地図模様


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先月号が外産特集だったり、まちかね掲示板では放虫問題の嵐が吹き荒れたりした今日この頃である。世間でもTVや新聞を賑わすようになってきた外産クワガタ(を始めとする昆虫類)の輸入や飼育、その自然保護や環境との関連について考察してみたい。

結論から言うと、外産クワガタの採集だ、密輸だ、放虫の可能性だ、と自然保護や環境破壊を結び付けるのは無理があり、馬鹿げているように思われる。何か全く別の意図を持った不健全な、あるいは純粋に誤った論議であり、どうも何か完全に的外れなニオイがするのである。

なぜか?

まず根本的に「自然保護」、「環境保護」とか「地球に優しい」というような概念を完全に誤って理解している、というのがその始まりである。人間は地球に優しくなんてできるわけがない。これだけ大型の哺乳類が1億もはびこれば他の生物の生息域は圧倒的に抑圧され、迷惑千万な事は全く疑いようのない事実である。それがもう50億を超え、さっぱり止まらないと来ている。人間は大規模に野山を切り開き、自分達だけの為の農地というものを無制限に広げ、森は80%も90%も根こそぎ切り倒し、必然的に大規模な自然破壊を推し進めているのである。実際には人間も自然の一部であり、人間が出す公害から何から全て自然であるという見方もある。何十億年前を見て見れば、当時世界を征服していた嫌気性細菌は、後から現れた「酸素という毒ガス」を大量に地上に溢れさせた植物という異常な生物の繁栄によってあらかた絶滅してしまった。そもそも人間が何もしなくても、というより何もしなければまた数千万年毎に一度はでかいいん石が降ってきて生物などあらかた滅んでしまうのが関の山なのである(私は人間が巨大いん石を大量の核兵器で迎撃するとか、宇宙に移民するなんて思想が大好きである。それでこそ人間が地上に現れて来た意味も少しはあるってもんじゃないだろうか。映画「Deep Impact」見たかな?ああいう意味では私は以前から核兵器の廃絶にさえ反対だ)。

まぁしかし、こう言ってしまうと身も蓋もないというか、完全な虚無主義に陥ってしまう。では、意味のある「自然保護」とか「環境保護」とは何か?ずばり、「人間に都合のよい自然や環境だけをなるべく長くもたせる」事に他ならない。そもそも様々な病原菌や猛獣や飢饉の前に、為すすべもなく人間が死んでいくのが「人間の都合とは関係ない本来の自然」であり、そんなものを目指したいのであれば、あらゆる医療や農業工業産業に反対し、戦争やテロや疫病を流行らせて一刻も早く人間支配による世界を変革するのが良かろう。事実そんなような事を主張していろんな所に爆弾を郵便物で送って捕まったおじさんだってアメリカにいる。私はそんな主義に全く意義を感じないので、結局「人間に都合の良い自然環境だけを長持ちさせる運動」にしか興味がない。ツエツエバエだのハマダラカだのエボラウィルスだのエキノコックスだの天然痘(あ、もう撲滅したのか)だの、様々な有害生物にはできる事ならとりあえず絶滅してもらって一向に構わないし、人間を襲う猛獣やらなんやらのいくつかが滅んでしまってもさほど気にならないし、それで生態系がどうなるとも一向に思わない(いやそりゃ「変わる」んだけどさ)。

もちろん「どんな生き物にも役割があり」式の説教は聞き飽きる程聞いているのだが、私は全然納得できないのだ。人間そのものが例えようもなく強過ぎて世界のバランスをぶち壊してここまで来ているのに今更ベンガルトラやヒグマやワニごときが少々生き残ろうが絶滅しようが大勢に影響があるわけないじゃないか、という事だ。もちろん残るものならそこいらへんには残ってもらっても構わないが要するに些末な事だ。ニホンオオカミが絶滅して日本は住めない程ひどい環境になったんだろうか?鹿が増えすぎた?撃って食えば解決だ。うまいし。猿が増えて土産物屋に被害?皆殺しにしてしまえ!「一つ何かをやると必ずしっぺ返しがあり、際限の無いイタチごっこで対策に追われるはめになる」って?当たり前だ。人間はもう何万年もそうやって後から後から問題を作り出しては対策に追われっぱなしなのだ。今更昔に帰れったって無理なのだ。こうなったら無茶に無理を重ねて徹底的に力づくで問題を解決するつもりになって行ける所まで行くしかないのだ。

つい熱が入り過ぎて脱線してしまった。要するに私はこういう尺度で「自然」とか「環境」を考えているので、「自然をなるべくそのまま」とか「自然はあるだけで偉大だ」みたいな精神論とかとは全く相容れない。第一、どの時点を以って「自然」と言えるのか?日本の例を取っても田んぼや畑みたいな「非自然」の最たるものが大幅に増加したのは江戸時代位だ。それまで優位だったただの自然の雑木林に代わって、畑の肥料としての枝葉を取る為等の目的でクヌギやコナラが人里の回りに大量に「人為的」に植えられ、それまでなら考えられない程のカブトやクワガタが増えた、というのだって実状ではないのか?今では「子供達がザリガニを取る風景」なんてものは微笑ましい「自然との触れ合い」なんて感じでTVに出てくるが、こいつらはほんの50年前だか70年前だかに日本に進入してきて様々な生物を食い尽くしてあっというまに日本にはびこった外国産のギャングである。あと50年も経つと今小魚を食い尽くして問題になっているブラックバスだってどう評価されるかわかったもんじゃない。個人的にはキャッチアンドリリースなんてシャラクサイ事をいうバスフィッシングが嫌いなので、他の小魚を全滅させちゃうようなブラックバスは嫌いで仕方がないが、それでも実はちゃんとバスの入らない細かい川だの水辺だのがある限り、そうそう何でもかんでも絶滅するというもんでもなかろう。

私は「生態系の多様性を保つ」という事はある特定の地域において、できるだけいろんなものが存在している、というイメージだったのだが、匿名希望のKS氏あたりが「様々な地域で様々な多様性が存在する事だ」と指摘してくれたのを見て、おお!なるほどそれもあるな、とは思った。んがしかしである。「様々な生態系」というのはわかり易く言えば、砂漠には砂漠の、広葉樹林には広葉樹林の、多様性という事が主眼であって、同じような日本の雑木林は必然的に同じような種がはびこるのだし、やはりその場所において多種が存在できる、という事は重要なんじゃないだろうか?結局の所、何故多様性が重視されるかと言えば、単純な生態系は環境のちょっとした変化でも全滅してしまうような脆さがある、という点だと思う(もっともいろんなもんがいた方が面白いじゃん、というきわめてふざけた、しかしながら本音ではもっと重要でさえある理由もあると思うが)。

そして現在問題になっているのは、正にこの様々な地域のそれぞれが根こそぎ無くなっているという事態なのである。例えばアマゾンやアジアのある地域が根こそぎ焼かれ、開墾され、多分我々が気にもしていないようなダニやらクソムシやらは誰にも知られる事なくどんどん絶滅している。では例えばあるコーカサスオオカブトの多産地が根こそぎ無くなるという事態があった場合、それが日本のどこかに移され(実際にはあいつらは日本にははびこれないとは思うが)、繁栄した場合、それが破壊と見なされるべきなのか?それともノアの箱船と見なされるべきなのか?私は断言してしまうが、ああいったそこそこ「カッコいい!」と思ってくれるファンがいるような生き物は、50年もたてばザリガニと同じ、結局「少年時代の懐かしいコーカサスオオカブト採集の思い出」ってな事になるに違いないと思うのだ。そしてこの場合「人間に都合の良い自然や環境だけをなるべく長くもたせる」という私の自然保護の定義から言うと完全に合格になってしまうのである!

さてようやく核心の「外産昆虫の輸入、放虫」の問題に近づいて来た。またもやどんでん返しな事を言ってしまうが私はこうした積極的な放虫に賛成しているわけでは全くない。ただ、「飼うなら厳重に管理し、放虫は厳禁」という姿勢に納得できないのだ。だって、庶民が飼い始めれば必ずや逃がしてしまうようなズボラな馬鹿(俺?)が出てくるし、その逃げたものも例え少数であれ、昆虫の繁殖力を以ってすれば「もし環境がそれの繁殖に合っていれば繁殖してしまう」事は間違いないのだし、逆にいくら大量に放虫した所で環境がそれに合っていなければ結局絶滅するから意味はない、と思うからだ。ここで問題になるのは次の様な事である。「放虫して増えるというような事態が例えあっても許容できる種であれば(そして飼いたいという些細な○がある限り)解禁すべし。放虫してもどうせ増えない事が明らかであれば解禁すべし(ほとんどの熱帯産はあてはまるだろう)。逆に知人に配るのはかまわないが、放虫するなら禁止などというのは無意味だという事である。というか、それを口実に禁止されては腹立たしいというのが本音だ。絶対に逃げたり増えたりしては困るものは基本的に許可なんかするべきじゃない。それどころかそんなに迷惑なシロモノならばそもそも私の最初の定義、「人間に都合の良い自然」ではないのだから積極的に絶滅を図ってもいい位だ。

さてこうした私の視点による、許可すべき、すべきでない、論を鑑みる時、現行の法の問題点はただひたすら「的外れでトンチンカン」であるという事につきる。現行の法では植物防疫法によって「植物を食う昆虫は禁止」「それ以外は特にお咎め無し」というほとんど驚愕に値するいい加減な法律しかない。この法の趣旨は要するに「植物を食う昆虫は農業に被害を与えるから駄目」と言っているだけで、生態系もへったくれも全然関係無いのだ。そもそも私の定義に従えば農業なんてのは自然破壊の最たるものなのだから(この点に納得しない人というのはいるのだろうか?農作物とは人間に食われる為だけに可食部だけが異常に発達した、人間の庇護無しには即座に絶滅してしまうような奇形生物群、と定義すべき「不自然物」の代表である)そんなものを対象に自然だの環境だのを論じても始まらない事は1000%位明らかである。

であるからして、「自然保護」だの「環境保護」だの言うならやはりあくまで「環境保護の法律」という視点からその影響度を考えて規制しなければならない。その場合、私が個人的に唱えるような「こんなもん、はびこったって別にいいじゃないか」という趣味的な考え方に反して、そこの生態系には絶対によそのものを持ち込まないという事になるかも知れない(欧米では結構こういう精神の法律もある)。もう草食も肉食もへったくれもなく全部禁止という事だ。一方、あくまで農業保護という意味であるならば、ほとんど増えそうもない、カッコよくて人気のある大型熱帯甲虫なんか禁止しているのは馬鹿げているとしか思えない。そこらのスイカ位かじるかも知れないが、そんなに増えるもんじゃないし、せいぜいこれまでスイカをかじりに来ていたカブトかノコの一部の代わりになる位だろう。しかもスイカより高く売れるかも知れないのだ。農業被害を言うなら真っ先に日本猿やイノシシ、シカの駆除でもしたらどうだと思う。

こうしてもしいろんなもんが解禁になり、逃げたり、放虫されたりすると、特にヒラタだのミヤマだのノコだのの外産亜種みたいなもんがはびこるという事態は避け得ないであろう。既に山梨や福島でサキシマヒラタだのスジブトヒラタが採れただのいう報告もある。そしてこれが問題か?というのが最大のポイントだ。匿名希望のKS氏あたりには再三「使うな」と注意されてしまった言葉だが、私としては本当に悪気なく(むしろ愛着を込めて)使っているので許して欲しいのだが、やはりこれで困るのは「亜種マニア」だけであると思われるのだ。そもそもオオクワ、ノコギリ、カブトなんてーものは全国に大量に流通し、もはや山地別の純粋さなんてものは意味をなさなくなって来ていると思う。これがミヤマやヒラタに拡大した所でおそらくはほとんどの人間はその変化にさえ全く気がつかないだろうし、それによって生態系が大きく壊れて多様性が失われるとは思われ難いのだ。

大きな×に比べてこれは小さな×だから見逃せというのはよくない論理だという批判をしばしば受けるのだが、これには同意できない。世の中は×や○の大きさ以外に計る尺度などない。どんな×も許さないという姿勢を原理主義といい、最後は爆弾テロか集団自殺に終わる事が広く知られている。大きさの評価に異論があるならともかく、基本的に客観的な×が小さいという合意が得られたならば話は別なのだ。小さな×に対してどれだけの○(利点)があるのかが問題で、外産のカッコイイでかい虫を飼ってみたいというささやかな○に対して、少々生態系が変わる「かも知れない」という小さい×、しかもそもそもよっぽど亜種に興味のある人でなければその変化にさえおそらく気がつく事もないであろう、というのが外産昆虫輸入問題の×と○であると思う。

さてここで掲示板において意見が分かれたものの一つは、「放虫はとんでもないが、個人が飼ったり友人に配るのは(例え逃げる危険があっても)許せる」という意見と「どちらも同じような結果に結びつくのだから、それが最終的に危険だというなら根本的に飼育も輸入も禁止、その結果の可能性についてせいぜいザリガニと同じ運命と思えば細細した事を言わずに許可」という点である。私は後者を強く主張しているのだが、この点については結論を出したわけではないので、現在積極的に放虫という行為は奨励していない。そもそもあんまり意味がないと思う根拠については前に述べた。

もう一つの点は、これが本質的であるが、こうして亜種レベルの雑交がどれだけのインパクトを持つか、という事に対する評価の違いである。言うまでもなく、これが「些細である」という事になれば、私の「ザリガニと同じ論」で良い事になるわけである。もちろん「外産輸入、飼育」に何のメリットもないのであればそれぞれ固有の環境にいくらでも多様性を残した方が望ましく思えるのは当たり前だ。ここでは大胆に、「スジブトやサキシマが全国にはびこってしまった」というような状況を仮定してみても良いし、「オオクワが全国的に混ざってしまって特徴がなくなる」というような事でも良い。こうした事態のデメリットは(とりあえず亜種マニアの嘆きは置いといて)、考えられる限り非常に小さい。例えば犬や猫の品種というのは、限りなくインブリードして品種を固定してみたり、それらがまた雑種となって戻ったりしている事を知っているが、これで犬が絶滅の危機にあるのだろうか?第一ある側面では「オオクワのインブリードに弊害はないのか?」という質問が掲示板を賑わしている一方で、「混ぜてしまう事による生態系への影響」という事が語られるのである。

この点については私はどうもさっぱり理解できない。ある種を丈夫にする為には「できるだけ混ぜてしまった方が強くなり、種の保全にとってもよろしい」と考えたって良さそうである。犬だって雑種が強いし、それで何の問題もないように思われる。ただ掲示板で可能性として指摘された「南方に適合した種を北方に撒いて混ぜてしまう事により、寒さに弱い雑種ができて全部滅んでしまう」という面白い理論が興味深かったが、これはやはりオオクワの生息数が致命的に少ないというようなケースを除けば、「一旦不利な形質を持ったものがはびこってから全滅する」という想定になり、あまり論理的とは思えない。実際的には生存に不利な形質を持ったものなら、結局淘汰されてそれで終わりとなると考える方が自然だろう。ヒラタにしてもオオクワにしてもそこまで危機的に数が減っているとは到底思えないし、またそこまで減っているなら放虫、雑交以前の問題として、もっと環境を整えてやらなければそもそも絶滅への進行は止まらないだろう。そして私流に言うならば、もうそこまで絶滅が進んだならばそいつらがあと生き残ろうが、滅びようが些末な事である。

最後になるが、私は「生態系の破壊」という言葉の乱用に非常に神経質になっている。なぜならそれは本当に致命的な破壊を伴うものも、外産飼育の様な高々自分達に興味のない少数派の趣味を攻撃しているに過ぎない単なる弱い者いじめも一緒くたにしてしまい、本当になすべき事柄を隠蔽し、スケープゴートを作って満足するだけの行為に他ならないからである。本当に生態系を破壊するような行為につながるなら「マナー」等というものに任せず、厳重に法で規制すべき問題である。逆に人間生活は必ず生態系に様々な(相当に重大な)インパクトを与えている事は避け難いのであるからして、「クワガタが減ってしまう」(というマニアが自分で自分の首を絞めるような行為、朽ち木割り、煙幕採集等)みたいな、生態系の変化、変異はその他諸々の人間の破壊行為と比較した上で「ほどほどにしときなさいよ」という「マナーの問題」として扱うべきだと考えるからである。

様々な点について異論もあるだろうし、その事を排除するものでは全くない。第一、様々な点において私自身まだ迷いがある。今後も掲示板等を通し、活発な議論を進め、自分の気がついていない事柄に触れたいと思っている。
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