こらむというなのだぶん。


不安

「よくやるよなあ」
仕事を辞めて勉強を始めた、と伝えた時の、親友Tのセリフだ。
呆れたような、けれどどこか羨ましそうな表情をしながら、Tはそう言った。
Tは私とは逆に、大学院の修士課程を終了してから会社員になっていた。
最初は進学を考えていたTだったが、研究室の指導教官とどうにも折り合いが悪く、
あまりの居心地の悪さに博士課程への進学を断念し、修士2年の1月から就職活動を始め、
その年の4月からは研究していた分野とは畑違いの会社で働きだしたという変り種だ。
それでも今の勤め先には割と満足しているようで、就職という選択に後悔はないという。
そんなTにしてみれば、「何を好き好んで今更…」と言いたくなるのも無理はない。
その一方で、指導教官との折り合いが悪くなければ進学していた可能性もあるTだからこそ、
これから勉強を始める私が羨ましく見えたのだろう。
同じ話を別の友人Aに話したところ、帰ってきたのはこんな言葉だった。
「いいよなあ、お前は好きなことやれて」
AもTと同様に羨ましそうな表情を見せた。
だが、Aの表情はTが見せたような表情ではなかった。
何かが、違っていた。
Tほど数奇な経緯をたどってはいないが、Aもすでに社会に出て働いている。
しかし同じ社会人でありながら、TとAの反応はどこか異なっていた。
どこが違うのかなかなかわからなかったが、ある時ふとこんなことを思いついた。
それは、2人が羨ましいと思ったものが違っていたからだ、と。
当人に確かめたわけではないからあくまでも私の推測だが。
多分Aが感じていた羨ましさの対象は私の「自由さ」だったのだろう。
つまり、Aが仕事をしている時に私は仕事をしていない、というただ1点において、Aは私を羨まし
いと思ったのだろう。
社会に出た人間が学生に抱く意識というのは多分こんなものだ。
私も会社に勤めている頃は、まだ学生をやっている友人や後輩たちを羨ましく思ったものだ。
しかし、会社を辞めていざ勉強に専念しようと思うと、その生活が以前感じていた羨ましさとは
かけ離れたところにあることに嫌でも気がつかされる。
社会に出るまでのモラトリアムとしての大学生の立場は、すでに失われているのだ。
現実に存在するのは、先の見えない研究対象と、それと同じくらいお先真っ暗な将来の展望だけ。
「今時会社だって先が見えないじゃないか」という反論もありそうだが、今現在働いて稼いでいる
というのはかなり大きい。
現実が安定しているから、それを失うかもしれない将来に不安を感じる、というのが社会人の意識。
現実も安定してなくて、しかも先の全く見えない将来に不安を感じる、というのが私の意識。
社会人になる前に大学院に進んでいたTには、その不安が理解できていたのだろう。
そしてそれでも、自分の望む研究ができる(かもしれない)私を羨ましいと思ったのだろう。
今思えば、あの時Tはこうも言っていたのだ。
「お前、院出てどうすんの?」
「うーん、できればそのまま大学に残れれば良いけど。まあ、ダメなら高校の先生にでもなるかね」
「そこまで覚悟ができてるんなら、いいんじゃねえの?」
そういう言い方で、Tは私の前途を祝福してくれたのだ。
それを覚悟と呼ぶかどうかは別として。
学生時代、恩師から「君は極楽トンボだねえ」と言われていた私なのだから。
index