「それでチェインを閉鎖するってのかい?」
少年はゲームセンターのカウンターに新聞を投げ捨てると、吐息した。
吐息の向かう先にいる髭面の店長は、首を捻りながら、
「まだ、原因がはっきりしたわけじゃないから、すぐには閉鎖しないだろうね。危険性があるのかどうか、というところさ。役人さんも火傷したくないから、まずはメーカーに自粛するよう言ったらしいよ」
「どっちにしろ、同じことだよ」
舌打ち一つを響かせて、
「いつ頃、完全閉鎖になるんだい?」
「通信回線を使ったゲームだから、一気にそれを遮断しなきゃいかんらしい……」
一息。
「今のところ、二十五日で終わりって予定だね。上の決議がきちんと決まるまで、会社内でも稼動派が強いんだと」
「二十五日ねえ……。あと十日か」
「クリスマスだよ」
「うん……」
「惜しいね。2になってからリアルになりすぎてるんだよ。だから、ショック死なんか起きちまうんだ」
店長は頭を掻く。
「だけどね」
「?」
「こういうことは、ようするに、ゲームってのが現実の一部ってことなんじゃないのかねえ?」
「……現実の一部、か」
「ああ、俺は昔からゲーセン店長だったけど、こういう時がいつか来るんじゃないかと思ってたんだよ。つまり……」
考え込み、言葉を選んでセリフが生まれた。
「……そうだな、その、何だ? 現実でも、ショック死することがあるじゃないか」
「現実”でも”かい?」
「ああ、そう、そうだ。俺達にとっては 死も感情も、想像の中の方が身近だろう?」
店長の言葉に、少年は、ややあってから、うなづいた。
自分の求めているものが、それによく似ていたからだ。
だから、彼は、視線を動かし、壁際を占領するように並んでいる「チェイン」のボックスを見た。
プレイする者にだけ解る現実を内部に飲んだ機械は、何も知らないフリをして、今でも待ち人の列を作っている。
……あの娘は、今、あの中にいるのかなあ?
誰だか判らない存在を追うために夢中になって、タイムリミットまでつけられてしまった。
「これじゃゲームだよ」
少年の言葉に、店長が首を傾げる。
「何がゲームだって?」
「時間がないってことさ」
その言葉を向こうは勝手に解釈したようだ。
「確かに、受験生だもんな。こんなところで遊んでると、大変だろう」
「……ああ、だから、チェインが消えたら、当分は来ないよ」
そして、苦笑。
「いろいろとショックだから、ね」
「チェイン」閉鎖の噂が広まると、皮肉なことに、その人気には拍車が掛かった。爆発的、という表現では追いつかないほどの勢いで、だ。
その力の強さは、早朝から長蛇の列を生むほどであった。
誰もが、
「死という限界までもが現実と等しい空間」
を体験したかったのだ。
それを求める巡礼の行列は、学生達が冬休みに入ると更に長くなった。列に入るタイミングを逃せば、一日にワンプレイできれば恩の字という有り様だ。
だが、少年は焦らない。彼はあの雑念がくる時間帯を、統計的に知っていたからである。
早朝。
電源投入時の、起動直後のプレイに、雑念があった。
彼女がいて、少女がいた。
まだ人の列が生まれない早い時刻に、彼は、自分を待つ現実に飛び込んでいく。
探し求める誰かの存在が、確実に感じられた。
残された十日間を使い、少年のエアロナイトは闘い続け、駆け続け、そして跳び続けた。
まるで言葉を失ったかのように、必勝法とされるパーティプレイもせず、孤として独り、世界に立ち、動き続ける。自分には動くことしかできないのだ、と、言わんばかりに。
そんな彼には、いつしか字名がついていた。有名なキャラクターには「チェイン」内に生きる人々が称号を与える。それは幾つかの凡例から作られるものであり、格別大した意味は持たない。
「振り向かぬ者」
未踏領域の開拓率が高い者に与えられる称号だ。確かに彼は、自分が通り過ぎた場所を二度と求めない。彼、振り向かぬ者は、まだ見ぬ場所と位置のみを求めて動いていたのだ。自分では理解できない本能の欲求によって。
しかし、時間は過ぎ、全ての想像を終えねばならない日が近づいてきた。
その日だ。
店長に別れを告げるような挨拶をして、少年は「チェイン」に入り込む。
システム・オールクリア。
闇に導かれて感情のみが想像に飛び込む行為を、邪魔する者はどこにもいない。
作られた未知の空間がそこにある。
闇の向こうに。
ダイヴ・イン。
振り向かぬ者は、新大陸の東の岬にある古びた酒場宿で、最後の敵城に飛び込む用意をしていた。
荷物は、昨日の段階で酒場のマスターに預けてある。これだけ強力な装備が有れば魔王を倒すことなど二分も掛からないといった量と質だ。
万全である。
振り向かぬ者はそれらの装備とマスターを見る、背から刺さる酒場の客達の視線は、羨望でしかない。
だが、振り向かぬ者は、彼らの視線に応えるでもなく、ただ前を見て荷物を背負った。
酒場から出ていこうとする。
その時だ。
酒場の伝言板に、一枚の紙が貼り付けてあるのを、彼は見た。
『……?』
内容は、大陸西側の城で行われる祭りのことを告げていた。
魔王を倒し、凱旋した者達が、城の広場で司祭に願いを告げるのだという。
勇者の名前が、長いリストとして羊皮紙に綴られている。そして、一つの名前が、いきなり目に飛び込んできた。
違う名前だった。
無意識の予測とは違う名前。
だが、
『!』
振り向かぬ者の鼓動が跳ね上がった。
無論、彼は、どうして自分が驚いたのかを理解できていない。
しかし、急速に、胸の内に痛みのようなものが固まった。後悔にも似た重いものだ。
もう一度、その名前を見る。
女の名前だ。
『……どういうことだ?』
それを無理に理解しようとする。
判らない。
分からない。
解らない。
と、すれば、するべきことは一つだった。
彼は振り向かぬ者なのだ。
振り向かぬためには前に動くしかない。
『…………』
無言で、伝言板の羊皮紙を引き剥がしていた。
焦がすような視線で、文面を読む。
……祭りの時刻は?
午前九時。
見れば、宿の古時計は八時三十七分を指す。
彼は自分の装備を考える。
大陸を横断するには、竜より早い彼の翼をもってしても、一時間はかかる。
広い世界だ。色々な者がいて、色々なものがあり、色々なことが起きる面白い世界であった。
が、それこそが今における最大の弊害となっている。
迷った。
……今日は敵の王城に乗り込むのではなかったのか?
背の荷物は彼に現実の使命を思い出させる。
そして、人が自分のことを呼ぶ、字名のことも。
……振り向かずに今まで来た自分には、祭りに興じる資格など無いのではないか?
思考には、時間を必要とする。
時間が無くなれば、動くこともできなくなる。
だから彼は、決断した。
『……!』
持っていた槍を捨てた。
バックパックを落とした。
腰の小袋なども床に落とした。
酒場にいた連中が、彼を見ている。
彼は、一瞬だけそこにいる人々を見た。
だが、それだけだった。
走り出す。
酒場から、文字どおりに飛び出していた。
目覚めが体の中を走っている。
外に出ると、空は晴れていた。陽光を浴びて人の少ない街の大路を走りながら、背の翼を広げていく。
どうしてこんなことをしているのか、彼には解らなかった。
しかし、彼も、それを求めていた。今まで自分の中にあった、どこかおかしいものの、その解決を。
誰かの顔が思い出せそうだった。記憶の中から、自分に好意を持ってさしのべられてくる手がある。独りの女性。かつて彼が一度、振り払った感情がそこにある。
……いや、自分はそんなことをしたことは一度も……。
あるのだ、と、無意識が告げている。
純粋な想いを、相手には解らない理由で一方的に断ったことが。
疑問があった。
そして、それを解決する方法は、一つだけだった。
……再会を。
それだけだった。
前を見た。
街の大路が切れ、広い川が見えていた。堤から水面まで5メートルは段差がある。落ちればただでは済まない。
彼は迷わず走った。
まだ見ぬ相手への再会を求めて、背の翼が大きく動いた。ウイングが、大きく白い音を響かせて展開する。
機械の翼は当然のように風を生む。
脚の動きが風に押されて加速する。
前に。
速く。
全ての音が聞こえなくなるくらいに風が響く。強く響く。
堤の切れ目を強く踏み切って飛んだ。快音とも言える足音と共に風が突風と名前を変えて彼を空に打ち出す。
白い翼が青空に舞った。その姿はやはり鳥よりも風に近い。
風を切って飛ぶ。
そして、大陸を二十分前後で横断せねばならない。
……できるのか?
という疑問を、空に満ちる風の中、振り向かぬ者は無視した。行為に対する疑問の答えは、川縁から空に飛んだとき、既に得ていた。
それは意識の繋がり、彼と本能の並列だ。
少年が今まで続けてきたプレイ方法が、実を結んだ。
長い間振り向かぬ者が思ってきたことと、長い間少年が思ってきたこと。その、プログラムという壁によって噛み合わないはずの意志が、少年のアプローチで近づき、そして共通の答えを得たことによって一気に重なり合っていた。
してはならないプレイを続けた報償。
「…………」
飛ぶ。
高速、何よりも速く。
耳に聞こえる風音が強くなり、空気抵抗もそれに準じる。
広げていた翼を閉じ、最低限の浮力だけを得るようにした。
翼の先端が真空を生み、森を切り裂き、川を割り、空気を断ち切って風を呼ぶ。
羽の尾から真白き雲が生まれて、遥か背後の空へと引かれる。
飛翔雲、またはヴェイパー・トレイルと呼ばれる尾が彼の軌跡をまっすぐ空に描く。
空気抵抗を限界まで縮める軽いアーマーが、風の圧力できしみを上げた。
肋骨の辺りに石が押しつけられているような苦しさがある。
……構わないから……。
「チェイン」の計算能力は、その無謀なフライトさえも許容していた。網膜から読まれる意志を行動の糧とし、世界をプログラムで創る「チェイン」において、二重存在というバグは、架空と現実にある二つの意志を統合し、世界を創る他の意志やプログラムより優先された。
現実の意志を止めるはずの、架空の意志はもはや逆らわない。プログラムが意志に同調した以上、「チェイン」は彼らの想像するだけの力をくれる。
青き空が、白で割れる。
その先端にいる翼は、スピードを操る。
限界はない。
彼女はパレードの中央にいた。
それぞれ個性的な装備をした仲間が六人、彼女を囲んでいる。
皆、城の広場に集まった人々の歓声を聞いていた。
彼女は一行のリーダーだった。弓を背負った女レンジャー。
だが、闘いの終わった今、この祭りの中では普通の人間だ。街の人々が作った出店を見回し、彼女は祭りが最高潮に近づきつつあることを知る。
踊りが始まった。
宮廷楽団の弦楽器の速いリズムに合わせ、皆は、気軽に笑い、子鹿のように踊り、跳ね、唄う。
そのようにしてパレードは盛り上がり、やがて……。
やがて、彼女の運命を決める瞬間が近づいてくる。それは今までのことに区切りをつけるということ。そして、一人になるということだ。
一人は、独りである。
その時が、近づく。いつの間にか、彼女の周囲を静寂がみたしていた。
『え?』
どれだけぼうっとしていたのだろう。近頃よくある、自分でも内容を憶えていない物思いに耽っていたのだ。
彼女は、祭りの主役である自分が最も祭りから離れていたことに、苦笑。
『何を考えているのかしら? いつも』
つぶやき、前を見た。
広場の中心に立つ彼女を囲み、人々が円を作っていた。
皆、何かを期待して彼女に視線を向けている。
熱い視線だ。
それらに押されるようにして、彼女は背後を見た。そこに、大きな四角い祭壇場があった。ややもすると踊り舞台に見えるその上で、人は司祭を前に、天へ願いを告げるのである。
あ、という声の重なりが聞こえ、振り向くと、人の群を割って白い衣服に身を包んだ司祭が歩み寄ってきていた。
司祭を見て、彼女は迷い無く祭壇場に上がる。
視線が高くなる。
ややあってから司教があとに続き、二人はお互いに高い位置にある視線を合わせた。
彼女が一礼。
その動きに会わせ、司祭は彼女の首に聖骨のペンダントをかけた。
群衆から安堵の吐息がもれるのを彼女は聞いた。
だが、それを無視して彼女は前を見る。
司祭の、目を。
『…………』
司祭の目は、語っていた。
『望みを一つ、言いたまえ』
その言葉に、彼女は、どこかで得たような既視感を本能的に感じた。
だから、一瞬ではあるが、反応が遅れた。
それは、普通、有り得ないことだった。
沈黙した。視線を落とし、辺りの気配に耳を澄ませる。
静かだ。
人々は、声をたてず、彼女が何を言うのか待っている。だが、彼女の口から漏れたのは、自分にしか聞こえない小さなつぶやきだった。
『……この感覚は、何だろう?』
小さな自問。
自分だけに告げた言葉に、しかし、司祭は反応した。
彼は無表情な声で、確認するように問う。
『……鳥のようになりたかったのでは、ないかね?』
声が相手に聞こえたという驚きに一瞬だけ肩を震わせ、彼女は司祭を見た。
何か言おうとして、幾つかの言葉を選び、彼女は応えた。
『その望みは、一度だけ叶えたことがあるような、そんな気がするの』
『それはありえない』
『そうね、どちらにしろ、今は今、だわ』
『では何故、その望みを口にしない?』
問いに、彼女は思わず即答していた。
「言えば、独りになってしまうから」
言ってから、はっと気づいた。
自分でも思いもしないことを言った彼女に司祭は問う。
『もともとそうではなかったかね? あの群衆の中にいる仲間と会うまで、君は独りであったはずだが』
『そうじゃないの』
彼女は横に首を振った。
『そういうことじゃない気がするの』
『?』
「独りになることを……、誰かに確かめて欲しいの」
自分でそう言ってから、彼女は辺りをざっと見回した。集まった人々や仲間を見る視線は強く、全く安堵に満ちていない。
『ここにいる人では、駄目なのかね?』
『ええ、理由は解らないけど……』
『ならば飛びたまえ、高い位置からならば相手は見つかるだろう』
『口が上手いのね』
『言っていることが理解できない』
『大丈夫よ。私も自分がうまく理解できていないから』
吐息。
『でも、貴方の言うとおり、飛ばなければだめみたい』
『では、望みを一つ、言いたまえ』
司祭の問いは、前に放たれた同じ問いと等しい語調であった。しかし、それに疑問を抱かず、彼女は不意に、微笑した。
彼女は少しの疑問を心に残し、それも美しいかもしれないと、そんなこと思いながら、一言を司教に告げた。
彼女の背に白い花が開く。
花はすぐに大きな広がりを見せ、花びらを伸ばし、白い翼とその姿を変えていく。人々の声が驚きに満ちて発される中、彼女は目を閉じた。
ゆっくりと、軽く軽く手を広げる。
ゆっくりと、広く広く翼が拡がる。
力を込めず、急がず、彼女は、生まれたばかりの翼を外気に触れさせていった。数拍の呼吸の後、彼女の背に咲いた花は最大展開を行い、陽光に白い羽毛を全て広げて見せる。
白い大翼だ。
空気を叩くのではなく、下に押すようにして飛ぶ緩やかな翼だ。
『……飛ぼう』
決断の一言は、彼女の口の中で飲まれて消えた。静かに、ややたどたどしく、はばたきの上下運動が始まる。
ゆっくりと、
『はばたこう……』
生まれたばかりの翼を揺らして痛めないように。独りで決意して、独りで色々なことを心に想い、彼女は顔を上に向けて眼を開けた。
雲が見える。
そこに天上という世界がある。
たどり着いたならば、おそらく、この翼はもう不要となるだろう。だが、彼女は後ろ手に、羽ばたく翼の羽を撫でた。
愛おしそうに。
『いずれ、もっと強い翼にしてあげるから』
言葉と共に、意識を上に向けた。
ゆっくりとはばたく。生まれたばかりの翼を揺らして痛めぬために。空を飛ぶために。独りになるために。
そして、誰かにそれを見せるために。
彼女は最上の床を、軽く、一度だけ蹴った。
その単純な行為一つをもって細い身体は空へ舞う。
青空を飛ぶ彼の目には城が見えていた。
秒を数える間も無く、振り向かぬ者は城を飛び越え、空気に震えを起こしながら制動をかける。
ストップ。
同時に叫ぶ。独りの少女の名前を。
だが、答える声はない。ただ、心に響き続ける苦い痛みが振り向かぬ者を呼び続けるだけだ。
やるせなく、再び同じ名前を吼え、彼は再び翼を展開した。
空気が圧縮され、風が起きる。
金属音をたてて飛翔準備をする翼が、陽炎をまとっていた。ここまで飛んでくる際に発生した、大気との空気摩擦によるものだ。
ゆらめく光の中で、振り向かぬ者は、もはや前ではなく、天を見上げた。
空を見上げても無意味。
振り向かぬ者を呼ぶ意識の声は、上にある。
そして、
「……!」
いた。彼女だ。青い大きな高空に、白い点が見えた。
三度目の叫びをあげて彼女を呼んだ。
声に応じて翼が力をあげ、出発の準備を完了させた。
光。
風。
空気。
全てを翼の内に歪めて、振り向かぬ者は天に身構えた。
残る疑問は一つだけ。
……彼女は振り向くだろうか?
思いは瞬間で終わった。
直後。
弓が引かれて、焼けるような翼を持った矢が放たれる。
速度が爆発する。
轟音が走って先行するが、すぐに振り向かぬ者に追い抜かれた。高速を証明するように大気が水蒸気の輪となって一瞬彼を包み、背後へと破裂する。
加速した。
翼が青の空を切り裂く。
音はあとからついてくる。
彼女が見えていた。
その姿は既に雲の位置まで届きそうだ。
白い大きな大翼が、やや透けて見える。
じきに、彼女はこの世界から消える。
……追いつけるのか?
叫び、加速する。 吼えるようにして速度が上がる。
そして、更に加速。叫ぶごとに速度が跳ね上がる。
と、前方、天の周辺に新たな気配が生まれた。
幾本ものヴェイパートレイルが上向きの弧を描き、彼に向かって突っ込んでくる。
彼女の終端妨害をしようとする振り向かぬ者を阻止するために、城に住むエアロナイト達が、飛び立ち、追いついてきたのだ。
無駄だ。
敵との接触まで二秒とかからなかった。単なる大気圧の衝撃で、相手は全て四散した。
だが、振り向かぬ者の速度は落ちない。彼女の姿もまだ消えていない。
上から振ってきたヴェイパートレイルを突き抜け、加速する翼が、飛ぶ。
……届くのか!?
手を上に伸ばした。
まさに、彼女の姿が消えようとしていた。
相手が目の前にいた。
それを理解した瞬間、全ての音と速度が感覚から消えた。
少年は、少女の名前を呼んでいた。
無音の中に声が響き、ゆっくりと、一瞬が経過する。
少女がゆるやかに振り向いていく。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
もどかしく、自分の背から生えた翼を痛めぬ動きで、少女は振り向いた。
少女は、微笑していた。
少年が、かつて見たことのある笑顔だった。
瞬間。
全てが空に消えた。
ヘッドセットが重く感じられた。
少年は、その中で涙を流していた。
どうにも止めることが出来なかった。
塩を含んだ涙滴が頬を伝って顎に落ちる。
「…………」
誰にも理解されることなく、気付かれることもなく、少年は泣いていた。
息が出来なくなるほどに泣きながら、悲しみにも似た、誰にもはっきりと表現できない感情が、胸を押し上げて、喉を揺らし、目の奥にあふれてくる。
涙が流れていくたび、その感情が流れだして戻らない。一つずつ一つずつ、複雑な感情が消えていくことを、なぜかもったいないと思いながら、止められない。
それは忘れてはならない記憶であり、そして、忘れたくても憶えていない記憶だ。
泣いた。
新宿西口駅の前。地下道を出た朝の雑踏の中。
見上げれば駅前の大時計が、デジタルの文字盤で九時三十分を指していた。
少年はそれを見て、足を止めた。
力強くアスファルトを噛むように足を踏みしめ、そこに立つ。
天を見ると、十二月の高く青い空に太陽が輝いていた。
冬だというのに、今日は暖かい日になるだろう。
空に浮かぶ雲の狭間に、白い翼の影を見たような気がして、少年は、少女と彼女の重なる微笑を思い出した。
「…………」
あのような微笑を、少年は、まだ自分の中に作り出すことが出来ない。
その意味を、それだけが解っている。
「チェイン、か」
心の中でつぶやく。
明日には消えてしまう、そんな虚しい機械の中で、それを見つけた。
笑われるかもしれない。
あんな遊びの機械の中で、現実と虚構の区別が付いていない子供だと、笑われるかもしれない。
だが、そこで得たことと、その証拠は、消えていく「チェイン」と少年だけが知っている。
……それで充分だ。
うなづき、少女の名前を思い出した。
それを呼んだのは、今日が初めてだったと気付いて、苦笑する。
苦い笑みはやがて、静かな表情に変わる。
視界の中にある空がぼやけてしまいそうになるのを堪えた。
青い空がそこにある。
しかし、もう二度と、あの空を飛ぶことはないのだ。
そのことを理解しつつ、振り向かぬ者であった少年は、空を見ていた。
じっと、静かに、空を見つつ、一つの想いが生まれていた。
大事な想いだった。
落ちついて、
「……前を」
この作り上げたばかりの想いを、揺らして波たてないように。
少年は視線を前に向けた。
歩き出す。雑踏の中を、独りで。
自分もいつか、彼女のように振り向いて微笑したいと ……。