そんな馬鹿な?と思うだろうか?いや、そう思ったあなたは正しい。他人の所有する木を、枯れ木と言えども勝手に崩し、クワガタの生息環境を破壊し、取れた虫を根こそぎ持ち帰る。そんな行為が悪でないと考えられるとしたらそれはかなり変だ。

ところが、である。タカさんもこれは悪いと知りながらやめられない、と告白している通り、初めのうちはかなり中毒性の高い楽しいものなのだ。「悪いと知っていながらする」のは抑制のきかない馬鹿ガキであり、許されるものではない。そこで普通の大人であれば、「煙幕よりは罪が軽い」とか「こんな利点もあるのだから」とかなんとか屁理屈をこねて行うしかなくなる。

そこでまず例えば煙幕を使った成虫採集と比較してみたりするわけだが、これはもうタカさんが全て指摘、比較、論証した通り、間違いなく煙幕採集の方が悪そうだ。しかし酢酸エチルを使った場合と比較するとどうなるのだろう???うーむよくわからなくなったからとりあえず話題を変えよう。

次に「そうは言ってもこうして採集していくうちにこれらを残したいという動機も生まれてくるわけだし、生息環境に関する知識も増す。最後には成虫を増やして放虫したいと思っている。」という利点の話だ。私も全く賛成だ。実際私も朽ち木割の体験がなかったら、クワガタの幼虫がどんな木を好み、朽ち木がゴミ扱いされるからこそ都会でクワガタが減っているという問題認識も生じ得なかったであろう事は間違いない。採集の楽しみが無ければそもそもこんなものを残したいという動機が失われ、その方がマイナスに違いないのだ。それに知識を得た者達が虫を増やし、放虫すれば十分に元を取ってあまりあるはず。しかし放虫してもそれらが生息すべき朽ち木を皆破壊してしまっていては意味がないのでは???うーむよくわからなくなったからとりあえずまた話題を変えよう。

ってな調子で話題を変え続けても終わらないのでいい加減本当に重要な事を書くと、これは他のほとんど全ての問題同様、すべからく定量問題だという事なのである。この世に無限のクヌギが生えていて、少々の人間が朽ち木を削っている限り全く何の問題も生じようがない。当たり前だ。クヌギの木がどんどん少なくなっているのに朽ち木割り馬鹿だけが一方的に増えれば問題になる。そういう事なのだ。(尤もこの「問題」という言葉自体問題があって、ある意味ではどうでもいい事この上ないのであるが今回はその点については割愛する)。

そこで私が真っ先に考えるのは一体山梨に何本のクヌギが生えているのか、というような事だ。世の中の公害問題、自然保護問題、超常現象、経済、政治なんやらかんやらは「自分で定量的に考える」習慣を常につけておく事をお勧めする。その場合、精密な数値など全く必要ない。大雑把に言って桁があってりゃいいじゃん、というような感覚だ。そもそも「山梨」という言葉自体が相当いい加減であるが、一向にかまわない。なんとなくアノヘンの朽ち木割りをする地帯の事だ。これがなんとなく合計縦横10km分の森として、雰囲気からあの辺のクヌギは10m四方に1本位はあって、、、、とするとつまりもう100万本というすごい数字になる。実際にはもっとあるような気がするが、多い分には構わない。10km四方の森や10m四方に1本のクヌギが過剰評価だというなら、何も山梨に限らない周辺としてしまえば簡単に達成可能な数値だし、いずれにしてもそうそう桁違いになるわけはない。それでも足りなきゃサクラでもエノキでも広葉樹を全部入れる事にすれば十分足りるのだ。

ということでここにターゲットとなるクヌギが100万本生えているとする。するとなんと樹齢100年の超大木が毎年1万本枯れる計算になる。定常モデルを考えると、毎年1万本の木が生えて1万本の大木が枯れて行くって事なのだ(細かい事を言い出すと全然違うのだが問題の本質から言うとこの際このモデルで問題無い)。実際、「そこに森がある限り」どうせ木は毎年枯れるのだし、枯れ木が崩しつくされて無くなってしまう事など実際の感覚からいって「ありえない」のである。私はもう10回以上山梨に朽ち木崩しに行っているが(ワイルド1ペアゲット以降はほとんど行っていないが)、崩したい木が全く無いという事はない。第一本当にないならもう全くワイルド成虫などいないという事になるが、実際ワイルドは乱獲にも拘わらず、驚くべき事にまだまだ他の地域に比べて遥かに沢山見つかるのである。

ここらで一気に大雑把な方向に話を持っていくが、山梨周辺のクワガタが減っているのも基本的にはゴルフ場や住宅などの開発によって森がなくなっているという事が主たる原因である事は間違いないのだ。要するに虫などというものはいくら採集したって減るものではない(あるいは減った状態で安定するだけで、絶滅するわけではない)。ゴキブリはいくら「採集」したところで一向に減らない。虫は繁殖が商売なのであり、クワガタとて例外ではない。ただ生息環境が根こそぎ失われてしまえばこの限りではない。つまり森を根こそぎ切ってしまえば、「100本木が枯れて(しかも削られて!)100本木が生える」というような定常状態が失われる事を意味する。朽ち木割りは大局的に見てこの定常状態を乱すものではないのだ(わざわざ枯れ葉剤でも撒いて木を枯れさせてから崩すならともかく)。枯れ木をいくら崩したところで「木はまた枯れる」とヘミングウェイも言っている(嘘)。しかし森を根こそぎ切ってしまえばもう二度と木は生える事も枯れる事もないのだ。この非常に大きな差を無視した議論はすべからく無意味である事を断言しよう。

というわけで実際の所私は朽ち木割りが悪であるなどとは全く思っていない。そういう楽しみをそもそも提供できない生き物であればどうせ滅びたって誰も注目なんかしないので心配無いのだ(おーなんという無茶苦茶!)。大体人間が江戸時代に無茶苦茶にクヌギを植えまくるまでは日本にはロクにクワガタなんかいなかったに違いないのだ。また「ゴルフや住宅開発の方が悪い」というような「比較」を極度に嫌う原理主義的な人にしばしば出会って閉口するが、実際「絶対悪」なんてものをこの世に想定する方がどうかしている。そんな事をつきつめていくと人間の存在自体が絶対悪だという所にたどり着いて怪しい宗教に入信するのがオチである。人間の活動のほとんどあらゆる全ては大なり小なり悪である。そしてそれぞれある程度の幸福を各人にもたらし、それぞれ自然に対する負荷、あるいは持続不可能性を持っている。「なるべく継続可能でなるべく大きな満足をもたらす活動を許容していく」という極めて情けない相対主義的な考え方こそが実は重要だという点に誰もが気づいてくれる事を常に願って止まないし、この点朽ち木崩しが落第であるとは到底思えない根拠は前述した通りだ。

まぁそういうわけだから、いい年こいてあんなシンドイ苦行を楽しめる馬鹿垂れは安心してやりたまえ!遠慮はいらない。しかしまぁそこそこゲットして楽しい経験を積んだら自然とその知識を活かして繁殖を志そうと思うようになりますよねぇ?え?ならない?弱ったなぁ。じゃ、そういう場合は朽ち木割りが悪なんじゃなくてあんたが悪党なんだという事にしておこう。メデタシメデタシ