概略(1998年9月現在)

40才会社員、妻35才、男の子3人10、8、6、才と三鷹に暮らす。得意分野は英独仏等の外国語、化学、生物、古いコンピュータ、漫画、クワガタ、昆虫全般、鉱物、化石、日本酒、海釣り、冗談、日曜大工
後はよっぽどヒマでもない限り読まなくていいです。

1957年夏頃

この世に生を受ける。以後9ヶ月ちょっと胎児として暮らす。

1958年5月10日

胎児暮らしにもすっかり飽きてしまったので出所。オギャーとかなんとかわめいた様な気がする。右足にへその緒がからまっており、あぶなく切断される所だった。今でも足首がはっきりへこんでいるが結局障害は何もなし。

1964年頃

文字やら数字やら滅多やたらに得意で天才児の名を欲しいままにする。まわりのガキが全部アホに思える。自分は世界で何番目に頭がいいのかを真剣に知りたいと思う(まるで馬鹿だ)。

小学校低学年

学校の勉強などしなくてもほとんどできた。私生活では蝶に夢中で沢山採る。標本なんかも作る。虫全般にとても詳しい。そのうち飽きてしまった。引っ込み思案で友達作りは苦手。虫採りのおかげで野山を走ると誰にも負けないが運動会等で平地で競争すると誰にも勝てない。男と遊ぶのは野蛮で嫌いなので女の子とばかり遊ぶ。

小学校高学年

相変わらず学校の勉強は簡単過ぎてどーにもならない。良い友達ができてしばらくクワガタやカブトムシにはまる。やがて飽きてしまう。切手や鉱物や化石や貝殻やなんやらいろいろ集めたりしたが、やがて飽きてしまう。なんにも捨てられない性格なので今でもほとんど持っている。

中学校

勉強が得意過ぎてどーにもならない。他の小学校の奴らの刺激を受け、引っ込み思案では人生真っ暗だという思いを強くし、やけくそで学級委員やら学年委員やらにどんどん立候補し、しまいには生徒会長になってしまう。勉強は鼻歌まじりでも楽勝でトップなので余裕でコーラスだのテニスだの体操(おかげで腹のでたおっさんになった今でもまだバク転ができたりする)だのマラソンだのなんでもやってしまうスーパーマンを演じる。女の子にもモテモテ(死語)だが、そんなヤな奴は大抵本命とはうまくいかない。

滅茶苦茶にはまった趣味の化学実験で毎週薬局に薬品を注文し自宅で実験三昧の日々、将来は偉大な科学者間違いなしと誰もが思う。中2位で飽きてしまった。今でも戸棚の奥に化学薬品がいっぱいあったり周期律表が頭の中にあったりする。クラシックギターにめちゃめちゃはまり、ほとんどプロ級となる。やがて飽きる。中2では文学に目覚め、やたらと文学作品を読む。文庫本が100も200も並ぶ。すっかり飽きてしまった。

中3では英語会話にはまる。英語のLとRの発音が違うものだとはそれまで知らなかったが、中学終わる頃にはなんとか英会話もできるまでに上達。受験勉強も楽しくてやめられなくなる。気がつくと3時位までやっていてしょうがないから寝る。学校では眠いので寝る。そのうち英語や因数分解の夢まで見るようになった。ついでにコーラスで第九までやり、それがきっかけでドイツ語まで始める。偏差値は70は楽にあったので鼻歌まじりであの上祐さんも行っていた早稲田高等学院に入る。

高校

もう受験もないし、ヒマなので思い切り語学にはまる。英独仏西中露はテレビとラジオの番組を全部見る、聞く。高等学院はレベルが高かったがそれでもクラスのトップ級で大隈奨学金を貰って1年の時の授業料を免除してもらう。貧乏ならまかせろ。英語とバドミントンのクラブに入っていた。英語ではディベートのインターハイなんかがあって、「特別養子制度の是非について」だの「安楽死」だの「捕鯨問題」だの「日本国憲法改正」だのをへっちゃらで英語で議論するまでになる。夏の合宿なんかあると毎日100個も単語を覚える。ドイツ語もだんだん不自由しなくなってきた。

2年の時アメリカの高校に留学。1年間ぼーっとして帰る。行った時点で英語に不自由はなかったが、「日本国憲法」どころか「北京に帰ったらベトナム語で手紙をくれ、日本には電気はあるのか?」みたいな連中が多くてあんまり知的な会話がない。山の中なので日中の話相手はでかい犬と隣の牛位だった。しょうがないから学校でスペイン語くらいは真面目にやってなんとか話せる位にはなった。帰国してすぐ英検1級を受ける。自信満々。で落ちる。英語は飽きてきたのでそれから1年くらい死ぬほどドイツ語をやる。すっかり英語を忘れたかと思ったが半年後にもう一回英検1級を受ける。駄目だこりゃと思ったが受かる。高校3年19歳の夏だ(留学で2年がダブル)。3年はドイツ語三昧。渋谷の欧日協会に通い、ドイツ語の演劇なんかでとてつもなく忙しい。六本木あたりの大使館関係の金髪のおねーさんとかとよく遊ぶ。夏には西ドイツ政府招待留学とかいうのに合格して1ヶ月大名旅行をしてくる。毎年日本から3人だけ高校生が行けるのだがほとんど知られていない。

忙しい合間に家庭教師だの羽田で荷物担ぎだのNHKの英語の仕事だのして貯めた金でアメリカの彼女に会いに行く。大陸横断バスは3日かかり、疲れた。ぼやぼやしているうちに早大政経に入学。

大学

相変わらず語学三昧。ロシア語、フランス語等が中心。ついでに時々学校さぼっては京都20日間ドイツ人やらアメリカ人やらの旅行者ご一行のガイド、ドイツ語の通訳、果ては欧米への学生ツアーの添乗員までやる。添乗員まで学生だったとは気がつくめぇ。ヘマもしたがなんとか4回位こなす。その合間にドイツ語のスピーチコンテスト優勝だの、AIESEC企業研修生交換だのでタダ同然で2回程ドイツに行き、3ヶ月程ヨーロッパを猿岩石する。なんとなく4年になってしまったが女に振られたショックで就職する気出ず。週に3回も徹マンして麻雀放浪記みたいな事してる間にどういう風の吹き回しかパソコンにはまる。5年になってしまったのでそろそろ就職を考える。パソコンにはまってたのでアスキーとかいう当時まだ怪しげな(今でもか)会社に電話する。

「あのーアルバイト募集見たんですけど、私はベーシックと機械語ができてなんやかやで。」

(そういう馬鹿が良く電話してくんだよなという雰囲気で)応対に出たのは去年やめてしまった話題のM氏だった。

「あーとりあえず一応履歴書送っといて下さい、それから考えますので。なんか資格とかありますか?」

「一応英検1級持ってますけど。」

「明日すぐ来て下さい。」



当時パソコンと英語のわかる人というのは皆無に等しく、早速月刊アスキーの海外ニュースの翻訳係りとなる。半年程バイトし、1982年10月、なんとなく正社員となる。大学の授業を月曜の午前にかためといたので月曜だけ午後出の変な社員のまま、結局3月に卒業。変な社員なのはその後も変わってないが。

社会人

雑誌か書籍に行きたかったが最初はテクライトというOEMマニュアルの部署だった。入るといきなり「はい、今度こういうマニュアル作るから君編集長ね」。なんだか無茶苦茶だがどうにかなった。ライター兼編集兼デザイナー兼雑用で、サンプルプログラム書きから校正、写植の切り張り、印刷所に使いっ走りまでやる。N社のPCナンタラというハンドヘルドの走りの機種のBASICマニュアルだ。こんな調子で数年間いろいろなマニュアルを作る。

そのうちアスキーが社運を賭けて提唱した、MSXというホームパソコンのマニュアルを手がけ、最初は「今更8ビットかよー」と不満たらたらだったが、結局はまる。面白すぎてMSXオタクとなり、本業はほったらかしてふらふらして年中MSXマガジン編集部なんぞに遊びに行く。ムックやら特集記事やらなんやらかんやら本作りを沢山手伝う。そのうちすっかりMSX中毒ということでMSX推進部方面に移動となる。MSX本やらイベントやらタブロイド版のMSX PRESSなんかも手伝う。

更にMSXネットというパソコン通信でMSX研究所所長とかいうものになり、MSX布教活動を行い、ついでにそこで嫁も調達する。女の子が欲しいなぁーと思っていたら立て続けに男が3人生まれる。子供の為にとかいってクワガタなんか捕って来て飼ってたら昔を思い出して自分がはまる。現在ではすっかり昆虫マニアのクワガタオタク。ハイテクと外国語に堪能なカッコいい旦那を捕まえたつもりだった妻には、ただのムシオタクだった事がばれ、「結婚詐欺よ」と非難されている。

残念な事にMSXは社の方針としてそろそろ終わりとなる。なんとなく気が抜けてぼーっとしているスキに英語力を買われて半導体事業部のプロジェクト開発部だのシリコンソフトウェアだので文書作成、翻訳等を続ける。そのうち米国半導体の代理店をやっている部署で英語処理等の需要が甚だしいとの事でさらわれる。もういい加減英語なんか真面目にやってないなーと思うのだが会社でお金くれるってーから久々にTOEICなんか受けると920。おーなんだまだ案外いけるじゃないか。

そのうち半導体事業もなんだか景気が悪いのでインターネット関連部署に移動となり、相変わらず英語と縁が切れない。インターネットクワガタ友達の松田君だの谷田君だののサイトも英語化を手伝う。人のうちばかり英語で手伝っているうちに自分のページはすっかり紺屋の白袴状態で日本語オンリー(笑)。

ちなみにcoelacanthはシーラカンスと読み、このcoをシーと読む馬鹿馬鹿しさに惚れてつけた、アスキーネットでのハンドル名だ。アスキーネットが消滅しちゃうのでインターネットに移住したというわけだ。更にMSX時代はBLAZERというハンドルで、これは当時乗っていたハンググライダーだ。今は体重が増えててんで空飛べなくなったので将来はまたでかいのを買って乗るかなとはちょっとだけ思っている。
というのが去年(1997年)に載せた部分だったが若干身の上が変わったので、前回8月末位にindexに書いておいたのを追加しておこう(ズボラだ)。
相変わらず何か書く事があるとは、まちかね掲示板に書いたりクワ馬鹿雑誌に投稿したりで自分の家はすっかり閑古鳥が鳴いている始末である。それにも拘わらず、アクセスがのんびりと伸びてはや6000を超えてしまった。またもや忙しい中、クワ馬鹿の締め切りに追われているのでこちらには何も書けないが、一応クワ世界以外の人にはまだあまり報告していない個人的環境変化だけは書いておく事にした。

16年間勤めたアスキーも、あちらこちら事業を縮小する事になってしまい、私のいたインターネットで英語ニュースなんて部署も当面儲かりそうもないという事で廃止となったのが4月。しばらく窓際族を楽しんでいたのだが、あまり面白そうな職を継続できるようには思えず、結局提示された行き先も全く不似合いな感じの所だったのでいっそ退社する事にしたのが7月。まちかね掲示板に書いて皆の度肝を抜いた。有給消化35日を使い、退社日の8月28日まで社会人になって最長の夏休みを楽しんだ。主に虫の世話をし、たまには子供の面倒も見た(笑)。

多少の蓄えや退職金もある事だし、このままぼーっとしばらく遊んでいようかと思ったのだが、それでは回りも心配するし、まぁ面白そうな職でもあれば、と40才にもなってこの厳しい世の中をなめきった就職活動は、、、ゲーム会社のHPで見かけたトランスレータ募集。英検1級以上でゲームやなんやに詳しくて、、、ってそれ俺じゃん!って事で書式自由という応募書類をHTMLで書いてe-mailした。さすがに「郵送して下さい」というのでそのままプリントアウトして郵送した。ズボラだ。

面接試験だというので8月4日、目黒の本社を訪れる。1時間程和文英訳をやってから、面接をしてもらう。まぁまぁなんとか良かったような気はした。1週間程して電話があり、会社が夏休みに入ってしまったので結果が20日以降になってしまうがよろしいでしょうか?と聞くのだけれど「駄目ですと私が言っても始まりませんものねぇ。はい。わかりました。」等と答えて事務の女性を笑わしてしまった。

なんだかあんまり反応が良くなかったのか?と思っていたのだが、結局20日を待たずメールが別の方から来た。すぐに条件等をつめて話をしたいとの事。おお、これはなんだか目があったのか?19日にまた訪れ、話をし、あっさり決まってしまった。数百人はいる会社のはずだがなんと私は上から5番目の年寄りだという、、、で、9月1日入社で、即アメリカ出張して欲しいって、、、なんだかものすごい会社だ。実はパスポートが切れていたので取り直してからすぐって事にはなったが。うーむ元気があってよろしい。

そういうわけで、明日1998年9月1日より株式会社スクウェアの社員って事になりましたです。今後ともよろしく。さらにいきなり出張して1週間弱いない事になりそうです。またお会いしましょう。


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