検査を受けてその結果を知った。


 希望が、無いではなかった。
 医学の進んだ現代。自分の子供を持ちたい、という女性の願いを叶える方法は幾通りも有った。
 それらの方法を試みず養子縁組という手段を選んだのは、夫の体質のせいでもあった。
 その事を知ったのは、さかのぼること更に数年。弘と登紀子がまだ新婚当時の事だった。


 二人が結婚して約半年経った頃。
 先に帰宅していた登紀子が夕食の用意をしていると、夫が帰宅して来た。
「ただいま」と言ってから、しばらく入って来る様子が無い。
 2DKのマンション。出入り口はひとつ。
 いつもなら一直線にキッチンにやって来る。


 共働きなので、二人とも部屋の鍵を持ち、自分で鍵を開けて入る事になっていた。
 新婚当初。登紀子が在宅している時に夫の帰宅を知ったら、出迎えるようにしていた。
 食事の準備の手を停めて、飛んで行く。
 それが妻のあり方なのだろうな。そんな風に思っていた。
 しかし或る日夫から、「お前は、待ってるだけで、いいんだよ」と言われた。
 それ以来登紀子は「おかえりなさい」と声を掛けるだけで、調理の手を停める事がなくなった。


 この日も、夫がキッチンに入って来て、自分を後ろから抱きしめてくれるのを待っていた。
 しかし、夫はなかなか入って来ない。


 様子を見に行くと、夫は靴を脱がないまま上がり間口の所で座り込んでいた。
 段差が低い為、足を投げ出した恰好になっている。


――酔っているのだろうか?――


 登紀子は最初、そう思った。
 しかし、夫は酒が飲めない。
 どうしても酒を飲まなければならない行事がある場合には、前々から心の準備が必要なのだと言う。だから、夫が酒を飲む予定は登紀子も知っている。
 今日はその予定日ではないし、電話での連絡も無かった。


「どうしたの?」
 登紀子は夫に声を掛けた。
「……今日、お前に内緒で、病院で検査受けたんだけどな……」
 夫は自分を奮い立たせるように立ち上がり、靴を脱ぎ始めた。
 そして、自分は不妊体質であると告げたのだった。


「……仲の良い夫婦は、子供が出来にくいって、言うけど……」
 夫は力無く笑った。
「ぃやだあ。何かの間違いじゃないの?」
 唐突な夫の言葉に、登紀子はそれを現実の事とは受け留められなかった。
「ははは。……だと、いいんだけどなー。……さ、めし、めし。腹減った。めし食おう」
「って……」
 登紀子は、急に元気になった夫を目で追いながら、掛ける言葉を失くしていた。


 夫は平静を装っているが、明らかに様子がおかしい。何かから逃れるようにせかせかしてる。逃げられない現実から逃れるように。
「どうしよーかーなー。どうしよーかーなー」
 夫は、そう言いながら服を着替えている。普段は余り喋らない夫だ。
 食事の準備を済ませ、登紀子は食卓に着いた。


 いつものように食事をした。その間、二人共、先程の話題には触れなかった。
 夫は夕食のおかずの事、テレビ番組の事、目に入る事を全てを話題にするかのように喋っていた。だから、登紀子は先程の件を言い出すきっかけがつかめなかった。


「……お前、子供、欲しいよなあ」
 食事の後片付けを終えてから、二人がテーブルに着いた時、夫が話し始めた。
「うん」


――この人は、何を言っているのか?――
 そう思いながら、登紀子は頷いた。
 あなたでしょ?
 そう登紀子は言いたかった。子供を欲しいと思っているのはあなたでしょ? と。


 夫の手帳には、女の子の名前が沢山書かれている。
 登紀子が初めてそれを見せられた時、それが何か、分からなかった。
 女友達の名前にしては、単なる名前の羅列である事が腑に落ちない。電話番号どころか、苗字さえも書いていない。それにそんな物を、妻である自分にわざわざ見せる訳が無い。
「なんなの? これ」
「ははは。子供の名前なのだ」
「……って、誰の子供よ」
「ばーか。決まってるだろ。俺の子供に」
「何が『ばーか』よ。いつ、子供ができたのよ」
「今日にも、できるのだ」
「まったくぅ。それも、女の子ばっかり」
「女の子が、できるのだ」


 夫は結婚直後から、その手帳に女の子の名前を書き込んでいた。
 思い付く度に書き加えていたが、そのうち姓名判断の本を買い込み、「こりゃ、駄目かな」などと言いながら、バツを付けたりしていた。


 自分の身体を検査したのも、子供が欲しい事の表れだと思われる。「どうして、子供ができないのか」と。その検査の結果が、今の状況を生み出している。


 まだ、現実感の無い登紀子ではあったが、今、相応ふさわしい言葉は見付からなかった。
「落ち着いて、ゆっくり考えましょう?」
「んん。そうだな……」
 酒を飲まない夫だ。また、普段でも取り乱す事は無い。いつも自分を律している。
 逃げ道が有れば、それで気を紛らわす事ができるだろうと思う。その逃げ道が、夫にとっては家庭なのだと思った。
 こういう時こそ、自分がしっかりしていなければ。
 登紀子は自分を奮い立たせた。


 その晩、登紀子は夫を抱いて眠った。
 深夜、身体からだを丸めて寝ている夫の背中が小刻みに震えている事に気付いた。
 震えを停めるように、登紀子は夫の身体を抱きしめた。
 夫の悲しみが、伝わって来る。声には出さない、深い悲しみが。


 今は夫の為に強くしていなければいけない。
 その思いが登紀子を現実から遠ざけていた。夫の子供を産めないという現実から。
 しかし、全身に伝わってくる夫の悲しみが、登紀子を強くさせ続ける事を妨げていた。
 登紀子は涙を流しながら、嗚咽おえつが漏れないよう歯を食いしばっていた。


 それから二人は結婚生活を楽しんだ。
 二人だけの結婚生活を。


 ペットを飼おうか?
 登紀子は、そう提案しようと考えた事も有った。
 しかし結局、言い出せなかった。
 ペットで気が紛らわせる程、夫の苦悩は軽いものではない。
 提案すれば、夫は同意するだろう。しかし、それは何の解決にもならない。


 これから、どうするのか? それを決めなければならない。
 これから、二人は何に向かって行けばいいのか。


 4年経った。


「人工授精、試してみようか……」
 弘は、意を決して言った。夕食後、二人でテレビを観ている時だった。
 いつまでも、このままの生活を続けて行く訳には行かない。


 人工授精は、妻だけに負担を掛けるように思える。
 お前だけ苦労してくれ。そう言っているような気がするので、弘は今まで言い出しにくかったのだ。
「二人だけで、ゆっくり歳をとりましょう。……それも、いいかも」
 いつか妻が言っていた言葉だ。
 しかし弘には、それが痩せ我慢である事が分かる。


 二人でテレビを観ている時。
 赤ん坊の映像が映し出されると、妻の表情が明らかに変わる。
 目を細め、なんとも言えない優しい表情になる。


 二人で手を繋いで街を歩いている時。
 子供服売り場で小さな服や小さな靴下を見た時、弘の手を握る妻の手に思わず力が入る。


 しかし、妻は何も言わなかった。
 子供が欲しい。
 それを訴えたとしても、弘には叶えられない。
 弘を追い込む事になる。
 弘の事を思い遣って、妻は敢えて子供の事を口にしないのだ。
 それが弘には、痛い程伝わっていた。


「はい」
 暫く弘の顔を見詰めていたが、登紀子はひとつ返事で答えた。
 いいの? とは訊かない。登紀子が身籠るとしたら、それは弘の子供ではないのだ。それでもいいのか、聞くまでもなかった。
 登紀子が産んだ子供を、夫は登紀子と同じように愛してくれる。


 善は急げ、とばかりに産婦人科医に相談に行き、説明を受け、母体の検査を行なった。
 そこで、登紀子が極めて妊娠しにくい体質である事が判明したのだった。


* * * * *


 弘と登紀子は、面接室の椅子に座っていた。
 弁護士を始め、厚生労働省の役人やらカウンセラーやら数人が同席している。
 間も無く、河上陽子が入室してくる。乳児である翼は来ない。


 面接とは言っても、4歳の子供に大人の良し悪しを判断できる筈が無い。また、見知らぬ大人に囲まれてしまっては、子供は萎縮する。
 大人側からの質問、子供側からの質問、それはこの場では全く意味をなさない。
 先程案内してくれた、この施設の先生が陽子の側に立つのだが、それでも大人の側から子供を見る為の面接という形式になってしまう。子供側から期待できるのは、反応だけだ。


 勿論、この面接だけで全てが決定する訳ではない。
 高橋夫婦については、書類審査・適性検査・育児に対する知識のテスト等を全てパスしている。養子縁組が必要な理由、それについても問題は無い。
 子供を育てられる環境にあり、子供を育てる強い意思が有る者にしか、親になる事は許されない。


 弘と登紀子は書類を通じて、河上陽子と翼の姉弟についての情報を事前に得ている。その上での面接だ。
 しかし、幼い姉弟にとって彼らは、初めて会う知らない大人でしかない。


 面接で双方の合意が得られれば、子供は親となる者の家に入る事になる。その後定期的にカウンセラーの訪問を受け、全てが問題無いと判断されて初めて養子縁組が成立するのだ。
 2012年の法改正によって、今のような仕組みが出来上がった。
 両親、及び身元引受人のいない子供の場合には、複雑な手続きが必要となる。


 陽子と翼には、両親も身元引受人もいないのだった。


* * * * *


 世帯主河上浩壱こうがみこういちのアパートにて、2028年12月22日、陽子と翼の姉弟は保護された。
 父浩壱、消息不明。
 母絵理沙えりざ、同じく消息不明。
 アパート賃借時の保証人であった浩壱の父は、既に他界していた。それ以上、浩壱側の親類を辿る事はできなかった。
 姉弟の母親である絵理沙については、肉親の存在自体が不明だった。


 浩壱の職場からの情報によると、彼は8月初めから行方が知れなくなっている。


 その日、浩壱の無断欠勤を問い質す為に、社員が自宅に電話を入れた。
 連絡が取れなかったので、その夜再度電話を入れると浩壱の妻が電話に出た。
 夫は出社している筈であると答えた。
 兎も角浩壱と連絡が取れ次第、会社に一報を入れるように伝えた。
 叱責を目的とした連絡ではなく、事情の説明を求める為の連絡であった。
 しかしその後も、浩壱からの連絡は無かった。


 10月に会社は、河上浩壱に解雇通知を出した。


 絵理沙は、フレックス制の会社に勤務していた。
 浩壱が失踪したと思われる8月以降も、彼女は仕事を続けている。
 翼を託児所に、陽子を幼稚園に預けてから出勤し、帰宅時に二人を家に連れ帰る生活だった。


 12月に入り、絵理沙が会社に来なくなった。無断欠勤だ。
 絵理沙に、会社は連絡を取ろうとした。
 携帯電話は繋がらず、自宅に電話しても子供が出るだけで要領を得ない。
 会社は絵理沙が担当していた仕事を他の者に替え、絵理沙からの連絡を待つ事にした。


 託児所と幼稚園に絵理沙が姿を見せなくなった日が、会社を休み始めた日と一致していた。
 12月2日。


 託児所と幼稚園。どちらにも連絡を入れないまま絵理沙は行かなくなった。
 当然託児所も幼稚園も、河上家に確認の連絡を入れていた。
 電話に出るのは陽子だった。母親は、今いない。その旨を告げるだけだったと言う。


 幼稚園からは、陽子の教室を担当している保母が電話をしていた。
 鈴木愛子すずきあいこ。保母になって7年目だった。
 質問に対する答えの内容は不明な点が多かったが、陽子はしっかりと答えていた。
 特別な問題が有る訳ではない。
 そう判断した愛子は、電話を切った。
 しかしそれから毎日、愛子は陽子と電話で話をしている。


 4歳の子供の話である。その内容を正確に解釈するのは困難であった。また陽子自身、自分の母親が失踪しているとは思ってもいない。
 母は、もうすぐ帰って来る。
 陽子は、そう思って愛子と会話していたに違いない。


 陽子がしっかりしていたが故に、周囲の者は陽子の家庭の異常に気付く事ができなかった。


 その日愛子は、いつものように陽子に電話をした。通話中の発信音が聴こえてきた。
 誰かが電話を使っている最中だったのだ。
 きっと母親が在宅しているのだろう。
 そう愛子は思った。
 電話を掛けるのなら、何故、ここにしてこないのか?
 彼女は肚立はらだたしく思いながら、受話器を置いた。


 幼稚園は利潤の追求を目的として運営している。ボランティアではやって行けない。
 しかし保母と園児の関係は、そういう打算的なものではない。
 保母は、園児達にとって育ての母であるという誇りを持っている。
 場合によっては、親と対決してでも子供を守る。
 その覚悟が有る。


 愛子が陽子の家に何度電話を入れても、毎回通話中だった。
 彼女の頭に不安がぎる。
 陽子が入園した時の書類を探し出し、住所を調べた。
 幸い、住所の記入欄にはアパートの住所の他、大家の連絡先までが記入されていた。


 愛子は早速大家に連絡を取り、陽子の家に行く事にした。
 何事も無ければ、挨拶をして帰って来ればよい。
 担当の教室は仲間に任せ、愛子は幼稚園を飛び出した。


 陽子の家のドアは施錠されていた。大家の立会いのもと、確認した。
 インターフォンのボタンを押すが、反応は無い。
 愛子はその場でもう一度、携帯電話で陽子の家に電話してみる。やはり通話中。中に人がいる事に間違いは無さそうだった。


 大家が開錠しドアノブを回した時、ダッダッダッダッダ、と室内からの音を愛子は聞いた。
 陽子の足音だ。ドアを開ける音を聞きつけて、陽子が走って来たのだ。
 愛子はひと安心した。
 恐らくは電話中の母親を、叱ってやろうと思ってドアを開けた。


 目の前に、陽子が立っていた。
「あら、陽子ちゃん。こんにちは。お元気だったかなぁ?」
 愛子が声を掛けても、陽子は彼女を見ていなかった。
 愛子に続いて大家が入って来た。
「こんにちは? 陽子ちゃん」
 陽子は大家の言葉にも、見向きもしない。ドアの方を見ている。大家の次に、誰かが入って来る事を期待して。
 そしてつぶやいた。
「……ママは?」


――!!――


 愛子は、陽子の表情から異変を察した。
 何かが、起きている。
 靴を脱ぐのが、まどろっこしい。脱いだ靴を土間に飛ばす勢いで、部屋に上がり込んだ。
 キッチンに置かれた電話機が目に入る。受話器が架台から外れていた。
「ママ、いないの?」
 大家が陽子に話し掛けている声を背中に、愛子は室内を進む。


 頭の中で警報が鳴っている。
 大変な事が起こっているかも知れない。事故かも、事件かも知れない。
 だけど、いや、だからこそ、今自分は急がなければならない。
 愛子は、陽子にまだ1歳にもならない弟がいる事を知っていたのだった。


 キッチンの隣の部屋に、小さな布団が敷かれていた。
 愛子は部屋に散らかるゴミを踏み分け、布団に近付いた。赤ん坊が横たわっているのが見える。


 陽子が幼稚園に来なくなってから20日間。その間、ずっと母親がいなかったとしたら……。


 赤ん坊は目を閉じている。


――自分にどこまで出来るだろうか?――


「おばさん。急いで、救急車を呼んで下さい!」
 愛子は考えるより先に、大家に声を掛けた。


 その声で、赤ん坊が目を開いた。
「あわぁ」
 愛子はこの声を聞いて、一気に力が抜けた。
 両手を突いて、へたり込んでしまった。


 大家は救急車を呼んでから、陽子を連れて部屋に入って来た。
「どうしたの? 大丈夫?」
 声を掛けられて、愛子は初めて、部屋の中に散乱するゴミの正体に気付いた。
 カップラーメンを包装するビニールや蓋だった。部屋の隅には、空になった容器が積み重ねられている。
「はい……。大丈夫ですが……。ちょっと、赤ちゃんの様子、見てあげて下さい。私、今、ちょっと、足に力が入らなくて……」
 愛子は正直に大家に告げた。膝が言う事を聞かない。
「あー、翼ちゃんね?」
 一瞬、大家は不安そうな表情を浮かべたが、布団の上で手を振り回している赤ん坊を見て、すぐに笑顔になった。


「おー、よちよちよちよち」
 大家は赤ん坊を抱き上げ、あやし始めた。
 陽子は、大家に抱かれる翼を黙って見ていた。


 やがて救急車が到着した。
 愛子が事情を説明し、救急隊員が然るべき所に連絡を取った。
 室内の調査に立ち会う為大家は部屋に残る事になり、愛子は最寄の小児科まで同伴する事になった。


 愛子は検査の間、ずっと陽子に付き添った。
 弟の翼は、別の診察室で検査を受けている。
 やがて親戚の誰かに連絡が取れれば、取り敢えず親戚の許に引き取られるだろう。今は自分が母親の代わりを務めようと思っていた。


 詳細な検査結果は、直ぐには分からない。しかし対処に急を要する検査結果は、優先的に出される。
 陽子は、極度の栄養失調である事が判った。
 愛子は医師に、陽子の家で見たカップラーメンの容器の件を話した。
 即座に陽子に病室が用意され、点滴が開始された。
 薬剤の点滴ではない。身体に必要な栄養分だった。これなら、アレルギーの有無等を心配する必要は無い。


 点滴の針が腕に刺される時、陽子は眉をしかめただけだった。
 泣かないどころか、痛いという訴えもせずに病室の一点を見ている。何かが欠如しまったような様子だった。
 幼稚園で元気に遊んでいた陽子とは一変してしまった姿に、愛子は話し掛ける言葉を失くしていた。


 カップラーメンだけで20日間。
 もしかしたら、母親が居なくなった直後は別の物を食べていたかも知れない。しかし、そうだとしても、それで体調を正常に保てる筈は無い。


――人間じゃない!!――


 物言わず横たわっている陽子を見ながら、愛子は思った。
 愛子が気付かなければ、陽子は母の帰宅を待ちながら、死ぬ事になったろう。
 食べないでいれば、身体が動かなくなる。声も出なくなる。
 陽子の母親は、陽子を死なせる為に失踪した。
 人間として許されない。絶対に、許される事ではない。


 4歳の娘が何日もの間、一人でカップラーメンを食べている姿を思い描く事が出来るならば、決してそんな事はさせない。
 娘が悲しい。それにも増して、そんな事をさせている当人が悲しい。
 いたたまれない。
 人間だったら、耐えられない。
 そう、愛子は思った。


 翼の検査結果を、医師が伝えに来た。驚いた事に、健康そのものと言う。
「細かい検査結果はまだ出ていませんが、多分、何も心配無いと思いますよ」
「それは? どういう事でしょうか」
 愛子には信じられなかった。
 姉の陽子でさえ極度の栄養失調なのだ。乳児の翼が無事でいられる筈が無い。
 何か裏が有るのかと思った。
「事情がよく分からないので、何とも言えませんが、誰かがあの赤ん坊の面倒を見ていたという事になりますね。身体も着ている物も綺麗だったし」
「……そうでしたか」


――この子が――


 愛子は、ベッドの上の陽子を見た。
 点滴の針が刺されている細い腕が痛々しい。


――まさか、でも……――


 陽子はまだ4歳。物心が付くか付かないかの時期である。
 全てを親に頼って生きていればいい。遊びたい時に遊び、眠い時に眠り、泣きたい時に泣く。そういう年齢の子供だ。


――誰か他の人が、あの家に来ていたのだろうか?――


 しかし、愛子はその考えを否定した。
 誰かが翼の面倒を見ていたのだとしたら、陽子を無視する筈が無い。陽子は極度の栄養失調なのだ。


「ああ、陽子ちゃん」
 この子が我が身を削って、弟の面倒を見ていたのだ。
「陽子ちゃん、偉かったわねー」
 愛子は陽子の頭を撫でた。何度も何度も、撫でた。


 母親は、幼い姉弟を死んでしまうような環境に置いて、失踪した。
 自分を殺そうとしていたその母親の帰りを、陽子は待っていた。
 頼る者がいない。
 誰に頼っていいか分からない。
 どうやって頼っていいのかも、分からない。
 家が、陽子にとっては全ての世界だったと思われる。外界とは隔絶されている。
 その世界の中で、弟と二人で生きていた。


 どれだけ、心細かった事か。
 経過する時間が、命を削って行く。
 その命をなげうって、陽子は弟の面倒を見ていた。多分、見様見真似みようみまねで憶えたのだろう。
 ミルクやオムツの交換だけではない。洗濯や入浴等、赤ん坊の身体を清潔に保たなければならない。
 陽子は4歳の子供だ。愛子にはこれが信じられない。


 しかしやがて、陽子は動けなくなる。
 そして弟も、後に続く事なっただろう。


 陽子は世界で一番良い子だ。
 そう頭を撫でていた。
 こんなに良い子が、どうしてこんなに悲しい目に遭わなければならないのか。
 愛子の胸は、どこにも向けようのない思いで張り裂けそうだった。


 病室に、一人の男が入って来た。
 医師ではない。市から派遣された役人だった。
 後の事は医師に任せるように、と愛子は解放された。


 検査の結果、心配されていた陽子の肝臓機能等にも異常は無く、3日間の入院後無事退院する事となった。
 翼は健康で、何も問題が無かった。
 家には母子手帳の他、姉弟の衣類その他の生活用品が残されていた。
 換気式のエアコンが、姉弟を寒さから護っていた。
 翼の病歴は託児所に、陽子の病歴は幼稚園に記録書類が保管されていた。


 陽子の退院の日から、幼い姉弟は養護施設で生活する事となった。


* * * * *


 ドアがノックされ、先生と手を繋いだ陽子が入って来た。
 相変わらず、赤いジャンパーは着たままだ。
「陽子ちゃん、そこに、お座りしましょう。ね?」
 先生が促して、陽子がテーブルを挟んで、高橋夫婦と向かい合って座る。


――違うだろ――


 弘は心の中で呟いていた。
 これは、違う。親子は対面するものではない。並んで座るものだろう。
 これが、正しい遣り方なのか?


 陽子は一通り部屋を見回した後、横の先生を見上げて言った。
「ママは?」
 先生の事務的な表情が、一瞬で崩れた。


「陽子ちゃん? 前のママは、いないの。この人が、次のママなのよ?」
 先生は登紀子を示して言った。


 陽子はすぐに目で追うが、登紀子を見るとすぐ先生に視線を戻した。
「ママは、いないの?」
 陽子の問いに、先生は困ったような顔で頷いているだけだった。


 陽子はもう一度登紀子の顔を見てから、その後どこともなく、一点を見ている。


「あの、済みませんが……」
 静かに登紀子が言って、席を立った。
「はい、何か?」
 先生が言った時には、登紀子は既にテーブルを回り込んで、陽子の隣に来ていた。
「……あの、席を移らせて戴きます」
 陽子を挟んで、先生とは反対隣の席に座ってしまった。


――いいぞ!――
 弘は、心の中で言っていた。


 怪訝けげんそうな表情を浮かべる周囲の者の中で、陽子越しに登紀子をのぞき込む先生の目だけは、優しい形になっている。
 登紀子の右手が上がり、陽子の頭に触れた。その瞬間陽子はビクッと肩をすくめたが、その後は、自分の頭を撫でている手の主を見ていた。


 登紀子には耐えられなかった。陽子に触れたい。面接の場では違反かも知れないが、どうにも自分を抑える事ができなかった。可能であれば抱きしめたい。
 頭を撫でながら、登紀子は自分の頭を陽子の頭にコツン、コツンとぶつけていた。
 自然と、涙が流れて来た。


 陽子には訳が分からない。尋ねるような視線を先生に送るが、先生は美味しい物を食べた時のような顔で頷くだけだった。
 ここに同席する者は全て、陽子がこの施設に来た事情を知っている。
 先生と高橋夫婦を除く者が全員、互いに顔を見合わせ、頷いていた。


 この後形式的な面接を済ませ、一同は翼との面接の為に乳児室に向かった。


 陽子と連れ立って乳児室に行く。
 部屋に入ったところで、陽子は手を繋いでいる先生を見上げていた。
 弟のところに行ってもいいのか?と、訊いているのだ。
 手を離してくれないか?と、頼んでいるのだ。
 陽子はそれを、言葉にしない。目で訴える。それで分かって貰えなければ、あきらめる。


 知らないうちに、大人の世界で生きる為に身に付いた順応性だった。
 誰からも教えられない。教えてもらう時間も無い。
 陽子の本能が、どうしたら大人に嫌われないか、どうしたら自分達姉弟は生きて行けるのか、それを教えたかのようだった。


 先生が頷いて陽子の手を離すと、直ぐに弟が寝ているベビーベッドに走り寄った。
 そして枠につかまり、弟の顔を覗き込む。


「この子が、陽子ちゃんの弟の翼君です」
 先生は、集まった全員に対して言った。
 ベビーベッドの周囲を大人に囲まれても、陽子は無関心であった。只、弟を見ている。


「抱いて、みますよね?」
 先生が、登紀子に声を掛けた。こまねいている腕の一方の掌は、自分の頬に当てている。
 得意料理を振舞っているかのような表情をしていた。
「はい」
 登紀子は冷静を装って答えた。しかし自分の鼓動が周囲の人に聴こえるのではと思う程、ドキドキしていた。


 慌てず、ベビーベッドに身を乗り出す。
 左手で、頭を撫でる。髪の毛が柔らかい。
 スルリとそのまま後頭部に滑らせる。
 右手が背中から滑り込み、腕全体で体重を支える。
 持ち上げて、胸に抱き寄せる。
 両足は、絶対に転ばないように踏ん張っている。人目なんぞ気にしない。


――なんだろう。手が勝手に動く――


 登紀子は不思議な感覚に襲われていた。
 赤ん坊を抱くのは初めてではない。友人の子供を、何度も抱かせて貰っている。しかし、こんな感覚は味わった事がない。


 それにしても、なんて可愛い赤ん坊なのか。
 目が、鼻が、口が、小さな手が、靴下を履いた小さな足が、全てが可愛い。
 なんて柔らかいのか。そして、なんという重さなのか。
 両腕にズシリと来る。命が詰まっている。


 登紀子は夫を見た。彼は小さく口を開けて、二回頷いた。
 先生は嬉しそうな澄まし顔で、窓の外を見ている。


 腕の中の翼が、パタパタと手を振った。
「はは」
 登紀子は思わず声を出してしまった。なんて可愛い。
 夫も翼を見て、目が溶けそうになっている。


 陽子は弟を見上げている。


「……さ。それではもういいでしょうかね?」
 先生の声が、登紀子を現実に戻した。
「はい」
 翼をベッドに戻した。翼はまた、パタパタパタと手を振った。


「えと、お父さんの方は?」
 先生は弘に尋ねた。抱いてみるか? と訊いているのだった。
「はい。……今日のところは、妻に任せます」
 弘は答えた。


 翼を抱きたかった。翼だけではない。陽子も抱き上げて、抱きしめたい。
 偉かったな、と誉めてやりたい。
 いい子だいい子だ、と言って抱きしめてやりたい。
 しかし、それは抑えた。


 子供は、多少手荒に扱っても大丈夫だ。そう、弘は聞いている。
 だけど、怖い。壊れそうな気がする。
 自分が何か失敗をやらかして、この面接を台無しにする可能性も無いではない。


――え? あれ?――


 弘は今、自分が「お父さん」と呼ばれた事に気付いた。
 それに対して、当り前のように答えた自分がいる。
 妻を見た。やはり、全く気付いていない。
 先生のさり気ない言葉を、当り前のように捉えている様子だった。


「……そうですか。では、これぐらいで宜しいでしょうかね?」
 先生は事務的な表情に戻っていた。
「はい。……ありがとうございました」
 弘が答えると、先生が役人に目配せした。
「では、本日の面接の結果を踏まえ、全てを審査して通知致します。それをお待ち下さい」


 面接は終了した。




「……ねえ」
 帰り道、登紀子が弘に言った。
「今日の面接で、何が分かるのかなあ」
「んー」
 弘はそう言って、コートを着た登紀子の肩を抱き寄せた。
「そーだなー」


 登紀子には、子育ての自信が無かった。
 まだ乳児の翼は、普通の子供を育てるように育てればいい。
 既に物心が付いていて、本当の母を知っている陽子の方が、難しいだろうと思っていた。


 陽子と翼の書類を、受け取った時の事を思い出していた。


* * * * *


 養子縁組の申請をして、二人揃って様々なテストを受けた。
 それらにパスした通知を受け取りに行った時、陽子と翼の紹介を受けた。
 4歳の姉と6ヶ月半の弟だと言う。


 書類を受け取り、二人で目を通す事にした。
「宜しければ御連絡下さい。面接の手配を致しますので」
 そう告げられた。


 二人の子供を欲しい、とは申請していなかった。
 要望としては、生後1年未満の男児。一人だけだった。
 しかし紹介を受けたのは、姉弟の二人だった。


 子供達は色々な事情を抱えている。
 大概、父か母、祖父母の肉親が子供を引き取る事になる。そういう期待が持てる子供については、養子縁組を行なう際に肉親側との交渉が必要となる。
 役所側から無条件で紹介できる子供は、肉親がいない子供という事になる。
 また、そういう子供にこそ、早いうちに親が必要となる。
 従って役所は、肉親のいない子供を優先的に紹介する事になるのだ。


 そういう事情を弘と登紀子は、まだ知らなかった。


「いきなり、二人の子持ちになるのか」
 姉弟の書類を受け取った帰り道、弘はどこか嬉しそうに言った。


 妻は、男の子を欲しがっている。出来るだけ産まれて間も無い子供を望んでいる。
 弘が女の子を欲しがっているのと同じように、妻は男の子を欲している筈だった。
 男親は女の子を、女親は男の子をより可愛がるという。弘はその通りだと思っていた。


 しかし、主に子育てを行なうのは妻である。特に乳児の間は、男は殆ど役に立たない。
 女の身体は、子供を育てるように出来ている。男がいくら頑張っても、女のようにはいかない。
 だから妻の要望を優先すべく、養子縁組の申請には「男児を」と記載したのだった。


 しかし、紹介してくれた子供は二人。幼い姉弟だった。
 4歳の女の子。どんどん可愛くなって行く時期ではないか。
 自分に娘ができる。その期待が、弘を浮かれさせていた。


 妻と相談した時には、男女はどちらにしても産まれて間も無い子供という点では、希望が一致していた。
 本当の親との思い出を心に持っている子供は、育てるのが難しいと思っていた。
 自分達は、本当の親には敵わない。
 子供が作れないという体質による負い目からか、そんな風に思っていた。


 だから、物心が付く前の子供が欲しかった。自分達を本当の親と思って成長して欲しい。そう思っていた。
 それで、1歳未満の男児を、という事になった。


 その時弘が断念した夢が復活したのだ。娘を持つという夢が。
 4歳という年齢は、もうどうでもよい。弘の心は期待で一杯になっていた。


 生活は厳しいものになるかも知れない。当然だ。今までは夫婦だけで遊んでいたような生活だったのだ。
 厳しいと言っても、普通の家族の両親が抱える厳しさだ。甘んじて受けよう。
 結婚した時は、子供を三人以上欲しいと思っていた弘だった。


――二人の子供? 何も問題は無い。大歓迎だ――


 早く姉弟の書類を見たい、そう思う弘の足は、どうしても速くなる。


 登紀子も、二人の子供を歓迎する気持ちは同じだった。


 男の子が、欲しかった。
 赤ん坊に添い寝をしている自分を想像すると、その時の自分はなんて幸せなのだろうか、と思う。
 子守唄を歌いながら、背中をポンポンと優しく叩いている自分がいる。
 想像するだけで幸せになれる。実際に添い寝できたら、その幸せはどれ程のものになるのだろうか?
 登紀子の幸せは、頭の中でどんどん膨らんで行く。


 どんな赤ちゃんなのだろうか。
 生後6ヶ月の男の子だと言う。
 目鼻立ちはかなり整ってきている頃だ。
 だが、まだ乳児の筈。
 言葉はまだ喋れないだろうと思う。
 やっと、自分の力でい始める頃。


 登紀子の思いは、ラブレターを貰った女の子のようだった。


 4歳の姉も一緒だと言う。これで登紀子の楽しみは更に膨らんだ。
 自分の仲間が出来る。そんな感じだった。
 娘と一緒に料理を作ったり、彼氏の話を聞いたりしている未来の自分の姿を思い浮かべる。


 男の子を、と決めた時、夫は「子供に武道を習わせる」と言った。
 女の子の事ばかりを考えていると思ったのだが、ちゃんと男の子に対するビジョンも持っていた。
 自分の子分にするような気でいる。通わせる学校や取得させる資格まで、考えていた。


 どういう子供が来るかまだ分からないのだから、と、登紀子は笑いながら夫をたしなめた。


 それが今。
 役所で書類を受け取る時に「二人の子供」と聞いて、夫は喜んでいる。
 歩く速さが「嬉しい」と言っている。
 口では言わない。滅多に自分の感情を表現しない夫だった。
 だけど、分かる。


 子供を持つという、夢が現実になる。
 登紀子の歩く速さも、夫に負けなかった。


「さてと……」
 家に着くと、弘は居間の座卓を前に胡座あぐらを掻いた。
「ちょっと待ってね? 今お茶、れるから」
 登紀子がキッチンに向かう。
「はいよ」
 そう答えてから弘は、テレビのスイッチを入れた。
 チャネルを切り替えていると、オーケストラの演奏をやっている番組があった。
 クラッシックではない。現代音楽をオーケストラのアレンジで演奏している。BGMには丁度良かった。


 書類が入れられた封筒は、まだ開けていない。
 二人で同時に読み始めるのだ、という約束ができていた。
 弘が姉の書類、登紀子が弟の書類を最初に読む。ズルをしては、いけない。
 帰途、二人は息を弾ませながら、そういう約束を取り交わしていた。


 お茶と煎餅せんべいを、登紀子が持ってきた。
「じゃ、開けるぞ」
「うん。いいよ」
 二人共、プレゼントを貰った子供のようだ。
 つい最近まで「二人だけでゆっくり歳を取ろうか」などと言っていた夫婦には見えない。


 すっかり、幼い姉弟は自分達の子供になると確信していた。


 封筒から出てきた書類は、クリップで二つに分けられていた。一つは姉、一つは弟の分。
 両方共、1枚目が戸籍の写しだったので、どちらがどちらの分かすぐ分かる。


「はい、こっちがお前のね」
 弘が登紀子に、薄い方の書類を渡した。5〜6枚の厚さ。6ヶ月半の乳児では当然か。
 厚い方の書類を手にして、勝ち誇るように登紀子を見ている弘をチラリと見て、登紀子は書類を読み始めた。
 弘が手にしている姉の方の書類は、10枚以上有りそうだった。


 登紀子はまず、生年月日から確認する。
 何座だろうか? 干支は何になるのだろうか? 自分との相性は良いのだろうか?
 まず、それを見てしまう。


 何月何日が何座に当たるのか、登紀子はよく分からない。
 だから、子供の誕生日近辺と同じ誕生日の友人を思い出し、照らし合わせてみる。
 どういう性格だったろうか。自分との相性は、良かっただろうか。


 名前が翼。これは、夫が何と言うか楽しみだった。
 絶対に、名前について何かを言ってくる筈だった。間違い無い。


 夫は子供の名前を色々と考えていた時期が有った。その時は女の子の名前ばかりではあったが。
 名前を考える際、これだけは絶対に譲れないという点が有るらしかった。信念であった。
 それは、物を表す漢字を名前には含めない、という事だった。
 具体的に姿をイメージできる物を名前にしたら、その人物像が固定されてしまう。だから駄目なのだ、と。


「例えば、『机』とか『椅子』とかいう名前の子供がいたら、その子供は机とか椅子のような形をしていると思ってしまうだろ?」
 夫は理屈をね回していた。
 そうね、そうよね、と、登紀子は笑って受け流していた。
 夫が楽しそうにしているのが、嬉しかった。子供の名前は夫に任せる事にしていた。
 まだ、自分達で子供を作る事に、何の疑いも持っていなかった頃の事だった。


 それが。
 紹介された子供の名前は「翼」。物を表す名前だった。
 良い名前だ。登紀子はそう思う。
 多分、夫もそう思っている。
 しかし、それを夫は、素直に言えない筈だった。今までの自分の信念を打ち壊す事になるからだ。


 なんとか、自分を納得させるような言い訳を用意してからでないと、「良い名前である」とは言い出せない。
 どんな言い訳を考えてくるのか、登紀子はそれを聞くのが楽しみだった。


 戸籍の写しの次に母子手帳の写し。その次には既往症等の病歴を記した書類が有った。
 子供にとっては、これが命綱となる。
 必ず一回だけ罹る病気が、人間には有る。その病気の多くは子供の時に罹患する。はしか、水疱瘡、おたふく風邪、等。
 親は、子供がこれらの病気に罹った事が有るか否かを、知っていなければならない。
 また、子供が先天的に抱えている体質。これらについても、知っていなければならない。


 親がこれを知らず、病院に行った時に医師にこれを伝えられなければ、子供の命は危険に晒される事になるのだ。
 登紀子は、まだこの赤ん坊が自分の子供になると決まった訳でもないのに、全てを記憶するつもりで読んでいる。
 12月に精密な検査が行なわれ、その結果が記録されている。
 それに目を通す登紀子の頭の中には、健康そうに笑う赤ん坊の姿が浮かんでいた。


 次の書類は翼の家庭環境を記載した物だった。


――そう言えば、この子達の親は、一体どうなっているのだろう?――


 今まで、自分達の事ばかりを考えていて、子供達の親には思いが至らなかった。
 どういう事情の子供なのか?
 家族構成の部分で、父の欄、母の欄にはちゃんと名前が記載されている。離婚とか死亡とかいう文字はどこにも見当たらない。


――両親は健在? だったら、何故――


 書類は最後の紙になった。特記事項が記されている。短い文章だった。
 【2028年12月22日 姉陽子と共に保護される】
 想像力で如何様いかようにも膨らむ記述だ。


――どういう事なのか?――


 陽子の書類を読んでいる夫は、何か難しい表情をしている。声を掛けるのがはばかられた。
 仕方ないので、登紀子は書類をもう一度最初から読み直す事にした。


 登紀子が自分の苗字に子供の名前を当てめて、字の画数を数えている時だった。


 ガチャン。
 突然の音に、登紀子はビクッとなった。何かが割れたような音。


 音のした方向を見ると、夫の手が湯気を立てていた。
「どうしたのよ。大丈夫?」
 登紀子は一瞬で手の様子を見て取り、立ち上がってキッチンに向かう。
「あちゃちゃあ。割って、しまったー」
 夫は、手に持っていた湯呑み茶碗を割ってしまった様子だった。しかし余り熱そうではない。
 猫舌の夫は、熱いお茶を呑めない。或る程度冷めてからでないと湯呑みを持たないのだ。だから、火傷の心配は無さそうだった。


 キッチンから持って来た1枚のタオルを、座卓から下にこぼれているお茶の上に投げる。
「大丈夫なの?」
 もう1枚のタオルで夫の手をぬぐいながら言った。
「んん。大丈夫だと思う。……ごめんね?」
 夫は湯呑みを割った事を詫びている。書類は反対の手で持っていたのか、濡れてはいない。


 手の中で湯呑み茶碗が割れたのだ。もしかしたら破片が刺さっているかも知れない。それが心配だった。
 だがどうやら、その様子は無さそうだった。


「でも、どうしたのよ」
 登紀子は散らばっている湯呑みの破片を片付けながら、夫に言った。
「んー」
 夫は自分の手を拭いた後、書類に目を戻した。
 登紀子が「あーあ」とか声を上げても、夫は書類から目を離さない。関心は完全に登紀子から離れている。
 こういう時には何を言っても無駄だった。


――読み終わってから、ゆっくり話を聞かせて戴きましょうかねえ――


 そう思いながら、別の湯呑み茶碗を用意して、お茶を淹れ直していた。
 しかし。


――湯呑み茶碗を、握り潰したのだろうか?――


 厚手の瀬戸物。駅前の、顔馴染になった寿司屋で貰った湯呑みだった。
 多分、登紀子が全体重を掛けても、割れるような代物ではない。


――まさか、ねえ――


 夫は痩せていて、腕も細い。
 身長も高くなく、色白だった。
 腕力に自信のあるタイプではないのだ。
 その夫に、あの厚い湯呑み茶碗を握り潰せるとは思えない。


 男は、女とは比べ物にならない程、力が強いものなのだ。
 登紀子はそう、自分を納得させる事にした。
 腑に落ちないが、仕方ない。そういう事実が有ったのだ。
 登紀子はあっさりした性格だった。


 ガラスのコップでさえ、大の男でも掌で割るのは難しい。相当の力が必要となる。
 増してや瀬戸物の湯呑みだ。力士でもプロレスラーでも困難だろう。
 割ろうと思って割ったのではない。弘にその奇跡的な腕力を発揮させたのは、激情だった。


 書類の内容に目を通し、弘は我を忘れた。
 所謂いわゆる、火事場の馬鹿力。
 人間の身体は、100%の力を出さないよう、自らを抑制していると言う。
 例えば、300sのバーベルを持つ場合。
 筋肉は持てると言う。しかし、これを持ったら骨が壊れると脳が答える。結局、持てない事になる。
 身体が安全な範囲内の力しか、人間はふるう事ができない所以ゆえんであった。


 その腕力を、弘は発揮したのだ。常識を超える力だった。


「はい。……もう割らないでよ?」
 登紀子は夫にお茶を出した。
「うん。……悪かったね、湯呑み割っちゃって……」
 夫は書類から目を離した。どこか、上の空だった。何を考えているのか。


「読んで、ごらん」
 そう言うと、陽子の書類を登紀子に渡す。もう読み終わったらしい。
「はい」
 登紀子は、代わりに翼の書類を夫に手渡した。


 陽子の書類を、登紀子はウキウキして読み始めた。
 夫は、と言うと、翼の書類に目を通す事を忘れているようだった。
 上の空のままテレビを観ている。


 書類を読んで行くうちに、登紀子は愕然となった。ウキウキ気分は消し飛んだ。


 両親共、失踪中。生死も不明。
 肉親等、親類縁者、所在不明。


――何なの? これは――


 登紀子の頭には、唐突に【天涯孤独】の四文字が浮かんでいた。


 登紀子は書類を読み進める。
 父親と母親の会社からの情報、幼稚園からの報告、それらがまとめて書かれていた。
 特記事項の書類には、幼稚園の保母が詳細な記録を残していた。


 2028.08.03−父浩壱、失踪。
 2028.12.02−母絵理沙、失踪。
 2028.12.22−通っていた幼稚園の保母により保護。入院。
 2028.12.25−退院後、当施設に入所。


 陽子が入所している施設の担当者が記載したと思われる記録には、そうあった。


 弟の翼は2028年6月に産まれている。父親は生後2ヶ月の子供を残し、失踪している事になる。
 どういう事情が有ったのか、登紀子には分からない。
 その後、母親が一人で姉弟を育てている。


――この男は、なんなんだ!――


 登紀子が姉弟の父親を責める思いは、すぐに別の思いによって掻き消された。
 母親の失踪から姉弟の保護までの日数が20日もある。
 20日間と言えば、何も食べないでいれば死んでしまう日数だ。


 肉親は誰もいない。そう書かれていたのを思い出す。
 だとしたら、誰か近所の人にでも、養って貰っていたのだろうか。


 登紀子の疑問は、保母の残した記録を読む事で明らかになった。
 その時の保母の思いが、そのまま登紀子に伝わって来た。


――なんと言う事か!――


 世の中では、こういう事が起こっているのか。
 これは、大事件ではないのか。
 こういう出来事は、新聞にも載らない程、日常的に起こっているのか。
 明らかに殺人未遂事件ではないか。


 登紀子の思考は錯乱していた。筋道立てて考える事が困難になっている。


 夫はまだ、テレビを観ている。
 いや、テレビを観る振りをして、心の中の激情を抑えようとしているのだ。


 登紀子には、湯呑み茶碗が割れた理由が、やっと理解できた。


 座卓の上に載ったまま、夫に見られていない翼の書類を、登紀子は再び手にした。
 翼の書類を開いて、陽子の書類と並べて見た。


 翼の健康診断をした日付が、陽子の頑張りを証明していた。
 2028年12月22日。
 この日、弟は健康である事が証明されていた。
 陽子の命が、弟を健康に保つ為に費やされていた。


――4歳の子に、生後6ヶ月の子供の世話なんて、できる訳ないじゃない!!――


 登紀子には、この悲しい事実を受け入れられる程の寛容さは無い。
 これは事実であっては、ならない。
 20日間。
 4歳の子供ならば、一人だけでも生きて行くには困難な日数の筈だ。
 それを、誰の助けも求められないまま、生き抜いた。


 そんな目に遭いながら、母を慕っている。
 母を信じて、待ち続けていた。


 登紀子は書類から目を離した。


 世の中は、なんと不公平なのか。
 こういう子供を、何故、私達に授けてくれないのか。
 世の中に対する絶望感が登紀子を襲っていた。


 ふと、我に返った。
 登紀子は、今自分が、何の為に書類を読んでいたのかを思い出した。


 この子達の、親になれるだろうか。
 自分を殺そうとした親でさえ、子供は待ち続ける。それほど親子の絆は強いのだ。
 子供を持つという喜びどころではなかった。
 様々な思いが入り乱れている。


 登紀子は、物事を筋道立てて考える事ができなくなっていた。


「俺達は、この子達の為に、生まれて来たのかも知れない……」
 弘が、ボソリと呟いた。そして続けた。
「……この子達を、育てる為に」


 弘は、なんとかして自分の感情の高ぶりを抑えようとしていた。
 こじ付けでも、でっち上げでも、なんでもいい。
 なんでもいいから、自分が納得できる理由を考え出そうとしていた。
 そして、それを見付け出していた。


 妻も、陽子の書類に目を通した。
 心穏やかではないのは、一目で分かる。
 妻を落ち着かせる為にも、自分は冷静でなければならない。
 夫婦揃って錯乱状態になっていては、いつまでも収拾がつかない。


 それで弘は妻に話し掛けたのだった。


「そうかな……」
 姉弟を自分達に逢わせる為に、彼らをひどい両親の許に生まれさせて、死ぬ目に遭わせたと言うのか。
 それは流石に、登紀子には理解できない。


「子の無い親と、親の無い子が、ここで巡り会った。地理的に見ても、時間的に見ても、ここで両者が巡り逢う事は、凄い偶然が重ならないと起こり得ない」
「……」
「場所か時間が、少しでもズレていたら、俺達は、この子達と逢う事が無かった筈だろ?」
「それは、そうだけど……」
 だから、どうしたと言うのか? 登紀子はそう思ったが、言う気にはならなかった。
 言っても仕方ない。


「この子達には親が必要で、俺達は子供が欲しいと思っている。今日、たまたま紹介されたのがこの子達だった。別の子供を紹介して貰う事も、恐らく可能だろうと思う」
 弘が話を続ける。登紀子に話すというより、自分に確認するような口振りだった。


「だけど、この子達の背負った過去は変わらない。自分は何も悪い事をしていないのに、勝手な大人によって背負ってしまった過去だ。どうしようもない」
「……」
「もしこの過去を理由に、俺達がこの子達を選ばなかったら、多分、一生後悔する。……後悔と言うより、いつまでもこの子達の事を思い出して、気になり続けると思う」
「……でも、それは私達のせいじゃないよ」
「そう。俺達のせいじゃない。……じゃあ、明日にでも、別の子供を紹介して貰おうか?」
「……」
 弘の問いに、登紀子は即答できなかった。


「うん。そうなんだ。俺にもお前にも、多分そう考える事ができないんだよ。『そうしたら、その後この子達はどうなるのだろうか』って、思ってしまう。……そうだろ?」
「……」
 登紀子は答えなかったが、図星だった。
 夫は、その思いが一生続くだろう、と言っているのだった。
 その通りだと思った。


「そういう俺達だからこそ、この子達と巡り逢える事になったんじゃないかな……」
「……そうね。……運命的にね」
 巡り逢った偶然を、登紀子には運命と思う事はできなかった。
 多分夫も、運命とは思っていまい。
 しかし、ここで幼い姉弟を突き離す事が、登紀子にはできないのは確かだ。


 何の不自由も無く、恵まれた家庭に育っている子供が、他の親に渡される訳は無いのだった。紹介される子供は皆、何らかの事情を抱えている筈なのだ。
 別の子供を紹介して貰ったとしても、やはり何らかの事情を抱えている。
 しかしその事情で子供を選ぼうとしている自分を、登紀子は間違っているとは思わなかった。


 一緒に生きて行く為の選択である。
 育てる事ができない子供の親になったら、子供を含め、家族全体が崩壊する。そうはなりたくない。
 自分達の為にも、子供の為にも、軽弾みな判断はできない。


「現実的に、考えてみようよ」
 実際に子供達と暮らす事になったら、どうなるか。それを考えて登紀子は言った。
「現実的に?」
「うん。……子供達、育てて行ける?」
「うん。それは考えてるよ。だけどそれは、普通の両親が普通の子供に対する思いと同じ。誰でも不安は有ると思うよ?」
「子供の立場としては、どうかなぁ。陽子ちゃんはきっと、お母さんを忘れられないんじゃないかと思うの」
「うん。そうかも知れない。だからって、俺達は遠慮しておくか? そしたら、いつまでもあの子を思い遣る人は、親にはなれないんじゃないかな」
「……」
「いずれ、本当の親よりももっと自分勝手な親の許で、暮らす事になるかも知れない」
「うん……。そうかも知れないけど……」


 二人は、暫く議論を続けた。
 そして、互いの沈黙が流れた後、弘が言った。
「この二人、俺達の子供として迎えよう。面接の手配、俺が頼んでおくよ」
 そして続けた。
「俺が、決めた。だから、この先何が起きても、俺の責任だ。お前は心配しなくていい」


 妻は、陽子の母と自分とを比べて、判断に窮している。それが唯一の問題のようだった。
 当然だ。本当の親に敵う訳は無いのだ、と弘も思う。
 だが自分達は、それを越えなければならない。


 子供達は親を必要としていて、自分達は子供が欲しい。それだけで充分だ。
 子供達の必要としている親として、自分達が相応ふさわしいか否か。それは、誰にも判らない。
 それを考えていても、誰も答えを出してはくれない。
 この決定は、自分が出すしかない。そう、弘は思った。


「まだ何か問題が有ったら、話し合おう。大事な事だからね」
「……うん」
 夫が、一方的に決めた事が意外だった。普段なら「ね?」とか「いいだろ?」とかの同意を求めて来る。
 しかし、今ここでの判断が、未来への出発点となる。迂闊うかつな事はできない。
 自分の考えが、はっきりしない登紀子だった。


 ふと、聞き憶えのある旋律せんりつが聴こえて来た。
 テレビは相変わらず、音楽番組を放映している。
「……この曲、何だっけ……」
 登紀子は音楽に耳を傾けた。
 オーケストラの演奏。インストロメンタルのみで、歌は無い。
 ゆっくりと、演奏されている。
「ラヴ・ミー・テンダー」
 ポツリと、弘は答えた。
「……ふーん」
 優しい旋律だった。
 そう言えば、曲の出だしが『ラヴ・ミー・テンダー』という歌詞だったような気がする。
 音符が、頭の中に浮かんでくる。みんな、タイやスラーで繋がっている。
 ストリングスの滑らかな調べを聞いていると、心が落ち着いてくるようだった。


 知らぬうちに登紀子は、音楽に聞き入っていた。


 私達がこの子達の親にならないとしたら、誰が親になるのだろうか。
 たった今、世の中にはひどい両親がいるという証拠を見たばかりだ。
 もっとひどい目に遇う事になったとしたら、一体誰が責任を取ると言うのだろうか。


 そんな事、させない。
 私だったら、この子達を悲しませる事はしない。


 音楽が、登紀子の心を優しくしている。
 その優しさが、他のあらゆる思いに打ち勝とうとしていた。


「……私達ってさぁ、偉いよね?」
「ん?」
 弘は、妻が何を言っているのか、理解しようとした。
「……私達って、偉いんだよ。この子達の親に比べたら、ずっと……」
 弘に対して言っているのではない。妻はテレビを観たまま、しみじみと喋っている。


「こんなに偉い夫婦。ちょっといないよねー」
「……んん」
「だったらさ。誰か、何か御褒美ごほうびしてくれないかなぁ」
「御褒美?」
「そ」
「誰が? ……俺が?」
「そうじゃなくて、あなたも御褒美もらうほう」
「じゃ、カミサマとか?」
「んん。カミサマでも、誰でもいい」
「例えば、何?」
「……んー、宝くじ、当たるとか」
「はは、それは奇跡だな。偉くない人でも、当たるし」
「そーだよねー」
「……御褒美は、子供だよ。もうすぐこの家に来る」
「そーだねー」


 テレビから流れてくる優しい旋律が、登紀子の心を穏やかにさせていた。
 ラヴ・ミー・テンダー。


――御褒美は子供――


 夫の言葉を、登紀子は噛み締めていた。


* * * * *


「大丈夫だよね?」
 登紀子が、夫に声を掛ける。
 面接の結果、自分達の申請が承認されるかどうかが心配なのではなく、今日面接した二人が家族の一員になった時の確認をしたのだった。
 あの二人の両親として、やって行けるよね? と。


 夫を心配しているのではなかった。自分自身が心配なのだ。
 夫に「大丈夫だ」と、言って欲しかったのだ。


「大丈夫。……なんとかなるよ」
 夫は、登紀子の問いの意味を理解しているようだ。
 期待が不安に打ち勝っている様子だった。表情が明るい。さっぱりした顔をしている。


――いい気なものだ――


 脳天気に喜んでいるように見える夫を、登紀子は憎らしく思った。
「もー。あなたも子育てするのよ? 分かってる?」
 そう言った登紀子は、夫の表情を見て、赤ん坊を持った時の重さを思い出していた。
 不安が吹っ飛び、一気に期待に変わる。


 クーッ、と言って、新しい生活を想像する。
 しかしまた暫くすると、不安が襲ってくる。


 登紀子は自宅に到着するまで、何度も何度も、期待と不安を交互に繰り返していた。


 面接の結果、全ての審査に合格したという通知を受けるのは、それから5日後だった。




 陽子と翼が、高橋家にやって来る。
 姉弟の衣類・家具等は、後で届く事になっていた。
 但し、すぐに必要な赤ん坊の為の布団等は、姉弟と一緒にやって来る。


 準備が大変だった。


 弘と登紀子は、子育ての講習会を受けに行った。必須だった。
 受講を終了しないと、子供を来させてはくれない。
 事前に勉強していた二人だったが、講習では本物の赤ん坊を相手にしなければならなかった。梃子摺てこずりながらも、二人は受講を終えた。


 2DKのマンション。夫婦二人で住んでいた。室内は物の置き場所がキッチリ決まっている。
 そこに、二人の子供が参入して来るのだ。当然手狭になる。


 取り敢えず、すぐには使わない物や多くの本は、弘の実家に送った。
 ベビー箪笥だんすを置く場所は、なんとか確保した。
 家具は買う訳ではない。陽子と翼が使用していたものを、ここに運んで来る。
 まだ、養子として認められた訳ではないのだ。


 何度かカウンセラーの訪問を受けて、それに合格して初めて認められる。
 今、子供の物を購入したら、合格しなかった場合に全てが無駄になる。


 運ばれて来る予定の家具の配置が一応決まった後、弘は腰に手を当てて部屋を見回していた。
 狭い部屋の中、あっちこっちを動き回っている。
 登紀子の近くを通った時、ブツブツと呟く弘の声を聞いた。
「……やっぱ、御雛様は……」


「そっかあ。もうすぐ雛祭りよねえ」
 登紀子の声に、弘は「?」という顔をしていた。
 俺は今、何か喋っていたのか?
 そういう顔をしていた。独り言を言っていた事に気付いていないのだろう。
 そして目だけで左上を見て、何かに納得してから、一人で頷いている。
「そう。御雛様、どこに置いたらいいと思う?」
 弘は登紀子に意見を求めて来た。


――まったく――


 登紀子があきれるほど、あらゆる事に気が付く夫だった。
 何をどこまで考えているのか、登紀子には想像もつかない。
 多分雛人形は、色々なサイズを想定して置き場所を考えているのだろう。
 登紀子は雛祭り自体、失念していた。
 しかし雛祭りの日、陽子がこの家にいるかどうか保証は無い。


「お任せするわよ。おとうさん」
 登紀子が言うと、弘はまた「んー」と言いながら部屋の中を見て回っていた。


 弘と登紀子は、互いに自分達を「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶ事にしていた。
 陽子にとって、ママ、パパは自分達ではない。
 陽子が自分達を呼びやすいように、と二人で決めた事だった。


 そして。
 二人の役人に伴われて、陽子と翼がやって来た。


 あれこれ構うのは、逆に良くない。家族なんだから。
 無関心を装っていると、歓迎されていないと思われるのではないか。
 どういう対応をすればいいのか、弘と登紀子は色々と考えた。
 結局、臨機応変に対応するという事になった。二人が色々と検討する前の状態と同じ結果が出ただけだ。


 役人との話もそこそこにバタバタと動き回り、やっと、居間に腰を据える。
 弘も登紀子も、どことなく落ち着かない。しかし、近くに動き回っている大人がいたりしたら、子供は余計に落ち着かない。
 陽子がこの家に慣れるまでは、二人共、なるべく余計な動きをしない事にした。


 陽子は、弘と登紀子と一緒に居間にいる。
 翼は隣の部屋で眠っていた。


「陽子ちゃんは、お茶、呑めるのかな?」
 登紀子が陽子に訊く。お茶は苦いし渋い。
 こんな物、子供は呑めるのだっけ?
 訊いてから登紀子は、そう思った。


「うん」
 陽子が細い声で返事をした。
「そっかー。じゃ、おかあさんが、れてあげるね」
 登紀子がお茶を淹れて陽子に出す。


 弘は無関心を装って、テレビを観ている。しかし、全身を耳にしていた。
 まずは、自分達夫婦がいるこの家に、陽子を慣れさせる事が第一歩だ。
 この家に居れば、陽子と翼は安全なのだ。それを自身で認識できれば、落ち着く事ができる。それが分かるまでは陽子にとって、弘と登紀子は知らない大人であり、この場所は誰か知らない人の家なのだ。


 それまでは余計な刺激は与えまい。
 陽子の今までの生活には、大人の男は余り介入していないように思える。
 一番身近な肉親である父親でさえ、陽子と顔を合わせなくなって半年になる。


 ひょっとしたら、陽子は父親の顔を憶えていないかも知れない。
 弘は、そのようにさえ思った。


 いずれにせよ、男である自分は、今は余り前に出ない方がいい。
 暫くの間、弘がいるこの家に、陽子を慣れさせる事に徹しようと思っていた。


 赤ん坊の泣き声が、聴こえて来た。
「おしっこ、したんだ」
 陽子が細い声で言い、立ち上がった。
 登紀子も立ち上がる。隣の部屋で翼が泣いているのだった。


 陽子が翼に触れると、不思議なくらいピタリと泣き止んだ。
「オムツ。どこ?」
 同じく翼の横に膝を突いている登紀子に、陽子が訊いた。
「陽子ちゃん、オムツが濡れてるって、分かったんだー。偉いなあ」
 登紀子が言う。
 しかし、本当におしっこで泣いたのだろうか? 登紀子には確認するまで分からない。
「これからは、おかあさんがオムツ換えるから、陽子ちゃんは何もしなくていいのよ?」
 登紀子は優しく陽子に言う。


 陽子は或る期間、翼のオムツを交換していた。
 しかし施設に入ってからは、その生活から離れていた筈だった。
 登紀子が弟のオムツ交換をする事に対して、陽子には何も抵抗は無い筈だ。


 陽子は弟の身体に触れる登紀子の仕種しぐさを見ている。


「はいよ。ここに有るぞ」
 弘が紙オムツを抱えて来た。
 全身を耳にしていた弘だ。隣室の陽子の声を聞き逃さなかった。
 すぐに、キッチンに置いてあった買いたての紙オムツを取りに立ったのだ。


 赤ん坊は、泣く事が唯一の意思伝達手段だ。
 腹が減った時、オムツが濡れた時、体がかゆい時、痛い時、その他なんでも泣いて伝える。
 それを、陽子は「おしっこだ」と言った。
 授乳する時間は決まっている。それを守っていれば、空腹を訴えられる事は少ない。
 そうだとしても陽子は、泣き声を聞いてすぐ、それを判断した。


 泣き声を、聞き分けられるのかも知れない。
 だとしたら、凄い事だった。


「あらー、本当だ」
 翼のオムツを脱がせて、登紀子が言った。お尻が濡れている。
 弘はお湯を用意する為に、再びキッチンに向かう。お湯はポットに沸いている。
「陽子ちゃん、偉いわねえ」
 オムツの交換中なので、登紀子は頭を撫でる事ができない。


「はい。これ」
 弘が洗面器にお湯を入れて持って来た。
「はい。ありがとう、おとうさん」
 登紀子はこう言ったが、目は別の一点に集中していた。


――あー。おちんちんがあるー――


 登紀子は、ある種の感動を味わっていた。
 夫の物とはまるで違う。別の物だ。
 こんな可愛い物が、あんなに兇悪な形に変わってしまうのだろうか。
 何故か登紀子は、夫を憎たらしく思った。


――あらー――


 登紀子はそれをさんざん触りながら、翼の身体からだを拭いた。
 横で、陽子が自分を見ている。夫も見ている。
 だから、この感動は表には出さないでいた。


 翼は気持ち良さそうにしていた。手や足を、振っている。
 いつまでもこうしていたいが、そうもいかない。
 登紀子は手早くオムツ交換を済ませた。


「んー? 翼ちゃん、んー?」
 登紀子はこう言いながら、翼を抱いた。翼は登紀子の顔をじっと見ている。
「んん、んん、ん。いい子いい子いい子」
 掌を翼の背中に当てて、ぽんぽんと軽く叩く。心地良く揺すってやる。


「陽子ちゃん?」
 弟を見ている陽子に、登紀子は声を掛けた。
「ん?」
 返事をしても、陽子の目は翼から離れない。登紀子を見ようとしない。
「おかあさんと、お話、しようか」
 陽子は、返事をせずに登紀子を見た。そして尋ねた。
「おかあさん?」
「そう。おかあさんよ?」
 登紀子は多少強引だったかも知れない。陽子は答えない。
「ね?」
 陽子は登紀子から視線を外して、頷いた。
 細い声で「うん」と。


――敵わないな――


 そう思って、弘は部屋を出た。
 やっぱり男は、女には敵わない。


 ここは、知らない大人は出来るだけ少ない方がいい。
 質問攻めにしてはいけない。そう、妻には言ってある。しかし陽子の事を知らなければならない。ここが難しいところだ。
 翼にも、登紀子の顔を憶えて貰わなければならない。


 弘はまだ、陽子にも翼にも触っていなかった。
 どうやって、触るきっかけを作ればいいのか。
 それを考えながら弘は、隣の部屋で全身を耳にしていた。


「ねえねえ、おとうさん」
 暫くして、登紀子が顔を出した
「ん?」
「悪いんだけど、買い物行って来てくれないかな」
「いいけど、何を?」
「夕ご飯の材料。買ってくる物、書くから」
「んん。いいよ」


 登紀子は食材をメモした。
 陽子の好き嫌いは訊き出した。追々おいおい嫌いな物も食べさせる事になろう。
 でも今日は初日。いきなり嫌いな食べ物を出す事もない。
 御馳走を作るという訳ではない。普通の、いつも食べている物を作る。
 我が家の味に慣れて貰うのだ。


 当然、今まで夫婦だけで食べていた物とは、多少献立は変わるとは思う。
 味付けも変わってくるだろう。
 しかし、最初の食事だ。陽子がどれ位食べるのか、どういう味が好きなのかも分からない。
 登紀子の考えで、登紀子の味付けで作る。
 それで陽子の反応をうかがう。


 弘は一人で買い物に出た。
 暖かい陽気なら、みんな揃ってお散歩もいい。しかし外は冬だ。
 寒い思いをするのは、一人でいい。


――子供は、任せておいて――


 登紀子の目が言っていた。
 その代わり、あなたが買い物に行ってくれないか、と。


 弘は歩きながら、子供を抱く幸せそうな妻の姿を、思い出していた。


――よかった――


 弘は歩きながら思った。吹き付ける北風も、弘に寒さを感じさせる事はできなかった。




 弘は食卓に着いた。上には、夕食の皿が並べられている。
「いただきまーす」
 弘が言う。
「はい、いただきます」
 登紀子が答える。
「いただきます」
 細い声で、陽子も言った。
 弘は登紀子と目を合わせた。OKだな? の確認だった。


 陽子が、食べてくれないのではないか。その不安が登紀子には有った。
「心配する必要はない」と弘は言った。
 陽子には、食事を拒否する理由は何も無いのだ。
「それに、陽子は集団の中での食事を経験している筈だからな」そう続けた。


 幼稚園と施設で、陽子は他のみんなと一緒に食事を摂っている筈だった。
 みんなで食事をする時には、或る決まったルールが有る。


 @目の前に、食事を出される
 A誰かが代表して、「いただきます」と言う
 B他の人全員が、それにならって「いただきます」と言う
 Cみんなで食べ始める


 この順番に従って食事が開始される。これは、条件反射になっている筈だった。
 @Aをこちらでやれば、陽子は自然にBCの流れに乗って来る。


 ジロジロ見られていたら、食べにくい。俺達が先に食べ始めれば、陽子も食べる。
 そう、弘は言っていた。


 弘は、食べ始めていた。
 スパゲティー・トマトソース。
 おかずが陽子の口に合わなくても、満腹して貰う事はできる。


 しかし、トマトソースは登紀子の手作り。ホールトマトから作ったものだ。
 この味が気に入らなければ、仕方がない。


 陽子が、食べ始めた。
――よかった――
 陽子が食べ始めるまで、登紀子は食べる事が出来ないでいた。


「……おいしい」
 陽子が呟いた。
 登紀子に対して言っているのではない。今、食べた物を見ながら言っている。
 大人に対して気を遣っての嘘ではなく、本心から出てきた言葉だった。


 登紀子はもう、泣きたくなった。
 こんな物でいいの?
 こんな物、いくらでも作ってあげるよ?
 どんどん、食べていいのよ?


 自分が作った料理を誉めてもらう事が、こんなに嬉しいとは。


「そーかー。陽子ー。おいしいかー」
 弘が、満面の笑みで言った。
「うん。おいしい」
 陽子は弘に向かって答えた。目が円い。
 そしてまた、チュルチュルチュルと、スパゲティを食べる。
「はは。そーだなー。おいしいよなー」
 弘は、陽子の頭を撫でていた。


「こっちも、おいしいぞ?」
 弘は、おかずのハンバーグを食べて見せた。
 陽子も、それにならって食べる。
「うん。こっちも、おいしいね」
 ちゃんと、弘に向かって答えている。会話をしているのだ。


 弘は登紀子を見た。
 涙を流して、スパゲティーを食べている。
 弘の視線に気付いた登紀子は、見ないでよ、とにらみ返してきた。


「おいおい、陽子」
「ん?」
 弘の言葉に、陽子はすぐに反応した。ちゃんと、顔を見ている。
「あんまり食べ過ぎるとな、おなかが痛くなっちゃうぞ」
 弘が心配するくらい、陽子はよく食べた。
 大人の食べる量にはまるで及ばないが、4歳の子供には食べ過ぎだろう。
「んー」
 陽子は、自分のおなかを擦っている。
「おなか、いっぱい」
 陽子は、そう言ってから登紀子に向かって言った。
「ねー、ねー、ねー」
 おかあさん、とは呼んでくれない。
「はい。なあに?」
 登紀子は答えた。涙はきれいにいてあった。
「また、作ってくれる?」
 陽子はスパゲティとハンバーグの事を言っているのだった。
「うん」
 登紀子は、また涙に襲われそうだった。喋ると涙声になりそうだったので、頷くだけにした。
 返事を聞いた陽子は、満足そうだった。


――よくやった――


 弘は心の中で妻を誉めていた。偉いぞ、と。
 お前の料理が、陽子との垣根を低くしてくれた。




 こうして、手探りの生活が始まった。




 2029年2月。
 約2週間が過ぎた。


 登紀子は会社に休職届けを出していた。
 家に乳児がいるのだ。会社の仕事と掛け持ちは難しい。
 また、この時期で養子縁組の合否が決定する。全てを子育てに傾けたかった。


 陽子と翼が我が子になると決定したのであれば、退職しても構わない。
 しかしまだ、どうなるかは不明なのだ。だから会社を辞められずにいる。


 弘は、忙しく働き続けている。
 家族の為に、一生懸命仕事をしている。
 休日で家にいる時以外、日中はいつもは会社に行っている。しかしこの日は平日であるのに関わらず、弘は在宅していた。


 この日高橋家は、カウンセラーの訪問を受けていた。一回目の訪問だ。
 陽子と翼の生活状態を確認するのが目的。
 全部で三回。
 毎週やって来る。
 この訪問で家庭に何も問題が無ければ、養子縁組が成立する。
 弘は会社を休んででも、カウンセラーの来訪を迎える必要が有ったのだ。


 以前、養子を巡っての保険金殺人事件が発生した。非情な事件だった。
 犯人は法の網の目を潜って、複数の犯行を続けていた。
 二十世紀終わりから、幼児虐待は社会問題となっていた。
 何度も何度も問題となり、解決したかのように見えていたが、依然見えないところでは続けられていた。
 事件という形になって初めて世間の目に触れるのが常だったのだ。


 抜本的法改正をすべし。
 残虐な保険金殺人事件が、この声を高める契機となった。
 そして社会的弱者を徹底的に守るべく、法の改正が行なわれたのだ。
 カウンセラーの訪問は、この法規に基づいて行なわれる。
 名目はカウンセラーでも、実際の仕事は法定審査なのだ。


 カウンセラーの目は鋭い。
 些細な点も、見逃さない。


 一回目、二回目の訪問では、人の良い役人を装う。
 他愛の無い世間話程度で、訪問を終わらせる。
 但し、親の様子、子供の様子には鋭い目をひからせている。


 もし悪意の有る親だった場合、カウンセラーの訪問期間中は、まず尻尾しっぽを出さない。
 子供に対して虐待を行なうのは、この期間が終了してからとなる。
 しかし、一回目、二回目の訪問が世間話程度であれば、「この程度のものなのか」と油断する。この油断を呼び起こし、親の本心を探るのがカウンセラーの仕事だった。


 二回目の訪問を終えて帰る時、「何も問題は無さそうだ」と言う。「もう来る必要も無い」という事を匂わせる。
 そして「もし来るとしても形式的な物となる」と、駄目押しをする。


 三回目の訪問は、親の不意を突いて行なう。
 突然の訪問は、親が不在の場合が多い。しかし、その場合は待つ。
 また三回目の訪問までに、親子の身辺調査を極秘で行なう。興信所並みの調査を行なう事になる。
 その上での訪問だ。
 悪意の有る親は、大抵分かる。養子縁組は承認されない事になる。


 判断がつかない場合には、承認を出す。その後一定期間、監視する事となる。
 そこで怪しい行動が見られれば、養子縁組は取り消される。


 カウンセラーは一人でやって来た。
 居間で、弘と登紀子を相手に雑談をしている。
 弘の隣には、陽子が座っている。
 翼は、隣室で寝ている。


 陽子はカウンセラーの顔をじっと見ていた。


――この男は、一体、何なのだろう――


 陽子は、思っていた。何の為に、ここに来たのだろうか、と。


 弘と登紀子から、この部屋に一緒にいるように言われた。だから仕方ない。
 本当は、隣の部屋で翼と一緒にいたい。
 それを、陽子は言う事ができなかった。


 陽子は大人達の会話が飛び交う中、母親が家から居なくなるまでの事を思い出していた。


* * * * *


 陽子の母絵理沙が、夫の浩壱に不信感を持ち始めたのは、春の事だった。


 絵理沙が自分の勤務先から浩壱の会社に電話した。
 滅多に電話はしない。
 その時は、陽子が入園したての幼稚園から絵理沙に電話が有り、それを浩壱に相談する必要が有ったのだ。


 電話に出たのは、浩壱と同じ課員だった。
「ちょっと、お待ち下さい」
 そう言って、その男は浩壱に取次ごうとした。
 保留ボタンを押せば、相手の受話器にメロディーが流れる。
 その課員は、保留ボタンを押したつもりだったが、押せていなかった。
 絵理沙の耳に、会話が聴こえて来た。


「河上さんは?」
「……誰から?」
「奥さん、みたいですけど」
「え、河上さん、奥さんいたんですか?」
「おお、いたいた」
「今、会議室だと思うよ」
「じゃ、回してやれよ。本妻さんから電話ですって」


 絵理沙はその日、帰宅した浩壱にその時の事を問い糾した。


「会社のやつら、勝手に持ち上げて、言い触らしてるだけだよ。心配すんなって」
 浩壱は、取り合わなかった。
 絵理沙は、それ以上何も言えなかった。


 しかし、それが明らかになる時が来た。


 浩壱には愛人がいた。
 浩壱の不倫は、課内では公認されていた。
 課内の女子社員が相手だった。
 社内でも、公然といちゃついている。
 周囲の者は、殆どが浩壱の後輩だった。だから、浩壱に意見する者はいない。


 浩壱より目上の者も、勿論いる。しかし、彼らは黙認するしかなかった。それは、彼らも浩壱の愛人と関係していたからだった。
「そんな事言ったって、課長だって同じじゃないですかあ」
 直属の上司である課長が浩壱に注意した時、愛人がじか談判に来た。
 課長は強く言う事ができなかった。


 反感を買うと、何をやりだすか分からない。
 また、ここで良い顔をしていれば、また身体を許して貰えるかも知れない。
 課長は黙認した。


 課員たちは皆、生え抜きの社員だった。他の会社、普通の社会生活を知らない。
 浩壱の遣り方が普通なのだ、と思っていた。皆、自分もいずれ社内に愛人を持つつもりになっていた。


 浩壱は、自分の行動を客観的に見る事ができない男だった。
 自分のやっている事は正しいと信じ、他人の目からは自分がどのように映っているか? は考えない。


 愛人に得意先を名乗らせて、公衆電話から電話をさせる。浩壱宛の電話だ。
 課員がそれを取次ぐ。
 電話に出た浩壱は大声で、周囲に聴こえるように話をする。
「どうも、いつもお世話様です」
 課員は「またか」という顔をしているが、誰も指摘しない
「あ、明日ですか。はいはい。……午後2時ですね? 分かりました」


 これで、浩壱は堂々と日中に出掛けて行く。愛人との情事の為に。


 浩壱が外出中の時彼の同僚達は、急用以外では電話をしない約束になっている。
 客先との会議中には、電話を掛けてくるな。
 そう、言い聞かされている。
 急用でも、客先の電話番号で呼び出してはいけない。必ず、浩壱の携帯電話に掛ける。


 皆、浩壱が何をやっているのか知っていた。しかし、それを指摘する者はいない。
 正義感とか社会的責任感の欠如だけではない。
 ここで浩壱に何かを言うと、自分が甘い汁を吸えなくなる。そういう考えからだった。


 芯から腐った課だった。
 臭い物には蓋。腐った物を入れて蓋をしておいたら、全部が腐ってきた。
 そういう課だった。


 客先とは太いパイプを持っていた。
 これは、この課が今の状態になる前に、先人達が築いたパイプだった。
 その先人達は、社風が傾き変えた時、耐えられずに辞めて行った。
 今の課員に、得意先を開拓する能力は無かった。


 社内では公然の不倫も、客先には知られないでいた。


 言わなきゃ、誰も気付きはしない。
 バレなきゃ、何をしても構わない。
 浩壱はこういう考えの持ち主なのだ。
 自分の行動を誰も知らないと思っている。
 多くの犯罪者と同じ思考だった。


 それが、破綻した。


 或る日、浩壱が愛人と昼間からホテルに入るところを、客先の一人に目撃された。
 浩壱はそれに気付かず、情事に没頭していた。


 その報を部下から受けた客先の次長が、浩壱の会社に電話をした。自分の社名は名乗らなかった。
 電話を受けた浩壱の後輩は、浩壱は客先で会議中であると伝えた。
「その客先とは、うちの会社ではないのか?」
 そう言って次長は、自分の会社名を名乗った。
 その後輩は言葉に詰まった。
 次長は、担当課長に電話を代わるよう、言った。
 浩壱の上司である課長が電話に出て、弁明を始めた。


 別件で、以前担当していた得意先から突然連絡が有り、それの対応だと言った。
 それは、絶対に間違いないか、次長は確認をした。
 本当だ、と課長は答えた。もし嘘だったら責任を取る、と。
 その言質げんちを得た客先の次長は、電話を切った。


 客先の次長から電話を受けた事を、課長が浩壱に連絡した。
「すいません。私の勘違いで、客先との会議の日付、間違えてしまいまして」
 浩壱は情事の最中。それを中断されて不機嫌だったが、上司には逆らえない。
 堂々と嘘をついた。
「それで、今、喫茶店で資料を見直していたんですよ」
 それが本当か否か、問い質す事を課長にはできない。


 シャワーを浴び、愛人と一緒にホテルを出ると、目の前に客先の担当者が立っていた。


――やばい――
 浩壱は、どう言い訳をするか、どういう嘘をつこうか考えていた。


 客先からの発注に対して、浩壱の会社は工数を見積もってその金額が決定する。
 殆どが一括で発注が来る。
 仕事が完成すれば、その代金が支払われる。


 しかし、浩壱の今回の仕事は違っていた。
 週単位でスケジュールを客先に提出し、その仕事に費やされた作業量を人件費に換算する方法だった。
 スケジュールに、浩壱の遊んでいる時間は記入されていない。
 これではとても仕上がらない。そう交渉して予算をアップさせた。それに基づいたスケジュールが引かれていた。


 そのスケジュールが嘘っぱちだった事がばれる事になる。
 当然、客先は激怒する。
 あんたを昼間から遊ばせる為に、金を払っていたのではない、と。
 うちの会社は、あんたたちにだまされていたのだ、と。


「こんにちは」
「あ、どうも、いつもお世話様です」
 挨拶をされて、浩壱は答えていた。
 客先の担当者は、携帯電話を取り出した。
「もしもし。河上さんに、間違い有りません。今、確認しました」
 そして、浩壱に言ってきた。
「ちょっと、電話に出て戴けませんか」
 携帯電話を差し出してきた。
 浩壱が出ると、客先の次長だった。
「いつも、お世話様です」
 それから何を言おうか考えていると、相手は「河上さんの声を確認できただけで充分です」と言って、電話は切れた。


――まあ、どうにかなるだろう――
 愛人に、「課長にはまた、お前から言い含めておいてくれ」と言ってあった。
 会社に戻った浩壱を待っていたのは、困った顔をした課長と、激怒している部長だった。


 浩壱が席に着く暇も無く、そのまま三人で客先に向かった。
 勿論、詫びを入れる為にだ。


 客先の次長は、「そうですか、そうですか」と答えるだけだった。
 まるで反応がつかめない。
 翌日また社長と一緒に来るという約束をして、客先を後にした。


 この日帰宅した浩壱は、会社で起こった事を絵理沙に話した。


 自分の所属する課は、自分のせいで唯一の得意先を失う事になる、と言う。
「どうしようもねえな、もう」
 そう言って開き直っていた。
 全てを絵理沙に話したのが、何をどうする事もできない事の表われだった。


 女の事は置いておいて、真面目に一から出直してくれないか。
 子供もいるのだし、と絵理沙は頼んだ。
 女の事を責められない自分が悲しかった。
 それにも増して、口惜くやしかった。


 今まで、この夫に騙されていた。
 自分の馬鹿さ加減を思うと、口惜しくて涙が流れて来た。


「そうだなあ」とだけ、浩壱は言った。


 寝付かれずにいた陽子は、この様子に気付いていた。2DKのアパート。
 親子の会話は嫌でも耳に入って来る。しかし4歳の陽子には、難しい話は理解できない。
 只、自分が起き出して、両親の話題の中に入って行ってはいけないという感じだけは、解った。


 布団の中で、両親の会話を聞いていた。


 翌日、会社に行くと言って出た浩壱は、二度と帰宅しなかった。


 この家の4歳の少女にとって、父親は「時々家にいる人」とだけ映っていたのかも知れない。
 父親の帰宅が遅い時は、夜は会えない。また、朝、陽子が起きた時に父親の姿が見えない事も時々あった。
 だから陽子にとっては、父親がいない家は日常の一つだった。


 週末でも、朝から父親がいない時はよく有った。だから、陽子が幼稚園に行かない日に父親がいなくても、何も不思議ではなかった。
 父親がいなくなる前も、休日母親は翼を託児所に預けて出掛ける事が多かった。
 行き場所の無い陽子は、一人で家に残される事になる。
 父親がいなくなっても暫くは、陽子の生活に今までとの違いは無かった。


 幼稚園への行き帰りが寒く感じてきた頃、陽子の生活に変化が出てきた。
「陽子はもう、おねえさんなんだからね」
 そう言って母の絵理沙が、陽子に家事を教え始めた。


 陽子は絵理沙の手伝いをするつもりで、色々な仕事を習った。
 勿論、陽子は4歳の子供だ。全てを完璧に出来る訳は無かった。


 陽子は、翼の面倒を見るのが好きだった。だから翼の世話に関する作業は、自分から進んで行なうようになっていた。
 授乳、オムツ交換、入浴は、比較的憶えるのが簡単だった。基本的にお湯をかせればできる事だった。
 洗濯も憶えた。陽子の家は全自動の洗濯機だった。


 絵理沙は翼を可愛がっていた。
 ミルクを飲んだ後は、ゲップをさせてあげなければいけない。
 ずっと同じ体勢で寝かせていては、いけない。
 その他、色々な事を陽子に教えた。
 陽子は、身体からだで憶えて行ったのだった。


 母の手伝いをできて、嬉しかった。
 弟の世話をできて、嬉しかった。


 その頃から絵理沙は、陽子と翼を家に置いて、夜になって外出するようになった。
 いつ家に帰って来ているのか、陽子には分からない。
 朝になると、絵理沙は家にいた。


 そして或る夜。


 物音に目覚めると、母は荷造りの最中だった。
 陽子が三人位入れるようなケースに、衣類などを詰め込んでいた。


「……陽子ちゃん。起きちゃったの?」
 陽子に気付いて、絵理沙が言った。
「うん。ママ何してんの?」
「……これはね、お出掛けの用意……」
「ママ、お出掛けするの?」
「そうよー。……ママ、毎日、お出掛けしてるでしょ?」
「うん。でもママ、いつも、お荷物持って行かないよ?」
「そうねえ……」
 そう言って、絵理沙は少し黙った。


「あのね、陽子ちゃん。ママにはね、パパもママも、いないの」
「うん」
 陽子には理解できない。浩壱の父親が亡くなった時、陽子も葬式には参列した。
 その時陽子は3歳。亡くなった人間が自分の祖父である事を理解してはいない。


 浩壱の父の死で、浩壱の親戚関係が全て切れた。
 絵理沙の両親は、彼女がOLになってすぐに他界していた。絵理沙に姉妹は無い。親族は一人もいないのだった。
 だから陽子には、おじいさん、おばあさんと呼べる人がいなかった。叔父さん叔母さんも、従兄弟いとこもいない。


「だからねえ、ママは、パパがいないと、この家を追い出されちゃうんだ」
「うん」
 理解はできなかったが、陽子は返事をしていた。


 絵理沙は、夫の浩壱を思い出していた。
 浩壱は8月の初め、会社に行くと言って出て行き、帰って来ない。音沙汰も無い。
 もしかしたら、死んだのかもしれない。


 浩壱の生死は、絵理沙にはどうでも良い事だった。問題は、自分がどう生きるかだ。
 浩壱は死んでしまえばいい。そんな風にさえ思っていた。


「陽子のパパがねー、もっと、ちゃんとした人だったらねー」
 目の前の陽子を見ながら、絵理沙は言った。
「翼も、可哀想だったよねー」
 そして、絵理沙はしばらく黙っていた。


「さ、陽子はもう、寝なさい」
「はーい」


 翌朝。
 陽子は、いつものように早起きをした。


「陽子がいれば、目覚まし時計が要らないねえ」
 母はいつも、そう言っていた。


「朝だよ、朝だよー」
 陽子が声を上げる。
 いつもだったら、母が起きる。そして、朝食の用意を始める。
 母が起きるまで、陽子は「朝だよー」と言い続ける。


 しかし、この日はいつもと違っていた。
「あー、陽子ちゃん。今日は、お休みよ」
 こう言って、母は起きようとしない。
「あーと、陽子ちゃん」
「ん?」
「時計の短い針が、赤い所にきたら、翼君にミルクあげて頂戴」
「はーい」
 陽子は一人で起きて、着替えた。
 そして、居間の時計を見る。


 時計には、翼のミルクの時間を示す位置に、赤いシールが貼られている。
 陽子は椅子に座り、足をブラブラさせながら時計を見ていた。


 何故、今日は休みなのか。
 それを疑う事を、陽子は知らなかった。


 翼にミルクを与えてから暫くすると、母が起きて来た。
「ミルク、あげてくれたかな?」
「うん」
「よーし。いい子だ」
 そう言って、母は服を着替えた。


 そして母は陽子の側に座った。
 黙っていた。
 黙って、陽子を見ているだけだった。


「どうしたの? ママ」
 陽子の問いに、母は陽子の頭を撫でながら言った。
「ちゃんと、翼の事、見てくれるよねー?」
「うん」
 そして母は、また黙ってしまった。


 暫くして呟いた。
「どうしてだろうねぇ……」


 母の携帯電話が鳴った。母が出て話した。
 その暫く後、誰かが来た。
 インターフォンは電池が切れている。
 ノックの音に母が招き入れたのは、陽子が今まで見た事が無い男だった。


 男は母と陽子を見て、何かを喋っていた。そして、部屋に上がって来た。


「おじちゃん、だあれ?」
 陽子が尋ねた。
 それには答えず、男は絵理沙の荷物を運んで、外に出た。


 もう一度、男が入って来た。大きな荷物が、もう一つ残っていたのだ。
「おじちゃん、だあれ?」
 陽子は、また尋ねた。
 しかし男は何も答えずに、荷物を持って出て行った。


 そして、母も。
 大きめのバッグを持って、ドアのところにいた。
「じゃ、陽子ちゃん。いい子でいてね」
「うん」
 母は出て行った。


 陽子は、何も無かったかのように、居間に戻った。
 テレビのスイッチを入れた。


 テレビを観ていると、誰かがドアを開ける音が聴こえた。
 陽子は、走って行く。


 そこにいたのは、買物袋を沢山抱えた母だった。
「おかえりなさーい」
 母は何も言わず、買物袋の中身を冷蔵庫に入れたり、戸棚に入れたりしている。
 陽子を見ようとしない。
「マーマー、『ただいま』は?」
 陽子がれて言った。しかし、母は答えなかった。


「陽子は、食べ方知ってるよね?」
 母が、買ってきた食べ物を指して言った。カップラーメンが沢山置いてあった。
「うん」
 陽子が答えた。


 暫く、母は黙って陽子を見ていた。
 十秒だったか、一分だったか、分からない。
 そして、外から車のクラクションの音がして、母は出て行った。


「ちゃんと、鍵掛けとくのよ」
 これが母の最後の言葉だった。
「うん」
 陽子は鍵を掛け、また、居間でテレビを観始めた。


 それから、母は帰って来なかった。


 陽子は母の言いつけを守っていた。
 いい子でいた。翼の面倒を見た。ドアの鍵は掛けておいた。


 夜は、眠くなるまで起きていた。
 朝、目が覚めても、母は帰ってきていなかった。
 何日も、その生活が続いた。


 母は、いつ帰ってくるのか。
 そればかりを思っていた。


 そして、或る日。
 いつものように家にいたら、幼稚園の先生が来て病院に連れて行かれた。
 その後は、もう家に帰して貰えない。
 幼稚園のような、同年代の子供が大勢いる所に、入れられた。そこに、住む事になった。


 そこは、いつでも幼稚園だった。周りには、いつでも子供がいた。朝から夜までいつも側にいるのは、子供だった。
 大人が一緒にいるのは、みんなが集まる広い部屋だけだった。
 母親の姿を探すが、いる訳が無い。


 帰ったら自分を可愛がってくれる母親が、いなかった。
 帰る家も、無かった。


 だから、いつでも翼と一緒にいた。
 翼と一緒だと、落ち着いた。


――翼は赤ちゃんだから、どこにも行かないよね?――


 そう思いながら、いつでも翼を見ていたのだった。


* * * * *


 陽子は、部屋にいる知らない男を見ていた。
 弘と登紀子を相手に話をしている。
 何をしに来たのか、陽子には分からない。
 しかし、陽子は不安だった。


 また、どこかに連れて行かれるのだろうか。


 不安で堪らなかった。


 しかし、その男は帰って行った。
 何をしに来たのか、陽子にはさっぱり分からなかった。


 その男が帰る時、陽子は弘の背中で身を隠すようにして見送った。


 怖かった。
 カウンセラーが帰ってから、やっと陽子は安心した。
 もう、来て欲しくない男だと思っていた。


 それから数日。
 何事も無い日々を、家族は過ごした。


 陽子は弘と登紀子を、話し相手と認めてくれている。
 しかし、まだ親子関係ではない。
 これは仕方ない。時間が必要だった。もしかすると、このまま陽子が大人になるまで、話し相手のままかも知れない。
 それはそれで仕方ない。弘は慌てなかった。時間は、未来に向かって無限に続いているのだ。


 高橋夫婦と陽子との関係には何の進展も見せないまま、時が流れた。


 そして。
 カウンセラーの二回目の訪問を迎える日になった。


 前回の訪問と同じ調子だった。
 居間で、弘と登紀子を相手に談話している。


 その様子を、弘の隣に座っている陽子がじっと見ている。
 前回と同じように、この部屋にいるように言われていた陽子だった。


 また、あの男が来ている。
 なんで、来ているのだろう。


 陽子は不安で堪らなかった。


 この前来た時は、なんでもなかった。
 だけど、今日は違うかも知れない。
 何も用事が無いのに、来る筈が無い。


 自分がまた、どこかに連れて行かれる。
 陽子はそう思い込んでいた。


 誰も、陽子には正確な情報を伝えていない。
 だから陽子がそのように思うのも、仕方ない事だった。


 男はまた、弘と登紀子を相手に話をしている。
 笑いながら、陽子には理解できない言葉を話している。
 弘も登紀子も、男に説得されているのだ。
 陽子を男に渡す相談をして、楽しんでいるのだ。


 どんなところに連れて行かれるのか。
 翼は、また、一緒にいられるのだろうか。
 自分を可愛がってくれる大人のいない世界。


「やだあーぁー」
 突然、陽子が声を上げた。
「やだよーぉ」
 そう言って、泣き出した。
 泣きながら、カウンセラーに向かって行った。
「おまえなんかー、もう、来るなーぁー」
 そう言ってカウンセラーの肩を、小さな両手で押し遣る。そして逃げるように、急いで弘の方に戻って来る。


「やだよーぉー。こわいーよーぉー」
 陽子は泣き熄まない。
「やだよーぉー。もう、どこにも行きたくないよーぉー」


 陽子は、弘の背中にしがみついて泣いている。
「やだよーぉー。おとーさーん。助けてよーぉーぉー」
 弘と登紀子は、困ったような顔を見合わせた。


 登紀子が、陽子を抱きしめた。
「おかーさーん。やだよー。どこにも、行きたくないよーぉー」
 陽子は、わんわん泣いている。泣きながら登紀子にしがみついている。


「大丈夫よ?陽子ちゃん」
 登紀子がなだめるが、陽子は泣きまない。
「やだよーぉー。どこにも連れていかせないでーぇー。ねーぇー。おとーさーん。おかーさーん」


 察した弘が立ち上がり、カウンセラーに耳打して彼を部屋から連れ出した。
 陽子の泣き喚く声は、一向に収まらない。


「……どうやら、私があの子を、どこかに連れて行こうとしていると思われているようですな?」
 カウンセラーも、陽子の途切れ途切れの声から事情を察していた。
「そうですね。……済みませんが、今日のところは、お引取り願えませんか?」
 弘が言った。
「はい。その方が良さそうですね」
 カウンセラーも同意した。


「では、二回目の訪問は、また、日を改めて……」
 弘が言おうとした。
 訪問が中断されて、その結果が悪い方に傾くのが心配だった。訪問をやり直して貰う方がいいと思ったのだ。
「いえいえ。二回目の訪問は、これで完了です」
 カウンセラーはあっさりと答えた。
「でも、いいのでしょうか?」
「はい」
 弘の問いに、カウンセラーは即答する。


「三回目は、あの子に見付からないように来ないとなりませんかね?」
 カウンセラーは、靴を履きながら言った。少し笑っている様子だった。
「ええ、あの、それで宜しければ……」
「分かりました。では追って連絡しますので」
「どうも、お疲れ様でした」
「では、これで失礼します」
 陽子の泣き声の中、カウンセラーは出て行った。


 彼は外まで届く陽子の泣き声を聞いていた。


――この親子は、絶対に大丈夫だ――
 彼は確信していた。
 今までの経験から言って、間違いない。
――こういう家族ばかりなら、自分のような仕事をする者は不要なのにな――
 笑顔になりそうな顔を引き締めながら、一人帰って行った。


 弘が居間に戻っても、陽子はまだ泣いていた。
 泣きながら、「ここにいさせて、ここにいさせて」と言っている。


「大丈夫よ?おかあさんがついているから。陽子ちゃんは、強い子だったんじゃないのかなぁー?」
 登紀子は、この子が泣くなんて、と思いながら、優しく頭を撫でている。
 貰い泣きの涙で、登紀子の目は潤んでいた。


 陽子は泣かない子だった。
 父親がいなくなった時も、母親がいなくなった時も、陽子は泣かなかった。


 強い子だったのだ。
 だから、翼を救う事ができた。
 だから、自分も生き伸びる事ができた。


 やっと、保護者を見付けた。
 自分を守ってくれる人を、陽子はやっと見付けたのだ。


 だから、普通の弱い子供に戻る事ができた。
 だから、思い切り泣く事を、自分に許したのだった。


「陽子ちゃんは、ここの子よ? 大丈夫。どこにも連れてなんか行かせないから。ね?」
 登紀子が陽子を抱きしめる。
 陽子の両手は、必死で登紀子の服をつかんでいた。
 この手は、誰にも引き離す事はできまい。
 そう、弘は思った。


「陽子。もう大丈夫だぞ。おとうさんが追い返したから、な?」
 ここは、カウンセラーに悪者になって貰う手だった。
「え……?」
 陽子が、登紀子の胸から顔を上げた。涙で顔がグシャグシャだった。
「……ほんとに?」
 まだ、しゃくり上げているが、泣き熄んでいた。
「ああ。本当だぞ」
 弘は自信満々で答える。
「……ほんと?」
 陽子はこう言って、登紀子の身体からだを離れた。そして今度は、急いで弘にしがみ付く。
 弘の後ろにあるドアを、隠れるようにしてのぞきき込む。


「な?」
 弘が陽子の頭を撫でて言う。陽子はまだ心配そうだった。
「もう、来ない?」
 顔を真上に向けて、弘を見ている。
 私を守ってくれ。そう全身で訴えていた。


「うん。もう大丈夫。今度来たら、おとうさんが追っ払ってやる」
 そう言って弘は、ドアに近付いて行く。
 陽子は、両手で弘の背中にしがみ付いたまま、恐る恐るいて行った。


「な? 大丈夫だろ?」
 陽子は恐る恐る周囲を見回し、カウンセラーの姿が無い事を確認した。
「うん」
 やっと、弘から手を離した。
「あー、怖かった」
 陽子が安堵あんどの感情を、そのまま言葉にした。


「陽子ちゃん、こっちにいらっしゃい。お顔いてあげるから」
 登紀子が呼んだ。陽子は走って向かってくる。


「あーあ。顔がビチャビチャよ?」
「だって、怖かったんだもん」
 陽子はケロリとして、登紀子に顔を拭かせている。


 翼が泣き声を上げた。
「あ。ミルクの時間だ」
 陽子が、走る。
 登紀子も、負けまいと走る。


 生活の流れが、またいつものペースに戻った。
 しかし、陽子は明らかに変わった。
 弘をおとうさん、登紀子をおかあさん、と呼ぶようになった。


 言霊。
 ことだま、と読む。
 これには「言葉には魂が宿る」という意味が有る。
 陽子が「おとうさん、おかあさん」と言う事によって、それは本当のおとうさんとなり、おかあさんとなる。
 発声する事によって、それが本物になるのだ。
 カウンセラーの存在は、その役目とは裏腹ながら、重要な役割を果たす事となった。




 次の休日。
 カウンセラーによる三回目の訪問の連絡は、まだ無い。


 弘は朝から家にいたが、午後から陽子をお散歩に連れ出した。
 幸い、外は冬にしては暖かい。
 仮に寒かったとしても、陽子は喜んで出掛けただろう。


 カウンセラーの一件以来、陽子は弘にくっ付き回るようになっていた。
 朝、弘の出勤を見送ると、いつ帰ってくるのか、何度も何度も登紀子に訊いた。
 そして、待って待って、夜弘が帰宅すると、飛び付いて迎えた。


 陽子には、今まで男親がいないのと同じだった。
 父親から可愛がられた記憶が、陽子には無いのだ。
 本当の父親の思い出が薄い分、弘に解け込むのは早かった。


 それに引き換え母親との繋がりは、やはり強かった筈だ。
「でもねー。おかあさんも、頑張るからねー」
 登紀子はこうつぶやいて、気合を入れるのだった。


 乳児には、やはり外は寒い。それに授乳しなければならない。
 今日は一人ずつ、子供の相手をする事になった。
 登紀子は家で翼を見る。


 やっと、翼に添い寝ができる。
 いつもは陽子の目がどうしても気になってしまい、好きなようにはできないでいた。
 ワクワクしていた。
 陽子が家にいない今、思う存分可愛がってくれる。


――どれどれ――
 添い寝の前に、登紀子は翼の様子を見に来た。


 翼は眠りながら、口を動かしている。乳を飲む夢を見ているのだろう。
 舌を丸めて、乳首を包み込むようにしている。


 登紀子は、自分の乳を吸わせてみたい衝動に駆られた。
 子供を産んでいない自分に、乳が出る筈も無いとは思う。
 だが、吸わせたい。
 乳の出ない乳首を咥えても、赤ん坊は悲しむだけだ。
 だけど今は、翼よりも自分の欲求を優先させたかった。


 翼に、自分の乳に吸い付いて欲しかった。
 胸がジンジンしてきた。


 矢も盾も堪らず、登紀子は乳を出し翼の口に押し付けた。
 眠っている筈なのに、翼は乳に吸い付いて来た。


――きゃー――


 これは、初めての感覚だ。まさしく、きゃー、と声を上げてしまいそうだ。
 小さな舌が、乳首をくるんで、吸引してくる。
 歯が無い。全部が柔らかい。


 何度も、何度も、吸ってくる。
 出る筈のない乳を、翼は吸おうとしているのだった。
 命の補給を、登紀子の乳から受けようとしている。


――ごめんね。翼ちゃん――


 やはり、本当の母親には敵わないのだ。
 自分の不甲斐無さを、無心に乳を吸う翼に詫びた。


 しかし……。
 何か、様子がおかしかった。


 何かが吸い出される感覚が有る。
 翼の鼻息が荒い。
 喉がゴクンゴクンと動いている。


「……?」
 何かを飲んでいる。


――まさか――
 でも、飲んでいるとしたら、自分の乳以外には無い筈だ。
 空気を飲み込んでいるのだろう。きっと、そうだ。そうに違いない。
 自分に、乳が出る筈が無い。


「けくっ」
 翼が息継ぎし、口が乳首から離れた。
 口の中に、白い液体が見えた。


「え?」
 登紀子は驚きのあまり、声を出してしまった。かなり低音で、「え?」と言った。


――そんな、馬鹿な。冗談でしょ――


 息を整えた翼は、再び乳首を求めていた。
 登紀子はそれを与える。
 また、何かを吸い出される感覚が有り、翼の喉は何かを飲んでいるように動く。


――出てるんだ――


 登紀子は反対側の乳房を自分で搾ってみる。
 やや黄色っぽい白い液体がほとばしった。


――凄い――


 自分の乳が出ている。赤ん坊を育てろという信号が脳を刺激し、身体をそういう風にしてしまったのだ。
 女の身体からだって、凄い。
 そう思いながら登紀子は、優しく翼の顔を見ていた。


――もう、本当の母親に、負けないぞ――


 この子を捨てた人間以下の女に、自分は絶対に負けない。
 登紀子の心は、静かに燃えていた。




 雛祭り。
 弘の会社は休みで、高橋家は朝からにぎやかだった。
 雛人形は陽子の家に有った。簡単な造りの二体の人形だ。
 それでも、陽子は大はしゃぎだった。
 弘が遊んでくれる休日が、楽しみで堪らないのだ。
 翼も、最近はよく笑うようになった。
「母乳の効果よ」
 登紀子は誇らしげに弘に言う。
 弘は妻の乳が出る事を、最初は信じられなかった。
 しかしそれを言うと、すぐに証拠を見せられた。一発で疑いようがなくなった。
 妻は、陽子にも乳を飲ませたと言う。
 翼に母乳を授乳しているところを、陽子が不思議そうな目で見ていた。だから、陽子も飲んでみるか訊いたところ、「うん」と答えたと言う。


「陽子は、なんて言ってた?」
 その時の様子を弘が訊く。
「『変な味』だって」
 妻は、嬉しそうに答える。
 自分の身体が作り出した栄養分が、子供達の身体からだを作り出す。
 男には、絶対出来ない事だ。そう言って、妻は勝ち誇る。
「あなたも、飲んでいいのよ?」
 妻から熱い目で言われた時、弘は思わずどぎまぎしてしまった。


――それにしても――
 弘は思う。
 妻はどんどん、母親らしくなって来る。感動的な変貌だった。
 弘には、自分が今までと変わった感じが全く無かった。
 それに引き換え、妻の変わり様は見事だった。


 陽子が弘と遊んでいる時、電話が掛かって来た。
 登紀子が出た。
 相手はカウンセラーだった。すぐ近くに来ていると言う。
「実は、奥さんだけでも構わないのですが、ちょっと、お会いできませんでしょうか」
「は?」
 何を言っているのだろうか。登紀子は理解できなかった。
「実は、お宅に伺いたいのは山々なんですが、お嬢さんが怖がると思いまして」
「はあ」
 登紀子が言った。
「あの、御主人は?」
「あ、はい。今、代わりますね」
 そう言って、弘を呼んだ。
 弘は陽子を抱えたままで、電話に出た。陽子は笑い過ぎて、息も絶え絶えの状態だった。
「はい。電話、代わりましたが」
「あ、突然で申し訳無いんですが、私は……」
 カウンセラーは、自分の名前を告げた。
「ああ。お世話になってます」
 弘が言うと、カウンセラーは電話の用件を話し始めた。


「よーし。今度はおかあさんが相手だー」
 登紀子はこう言って陽子に迫って行った。
「きゃはー」
 陽子は息を切らして、走って逃げる。


 電話の内容は、三回目の家庭訪問の件だった。それを、今日行ないたいとの事だった。
「どうぞ、おいで下さい」
 弘は、陽子を横目に見て言った。
 するとカウンセラーは、その必要は無いと言った。
「法律で、三回と決められているものですから、形式的にでも会って戴ければいいのですよ。今回は、お嬢さんには見られないようにしましょう」


 弘は腑に落ちないが頷いた。陽子を怖がらせたくなかった。
「ですが、いいのですか? そういう方法で」
「いいんですよ。ではあと五分したら、玄関先まで行きますので、御主人でも奥様でも、どちらでも結構ですから、私を出迎えて下さい」
 電話が切れた。


 五分後に弘がドアを開けると、カウンセラーが立っていた。
「こんにちは。どうも済みません。こんなドア口で」
「いえいえいえ。とんでもありません。いいんですよ。いいんです」
 部屋の中から、陽子のはしゃぐ声が漏れてくる。それを耳にしたのか、カウンセラーは笑顔になる。
「では、確かに。三回目の訪問を行ないましたよ? いいですね?」
 こう言うと、カウンセラーはすぐに帰って行った。


 陽子が登紀子に追いかけられてドア口に来たのは、カウンセラーの姿が見えなくなってからだった。
「どうだったの?」
 登紀子が弘に尋ねた。
「あ? 今、帰った、けど……」
 弘は言った。帰る為に来たような訪問だった。


 そんな弘を、少し離れたところから陽子が見ている。追いかけられたいのだ。
 弘と目が合った陽子は、「きゃああああ」と言って逃げる。
 弘は登紀子と頷き合った。
「挟み撃ちだ」
「よし」


 とても賑やかな、雛祭りだった。 




 2029年3月。
 陽子と翼は、高橋家に養子として迎え入れられた。
 役所から正式に承認されたのだった。
 姉弟は、高橋の姓を得た。


 弘と登紀子、そして陽子と翼にとっても、一足早い春の訪れとなった。


 彼らの生活は、今までとまるで変わらなかった。
 承認される前から、彼らは既に家族生活を送っていたのだ。


 登紀子は休職中だった会社を正式に退職した。いつか復職するかも知れないが、今は育児に専念したい。
 休職してから、登紀子は一度も会社に行っていなかった。
 生活には何の変わりも無い。


 弘は忙しく働いている。


 4月から、陽子は近所の幼稚園に入園した。
 入園に際しては役所からの口添えが有ったせいか、事前準備もそこそこだった割りにはスムーズに進んだ。


 幼稚園に入園してから、陽子は日に日に明るい性格になって行った。
 その心の裡は、弘と登紀子には分からない。
 出来る事なら、本当の両親の事を忘れていて欲しかった。
 まだ、憶えているのだろうか?
 しかし訊けない。
 その時に忘れていたとしても、訊いた事がきっかけとなって、思い出す。


 弘と登紀子が出来るのは、待つ事だけだった。
 優しく包み込んで、辛抱強く待つ。
 それしかない。


 陽子を見守るのは、弘と登紀子だけではなかった。
 ゆっくりと流れる時が、陽子と翼を大事に大事に、見守っていた。


 子供と一緒に過ごす環境。子供を愛する気持ち。これが高橋夫婦を変えて行った。
 やがてこの事が、彼らに奇跡をもたらす事になる。




 季節が移り変わった。
 陽子の心は素晴らしい程の適応性を示して行った。


 2030年2月。
 姉弟が高橋家に来てから、1年が経った。
 家族の生活は順調そのものだった。


 いきなり二児の父親となった弘であり、二児の母親となった登紀子であった。
 大奮闘の1年だった。


 陽子は、すっかり家族の一員として解け込んでいる。
 弘と登紀子の幼い姉弟を思う気持ちが、スキンシップとなって現れた成果なのかも知れない。
 当り前のように、「おとうさん、おかあさん」と呼ぶ。


 翼は、一人で走り回るまでに成長していた。
 外で手を離すと、どこに行くか分からない。目が離せなかった。


 乳児は、母親の目を憶えていると言う。
 目だけを出した覆面を被っても、乳児は自分の母親を見分けると言う。
 最初は多少の不安が、登紀子には有った。
 しかし乳を与える登紀子を、翼は母親と認めてくれたようだった。


 しかし。
 家族の生活とは裏腹に、登紀子の身体は変調を来たしていた。


 神経過敏と言うのだろうか。今まで気に留めていなかった些細な事も、気になる。
 食欲が無い。吐き気がする。ふと気付くと、どこかイライラしている自分がいる。
 そして、何より、生理が遅れている。


――閉経なのだろうか――
 今の自分の症状が、本で読んだ更年期障害の症状に似ていると思っていた。
 登紀子はまだ30代初め。閉経を迎えるには早過ぎる年齢だ。
 しかし、登紀子は普通の体質ではない。
 子供が出来難い体質。難しい病名。これが登紀子に、早過ぎる閉経を迎えさせているのかも知れない。


 悲しい事だった。
 この歳までずっと続いていた生理現象は、一体何の為だったのか。
 女として生まれて来て、女にしか果たせない役割を果たせないまま、終わろうとしている。


 子供を産むとは、どういう事なのだろうか? どんな感じなのだろうか?
 一度断念した思いが、再び登紀子を襲う。
 生まれたばかりの赤ん坊を抱いている自分を思い描き、頭の中でそれにバツ印を付ける。


 叶わぬ夢。
 寂しい現実だった。


――私には、陽子と翼がいるではないか――
 何度も、何度も、自分にそう言い聞かせる。


 陽子と翼を寝かせた後、登紀子は自分の体調の事を弘に話した。
「……」
 弘には言葉が無かった。
 男としては、閉経がどういう意味を持つものか分からない。
 寂しい思いをするだろう事は想像できるのだが、親身になって答えられる事柄ではない。


 それよりも弘は、病気を心配していた。
 何か、悪い病気に罹ったのではないか。登紀子の体質が、悪い病気を巻き起こしたのではないか、と。


 性生活は普通に行っている。二人にとって避妊は意味を持たない。
 これが、普通の体質ではない登紀子には大きな負担となっていたかも知れない。
「明日、病院に行っておいでよ」
 登紀子の身体に万が一の事が有っては大変だ。弘には、それが最善の方法と思えた。


 妊娠した母体は、お腹の子供を護る為に母体をも強くする。
 顕著なのが骨だった。
 妊娠経験の有る女性と無い女性とを比較すると、妊娠経験の有る女性の方が、圧倒的に骨が強い。骨の老化が遅くなる。


 登紀子は、自分の身体を強くしないまま、育児を続けてきたのだった。
 無理がたたったのかも知れない。


「……そうね」
 登紀子は、余り気が進まなかった。
 産科医には、良い思い出が無い。
 自分が妊娠しにくい体質である事を告げられた。それが最期通告だと思った。
 だけど、最後ではなかった。もう一度、最期通告を受ける事になるのだ。


 できれば、病院には行きたくない。また、行かなくても済ませられる症状だと思っていた。


 弘はテレビを観ている。
 深夜の時間帯。
 美しい風景を映し、BGMを流すだけの番組。
 弘は、この曲に聞き入っているかのように、テレビを観ている。


「……これ、あの時の曲よね?」
 ふと、登紀子は思い出した。
 陽子と翼の書類を二人で見た時に、聴こえてきた旋律だった。


「んん。……ラヴ・ミー・テンダー」
 弘が答えた。
 テレビを観ているようで、実は観ていない。


 自分が一生懸命であるというのを悟られるのが嫌いな男だった。
 素直ではない。
 登紀子が心を込めて「どうもありがとう」などと言うと、絶対に「どういたしまして」という素直な返事は返って来ない。
 基本的には、極端な照れ屋なのだった。だから余り自己主張をしない。
 今も、何も考えていない振りをしてはいるが、頭の中は色々な考えを巡らせている筈だった。
 登紀子が反論しても、必ず夫には説得されてしまう。


「分かった。明日、病院に行ってみるね」
 登紀子には、弘の本当の心配が届いていない。
 病院に行こうが行くまいが、自分の身体からだは変わらない。
 閉経を宣告されるのが、早いか遅いかの問題でしかない。


 早めに診察を受けた方が、さっぱりして良いかも知れない。そう自分に言い聞かせた。
 もう、振り返るのはよそう、と。


 音楽が、優しい旋律が、登紀子の心を後押ししたようだった。


 二人は暫く、テレビから流れる音楽に聞き入っていた。




 翌日、陽子を幼稚園に預けてから、その足で病院に向かった。
 翼も一緒だった。ヨタヨタヨタと歩く。可愛くて堪らない。
 何かにつけて、目にする物を指さして「ちーちー」とか「たーたー」とか言う。


「んー? 何かなー?」
 登紀子は、そんな翼が何を指しているのかを見て、ちゃんとした名前を教える。
「あれはねー、いぬよー」
 ワンワンとは教えず、犬と教える。
 翼は、登紀子の口をじっと見て、なんとか「いぬ」と言うよう努力する。しかし言えない。


 見る物が全て、聞く物が全て、翼の学習材料だった。


 こんなに可愛い息子がいるのだ。
 もう、閉経なんて気にする事は無い。


「高橋さん。高橋登紀子さん」
 呼ばれて返事をした。登紀子は翼を連れて、診察室に入る。
 検査の結果を、待っていたのだった。そして、今、それを言い渡される。


「高橋さんは確か……」
 医師は、登紀子の体質を示す症名を言った。
「はい。そうです」
 あの時もこの医師に、それを告げられたのだった。
 消毒液の匂い。翼もどこか神妙にしている。


「おめでとうございます」
 医師が言った。


――何がめでたいものか――


 登紀子は医師の言い種にはらが立った。
 一人の女が、女の機能を終わろうとしているのに、許せない奴だ。


「どうしました? おめでたですよ?」
 医師が、もう一度言った。
「え?」
 まさか。登紀子は信じる訳には行かない。
「先生。そういう冗談は、患者を余計に傷つけるものですよ? 分かります?」
 登紀子は、本当に怒っていた。
「冗談ではなくて、本当に、おめでたなんです」
 医師はニコニコしながら言った。
 何を馬鹿な事、言っているのか。うちは夫婦揃って、子供ができない体質なのに。


「信じられませんか?」
 黙っている登紀子の表情を見て、医師が言った。
「はい」
 登紀子は自分の身体からだの事、夫の身体の事を言った。


「では、超音波で見てみましょう。ね?」
 医師は、本気のようだった。
 まさか、ここまで手が込んだ冗談を言うだろうか?
「は、はあ」
 登紀子は怒りを忘れてしまった。怒りの次の感情を、登紀子は用意していなかった。
 医師が超音波センサーの用意をしている。


 今や医療機器の進歩によって、ごく早い時期の胎児でも、外から確認する事ができた。勿論、母子共に悪影響は全く無い。


「これが、赤ちゃんです」
 医師は登紀子の腹に器具を当て、モニターに映し出された映像を指して言った。
 器具の動きに合わせて、画像も動く。
 間違い無く、自分の胎内の映像だった。
 翼が、興味深そうにモニターに見入っている。動きを指で追っている。


「私の、ですか?」
 登紀子は、呆けたように訊いた。
「そう。あなたの、です」
 医師は笑顔で答える。
「私、の、ですか?」
「そうです」
「……?」
 登紀子は声を出さず、自分を指差した。
 医師も黙って頷く。


――どうしようか――


 診察を終えた登紀子は、何故か、そう思った。
 喜び方が、分からない。


――私が、妊娠?――


 結婚してからは、夫にしか身体を許していない登紀子だった。
 妊娠するとしたら、夫の仕業しわざでしか有り得ない。
 しかし、夫は不妊体質。
 そして、自分も不妊体質。


――私が、妊娠? 赤ちゃんを、産めるって?――


 登紀子は手を繋いで歩いている翼を見た。
「しゅーしゅー」
 翼は、何かを指さして言っている。
「そうかー。しゅーしゅーかー」
 こう言って、翼を抱き上げた。


――私に、子供が、産めるって?――


「えー? 本当かなあ」
 登紀子は、声に出して言った。話し掛けられた翼は、キョトンとしている。
「本当ー?」
 道行く人に見られても奇異な目で見られぬよう、登紀子は翼に言っている。
「えー?」
 登紀子は、自分の顔が笑う形になるのを抑えられない。
 力を込めて引き締めても、笑う形になってしまう。
「えー?」
 ドドドドドと、喜びの感情が押し寄せて来た。
 もう、どうでもいい。
 ぶはは、でも、どはは、でも、どんな下品な笑い方でもいい。大笑いしたい気分だった。


 子供が御褒美。
 いつか、夫が言った言葉だった。


――ちくしょう――


 登紀子は叫びたい気分だった。
 嬉し泣きなどという、生易しい気分ではない。
 このまま走って行って、取り敢えず一番高い所まで行ってしまいたい。
 大声で、全世界に、私は子供を身籠ったのだ、と教えてやりたい。


――私の運命決めたヤツ、ざまをみろーだ――


 登紀子は翼の手を引いて、飛んで帰った。
 登紀子はずっと、小さな声で「わー」と言っている自分に気付かなかった。
 翼が途中で何かを言っても、お構い無しだった。


 帰宅するとすぐに、弘と連絡を取った。
 今日は、お祝いをやるから、夕食を外で奢ってね。
 簡単に約束を交わして電話を切る。
 詳しくは言わない。


「いーーーーーーー」
 登紀子は顔をクシャクシャにしてそう言った。近くにいる翼を抱きかかえる。
「翼ーーーーー」
 翼は抱かれるがまま、キョトンとしている。
 喜びが登紀子を、どうしようもない気分にさせていた。


 陽子も幼稚園から帰る時、登紀子からこの攻撃を受ける事になった。


 そして、待望のディナータイムが近付いてきた。
 登紀子は翼を前にぶら提げて、陽子と手を繋いで駅に向かった。
 いつもは重く感じる翼も、この日の登紀子にはそれを意識できなかった。


 夫は何と言って誉めてくれるだろうか? それを考えるだけで、登紀子の表情は崩れてしまう。
 すれ違う人に見られないよう、顔を伏せて歩く。


「おかあさん。どしたの?」
 陽子が登紀子の顔をのぞき込んで尋ねる。
 伏せた顔が嬉しそうなのを見て取って、陽子は不安そうではない。
「ん?」
 この子はいつでも、自分を気遣ってくれる。
「陽子ちゃんは、いい子って事」
 登紀子は立ち停まり、陽子に自分の頬を擦り付けた。
「んー」
 陽子は登紀子の顔から逃れた。ちゃんと、自己主張している。
「おかあさん。へーん」
 そう言いながら、一人で道を歩き始めている。


「そ。おかあさん、変ねー」
 登紀子が陽子に追いついて横に並ぶと、陽子が登紀子の手を求めてくる。
 赤い手袋をめた、小さな手。登紀子はしっかりと握る。
「へーんなのー」
 そう言いながら、陽子が握り返す。


 あの時の赤いジャンパーは、もう着ていない。
 弘が勝手に買ってきた、赤いダッフルコートを着させられている。サイズが合わない。
 陽子はそのダブダブのダッフルコートを喜んで着ている。


 商店街をゆっくり歩いていると、ふと、あの旋律が聴こえてきた。ミュージック・ショップの前だった。


 ラヴ・ミー・テンダー。


 ア・カペラでハミングのみの合唱だった。ヴォーカルは無い。
 しかしその曲は、登紀子の頭の中でオーケストラの曲となって広がって行った。


 ミュージック・ショップを離れても、登紀子の頭の中にはストリングスの優しい旋律が続いていた。


 登紀子は、最高の贈り物を授かった。
 そして登紀子は、夫に最高の贈り物を与える事ができる。


 夫への最高の贈り物。それは、自分が身籠った事の報告だった。
 そして、夫から登紀子へのお返しは、その時の夫の反応。登紀子が想像する以上に、夫は喜んでくれる筈だ。それが目に浮かんで来る。


「あ、おとうさんだー」
 待ち合わせ場所の駅の改札口近くに、弘の姿を見付けた陽子が、声を上げる。
 登紀子の手を握る力を緩め、陽子が顔を覗き込んでいる。目が、ね?ね?と言っている。
 弘は陽子の声に気付き、大きく片手を上げてこちらを見ている。


 登紀子は斜めに大きく頷いて、陽子の手を解放した。
「おかえりなさーい」
 陽子は飛んで行った。弘の右太腿に抱きつく。
「ただいま。陽子は、寒くないのか?」
「寒くなーい」
 陽子は、弘にダッフルコートのフードを被せられた上から、頭をゴシャゴシャに撫でられている。
「きゃははは」と、陽子の声が響く。


「ただいま」
 近付いて来た登紀子に、弘が言う。息が白い。
 登紀子が抱いている翼を見て、ニッと笑う。
「お帰りなさい」
「何? お祝いって」
「それはね……」
 彼らは、ゆっくりと歩き始めた。
 翼は弘が抱いている。


 登紀子はまだ話さない。報告は本日のメイン・ディッシュだ。すぐには出さない。
 できるだけ、勿体もったいつけて報告する。


 夫を泣かせてやるのだ。
 登紀子はそう思っていた。夫に嬉し涙を流させてやるのだ、と。
 そして、自分も泣く。
 きっと、泣くに決まっている。


 登紀子は歩きながら、ラヴ・ミー・テンダーの旋律をハミングしていた。
 優しい調べ。登紀子の頭の中では、まだオーケストラの演奏が続いている。


 2月初旬。街は真冬の風に凍えている。
 しかし、世界が全て、彼ら家族を優しく包んでいた。




(この作品は、2001/10/13 ストーリーセラー投稿作品の元となった文書に対して、作者が加筆訂正したものです。)




当作品は完全なるフィクションであり、

登場する人物・団体等は実在しないか、又は実在するものとは別のものです   著者

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久米仙人がいい



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