ワークショップに興味を持ってくださったかたでも、おそらく多くのかたにとっては、『ミステリヤ・ブッフ』や、マヤコフスキー(作家です)という名前は、耳新しいものではないでしょうか。どうぞ、あまりロシアの戯曲を読んだことのないかたも安心してください。『ミステリヤ・ブッフ』はまったく有名な戯曲ではありません。この戯曲を読むには、よほど大きな図書館か専門書店へ行くしかありません。ネット上で古本を探しても手に入るとは限らないほど面倒な代物です。現代日本では、ほぼ、誰にも知られてないと言っても言い過ぎではないでしょう。にもかかわらず、今回のワークショップでは、この戯曲を原作品としてどんな面白いことができるか、取り組んでみようとしています。なぜなら、この戯曲には、想像と創造の刺激があふれているからです。みなさんに具体的な興味を持っていただくために、少し戯曲の背景をお話しさせてください。もしかすると長くなるかもしれませんので、部分的にでも目を通していただけたら幸いです。とても奇妙なこの戯曲、『ミステリヤ・ブッフ』を使って楽しむために。
あえてこのタイトルを訳せば、「神聖なる道化劇」とでも言えるでしょうか。「ミステリヤ」は、中世以来、キリスト教会で演じられた奇蹟劇を指し、「ブッフ」は、それとはちょうど真逆の、道化、または道化が演じる滑稽な芝居・コミックを意味します。タイトルとなったこの二語の組み合わせには、少々不思議な語感があります。日本語のカタカナ言葉としても、どことなくいたずらっぽい感じがしませんか? どうやら純粋なロシア語ではないらしく、おそらくはフランス語に源流がありそうな−それはちょうどロシアにとって、「芸術」や「革命」がフランスから押し寄せてきたことを象徴しているかのような題名です。20世紀はじめ、ロシア革命1周年記念日に、空前絶後の盛り上がりを見せた芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の旗手、革命詩人マヤコフスキーと演出家メイエルホリドによって上演されたのが、『ミステリヤ・ブッフ』(1918年)です。革命以前の芸術は、極端に言えば、貴族や一部の金持ちを楽しませるためのものでしたが、ついに市民が、ほかのさまざまな権利の獲得とともに、芸術表現を自分たちの手に入れます。『ミステリヤ・ブッフ』は、その熱狂の渦中に開花した祝祭劇でした。
大洪水に沈んでいく世界。 7組14人のキレイな人びと(ブルジョア)と、 7組14人のキタナイ人びと(プロレタリア)が、方舟に乗って、宇宙へ、天国へ、地獄へ、廃墟へ、 そして約束の地へ。 じつは役名だけで、50を超えます。ですが、マヤコフスキーが書く戯曲はとても鷹揚というか、アバウトで、版を重ねるごとに登場人物も変わっていくほどです。ただし、奇妙奇天烈な言葉の塊が、ときになんともエネルギッシュに炸裂し、ときに魅惑的に輝きます。それは当時の一般社会に飛び交ったパワフルな言葉たちを使って、マヤコフスキーが魂の詩にしたものだからだろうと思います。
マヤコフスキーは、ロシア未来派(ロシア・アヴァンギャルド)を代表する詩人です。コーカサスの小国、グルジアのバグダジ村で生まれ、この村は後にマヤコフスキー村と改称されます。貴族身分だった林務官の子として生まれたマヤコフスキー(ウラジミールと言うべきですが)は、1906年、父の死後、家族と共にモスクワへ移住します。15歳のとき、マルクス主義文学に傾倒し、ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)に入党。16歳で詩を書きはじめたと言われています。17歳までに逮捕歴3回目。1911年、18歳でモスクワ美術学校に入学。ダヴィド・ブルリュークとともに「未来主義」を宣言した前衛芸術運動を始めます。さまざまな芸術分野に才能を発揮した青年でした。(固有名詞を使って話を進めなければなりませんが、読み流してくださってもまったく問題ありません。続けます。)まだ10代で最初の未来派文集『社会の趣味への平手打』(1912)を作り、それ以降、『ズボンをはいた雲』(1915)、『ウラジミール・イリイチ・レーニン』(1925)などの詩作や、『ミステリヤ・ブッフ』(初演1918/演出メイエルホリド)などの劇作を残します。「ロスタの窓」でのポスターデザイン、映画のシナリオ、俳優、サーカス台本、講演旅行…。多彩な活動をしながらも、「愛の小舟は生活に打ち砕かれ粉々になってしまった」という遺書を残し、1930年4月14日、拳銃自殺します。37歳。自殺の動機については、研究者によってさまざま語られていますが、はっきりとしたことはわかりません。現在、墓はモスクワのノヴォデーヴィッチ(新尼僧院)にあります。
かつてロシアでは、詩人は英雄であり、国家と人民の尊敬を受ける存在であると同時に、権力者によって迫害され、過酷な糾弾を受けることもありました。マ ヤコフスキーは、少年時代から政治活動に入り、逮捕・投獄を繰り返します。16歳ごろから獄中で詩を書きはじめ、政治から文学へ軸足を転じます。出所後 は美術学校で学び、宣伝ポスターなどを描きました。その頃から、「芸術の革命」というビジョンを持ちはじめたようです。そして、「すべてを新しく!」と いうスローガンを掲げ、未来派と呼ばれる芸術運動の先頭に立ち、芸術家の同人誌を主宰するなど、精力的に活動します。マヤコフスキーは、ロシアに巻き起 こった革命の嵐によって古い世界が一掃されていく現実を、創世記の「ノアの大洪水」のイメージとしてとらえていました。では、彼はなにを新しくしたのか −ひとつは、マヤコフスキーの言葉は、ブルジョア世界の打倒精神を隠すことなく、それまで芸術の享受者にはなりえなかった一般の人たち(労働者階級)へ向かって発せられたということです。そしてもうひとつ、マヤコフスキーの詩や戯曲は、「異化」を特徴としています。言葉を、従来の意味から解放し、文字の羅列としてとらえ直し、新しい可能性を生み出そうとしました。この「異化」は、その後、ブレヒトを通じて、やがて現代芸術における普遍の表現方法となります。
1917年、十月革命によってロシアの社会は変革され、古い芸術家たちは混乱をきたして、その多くが他国へ亡命します。しかし、20世紀はじめにヨー ロッパ全土で巻き起こっていた芸術運動は、芸術のあらゆる約束事の解体を目指していました。絵画をカンバスの十字架から下ろし、言葉を意味の呪縛から解 き放って文字の羅列に戻し、演劇では舞台と客席の仕切りを取り払い、音楽を調性や和声のヒエラルヒーから解き放つことを、「芸術の革命」としたのでし た。20世紀の芸術は、貴族やブルジョアの娯楽から、芸術史上もっとも意識的で批評的なものへと姿を変えたと言われています。そのなかで、ロシアの芸術 運動の最前線に登場したのが、「ロシア未来派(のちにロシア・アヴァンギャルドと呼ばれます)」です。運動の担い手のなかには、マヤコフスキーのほか に、マレービッチ、カンディンスキー、メイエルホリド、スクリャービン、ストラビンスキー、プロコーフィエフ、エイゼンシュタインなど、有名無名の天才 たちがいました。彼らの特徴は、「革命」を「想像力の革命」と同一視したことです−とくにマヤコフスキーは、社会主義による理想社会への変革を、「私の 革命」と呼びました。ロシアの革命政権も、当初は芸術家たちを積極的に登用し、支援します。
あたかも洪水のように古い世界を一掃した「革命」からイメージを得て、マヤコフスキーは、『ミステリヤ・ブッフ』を一気に書き上げます。1918年11 月7日、革命1周年記念日に首都ペトログラードで上演された革命祝祭劇『ミステリヤ・ブッフ』。2カ月前の9月に台本が完成し、それから新聞広告で俳優が募集され、集まったのが10月13日と、異様とも思えるスピードで創作されました。演劇の作りかたさえも、約束事から自由になったと言うべきかもしれません。けれども、革命政権(ボリシェビキ)との良好な関係は長続きすることなく、スターリン主義と社会主義的リアリズムの台頭とともに、ロシア・ア ヴァンギャルドは非合法化されていきます。そしてマヤコフスキーの死後、スターリンの恐怖政治の下では、彼の名が語られることはなくなります。ところが、あるときスターリンが自ら発した「マヤコフスキーはソビエトの偉大な詩人」という一声によって、町には銅像が立ち、マヤコフスキー通りやマヤコフスキー村ができます。ロシア革命は、フランスで起きた革命のように、ロシアのその後の道筋を示すには至らず、社会民主主義の理想と現実社会の矛盾のなかに破綻します。
彼は、ロシアおよび革命後のソビエトにおいて、演劇革新運動を展開した演出家です。俳優としても活躍した実績があります。しかしやはり、現代演劇の原点 にいた演出家のひとりというのがふさわしいはずです。『ミステリヤ・ブッフ』に編まれたマヤコフスキーの詩は、メイエルホリドとの共同作業によって演出され、命を吹き込まれました。その演出家が、現代演劇の原点にいたひとりであるということの意味をお話しします。
メイエルホリドはチェーホフから影響を受け、演劇における様式美、フォルマリズムを追求します。彼がモスクワ芸術座で演じた『かもめ』のトレープレフと 言えば、新しい芸術を求め、芸術には「様式」が必要だと主張する青年です。まさにメイエルホリド。しかし、トレープレフの芸術論がアルカージナ(母にし て大女優)に受け入れられなかったように、メイエルホリドのそれも、モスクワ芸術座の心理主義的演劇論とのあいだに衝突を生みました。
演劇を革新するリーダーとしてその地位を確立していたメイエルホリドは、1917年のロシア革命を、いち早く歓迎した演劇人でした。1918年8月にはすでにボリシェヴィキ(社会民主労働党→ロシア共産党)に入党し、その年の秋、革命1周年記念日に、マヤコフスキー作『ミステリヤ・ブッフ』を演出しま す。『ミステリヤ・ブッフ』は、職業演劇人による初の社会主義的演劇という評価を受け、メイエルホリドは、演劇の革命ともいえる「演劇の十月」を唱え、 新しい演劇の創造運動に邁進していきます。そして1921年まで、ソ連教育人民委員部(文部省)の演劇部門を統括するころになります。また、国立高等演劇工房では、後の映画監督エイゼンシュタインらを養成しました。革命後は、古典の斬新的解釈に基づく演出や、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動き と機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」の提唱などを行い、20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えてゆきます。また、作曲家ショスタコーヴィッチとも親交があり、自らの劇場の音楽部長に任命し、舞台音楽を依頼しています。
メイエルホリドは演劇表現における絶対的自由と不断の革新を目指しました。そのことは、スターリンの全体主義的統制と正面衝突することになります。
「彼等は私の頭を下向けにしたまま床に尽き転がした。足の裏と背中を固いゴムの警棒で殴った。殴打は連日続いた。ようやく座る事が許される。それでも、 同じ所を殴り続けるので内出血が酷く熱湯を浴びせられるような痛みに襲われる。あまりの苦しさに大声で泣き叫ぶ。しかし、取調官は、じゃあ供述書に署名 せよ。でないと殴り続けることになる。頭と右手以外は血まみれだぞ。そう脅された私は、1939年11月16日、供述書に署名したのである。」(メイエルホリド)

メイエルホリドが最後に逮捕されたときの罪は、日本への情報漏洩、つまり日本のスパイだったという容疑でした。もちろん、根拠のない嫌疑、逮捕です。女優である妻のナジェーダ・ライヒは、メイエルホリドの逮捕後、何者かによって自宅で殺害されています。
  • 1940年2月2日、銃殺。
    スターリンの死後、非スターリン化に伴い、1955年11月28日、ソ連最高軍事部会はメイエルホリドの名誉回復を発表。
マヤコフスキーが書き、メイエルホリドが演出した1918年の『ミステリヤ・ブッフ』は、革命後のロシアで上演された祝祭劇でした。来年、わたしたちが 目指すのは、決して、彼らの思想の再現ではありません。90年前の『ミステリヤ・ブッフ』が当時の世界にとって強烈な刺激をもたらしたように、わたした ちの現在においてはどんな演劇表現が刺激的でありうるのか、なぜ今、わたしたちは演劇なのかを問い続けながら、「約束の地」へ向かっていくものになるはずです。『ミステリヤ・ブッフ』を使って、現代の旅をしてみようという試みです。90年前の台詞を、現代のテキストにしていきます。おそらく大幅に書き換えていくことになるでしょう。もしかすると、ストーリーを変更する必要もあるかもしれません。そういったプロセスも、今後のワークショップを通じて 行っていきたいと考えています。
ウラジミール・マヤコフスキー『「ミステリヤ・ブッフ」は道である。革命の道である。この道を行くわれわれが、これから先どのような山々を爆破せねばな らぬのか、それは誰も正確には予言できない。今日、「ロイド・ジョージ」という名は耳にタコができるほど聞かされる。が、明日になればイギリス人自身、 その名を忘れてしまうだろう。今日、何百万もの人びとの意志はコミューンに向かって突進している。が、半世紀後にはコミューン発の宇宙船が遠い遊星攻撃 に突進しているかもしれないのだ。 わたしは今回、道(形式)はそのまま残しながら、 風景(内容)を部分的に変えてみた。 将来、『ミステリヤ・ブッフ』を演ずる人、演出する人、 読む人、印刷する人にも、内容を変えてもらいたい、 内容を自分の時代のものに、今日のものに、 自分のものに変えてもらいたい。』(佐藤恭子訳)
【文中の多くの情報はこちらの書物を参照しました。】
  • 「破滅のマヤコフスキー」亀山郁夫著/筑摩書房
  • 「マヤコフスキー・ノート」水野忠夫/平凡社ライブラリー