03−
MINUTE03

理解云々思考判定

製作日時:1999/6/初旬
※後々

以下に自らを己に対してニュートラルにしいた意見を置く
必要な者はそれを拾い上げて納めるべし
物乞いである必要はありませなんだ

※なお、この色の文章は読者側の意見。
この色の文章は、それでメシ食ってる人の意見。
この色の文章を書いた人の場合は、意見が絶対にゆらぐことがないので、
コメント無しとし、ました。


■発端

■第三議題■ 川上 さん
1999年04月13日(火) 14時21分


「その本を”理解した”と言い切るための基準と、
自信の理由は何か?」

ハード系の本とライト系の本では、
違うはずだし、
様々な基準があると思います。
実はかなり難しい問題。
自分が手にしている本を見て、
よく考えて頂ければと思います。
これは読者にしか答えられない問いというか。
なお、
ルールは以下の通り。

・他人の発言は無視すること=他者への追従や名指しの否定などは削除とする。
 だが、
 本心からの書き込み内容が他者と近似であった場合には構わないものとする。
・一人、
 幾度書き込んでも構わない。
・約二十項目集まったところで打ち切りとする。


▼注釈▼
ここで総合的なことを書いてしまいますが、
全体の流れを把握かつ理解の補助として先に読んでおいて下さい。

今回の議題は相当に難度が高かったようで、
色々と叫びが見られたのは事実。
「理解」
と言うことに関していえば、
「可能・不可能」
という視点に皆が立脚して述べている
ことに留意して下さい。
そしてまた、
「可能であるならばどう読むのか」
「不可能ならばそこで諦めて良いのか」
という視点が存在する
ことも気をつけておくこと。

要は読む人次第なのか。
だとすれば、
「自分はどこまで深く本と付き合うのか」
という、
答えがここにある
と思います。

ゆえに今回は各解説無し。
理解について語ったならば、
それは各個人で理解してもらうのがテか、と。

では、
行ってみよー。
(最後だけ妙に軽いなー)

■■疑問

第三課題から参加です。 江田K さん
1999年04月13日(火) 16時10分

第二課題を読み終わって参加したいなーと、
掲示板を見た矢先の第三課題……。
てことで、
江田Kと言います。
つたない意見ですがよろしくお願いします。

まず、「理解」って何だろう?
と思う。

全文暗記?
は違うわな。
話の筋を把握すること?
も違う。

そんなことだけで「理解」したとは言わないと思う。
自分個人として「完全理解」した小説はないので
(つーか、
作者の意図を完全理解できてるとは思えない)、
「基準」は分からない。
色んな小説で理解できた(と思える)部分はあるので、
理解できた(と思える)部分についての、
「理解の「基準」は、
その「理解できた部分」がどういう意図でそこに置かれているのか、
自分なりに(例え間違っていたとしても)説明できること」

ではないかな、と。
今の段階ではそう思ってます。

なら、
それが文章全体について説明できることが「理解したといいきるための基準」ののか?
そう考えるとなんか違う気がしますね、うーむ。

頭が気絶しそうなんで、今回はこの辺で。

■■■列挙

第三議題 Ramiltass さん
1999年04月13日(火) 20時56分


>「その本を”理解した”と言い切るための基準と、
自信の理由は何か?」

難しいです、
これ。

とりあえず、
まず『理解の基準』について考えてみます。
何を基準とするかは人それぞれだと思いますが、
考えられそうなことを列挙してみると、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.物語そのものに対する理解
 どういう世界で、
どういうモノが、
どのように動いたか。

 これは言葉として書かれているので見えやすいですね。
2.物語の結果に対する理解
 モノが動いたことにより、
どのような結果が生まれたか。

 結果が明示されている場合もあるでしょうし、
そうでない場合も多いです。
3.モノが何を求めて動いたかに対する理解
 何故にその動きが生まれ、
物語を成していったかに対する理解。

 これも明示されているとは限らないです。
4.著者が何を求めて書いたかに対する理解
 何故に、
作者はその物語を書いたのかに対する理解。
 創作物である以上、
作者は読者に何かを伝えるために書いているはず。
 これはまず明示されることはないですし、
読者によってもかなり変わってしまうと
 思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ちなみに、
上記で『モノ』と書いたのは、
人だけではなく物語の中で意思を持つ全てが対象です。
場合によっては、
物語世界そのものが意思を持っていることもありますし。

で、
上記のどれを理解したことによって理解した≠ニなるかは・・・。
自分の場合、
理想はやはり4番です。

しかし、
ここで自問。
自分でない存在が作ったものに対して、
真に何を求めて作られたのかを理解できるのだろうか?

確かに物語を深く読込み、
様々なことに思いを馳せて、
理解しようと努力することはできる。
が、
それが真の含意である保証はなにもないわけで。
他人の作った物は絶対に完全理解できないのか?
自分的には限りなく「YES!」

ただし、
他人の作ったものを理解しようとすることはできるんです。
よって、
敢えて理解した≠ニいう言葉を使うのであれば
「他人の作ったものを解ろうとして得た『言葉』を自分の中で『消化』できた」
ということになるはず。
自分にとっての解答は自分の中にしかないってことですね。

残念ながら、
そこまで至るほどに『消化』できたものはさほど多くないですが。

■■■■吐血

血反吐の4月……そして五月へ続くのか? IIjima さん
1999年04月13日(火) 23時00分


息抜きにチャットをやっていますがこの掲示板にくると余計頭使っている気がするのは気のせいだろうか?

>『理解』について
まず初めに作者のイメージは100%は伝わらないと思っていることを書きます。
人の思考を理解する出来ないように小説だって同じようだと思いますから。
擬音を使わないことによってそのイメージが万人さまざまに変わって固定観念を持たせないことができる。
そうなら作者と読者のイメージが重ならないでしょう?
そんなわけでそう思っています。
では、
自分の『理解の確信』とはなにか?

よく推理小説を多く読むのですがこれの場合
 理解=推理(トリック)&動機=犯人
と云った感じで言い方が変ですが犯人=ゴールと思うので上の書いたのが
「なるほど」と口に出して云えたとき理解したと云います。

ライト小説は言い方が悪いですが子供向けの本と思っています。
現実にない世界をさもかのあるように錯覚してその世界を堪能する。
その仮想の世界がまるで遊園地ようだから……まぁそんなわけで子供向けと。
だから『理解』をしたと思ったことはありません。
(記憶で探った限りはなかったです)
上記にも書いたとおり、
作者が作った遊園地を楽しめればいいんじゃないか
と思っています。
その中にアトラクションが面白ければある意味理解したと云えるのかもしれません。
でも自信を持って理解したとは云いません。

自分にとって理解とは数学のようなもので、
答えが出されて考える数学のようなもの。
だから本では理解したような感じがしません。

国語の答えがあっても微妙に違っているのように曖昧のような感じがするから。

なんだかな〜『理解の自信』ついて書いてないぞ、自分。
あとおまけで雑誌については「理解っていうのか、これは?」です(笑)

■■■■■腰痛

DDRで腰痛起こしたかもしんないです ナゾの田舎者 さん
1999年04月14日(水) 00時33分

[dp3-023.tokyo2.linkclub.or.jp] Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Mac_PowerPC)

腰はとっても痛いです、
理由もDDRしか見当たりません。
もしかしてボクも愚か者(これのやりすぎで脳しんとうもどきになった友人とか、
 駅の構内でいきなり練習始める友人とか・・・いるんですよ、
ボクのまわりに)の仲間入りかなぁ・・・

しかし・・・あとで議事録にまとめるときのこと考えてない題名だなぁ・・・
というわけで第3議題です。

そもそもボクは「その本を理解したと言い切った」記憶がないですねぇ・・・
しかし、
何にも考えず、
感じずに本を読んでいるわけではないわけで・・・
考え方を変えてみましょう。
ボクは良作と感じた作品を他人に勧めるクセがあります。
ではそれを「良作」と感じた根拠は?
その良作であるか否かの判断を下す=「理解したと言い切る」と考えることは可能です。
ある程度理解していなければ、
その作品がイイか悪いかはわかんないような気がします。
では、
良作と感じるための基準はなんでしょう。
ボクの判断は本に限らず、
全ての「作品」に関して同じです。
「こだわっているか?」
この1点
です。
売るために仕方なしに作品をつくるのではなく、つくりたいからつくる。
自信・・・に関しての答えはひとつ。
こだわっているものが作品的にハズしたのを見たことがない。
そういう経験に基づくものです。

とりあえず、
受け取り手としてのボクは、
作品に対してこんな風に考えています。

なんか・・・議題の求めるているものとは違う視点で見てしまった気がちょっとします。
もう少し考えて、
明日もう一度書き込みに来てみます。
それでは。

■■■■■■心情

とりあえず ういんど さん
1999年04月14日(水) 00時35分

 
では第3課題。
「その本を”理解した”と言い切るための基準と、
自信の理由は何か?」
 
 う〜ん、
難しいですなぁ・・・
 そもそも理解したと言う状況は中々得られないんですよね、私。
 その理由は人物達の心情についても考えが及ぶからです。
 これについての答えは得られたことがあまりないですね、
さすがに。
 それでも「理解」したと言えるときがあるのは、
それらの心情を様々な面でとらえてみた後
でしょうか?
 でも自信があるとは言えませんし、
言うつもりもないのですが。
 特にライト系小説は読み易さを求めたものが多いので、
「深い」所まで読むのが難しいのでその傾向が(汗)
 でもハード系は結構状況説明が詳しかったりするために、
判り得る事が多いのでちょっとは自信が大きいですね。
 もちろん、
それを得るまではかなり読み込まないといけないのはどの小説も一緒ですが。
 ・・・う〜ん、
あまり答になっていないかも(汗)

■■■■■■■観点

私の主張!(笑) 光城 さん]
1999年04月14日(水) 01時07分

第三議題、
行っきま〜す!

>理解の基準について
理解における基準とは言っても、
具体例を上げていてはキリがない。
そこで理解というものを二つの観点から考察していきたいと思う。
それは、
「理解とは”主観”によるものか、
”客観”によるものか?」
である。
私見だが、
両方を満たしてこそ「言い切る」事が出来るのではないだろうか。

まず、
客観による理解とは明確な答えを持つ。
これは、
世界観や謎などの”設定”や登場人物達の行動の”意図”などに対するものである。
根拠が存在し、
それを示唆することにより他人を説得することも可能な、
「万人に共通する理解」
とも言える。

これこそが小説において最も難しく、
そして一番面白いことではないだろうか。
会話や議論で純粋に盛り上がるのがこれだ。
この理解を極めることが出来れば、
「理解した」と言い切っても胸を張っていられるだろう。
ただ、
これのみの理解では何かが足りない気がする。

では、主観における理解とは?
これは自分自身の中でのみ完結する理解のこと
ではないだろうか。
はっきり言えば、
作者の考えはおろか、
登場人物の”心情”を完璧に理解することも不可能である。
たとえ理解したと言っても、
それは主観を越えるものではない。
だが、
理解は不可能でも共感や反発を得たり、
キャラとの一体感を得ることも可能であろう。
”感動”というものも、
物語に対する感情的理解から生まれる
ものだ。
しかし、
それは他人に対して完全な説得力を持つものではない。
価値観の違う他人には、
別の答えがある
はずだからである。
さらに言えば、
その理解の中には「作者の意図」すら意味を持たないのではないのだろうか。
従って、
自身の中でのみ絶対の価値を持つ漠然とした自己中的理解が主観によるものであろう
(エゴ的な理解とも言うか)。
こう書くと負のイメージを持つかも知れないが、
「心に残る作品」
などというのはこのような理解に基づくものであると思われる。

論理的な”客観的理解”と、
非論理的な”主観的理解”。
この二つをもって、
その小説は「その人のもの」となり、
それが理解したという自信の根拠となるのではなかろうか
と結論する。

<蛇足>
なんだか、
文にレポートのくせが出ちゃってますねぇ。
理系野郎の僕が、
文系みたいなレポートを書くことになろうとは(笑)。
ただ、
理論の展開がちょっと全体的になりすぎているかも知れませんね。
もう少し、
視点を絞った方が良かっただろうか?
ふ〜む。

■■■■■■■■系統

てなわけで。 Maki さん
1999年04月14日(水) 01時33分


第3議題について書こうと思います。
まず、
議題を目にした時の感想。
難しい。
「理解」かぁ。
ではでは、
私なりに書いていきますです。
変な文章になりそう・・・。
自信とは、
他の人に内容をどれだけ伝えられるかで示しました。
伝えられなきゃ「自信」ないんだし。

1)文章理解
文字を文字なりに理解。
大体のあらすじがつかめた感じ。
この場合では、
他の人に「理解した」とは言えない気がする。
簡単に言うと「なんとなく面白い」といったところか。
(「監督〜、絵コンテできましたぁ」)

2)描写系理解

文章を絵として理解。
端的に言うと内容理解。
他の人にはそれなりに伝えられると思う。
「うん、
暗いけど、
ストーリーはしっかりしてて面白いよ」
くらいは。
<ちなみに、上の文は適当に考えたのでただの例文です>
(「セル画全部描けましたけど・・・。」)

3)映像系理解
絵がつながって流れが見えて、
キャラが生きて動いている理解。
どこの角度から見ても確立した存在自分の中に持っていて、
面白いと感じる事の出来る明確な理由を持っている。
他の人には「だから面白い」と言えるのではないだろうか。
何かここまでくると「深読みしすぎだろ?」と思われそうな気もする(笑)。
(「フィルム出来ました。見ます?」)

私が“完全に”「理解した」と言えるのは作者の言いたい答えを自分なりに作り、
ストーリー内でキャラクターが生きた行動をしているのを見出せた時。
かな。
普通、
私が「理解した」と言っているのは2)に当てはまるのだと思う。
・・・自分に対して甘甘(苦笑)。
妥協してるんでしょうね・・・。
反省。
「読破した」と「理解した」とは別ですからね。

こう自分で書いてみると他の人に「理解した」といえる本は、
そんなに無いような気がする。
いやはや。
こうやって新しい自分なりの意見(答え)が生まれるのは面白いです。
乱文は、
ご了承のほどを。
ではでは、
これにて。

■■■■■■■■■不可

理科医・・・駄目だ、全然駄目だ。 発人 さん
1999年04月14日(水) 17時14分


こんちはっす、発人です。
よもやこんなに速く回転してるとは・・・初参加なんでびっくりです、
それじゃ自習時間につらつらと考えたモノいきまぁっす。

>第三議題
「その本を理解したと言いきれる基準」

<フィクション(ライト、へヴィに関わらず)の場合>

その物語がある作者の想像上の世界(架空世界)のなかで進められる以上
どんなに壮大なストーリーであってもその想像における限界がある訳であり
(「キャラが勝手に動く」などと言う表現がよく用いられますが、
それも作者によって創造された世界の中だけのこと)
その作者が作り上げたストーリー下に流れるテーマに辿り着いた
(読み解いたと思えた)
ときが
「理解した」
といえるときだと思います。
ただしこの「理解」というのはあくまでも個人レベルのものであり、
その事はシャーロキアンのような各自の「理解」を持つもの同士が異なった見解を展開していく、
と言うような組織が存在する事からも分かります。
ここのサイトのように作者本人がその架空世界のことについて、「創造者としての見解を示す」
というのは理解への理想的な形の一つですよね。

<ノンフィクションの場合>

ニュース・エッセイ・体験記・説明文、
とどのような形であろうと
「現実の世界」を対象として記されたものであるとき

「現実」である以上「ある本を理解する」ということは
「作者本人=ヒトを理解する」事と同意であり、人相互の理解は不可能である。
(人相互の理解云々についてはまた別の議題を立てる必要がありますが、
私的には不可能だと思っているので上の意見となりました。あしからず)

「事実」を理解する場合「正確な事実」でなければまったくの無意味となるのに
その本(及び情報)が「正確な事実」であるかは定かではなく
また個人個人では「事実」に対しての「理解」に違いが生じるために
「正確な事実」への理解は不可能となってしまう。
以上の理由よりノンフィクションを正しく理解するということは不可能である、
と考えました。

>くはぁ。
なんか改めて書き出すと支離滅裂・・・
とりあえず考えを文章にすることがこれだけ大変なのにそれを他者に理解してもらうっつーのは・・・
いやはや。(パクリ)

共感

第三議題  KABU さん
1999年04月14日(水) 22時13分

理解した、
とその自信ですか
ふむ、
理解についてはムリでしょう
いや本人になれるってんなら別なんですけど、
ムリでしょ?
って、
まてよ、
本自体と著者とは別物であろうから、
つまりその本を書いていた時の著者と
今現在の著者は多少なりとも思考に変化があるだろう
から
仮に本人になれたとしても本を完全に理解することはできないのではないか?
違う視点でもう少しかんがえてみる、
本を読んでいるとまれに登場人物の思考に共感じみた感情が生まれるが
それはその人物を理解したのであってその世界つまり本を理解したことにはならない

たとえ全ての人物を理解しても全てを平等に見る、
例えばカミサマとか言われる人みたいなことができなければだめだろう
今あるこの世界を理解するのと似ているのかもしれない
なんだかよくわからないことを書いているなあ
結局、
僕としては登場人物の感情と共感してたのしめればそれでいいとか思ってるわけだし
川上さん、
この議題は難しすぎますよー 

■不眠

眠れません 大塚 さん
1999年04月15日(木) 00時50分


前置き無しで行きます。

>第三議題
一般に文章には2種類ある。
叙事文と叙情文である。
これを理解という観点に立って説明すると、
叙事文>理解させるための文章>理解可能な文章
叙情文>理解することを必要としない文章>理解不可能な文章
となる。

叙事文とは例えば新聞記事や、
取扱説明書や、
レポート、論文などの文章であり、
叙情文とは一般的な小説や、
新聞の社説、
雑誌のレビューなどの文章である。

叙事文においては、
呼んだものに1通りの解釈しか与えない、
という書き方が必要とされる。
当然、
感情など隙間も入ってはならない。
だから、
叙事文は必ず理解できる。
なぜならば、
読者が推測しなければならないことは何も無いからである。
読者が理解すべき事は、
すべて書かれているのである。
もし叙事文を呼んで理解できなかったとしたら、
それは学習が足らなかったからである。
RPG風に言うならば、
レベルが低くて呪文書があっても呪文が使えない、
ということであろうか。

それに対して叙情文は理解を必要としない。
OSAKAにしたって、
スピード感のあるアクション小説として読み飛ばすこともできるのだ。
もう一つ例をあげるならば、
志賀直哉の小説に「城の崎にて」という作品があるが、
この小説の中に正確な描写は忘れたが、
木の枝が、
「風が吹いている間は止まっていて、
風が止むと揺れだす」
というような場面があった。
全国の国語教師たちはこれに悩んだ。
いったいこれは何かと。
結局はそれまでの描写(交通事故や死んだイモリなど)から、
「普段普通に動いているものが、
何か外からの強い力によって動けなくなってしまう」
というようなふうに結論づけた。
しかし納得がいかなくて、
一人の国語教師が直接作者に手紙を書いて質問した。
「これはいったい何ぞや」
と。
直哉答えて曰く、
「実際にそう見えたのだ」
笑い話である。
まあこれは私の先生から聞いた話なので真偽のほども怪しいのだが。
さて、
「理解する」ためには、
「理論」が必要である。
つまり、
必ずある結果に辿り着くべき正当性にしたがって、
文章が書かれていなければならない。
それを読んだものが必ず、
ある明示されつ結論に辿り着かねばならないのである。
本を読んで、
「理解した」という人間は、
その本をすべて同じように捉えなければならないのである。
しかし叙情文においては、
通常そんなことはおきない。
なぜならば、
「読者が推測するから」
である。
この推測という行動により導き出されるのは、
「理解」ではなく「解釈」に他ならない。
つまり、
叙情文、
例えば小説などを読んで「理解した」というのは、
「自分なりに解釈した」ということである。
そのいい証拠に、
そう言っている人に説明させると、
「〜だと思う」と言うのである。
「理解」しているならば、
「〜だ」となるはずである。
当然の理論の帰結としてそうなるのだから。
しかし叙情文にそんな物は書かれていない。
読者が推測するしかないのである。
さて、
赤の他人である作者の考えを、
読者が完璧に推し量ることができるだろうか。
それはもはや傲慢である。
推論によって他人を定義してしまうのだから。
私には残念ながらできない。
と言うより、
出来る奴などいない。
よって叙情文は絶対に理解できないのである。

さて、
議題に戻ろう。
よって私が理解した、
と言える書物は、
叙事文で書かれた書物、
すなわち、
参考書や学術論文などである。
その場合、
書かれている結論に至る理論、
それを「理解」したとき、
というのが、
「書物を理解した」ということである。
そして小説(叙情文)は決して「理解」することはない。
ただ「解釈」「共感」するのみである。
ある意味においてはそれは「消費」している、
ということではあるが。

ってなあたりで。
実はまだ続くんですがまとまりませんでした。
ハイパーコンシューマリズムなどと関連付けて「消費」について説明したかったのですが、
まあそれほど重要ではないと判断したのでいったんこれまでと。
この議題は最初参加しようか迷ったのですが、
過去ログを見ているうちにある程度まとまったので、
一気に書いてしまいました。
忘れないうちに。
冒頭はそういう意味で。

■■共感

腰痛癒えてOSAKAクリア ナゾの田舎者 さん
1999年04月15日(木) 00時53分

再び第3議題です。
「理解する」ということは、
はたして不可能なことだろうか?
辞書の説明を読んだ感じではどうもこの言葉、
かなり自分本位というか自己満足な意味に見えます。
他人を理解する、
というのは辞書の意味から見てみると
その他人の考えはこんなものだと判断することとか、
そんな感じに取れる気がします。

それならば「ある本を理解する」とはどういう意味なのか考えるのはできそうです。
その本には作者の考えが、
どういう形であれでているばずです。
その考えをどの程度読み取れたか、
結果として自分は「ある本」から何を学んだか?
それを他人に説明できるならば理解したと言えるのではないでしょうか。
たとえ作者が「この本はこういうテーマがあるので、それを学んでくれ」と言ったとしても
それ以外をその本から学ぶことはできるはず、
いやできます。
1人の人間が本を読んで学べることはその人だけのもののはず。
だとすれば、
それを作者が操作するのは不可能だろうし、
実際できないでしょう。
つまり、
その本を理解する、
とは、
自分がその本から何を学んだかを説明できるか否か
ということになるかと思います。
たとえそれが作者の意図したものでなかったとしても
その人の演算機はこの本をこういうものとして捕らえたという事実は変わらない。
それがその人だけが得られる「その本に対する理解」であり、
その自信とは、
その判断が正確なものであると自分が認められるかということ
でしょう。
自分本位の強い「理解」という言葉なのだから、
その人だけの理解しか存在しえないのが普通であるとボクは考えます。
そして他人にそういった事柄を説明する(ないしは語る)には、
学んだことが自分の血肉になっていなければ不可能でしょう。
他人から「この本はこういうことが言いたいんだ」と言われても、
それが納得できなければ、それを理解しているとは言えないわけで・・・
また、
それは違うと言われても「ある事柄」を学んでしまった事実もまた変わらない。

多分ある人と同じように「その本を理解する」ことは不可能でしょう。
違うことを学ぶかもしれないし、
ある人が学んだことを学べない
もしくはもう学んでいるかもしれない。
だから「理解」は「ある人」一人にしかできないもので、
基準なんてつくれないと言ってしまったほうがいいかもしれない。
しかし敢えてそこを求めるならば
「学んだことを語れる」かどうか。
そしてその自信は・・・
「語っている自分に自信を持っているかどうか」と同意だと考えます。
語っている言葉に嘘がないならば、
その人は「その人だけ」の「ある本の理解」をしている
はずで、
その理解に満足しているならば、
自信も持てるでしょう。
その人だけの理解なのだから、
(自分に自信があれば)自信があってあたりまえですよね。

その自信を説明するのは不可能でしょう。
だってどんなことでも「自信ありますか?」という質問には「YES NO」の答えしかない。
自信の理由を尋ねたら、「自信」が「◯◯より強いから」とか「確かめたら全てあっていたから」
と言った感じの「言葉に姿を変えた自信」が返答として出てくるはずですから。

しかし難しい議題ですね。
これはボクの「理解」に対する「理解」なわけで、これはボクだけのものになりますからねぇ・・・
あと何種類の見解がでるのか、ちょっと楽しみだったりします。
なんか偉そうですね、ボク・・・

しっかし「そ」ではじまる行が多いなぁ・・・
もう少し文章力つけなあかんで、自分。
乱筆、乱文、ならびに長文、おつき合いありがとうございます。
ってことで、それでは。

■■■補完

続・私の主張! 光城 さん
1999年04月15日(木) 01時19分

一時間以上考えた苦肉の続編です(笑)。
では、ど〜ぞ!

>第三議題
・前置き
続きを書くに当たって、
先の私の考察には決定的な欠陥として「信念の欠如」がある。
実は「小説を理解する」という事に対して考えたことがなかったと言っても良いのだ。
従って、
理想と理論で固めざるをえなかった。
まず、
私の小説に対する基本的なスタイルは、
時間的な制約もあり「刹那的なおもしろさ」を求めることが多い。
よって、
読み終わっても何らかの未知の領域が存在する作品がいくつもある。
「都市シリーズ」や「ブギーポップ」等は、
理解しきれない作品の良い例となるだろう。
ただ、
そういう作品の方が「面白い」と思えるのが、
面白い(もちろん、個人的な趣向ではあるが)。
この事から、
”小説の満足度”と”小説の理解度”は必ずしも一致してない。
このような事情から、
この議題に対しての私の論は弱い。
そうではあっても、
私の「理解する」という基準には違いないので、
それを今後の前提とする。
また、
この考察はフィクションの作品に限られるものだろう。

・本題(というか、
前の考察の補完)
先の考察で私は客観的な(設定などの)理解のみでは物足りないとした。
小説とは決して教科書ではない。
例え小説の隅から隅まで完璧に理解したとしても、
それは自己満足の域を出ないのだ.
(もっとも、
それに至る情熱は十分に尊敬に値する事ではあるが)。
それに、
そのような理解は他人から与えられることでも満たすことが出来るのである。
この理解のみで、
物語の本質を見極めたと言えるだろうか?
私の価値観で言えばそれは「否」である。
だから、
これ単体のみでは不完全とした。

結論として、
主観と客観を極めた理解とは何か。
客観的な理解は、
先に述べたものを満たせばよい。
続いて主観的理解の究極形とは、
その小説の何か(極めて抽象的なもの)を自分なりに消化すること
である。
それは、
自分から見た作者の考えだったり、
キャラの一体感なり千差万別である。
だが、
ここではあえてそれを物語の本質的な理解とする。
ここまでして初めて、
その小説に対して完全に理解したと言うことだ。
そこには他人の入る余地すらない。
作者の手すら離れ、
その物語は理解した者のもの
となる。
又、
そこで初めてその作品を本当に裁く資格を得るのだろう。
未知の領域が残っているものを正しく評価する事は不可能だからだ。

はたして、
この条件を満たすことが可能であろうか?
そして、
そこまでする必要が読者にあるのだろうか?

実に難しい。
だから、
私は多くの小説を「刹那的なおもしろさ」のみで満足することにしているし、
実際満足している。
だが、
「理解した」と言い切る人間に、
私はそこまでのものを求めるだろう。

総論として、
「小説を理解した」と言う言葉は迂闊に口にして良いものではないとする。

<蛇足>
やば!
ちょっと論の切り口をひねり過ぎた!(苦笑)
ちょいと本来の議題の主旨とは外れてるかも知れません。
それにしてもこの議題は難しすぎます。
参りました(^^;

■■■■継続

やっぱわからん・・・ Alucard さん
1999年04月15日(木) 04時17分

1日中考えてましたがやはりよく分からないです。
はい。
僕の後に書き込んだ方のものを読みましたが、
やはり分かるようで分からない。
書き込みも一つの作品みたいなものですなぁ。
理解することはやはり難しい。(苦笑)
フィクションとノンフィクションでの違いについて書かれてた方がいらっしゃいました。
なるほど、
と納得。
しかし、
ノンフィクションでも書かれている事実が違うことがある以前に、
やはり人の手になるものなので著者の主観が少なからず入っているのではないか?
であるならば、
やはり、
事実を認識した(=理解した)と思っても、
それは自分なりの解釈となって理解することとはまた話が変わるのではないのか、
と思います。
ホント理解するってどういうことなんでしょうね。
以前も書きましたが、
作品を自分なりに解釈して自分の中で消化し、
何らかの行動にだす。
これが僕なりの理解することの解釈です。
でも、
実際に自分で意識しなくても、
その作品に影響を受けていることがあります。
後々になってそれに気付くことが時々あります。
その場合も、
自分では意識しなくてもそれは、
理解したことになるのではないか。
僕はこう考えます。
(作品のすべてを、
ではないですが)
厳密に、
作品のすべてを理解するとなると、
まず無理です。
(少なくとも僕は)
でも一部なら。
自信を持って「理解した」と言えるでしょう。
その理解は人とは違うかもしれない。
だからどうだというのか。
自分が自信を持てることが一つできた。
とてもすごいことだと思います。
それを元に人と意見を戦わせる。
時には負けるかもしれません。
でも、
それが悔しいなら、
もう一度作品の理解に取りかかり、
より多くのものを得られるでしょう。
でなければリターンマッチも挑めない。
理解することはこうした挑戦を続けることにもなるのでは。
(議題の趣旨から大きくはずれてますが)理解し続けることが理解することなのかなぁ、
と書きながら思いました。
後半は大幅にずれましたが、
それで一つの答えがでたので良しとします。

読みづらい文章を、
長々と書いてしまいました。
ここら辺で失礼します。
では、
再見。

■■■■■原本

むぅ・・・ SIGNAL さん
1999年04月15日(木) 16時25分

ここに書き込むのは初めてなんで、
まずははじめまして、
ということで。
さて本論。
小説などの「理解」についてですが、
自分が「理解した」という認識をもって、
「自分はコレを完璧に理解したぜヒャッホゥ」
と、
いうのもまぁ、
その人にとっての「理解」でしょうし、
また逆に、
無意識に、
というか自分の認識の外で「理解」してしまっている
ということもある、
と思います。
さて、
それを踏まえて。
作品を「理解」するというのは、
どういうことか、
と。
リジナルの作品
(世界観とか言いたいこととかの全て)
というのを「理解」しているのはやはり作者だけ
なのではないか、
と。
そう思うわけで。
我々は、
オリジナルを自分の中に自分勝手な観点から来る認識によって取り込み、
それを自分の内で再構築しているに過ぎない
のでは?
という考えが私の中にあります。
確かにそれなら自分の認識できる範囲でのその作品のコピーなのだから、
理解はし得る、
と。
しかし、
それは自己流にリライトしたコピーを理解しただけであって、
オリジナルを理解したということにはなりません。
どれだけオリジナルに近くあろうとも、
それは追い付けない、
もしくは追い越してしまっているからです。
同一なものではない、
と。
例えば、
源氏物語は紫式部が書いた原典がただひとつだけあって、
ほかに存在するものはソレの写しです。
で、
その写しには転写した人間が新たに書き加えた文や何かもあるわけで。
一度その人間の中で消化されて再構成された代物なのですよね。
たとえ原典を読んだとしても、
我々がしていることはオリジナルを手本として自分の解るモノを自分の内に構成する

と、
そういう作業なワケで。
うあ危ないこと言ってるなオレ。
まあいい。
とにかく、
以上で述べたことが「読む」行為だと、
私は考えるのですよ。
「理解」っていうのは「読んだ後」に行うもので、
それでいくと・・・いつまでたってもオリジナルを理解できない(爆)。
でも、
即ちそれが「個々の理解」ってコトだと思うんですけど。
オリジナルは理解できなくとも、
カスタマイズされたコピーを理解している、
と。
川上氏が擬音付きの本を見て、
「だめだこりゃ。
次行ってみよう」
とか思うのも(ンな長さん的セリフで思わねぇって)、
「擬音がある。
こりゃあ自分はだめだ」
という理解があると思いますよ。
それは作品全体に対する理解ではないけれども、
川上氏のコピーには,
「擬音があるから読めない」
っていうエッセンスが付属されていると、
そういう話。
やべ。
なんかズレてる。
とにかく、
「理解はできるが、
それはオリジナルではない」

というのが、
今の所の私の答えです。

■■■■■■把握

職業的な意見(?)になるのでしょうか。 明峰 さん
1999年04月15日(木) 23時33分

第三議題、
すごいですね。
全部なるほどなぁ、
と頷いてしまうことしきり。
自分は図書館に勤めさせてもらってるんですが、
基本的に「読み終えた」=「理解」だと思ってました。
そして理解できたからこそ、
他者に説明できる
んだと思ってます。
なんとゆうか、
自分の感想を利用者の方に求められたりもするもので。
だからと言って全ての書物に目を通せるはずもなく、
結局はISDNに従ってレファレンスをすることにもなってしまうのですけれども。
ただ、
そのときに出来るだけ、
多くの本を掲示したいし、
斜め読みとか、
目次だけとかでも、
その本の内容を把握していたいと思っています。
すみません、
なんだかずれた意見ですね。
今話題になっている某新書を読み終わったもので。

■■■■■■■自己

第3議題・友人の場合 Maki さん
1999年04月16日(金) 00時46分

今日、
唐突に2人の友人にこの第3議題について聞いてみました。
まあ、
簡潔な答えを頂きました。

“理解した”基準・・・自分が「自己満足」したとき

確かに、
そうだろうなぁ。
以上、
追記でした。

■■■■■■■■根拠

議題。 ケイン・ティス さん
1999年04月16日(金) 02時18分

酔いつぶれてバイトして、
酔いつぶれてバイトしてたら5日もここに来ませんでしたが・・・しかも恥かきまくったし。
あああ、
ログを読んだのは失敗かも。

議題。
理解する事の意味とその根拠・・・。
理解は難しいですが、
可能だとは思います。
「さっきの一文はここの表現を生かす為の物だったのかぁ!」
・・・今一つ表現が悪いなぁ。
でも、こーゆー風に文を読めたら、
多分にその本を理解しているのではないでしょうかと。
作者と思考が同調し始めているとゆーかなんとゆーか・・・。

そーいえば、徒然草とゆー本があるそうですが(笑)、
あの作者さんは徒然草(=とぜんそう)という草の煙を吸いながら執筆してたとか。
タチの悪い草らしいので
和歌山の研究所だったかにのみ保存されてるそーです。
国文学者は研究、
理解の為にその草の使用許可を求めてるとか・・・。
・・・コーラの缶くわえてりゃ良いじゃねーか?
とか考えてた自分が嫌い。

・・・上の文だって、
「徒然草理解、
同調」
というキーワードが底に
無ければただの駄文ですね。
6行のうち、
必要なのは2345行のみですし。
・・・と、
こーゆー風に、
その文の中で書き手が述べたい事を拾い取れたら
それは「理解」になる
と思います。
6行目は違うな、
とゆーように。

根拠・言いたい事ってゆーのを文にしたのが本ですから、
個人がそこから得る情報とゆーのは大差無い
ハズ。
違うのは個人個人の知識や経験、理解力が違うからで、
そのレベルにおいての理解と、
もっと上、
もしくは下のレベルでの
理解はまた違った物になるのだと思っています。
あれ、
これも自信か?
根拠はどこいった。

・・・うわー、
書きながら意見考えてるのばればれですねぇ。
映画小説とかの場合はこれらは全く必要ないんですけどね。

根拠は・・・何万部と本が発行されても、その内容は全く同じだから。

・・・どーもこの所、
脊椎の考えた事をタイプして、
脳がそれを確認していってるみたいです。
それが一体どーゆー事かはあんまりわからないんですけど。

・・・理解して下さい。

・・・なんかもう無茶苦茶だ。すいません。
もしまとまったか、はっきりしたかしたら、再び書き込みます。
長文乱文の上文章無茶苦茶ですが失礼を致しました。

■■■■■■■■■色々

まだ… 紺乃 瑞華 さん
1999年04月16日(金) 15時01分

>「その本を”理解した”と言い切るための基準と、自信の理由は何か?」
 私が思うに、
「その本を”理解した”と言い切るための基準と、
自信の理由は何か?」
は、
  ○ストーリー(話の内容)がわかった
  ○話の流れがわかった
  ○場面場面の状況がわかった
  ○作者が何を伝えようとしたかがわかった
 だと思うんです。
(これだけしか考えれられなかった)

 ストーリーがわかってなかったら、
その本はどんな話だったのかわからないですし、
 話の流れもわからない、
状況も話の設定もわからないですから。
 わかっていれば、
その本を読んだことのない人に、
 「この本はどんな話?」
って聞かれても、
「こう言う話だよ」
って、
 説明もできると思うんで。

 作者が何を伝えたかったが、
わかれば読む楽しみも増えると思うんで。
 作家さんて、
作品に何らかのテーマを入れて作っていると思うんで、
 そのテーマが小説を読んで理解できたら、
 その本を”理解した”って事になる
んだと思います。
少なくとも私はそう思ってます。

 しかし、
頭で考えてても文章にしにくい。
特に今回の議題は。(汗)
 多分、
私の文章めちゃ読みにくいと思う。 
 

■■錯覚

初書き込みさせていただきます truth さん
1999年04月16日(金) 20時50分

電撃hpから流れてきたtruthと申します。
以後よろしゅーお願い致します(深々)。

では、一応議題に参加させてもらいます。

・・・まあ、かなり妥当だとは思うんですが
『作者が何を言おうとしていたのかがわかったように錯覚できた時』
です。
「それ、
理解できてないやん」(関西弁風)
という突っ込みが来るとは思われますが、
僕はそう思います。
実際のところ、
その話を書いた人に会って、
「このシーンはこう思ったからこういう風に書いた」
というのを直に聞いてみないことには
(下手をすれば、
聞いても)
真に理解したということはできないでしょう。
「何故こういう話を書いたのか」
を理解しているのは、
その、
書いた本人だけですから。
我々は推測することしかできません。
・・・って、これじゃ僕の結論は、
「理解するのは無理」
ってことか?
あああ、しょっぱなから議題から大ズレしてる気がぁ(涙)。
うう、
すいません。
こういう奴ですが、どうか皆さん見捨てないで下せい。
いや、
本当に。
では、
今回はこの辺で。

■■■過程

うにょー、第三議題 わいわい さん
1999年04月16日(金) 21時52分

さて第三議題。
もうかるく20項目出たやなぁとは思いつつも、
とりあえず足跡残し。
「本」だとあまりにも範囲が広いので、
「小説」に関してのみです。
まず、
理解に対する定義付けなのですが、
私は「理解する」ということを、
自分で咀嚼して反芻して自分の糧とするということだと思っています。
そして、
小説というものは、
「作者が何かを伝えたくて(書きたくて)書いたもの」だと思っています。
(実際のとこはどうなのでしょ?>川上さん)
だから、
自分がその本を理解できたと言い切るときの基準は、
作者が何をいいたかったのか、
書きたかったのかが分かって、
そしてそのことの発端と結論が出るまでの過程がわかったとき

・・・てなとこでしょうか。
まぁ、
Makiさんの友人がおっしゃるとおり、
結局は自己マンの世界ですね、
私の場合。
しかも、
小説を読むときにそんなに気負って読んでないし・・・。
実際、
「理解できた」と自信もって言い切れる本って、
ほとんどないしなぁ。

それと、
私が
「あぁ、
なるほど。
こういうことを言いたかったのか」
ということが初めて理解できた本は「秘密の花園」です。
小さい頃に何回か読んで、
それから10年近くたってから読んでみて、
初めて理解できました。
小さいときはただストーリーを追っかけるだけだったのですが、
どうやら成長できていたようです。
亀の甲より年の功ってところでしょうか(・・・?自分で書いててよくわからん)
みなさんが理解できたと言える本ってのには、
どんなのがあるのかな?

■■■■解答

なんとか・・・ キメラ さん
1999年04月17日(土) 01時11分

OSAKAクリアできました。
これで安心して更新に専念できます。

>議題
・・・難しい問題ですね。
正直なところ、
理解したと言いきれた本なんて、
なかなかありません。
・・・いや、
無いかもしれません、
私の場合。

で、
私なりの議題への答えですが、
『「作者の言いたいこと=ある種の正解」に近づく作業を行う際に、
どれだけ自分の中で納得できる解答を得たか』
・・・でしょうか。
それが完全にできるなら自信を持って「言いきる」こともできるのでしょう。
「理解した=言いたいこと・テーマを理解した」
ということは、
たぶんみなさんも書いているのではないかと思うのですが。

でも、
それが私にはなかなか難しいです。
こういう作業を行う時の心理状態によっても得られる解は違うだろうし、
いつも揺れ動いているものに対して断定することは無理
だし。

「作者の言いたいことをいくら他人が考えても完全な正解にはなりえない」
というのはかなりの極論ですが、
大事なのはそれを考えようとすることと、
その課程
だと思います。
少しなりとも自分なりに読みとろうとする努力、
それをどのくらいしたかですね。

・・・もしかしたら、すでに書いてる内容が議題とずれてるかもしれません。
その場で考えながらダラダラ書くのはやっぱりまずかったでしょうか。(^^;

それでは。

■■■■■連環

うーん、ほとんどいやがらせだな。この長さは 九頭竜川 さん
1999年04月17日(土) 23時01分

安 意先生のいう「テツガク熱」にのーみそがやられそうです。
では遅れ馳せながら第3議題にいってみましょう。

さて、
「理解」を自分の内面から考えたが、
どうにも捉えようがない。
しかたないので、
「理解した」という状態を、
本を買うという行動から考えてみる。

          → → → → → → →
         ↑              ↓
本を買う→本を読む→本棚にしまう→手放す
         ↑      ↓
          ← ← ←           <OSAKA的図解>

買った本を読み終えて、
さてどうするか。
もう一度読む場合と処分する場合という、
だいたい2パターンに別れると思う。
なぜ読み返し。
なぜ捨てるのか。

再読する=面白い
捨てる=つまらない
…@

ここでいう「面白い・つまらない」の定義は個人に任すとして、
本を捨てる時の基準にはなっていると思う。
ここで@に「理解」を当てはめてみる。

再読する=理解していない=面白い
捨てる=理解した=つまらない
…A

このように据えてみる。
本を捨てる時の状態を考えてみる。
ある日、
読み飽きて本がつまらなくなり捨てる。
だが、
「飽きる」=「理解した」のだろうか。
どーも違うような気がする。
例えば、作品の筋道も設定も結末も全てわかっている。
また作品の成立時の社会情勢や作者の身辺情報を検討して、
分析し倒したとする。
つまり作品より得られる刺激。
情報、
情動、
衝動。
これらすべてを手に入れ、
刺激に麻痺し、
「得るものがなくなった」
と感じる。
だから、
飽きる。

得るものがなくなった=飽きた=理解した=つまらない=捨てる
…A’

なぜ本を読み直すのだろう。
前述したように、
書いてあることを理解し、
刺激を感じる。
その結果生じる感情や思考を楽しむ
からではないか。
そうであるならば本を捨てることは、
その理解を放棄することではないか。
なぜ理解を放棄したのか?
それはつまらないから。

再読する=理解する
捨てる=理解を放棄した
…B

で、
@+Bとして
再読する=理解する=面白い
捨てる=理解を放棄した=つまらない
としてみる。

面白いから理解しようと思うし、
理解しようとするから面白い。
つまらないから理解を放棄し、
理解を放棄したからつまらない。
これはただの言葉遊びではなく、
結構大事なことだと思う。

ちょっとまぜてみる。

@+A+B
再読する=理解していない=理解する=面白い
捨てる=理解した=理解を放棄した=つまらない
…C

どうだろう。
これは、
理解の状態によって本の面白さが変わるということだろうか。
「理解した」=「理解を放棄した」の関係も気になる。
さて、
本を捨てる段階で、
本当に「理解した」のだろうか?

更にA’+Bについて考える。
捨てる=得るものがなくなった=飽きた=理解した=理解を放棄した=つまらない

「得るものがなくなった」とは、
どちらかというと「消費」のほうが意味的にふさわしい。
つまり、
得るものがなくなった=消費した
となる。

ここでCに「消費」を当てはめてみる。

再読する=理解していない=理解する=面白い=消費していない
捨てる=理解した=理解を放棄した=つまらない=消費した
…D

どうだろうか。
本を読むということは、
作品の消費の度合によって面白さが変わるといえる。
さて、
理解の度合も消費の度合に比例しているのだろうか?

理解した=消費した=つまらない
消費の終了が理解の完了と繋がる。また、

理解を放棄した=消費した=つまらない
消費の終了が理解の放棄と繋がる。

どちらが、
適当だろうか。
あるいは、
理解の完了と理解の放棄は違うようで、
同じものなのではないのか。
人の心の中では、
本来的意味の理解の完了が成立しない以上、
理解について限界を設け、
それを自分の理解の完了とする。
理解の限界とはその意欲の限界といえる。
作品を消費し切ったと感じたときに、
理解の意欲の限界が訪れる。
理解しつづけることにより、
本来的理解に近づくが、
決して到達は出来ず、
理解することもできない。
またある段階で理解の見切りをつけることによって、
不完全ではあるが、
理解することができる。

ここで、
消費した(理解の意欲の限界)
      =理解を放棄した(理解の見切り)
                 =理解した(限定的理解の完了)
と導かれる。

で、
議題に復帰する。

●議題:「その本を”理解した”と言い切るための基準と、
自信の理由は何か?」

基準>
本を捨てるとき
自信の理由>
つまらなくなったから


…マヂ?
うーん自分でも信じられない結論だな。
強引に思考を展開したら、
やっぱり変になってしまった。
こんなんでましたけど、どーです?

■■■■■■読者

難しいですね・・・ 朱翼天使・氷神 蒼流 さん
1999年04月18日(日) 00時20分

っていうか、
気がつけばもうすぐ議題終了ってそれはないでしょう(笑)。

>その本を”理解した”と言い切るための基準と自信の理由は何か?
屁理屈を言えば、
「んなもんねーよ、
だって誰かが決めることじゃねーじゃん」
ってことになりますが、
それでは書き込む意味がないので真剣に考えますと、
これは非常に難しい問題ですね。
なにせ「理解した」なんて言い切ったことないですから。
他人どころか自分のことですら完全に理解できていないのに、
他人が作った作品を理解したなどとは言えないじゃないですか。
それなのに自信なんて。
とはいえ、
完全に、
とは行かなくてもある程度は理解した、
と感じるときもあります。

その時の基準と根拠・・・何でしょう。
何となくとか感性とか答えたくなるんですけどね・・・。
結局のところ、
「あ、
何だそういうことか!」
ってつぶやけたときが断片でも理解できた時ではないでしょうか。
そういう時というのは大抵の場合、
作者側がわざわざ読者が解りやすいように書くわけで、
その部分においての、
「そういうこと」
というものに対しての理解というのは恐らく間違っていない
ものだと思います。
さて、
しかしながら他者の作った物を完全に理解することは不可能だと言ったものの、
全く理解もできないような代物は作家の独りよがりであり、
当然そのようなものを読者が喜ぶわけもなく、
そしてその判断基準は曖昧である。
ん?
これって議題そのものですか?
振り出しに戻ってどうする。
読者がある作品を全く理解できなかった場合、
その原因として考えられるのは作家の自己完結か、
読者の理解力不足か。
このどちらか
なんですよね、
恐らく。
そしてどちらかの場合ではなかった場合に読者はその作品に面白みを見出す。
つまるところ、
「”理解した”と言い切るための基準」というのは、
1,何かに納得した場合
2,その作品が面白いと感じられた場合
3,読者は理解力不足なのだが、
それを認識しておらず理解したと錯覚している場合
の3つではないでしょうか。
理由について、
一部補(蛇?)足させていただくと、
2については、
「ある程度でも理解できてなきゃ面白いわけないと思う」
からで、
3については理解の是非に関わらず「理解した」と断言しているんだからそれが理由です。

何か感覚的な意見で申し訳ありません。
自分の考えはこんなところですね。
それではまた。

■■■■■■■自分的

自分思うに

理解ですかー。

「卑怯ではなく、
自分の優位も何も無く、
すんなりとその話を読めること」
かな、
と。

その話を、
「理解してやろう」
とか、
「何か問題点があるだろう」
とか、
「読んでおけば特だ」
とか、
そういう下らない思考抜きで、
読めたときかと、
そんな風に思います。

例えば絵本において、
幼児はそれを真の意味で理解していると思う。
素直に読めて、
忘れない、
そして幾度も読む。
つまり、
自分の呼吸と同じように得ることが出来たときが、
理解ではないのかな、
と。
大人になってからは、
解析の手法がそれを助けるが、
逆に複雑になっているのかもしれない。
段々と、
理解とは何かではなく、
理解の手法とは何かを探り出したりすることは多い。
うーむ。
自分も甘いですなー……。

いやはや。




■■■■■■■■
理解=面白さ
という公式ではない
理解する自分自信の感情を面白く感じ取る
これが大事なこと



戻るよん