夕食は、カレー
2001/9/13 投稿作品
「もしもし?」
≪はい。松村です≫
「私。……今、駅、降りたところなんだけど」
≪あ、どうも。お疲れ様。早かったね?≫
「うん。これから、そっちに向かうからね」
≪うん。そうか。一人で来れるね? 地図、有るよね?≫
「有るけど、迎えに来てくれないの?」
≪ごめん。まだ、何も用意していないから≫
「用意なんて、いらないわよ」
≪でも、なんか御菓子とか、お茶とか、有った方がいいだろ?≫
「いいわよ。そんなもの。途中で買って行けばいいし」
≪はは。まあ良いではないか。俺の好きなケーキ買って来ようと思うから。駅と反対側にあるお店だし≫
「もー。冷たいんだから」
≪ま、最高のおもてなしをしようという気持ちの表われという事で、大目に見なさい。……もし、家に着いた時俺がいなかったら、鍵、持って来てるよな?≫
「うん。有るけど」
≪じゃ、そういう事で……≫
――何が「そういう事」なのよ――
私は公衆電話の受話器を置いた。
バッグの中に有る彼の家の合鍵を確認する。
私も彼も、携帯電話は持たない主義。
――ま、いいか――
私は、初めて降りた駅の道を、地図を頼りに歩き始めた。
秋。
暑くも寒くもない季節。一番楽に過ごせる季節だ。
春も気候的には良いけれど、花粉症には耐えられない。やっぱり秋が一番良い。
彼は会社の先輩で、約3ヶ月前からの付き合いになる。
お互い独身。私はもう30歳を超えているし彼はもうすぐ40歳になる。
少しも不自然な関係ではないのだが、会社の連中は多分、私達の関係を知らない。
各駅停車の電車しか停まらない駅の駅前商店街を抜けると、民家が並び、そこここに畑が目に付く。
地図には〈俺の足で、駅から12〜3分〉と書いてある。
地図を頼りに歩く女の足だと、一体何分かかるやら分からない。
これだけの道のりを歩かせるのだから、何か魂胆が有るに違い無い。
そう思うものの、やっぱり単に無神経なだけなのかも知れない、とも思う。
一体、私を何だと思っているのか。
女も30歳を過ぎると結婚の言葉はとても重くのし掛かってくる。
結婚したら出産という大仕事も有る。
高齢出産にならないようにとか考えると、やっぱり早めに結婚するべきか、とも思う。
しかし流石に、結婚は一人では出来ない。
相手がいなければ仕方がないではないか。
若いうちに結婚して子供を作って、それで離婚してしまった友達が何人かいる。
彼女達の今の生活を見ていると、早めに結婚しなくて良かった、とも思う。
今の彼とも別に結婚を前提に付き合っている訳ではない。
40歳になろうというのに結婚していないのは、多分、何か特別な理由が有るのではないかと思い、彼との間では結婚の話題は避けて来た。
会社の人達にバレないようにしているのは、言わば「予防線」であり、彼との深い仲が他の社員に知られてしまうと、他の男の人が私に寄って来なくなる危険性が有ると思っているからだ。
もしかしたら、彼の方でも同じように考えているのかも知れないけど……。
道は大通りから外れ、車の通りがめっきり減る。
昼下がり。
彼が「休みの日は昼まで寝ていたいから」と言うので、昼食を済ませてから会う事になった。
彼の家には今日初めて行く。
「一戸建ての実家に一人暮らし」と聞いている。
うちの会社の給料で、東京郊外に一戸建ての家を購入するのは至難の業だ。
彼の話では、親が建てた家であるとの事。
彼は、ここで生まれ、ここで育った。
――いつも、この道を通って、会社に来ているのね――
周囲の景色を見ながら、ゆっくり歩く。秋の風が心地良い。
ふと【直産販売】の文字が目に飛び込んで来た。
畑の前に店を出して、梨を売っているようだ。
「直産」というのは産地直送というような意味なのだろう。
堂々と辞書にも載っていないような言葉を看板に出しているのが、面白い。
「梨、下さい」
店に腰を下ろしているおばさんと目が合って、思わず声に出していた。
彼に梨を
家庭的な女性が好きという男が多いらしいけど、もしかしたら梨を剥く私の
――彼と、結婚したいのかなあ――
梨の入った袋を持って歩きながら、考えた。
彼と結婚できれば、嬉しいに決まっている。
でも、それが今まで付き合って来た男達の誰だったとしても、やっぱり嬉しかっただろう、とも思う。
【結婚】という言葉に
結婚は自分の伴侶を決める事なのだから、相手を選ばない訳にはいかない。
多くの男性と付き合って、その中から一番自分に合っている人を選べればいいのだが、そんな訳には行かないし、相手が自分をどう思っているかが分からない。
飽きられて捨てられるのでは、かなわない。
――ふう――
溜息をつく。
【女は受身】という言葉は嫌いだけれど、自分から男を選んで、プロポーズをしまくる気にはなれない。
やっぱり、自分を一番必要としている人と一緒になるのが、一番幸せになれるのではないかと思う。
――だけど、その人が結婚を考えないタイプの人だったら、しょうが無いじゃない――
色々考えているうちに、彼の家の前に来た。
【松村】と表札が出ている。
間違い無い。
地図の位置とも一致しているし。
庭付きの二階建て。
他人に羨まれるような豪華な家ではない。
一般庶民に手の届く、よく建売に出されるような普通の家だった。
門のインターフォンを押してみたが、誰も出ない。
三回押して、誰も出ないのを確認してから、門を開けて玄関のドアへ。
まだ、帰って来ていないらしい。
――まったく、親しい仲にも礼儀ありって言葉、知らないのかなあ――
バッグから彼から預かった合鍵を出し、鍵穴に当てようとした時、「はーい」という声が聴こえたような、気がした。
――何かな? 女性の声だけど――
――まさか、他の女と鉢合わせ――
――聞いてないぞ――
――だけど、もう、門を入って、鍵を出している――
――その女、凶暴だったらどうしよう――
一瞬にして、様々な思いを巡らせ、格闘シーンまでシミュレーションして、動けないでいた。
すると。
カラ、コロ、カラ、コロ、……。
下駄を履いたような足音が近付いて来る。庭から、こちらに向かって。
「はーい」
一人の女性が姿を現した。
60歳を過ぎているだろうか。
肩の力が抜ける。
白い薄手のセーターが
腕まくりをしているのは、庭で洗濯物か何かの仕事をしていたのだろう。
「こんにちは」
誰だか分からないけど、挨拶している自分がいた。
彼の家にいた。だから、彼の家の人に違い無い。
「はい、こんにちは。優子さんね? いらっしゃい」
ニコニコ顔で私を見て言った。
「はい。あ、あの、お母さんですか?」
――聞いてないぞ!――
全く予想をしていなかった事態の発生に、言葉がうまく出てこない。
「ええ。そうよ。息子がいつも、お世話になってます」
彼女は優しく私を見て、そして頭を下げた。
「え、はい。はじめまして。香川優子です。宜しくお願いします」
私も慌てて頭を下げる。
「はい。えーと、……あ、鍵持ってるのね?」
彼女は私の持っている鍵を見て言った。
「じゃ、開けて入ってね。おばさん、庭の方から上がってるから」
カラ、コロ、カラ、コロ、……。
彼女は姿を消した。
一気に緊張が解けた。
――何なのよ。何が「実家に一人暮らし」なのよ――
――お母さんが居るなら、教えておいてよ――
――なんで、合鍵なんか、渡す必要があるのよ。まったく――
心の準備も何も無い。
お母さんに対する第一印象が、果たして良い物に映ったかどうかが不安だった。
それが彼に対する非難という形になって表われたのかも知れなかった。
私は鍵を開けてドアを開けた。
「お邪魔しまーす」
「はい、どーぞ」
奥の方から、お母さんの声が返ってくる。
玄関を上がり、脱いだ靴をキチンと揃えて、声の方に向かった。
「どうも、お疲れ様。遠いところ大変だったわねえ。……もうすぐ、帰ってくると思うから、ちょっと待っててね?」
彼女は居間に座っていた。
やっぱりニコニコして私を見ている。
庭から差し込む日差しで白いセーターが眩しい。
「どうも、はじめまして。……お母さんがいらっしゃるって、聞いていなかったもんですから、先程は失礼しちゃって……」
私は膝を揃えて挨拶した。
「いいのよ。そんな事ー。さ、そのへんに座って頂戴。自分の家だと思って
歓迎されている。
それが体に染み込むように感じられた。
とても良いお母さんだ。
二人で仲良くショッピングとかも出来そうだった。
何か不思議な感じで、初めて訪れた家という感じがしない。
「あの、これ、梨なんですけど」
「あら、そうなのー。ありがとうねー。梨は冷やした方が美味しいから、冷蔵庫に入れておこうか」
彼女は立とうとした。
「あ、私がやりますから」
私が立って、台所に行く。
お母さんに気に入られたい。そう思っている自分がいる。
――なんだ? この冷蔵庫の中は――
冷蔵庫の中には、すぐに食べられるような物しか入っていない。
食材と呼ばれる物が全く無いのだった。
――このお母さんは、料理をしないのだろうか?――
「お茶、
梨を冷蔵庫に入れた後、居間に向かって言った。
「あら、悪いわねー。お客さんにそんな事させちゃって」
「いいんですよ、全然」
「お湯は、あの子が出かける前に沸かしてたから、ポットに入ってるの使ってねー」
「はーい。……お茶で良いですか? コーヒーとか紅茶とか……」
「優子さんの好きなものにして」
「じゃ、お茶にします」
「……そう。あの子もね、お茶が好きなのよ。そこに置いてあるコーヒーや紅茶は、来客用なんですって。コーヒーなんか、買っておいても飲まないから、いつも固まって、捨てちゃうのよー」
「……へー。会社ではよく飲んでますけど……」
「そうなの? 家じゃ、全然飲まないのよ?」
――へえ、そうなんだ――
彼が帰ってくる前に、お母さんから色々な話を聞きたいと思った。
会社では見えない彼の本当の姿を、教えて
お母さんから湯呑み茶碗の場所を聞いて、お茶を淹れ、居間に持ってきた。
「どうも、ありがとうねー」
「いえいえ、どういたしまして」
もう、すっかり親しい先輩に話すような言葉遣いになっていた。
だけどまだ、油断はできない。足を崩して座るのは、
「あの……。彼の小さい頃って、どんな子だったんですか?」
一息入れた後、私は切り出した。
「そうねぇ。……そうだ。アルバム持ってらっしゃいよ。あの子の部屋に有るから」
「アルバムですか。見てもいいんですか?」
「いいわよ。でも、最近のじゃなくて昔のやつね?」
彼女は笑った。
「え? はい」
私もつられて笑った。
「二階の、階段上がったところの右側が、あの子の部屋だから。そこの本棚の一番下に有るから、持って来てくれる?」
「はあ。私が持って来て、いいんでしょうか」
「うん。全然構わないわよ。おばさんが持って来てもいいけど?」
「いえ、私が持って来ます」
「そう? ……えぇと、いくつか有るけど、表紙が赤いやつね? それが昔のアルバムだから。あんまり最近のアルバム持って来ても、おばさんの知らない写真ばっかりだからね?」
「はい」
私は二階に上がり、彼の部屋に入った。
煙草の匂い。
布団は、敷きっぱなし。
――あの人らしい、部屋だわよね――
本棚をはじめ、机、パソコンデスク等で壁が見えている面は殆ど無い。
アルバムは本棚の中に、すぐに目についた。
机の引出しが気になった。
彼がいない隙に、中身を見たいと思った。
別に過去を暴く気は無いが、何か隠し持っていて、それが私との付き合いに影響するような物である可能性が無いとは限らない。
思い立ったら止まらない。私は彼の机の引出しを開けていた。
一番上の平べったい引出しには、文房具類が入っているだけだった。
平べったくない方の引出しにも、やっぱり文房具。
二番目の引出しには、ライターやらサングラスやら、私の目には、何やらガラクタにしか見えないような物が沢山入っている。
――男って、こんな物、いつまでも持っているのよね――
三番目の引出しに手を掛けた時、「あの、優子さん……」と遠慮勝ちの声が掛けられた。
「あ、はい」
まずい、と思いながら振り返ると、お母さんが階段を途中まで上がり、こちらを見ている。
足音が全く聴こえなかったので気付かなかった。
「アルバム、有った?」
ニコニコしながら言った。
何か、いたずら小僧を見付けて「してやったり」と言っているようにも感じられた。
「あ、はい。……これですよね?」
私はアルバムを持ち出して言った。
幸い、二番目の引出しを閉めたところだったので、即座に本棚のところに移動しても、机を探っていた痕跡は残っていない状態だった。
「そうそう。それ」
お母さんは一階に戻って行った。
――危ない、危ない。机の引出し
見られていたら、しょうがない。
私はアルバムを持って居間に戻った。
そして、彼の小さい頃の話を色々聞かせて貰った。
「この頃、あの子が交通事故に遭ってね……」
何枚目かの写真を見て、お母さんが話し始めた。彼が小学校五年生の頃の写真だった。
「え? 初めて聞きました」
「そうお? 怪我は大した事無かったけど、夏休みが丸々、台無しになっちゃってねぇ」
「へぇー」
アルバムを見ながら話すお母さんは、嬉しそうであり、また、寂しそうだった。
取り戻せない過去の思い出を振り返る時、私もこういう表情になるのだろうか、と思った。
「……そろそろ、おばさんも行かなきゃならないんだけど……。あの子の事、宜しくね?」
「はい。え? どこかに、お出掛けですか?」
「うん。そろそろ、ね。もう、安心みたいだし……」
「?」
写真を見ながらそんな話をして、一頻りまた写真を見ているうちに、私は眠ってしまっていたようだった。
お母さんの言葉は、優しく私を包んでくれるような感じだった……。
「ただいまー」
買い物袋の音。彼のご帰宅だ。私は目を覚ました。
「お帰りなさーい」
彼は台所で買い物袋をテーブルに置き、私を見ている。
「ごめんねー。ケーキが出来てなくてさ。出来上がるの待ってたんだよ」
「遅い! 待たせた分の見返りは、ちゃんとして貰いますからね!」
私が怒って見せると、「ははは」と笑いながら「待て。手、洗ってくるから」と、洗面所に行ってしまった。
お母さんの姿は見えない。二階か、もしかしたら庭に出ているのかも知れない。
「今日は外、気持ちいいねー。天気が良くてさー」
洗面所から戻った彼は、そう言って冷蔵庫を開けた。
「お、これは……、梨か。梨は冷やすと
「手ぶらで来るのも、なんですから……」
まだ、私は怒っているのを装っていた。彼もそれがポーズであると心得ているらしく、余り気に掛けていない。
冷蔵庫からウーロン茶を出して飲んでいる。
「お茶、
実は、早速イチャつきたかったのだけれど、お母さんがいつ戻って来るか分からない。
平静を装いながら彼のいる台所に行き、彼の湯呑みをテーブルに出した。
彼はいきなり私を抱き寄せ、キスして来た。
――お母さんに見られる――
そうは思いながらも、全然抵抗できない。
――もう、どうにでもなれ――
そう思った時、彼が私を解放してくれた。
「もう……」
どうして続けてくれなかったのか、と多少の不満を残し、彼にお茶を淹れ、居間に運ぶ。
「道、迷わなかった?」
居間に来た彼が、煙草に火を点けてから話し始めた。
「そんな事を心配するなら、迎えに来てよね? ……迷わなかったけど」
「ははは。流石、見込んだだけの事はある。女性は地図を見れないって聞くけど、あれ、本当かなあ」
「どうでしょーかねー。私は実は、女性じゃないかも」
「ははは。……ところで、今日は夕ご飯、どうしようか?」
彼は私を見ながら訊いた。
――ははーん。来たな?――
多分、私を家に呼んだのは、私に夕食を作らせる為だ、と踏んでいたのだ。
一通りの料理はできる。お料理学校にも通ったし。
だけど、それを前面に出さない私は、なんて奥床しい事か……。
「近くに、どこか、美味しいお店とか、有るの?」
外食にするの?というニュアンスで、私は訊き返した。
「んー。無い事無いけど……。何か、作ってくれないかなあ」
やった。
思う壺。
料理で、参らせてやる。
私に、
「いいわよ?」
顔が笑いそうになるのを必死に
「何が食べたい?」
――なんでも、いいわよ――
彼には、色々なお店に連れて行って貰った。
一緒に食事をして、どういう味付けが好みなのか、大体分かっている。
私から「じゃ、この料理を作ろう」などと言っては、台無し。
彼からのリクエストに応え、その料理をそつなく作る。
当り前のように、作る。
それで彼に「この女、何でも上手に作れるのではないか?」と思わせるのだ。
「カレーライス」
彼は、当然のように言った。
――何よ、それ。小学校の林間学校じゃないのよ?――
余り、腕を
「カレーライスね?」
「うん。カレーライスを、腹一杯食いたい」
――ま、いいか――
それはそれで、工夫もできる。
簡単な食材でも、「こんなに美味しいカレー、食べた事ない!」と言わせてやる。
「じゃ、ルーとか、中に入れる物とか、私に任せてくれる?」
私の頭の中は、既に材料の検討に入っていた。
「おお。任せる、任せる」
彼にしてみたら、簡単なメニューをリクエストする事で、私に負担を掛けないようにしてくれたのかも知れない。
また、特別な料理だと味の比較ができないけれど、カレーなら他の場所で食べたものの味と比較がしやすいとも考えられる。
「よし。じゃ、おやつにケーキ食べてから、一緒に買い物に行こう」
彼はお茶を啜って、言った。そして……。
「この街、ちょっと案内するから。……お店とか、知っておいて貰った方がいいし……」
――なんだと?――
――この街の、店を、知っておけだと?――
――それは、もしかしたら、この街に来いって事かー?――
私は、凄く嬉しい予感がしてきた。
――私と一緒に、住みたいかー? この野郎ー――
顔が笑いそうになるのを、必死に堪えていた。
「……あれ? その湯呑み……」
彼は、置いてある湯呑みに気付いた。
お母さんと私の分、二つ置いてある。
「これ、さっき、お母さんと一緒に戴いたの」
「?」
彼は、不思議そうな顔で私を見た。
「お母さんと、一緒にここまで来たの?」
「ううん。私のお母さんじゃなくて、あなたのお母さん」
「?……。俺の、お母さん?」
「そう」
「?……。ふーん」
彼は、やはり不思議そうな顔で私を見た後、視線を上にして何かを考えている様子だった。
「……この湯呑み、有った場所、よく分かったなあ」
「うん。お母さんに教えて貰ったから」
「……俺の、お母さん?」
「そ。あなたの、お母さん」
「……ふーん。……ま、いいか。何か企んでいるんじゃ、ないだろうな?」
「何かって、何よ?」
「……俺の、母親に会った……」
「そうよ?」
「……何か、言ってた?」
「そりゃもう、何から何まで、あなたの事、全部教えて貰ったわよ」
「……」
「コーヒーや紅茶は本当は飲まないから、買ったコーヒーは固まっちゃって、いつも捨ててる、とか」
「……その、アルバムも?」
彼は、そこにあったアルバムを見て言った。
彼にしては、こういう質問責めは珍しい。
「そう。これ、ちゃんと、お母さんの許可を得て、あなたの部屋から持ち出したんだからね。怒らないでよ?」
「うん」
そして彼は黙ってしまった。
何かを考えている様子だった。もしかしたら、勝手にアルバムを持ち出した私を怒っているのかも知れない。
――だけど、自分の家に私を合鍵で入れたのは、あなたじゃないの――
「だったら、お母さんに聞いてみてよ。ちゃんとお許しを得てるんだから」
「……うん。それは、いいんだけど……」
また、黙ってしまった。
――困ったなあ――
こういう時、何を考えているのか分からない。だから、どうしたらいいのか分からない。
今まで見た事が無い、彼の姿だった。
何だか分からないストーリーが進んでいるような気分だった。
折角彼の家まで来ているのに、このまま終わりそうな感じがする。
「ねえ。……ねえってば」
つい先程、幸せの予感を感じていたのに、突然の不安に襲われてしまう。
私は不安を紛らわしたい思いで一杯になり、彼に抱きついた。
テレビで見た。男は触られるのに弱い。自分を触ってくる女性には男は冷たくできないものなのだ、と。
そこまで考える必要が有るかどうか分からなかったけど、別に悪い方向に進む行為ではないと思った。
彼は私の背中を優しく擦って、言った。
「おまえの会った、俺のお母さんって、この人だった?」
また、質問だ。彼はアルバムにある写真に写った人を指している。
「……そう」
私は首を
「うーん。そーかー」
彼はまだ、私の背中を擦っている。
「よし。じゃ、ちょっとおいで」
彼は立ち上がり、私の手を
「……」
何が始まるんだか分からない。
――ま、いいか――
私は彼と一緒に階段を上がって行った。
階段の左側の奥の部屋に入る。
彼の部屋、そして階段の左側の手前の部屋をそれとなく見たが、彼のお母さんの姿は見えなかった。
きっと、庭に出ていたのだろう。
「こういう、事なんだよ。実は」
彼がそう言って指し示すところには、仏壇が有った。
「?」
何かとんでもない事を予感しながら、彼の顔を
彼は「あれを見ろ」という風に、
――ああ――
仏壇には遺影が。
それは紛れも無く、彼のお母さんだった。
もうひとつの遺影は、多分お父さんのものだろう。
「分かった? ……こういう事だったんだよ」
彼は自分を納得させるかのように、言った。
「ありゃー」
私は、そんな言葉しか出てこなかった。
彼はお線香をあげて、両手を合わせた。私も同じようにする。
「……しかし、まあ。人騒がせな……」
彼はこう言って、私を連れて仏壇の部屋を出た。
「へー」
私は相変わらず、意味の有る言葉を喋れないでいた。
「……こういう事って、タイミングとかで凄くドラマチックになる事なんだろうけど……」
「あー」
私達は居間には戻らず、彼の部屋に入った。
彼の言葉は私に対して言っているのではないようだった。
お母さんが出て来た事に対して言っているのか、とも思ったけど、どうやらそうでもないらしい。
彼は私を座らせて、机の引出しを開けた。
それはさっき私が開けようとして、お母さんに見付かって開けられなかった三番目の引出しだった。
彼はそこから何かを出して、私のところに持って来た。
正座した。
「優子さん。俺の嫁さんになってくれ」
差し出されたのは、指輪だった。
「ひゃー」
まだ、まともな言葉を喋る事ができない。
恐らく、プロポーズに対して「ひゃ−」と答えた女は、地球で私一人だろう。そう思った。
どこか、自分を客観的に見ているもう一人の自分がいるような感じだった。
唐突に、結婚式の場面を想像した。
新郎の友人からの質問。
「プロポーズの言葉は何でしたか?」
「それに対して優子さんは何とお答えになりましたか?」
ここで私が答える。
場内爆笑。みんな、楽しそう。
みんな、みんな、楽しそうに笑っている。
だけど、場内に彼の御両親はいない。
……いない。
我に返った。そして、幼い頃の彼の思い出を話していた時の、彼のお母さんの表情が蘇った。悲しみが……。
我が子の成長を見届けられなかったという思いが……。
彼の結婚式で、みんなと楽しく過ごしたかった……。
息子の結婚を、嬉し涙で祝いたかった……。
……。
「私でよろしければ。……お願いします」
涙が止まらない。何故だろう。
嬉しいのだろうか?
それとも悲しいのだろうか?
あんなに私に良くしてくれたお母さんは、もういない。
本当は、いない。
「もう安心みたいだから、遠くに行く」って、言っていた。
「ありがとう」
彼は、いつもとは違う
「私こそ、ありがとう……」
私は、そう言ったつもりだったけど、言葉になっていたかどうか分からない。
プロポーズでこんな状態になるなんて、全く予想していなかった。
全身が感情になってしまったような感じだった。
彼は、涙でグシャグシャになった顔の私を、優しく抱き寄せてくれた。
彼の胸で涙を
――もう、全て任せます。あなたに――
私の心を読むかのように、彼は軽々と私を抱きかかえた。
丁度良い事に、彼の部屋は布団が敷きっぱなしだった。
(この作品は、2001/9/13 ストーリーセラー投稿作品の元となった文書に対して、作者が加筆訂正したものです。)
当作品は完全なるフィクションであり、
登場する人物・団体等は実在しないか、又は実在するものとは別のものです 著者
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