forest of wondering lovers




「ただいま…」
いつものように、真っ暗な部屋。
部屋の奥で、夜光虫のようにわずかに光る留守電の点滅。
手探りで玄関の電気を点ける。
バッグもスーパーの袋も放り出して、部屋に駆け込む…なんてことは、もう1週間も前にやめている。
数週間以上続く、こんな生活。
買ってきた野菜や肉を冷蔵庫にしまった後、ようやく留守電の前に向かう。
伝言を聞く事自体が、最近は恐くなっているのかもしれない。
点滅しているボタンが、とてつもなく小さく見える。
指が少し、震えた。
期待してはいけない。
でも…

ピーッ
メッセージハ イッケンデス
「ああ、…すまねえ、あかり。
今日も遅くなりそうだ」淡い期待は、その瞬間で大きなため息に変わる。
昨日も、一昨日も、その前も、繰り返す失望。
慣れるどころか、喪失感は大きくなる一方だ。
「…おれが帰るまで待ってなくていいからな。今日中に帰れるかどうかもわかんねえから」
ピーッ
メッセージハ イジョウデス

黙ってメッセージを消去する。
ボタンの点滅が消えた部屋は、玄関からの光があっても、暗闇同然のような気がした。
…どっと、疲れが出た。

一人分よりほんの少し多めの夕食の準備。
私だけならこの半分も食べられない。
帰りの遅い浩之ちゃんの夜食がわりになるように、少し多めに作っている。
最初はちゃんと2人分作っていたけれど、残り物の多さに懲りてこんな風になってしまった。
近頃は夕食の献立を考えるのも少し億劫になっている。
結局一人で食べるのなら何を作っても同じだ、という諦めにも似た気持ちが心を支配しようとしているようだった。
それでも、毎日ちゃんと栄養のバランスを考えて買い物をする。
そうすることでしか、私は浩之ちゃんを感じられなくなっていたのかもしれない。
私が眠りにつくころに帰ってきて、目を覚ますころに家を出る。
…こういうのも「家庭内別居」と言うんだろうか。
そんな事を思うぐらい、私達の間には会話がなくなっていた。
昨日はどうしても浩之ちゃんの声が聞きたくて、ずっと帰りを待っていた。
眠気覚ましのコーヒーまで用意して、意地でも起きているつもりだった。
でも、気がついたら私はベッドに入って朝を迎えていた。
そっと隣に手を伸ばす。
いつものように温もりすら残っていない。
テーブルの上には、食べかけの食事と走り書きのメモだけが残されていた。
「今日はなるべく早く帰れるようにするから。…ごめんな」
メモを握り締めて、私は涙をこらえた。
こらえるしか出来なかった。
そして、あのメッセージ…
もう、我慢が出来なかった。
切っているのが玉葱かなにかのように、私は涙をこぼしつづけた。

いつもの倍以上の時間をかけて、それでも作ったのは取りたてて変化の無いメニュー。
一応見た目はおいしそうな料理が食卓に並んでいた。
でも、いつもと違う気がする。
…どれだけ味見をしても美味しく感じられない。
さじ加減はいつもと変わらないはず。
泣き疲れたから、と自分に言い聞かせてひとまず切り上げる。
作り直すだけの材料と気力は、どこを探しても残ってはいなかった。
一人分の食事だけをそろえて、本当にささやかな夕食。
でも、やっぱり美味しくない。
一人の夕食が美味しいものだなんて思わないけど、今日のはそれ以下。
それでも食べないと体に悪いという意識だけは働き、無理に箸を付ける。
結局、時間がかかって料理が冷めてしまい、さらに美味しくなくなってしまった。
ようやく食べ終えて、後片付けをしようと立ち上がろうとして…あれ?
足元がふらつく。
貧血気味かな。
でも、心なしか食器を洗う水が心地よい。
濡れたままの手を額に当ててみて、その理由がわかった。
「熱…あるのかな」
その後のことは、あんまり覚えていない。
多分、後片付けもそこそこにベッドに入ったのだと思う。
後で気がついたら、食器がまだ水につかったままだったから。
かろうじて覚えているのは、風邪薬の苦さとのどを通っていく水の冷たさぐらいだった。
そして冷たい布団にもぐりこんだところで、私の記憶は完全に途切れた。

…気がつくと、私は森にいた。
暗く、冷たい森の中を、たった一人で歩いている。
パジャマで、しかも裸足のままだったから、自分が夢を見ているんだというのにはすぐに気がついた。
でも、それでも私は何かに追われているかのように歩きつづけていた。
他には誰の気配も感じられない鬱蒼とした森。
どんな種類かは全然わからなかったけど、何者も寄せ付けないかのように高くそびえたつ木々。
右を見ても左を見ても同じような光景。
上を見上げても、空には月や星さえも見られない。
「痛っ…」
気がつくと、すぐそばに生えていた茨で手を切ってしまったようだった。
よく見れば至る所に茨が生い茂っている。
あまり痛みはなかったけど、足ももう傷だらけになっていた。
ふと足を止めて後ろを振り返る。
すると、そこには霧が立ち込めていた。
真っ白とは程遠い、深い海の色をした霧がゆっくりと私の背後から迫っていた。
霧の中には、どこかで見た光景がぼんやりと広がっている。
あれは…私?浩之ちゃんと初めて出会ったときの光景。
一人ぼっちになって公園で泣いていた私を迎えに来てくれた浩之ちゃん。
志保と雅史ちゃんと四人で過ごした学生時代。
そして、初めて結ばれた夜…。
その大切な浩之ちゃんとの思い出の全てが、霧に飲み込まれてようとしている。
しかも、霧の中で思い出たちが段々と石のような灰色に変わっていく。
次から次へと消えてしまう思い出を前に、私はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
私の足元にも、蒼い霧が迫っていた。
これが夢だというのも忘れて、心から恐怖を感じた。
あの霧に飲み込まれてはいけない。
浩之ちゃんへの愛さえも、きっと石にされてしまう。
理由はよくわからないけど、そんな気がして私は霧から逃れるように走り出した。
息が上がっても、裸足の足が傷だらけになっても、走りつづけた。
霧は音もなく私を追いかけてくる。
もう後ろを振り返る勇気もなかった。
それでも、すぐ後ろにまで霧が迫っているのは恐ろしいぐらいに感じていた。
どれぐらい走ったのだろうか。
「あっ…」
息が切れてよろめいた瞬間、足が木の根にかかって私は転んでしまった。
痛みより先に襲ってきたのは、諦めにも似た感情だった。
だめかな…
もう、浩之ちゃんともダメなのかな…
流す涙さえもなかった。
どんな前向きな意思もなくなってしまっていた。
私はただ目を閉じて、その時を待った。

次の瞬間、私は強い力で誰かに抱きかかえられていた。
そして、私を抱えたまま走り出したのがわかった。
この優しい腕は…目を閉じたままでもわかる。
私にとって、絶対に間違えるはずのないもの。
浩之ちゃんしかいない。
そう思った瞬間、猛烈な恐怖感とそれ以上の安心感がどっとこみ上げてきた。
そして、抱きかかえられながら私は浩之ちゃんの腕にしがみついていた。
必死になって私は握る手に力をこめた。
もう離れない。
離れたくない。
それしか考えられなかった。
ほんの少し眼を開けると、私を抱きかかえて走る浩之ちゃんの右手も、茨で傷だらけになっていた。
傷だらけになっても、それでもスピードは全然落ちない。
私はいつしか大きな声で叫んでいた。
「浩之ちゃん、浩之ちゃん…」
どこまでも、浩之ちゃんは私を抱えたまま走り続けた。
そして、いつしか光が私たちを包み込んで…

「…あかり。おい、あかり」
うっすらと視界が明るくなってくる。
蛍光灯の光が眼にしみて、すぐには眼をあけられなかった。
眩しさをこらえながら少しずつ瞼を開くと、そこには私を見つめている顔があった。
「俺の名前寝言で何度も呼んでるから、どんな夢見てるのかと思ったぜ」
そう言って苦笑いしているのは、紛れもなく私の心から待ち望んでいた人だった。
「浩之ちゃん…」
それだけ言うのが精一杯だった。
これまでこらえていた日々の寂しさ。
朝目覚めたときに隣に誰もいない悲しさ。
ようやく浩之ちゃんに会えた嬉しさ。
こうして私を見つめていてくれる浩之ちゃんへの愛しさ。
全てが入り混じって、もう自分でも何がなんだかわからなかった。
私は、夢の中と同じように浩之ちゃんの腕に力一杯しがみついて、今度は本当に泣き出すしかできなかった。
泣くことでしか感情表現ができない赤ん坊のように、私は大声で泣いていた。
「あかり…」
突然泣き出した私に、戸惑ったような声の浩之ちゃん。
私の涙は堰を切ったように流れ続け、浩之ちゃんのYシャツを濡らし続けた。
それでも、浩之ちゃんは私を抱きしめて離そうとしなかった。
私が泣くほどに、抱きしめられる腕に力がこもってくるような気がした。
「…ごめんな」
浩之ちゃんの声が、少しかすれていた。
その言葉は私の涙を止めるどころか、逆に加速させていた。
イヤイヤをするでもなく、うなずくでもなく、それでも私は泣き続けた。

…一体どれぐらいの時間泣きつづけていたのだろうか。
ようやく私が泣き止んだときには、浩之ちゃんのYシャツが透けて見えるぐらいに濡れてしまっていた。
そっと顔を上げて、もう一度浩之ちゃんを見つめた。
やっぱり、このところの疲れの色は隠せないみたいだった。
少し頬の肉が落ちてしまったのかもしれない。
よし、明日は浩之ちゃんの好きなもの腕によりをかけてたくさんつくってあげよう。
何を作ってあげたら一番喜んでくれるかな?
そんなことを考えると、自然と口元が緩んでくる。
それに、さっきまでの熱もどこかに飛んでいってしまったような気分だった。
そして、自分が浩之ちゃんのことを考えるのが嬉しくてならないことに改めて気がつく。
「…まったく、人の顔見て何ニヤニヤしてるんだよ」
そう言いながらも私に笑顔を向けてくれる浩之ちゃん。
そういえば、大事なセリフを忘れていた。
「…おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
そう言って私たちは、本当に久しぶりのキスを交わした。
今度は嬉しさでまた涙が出てきそうだったけど、今度はぐっとこらえることができた。
しばらくして、さすがに外で食事を済ませてきたという浩之ちゃんもすぐにベッドに入った。
「寒くないか?」
そっと私に布団をかけてくれるその手に、赤い糸くずのようなものが見えた。
それは、幾筋にも走る切り傷のようだった。
「あれ?浩之ちゃんその手の傷…。もしかして私の爪で?」
「ああ、大したことねーよ。ちょっと舐めときゃすぐに直るって」
「ううん、そうじゃなくって…」
夢の中で浩之ちゃんが私を引っ張っていってくれたときの傷。
それは、私がつけた傷。
そっとその傷に唇を這わせながら、私はまた少しずつ涙がこぼれてくるのを止められなかった。
浩之ちゃんは、私の頭を優しくなでていてくれる。
「ようやく休みが取れたよ。しばらくは一緒にいてやれるから、今はゆっくり眠れよ」
そして、私は暖かい腕に包まれて再び眠りに落ちていった。
今度は良い夢が見られることを確信しながら。

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