02−
MINUTE02

対擬音的連断連決

製作日時:1999/4/初旬
※後々に追補など

以下に自らを己に対してニュートラルにしいた意見を置く
必要な者はそれを拾い上げて納めるべし
物乞いである必要はありませなんだ

※なお、この色の文章は読者側の意見。
この色の文章は、それでメシ食ってる人の意見。
この色の文章を書いた人の場合は、意見が絶対にゆらぐことがないので、
コメント無しとしました。


■発端

第二議題 川上稔 さん 1999年02月20日(土) 22時47分

■■擬音についてどー思う?■■
あるべきか無いべきか。
その理由や正当性について聞いてみたい。
無理かな? コレに関しては20回転したら自分が自分の意見を言うのではなく、皆の意見を自分的に
まとめてみたいと思う。



THOUGHT(字合ってるよな?) YONO さん 1999年02月21日(日) 03時15分

>川上さん
これもまた状況によります
読むテンポの速い文章を打つ上では使いやすいかもしれませんが
逆のじっくりと読むタイプでは使いづらい
使わないで済むならこしたことはないかと思います<第2議題

第二議題について 朱翼天使・氷神 蒼流 さん 1999年02月21日(日) 10時38分

>擬音についての書き手として、読み手としての姿勢
まず、自分自身が同人ものとはいえ小説のつもりの文を書いてるので、
その際についての擬音との付き合いですが、基本的には使いません。
なぜなら、「擬音を使わないと音を表せない=表現力の欠如」に思えてしまうからです。
しかし、このあたりのことというのはESSAYのコーナーで沈黙の書き方について触れられていたことにも通じるものがあると思いますので、
あながち間違いとも言えないと考えています。
とは言え、逆に擬音をうまく使うことで小説自体を面白くしているものもあるために一該には言えませんが。
さて、読み手の立場としてですが、確かに擬音によって状況が伝わりやすいということはあるでしょう。
音が音のまま書かれているわけですから当然のことですが。
しかし、それは同時に情景などを想像しながら味わっていくという楽しみ方を読者から奪うことでもありません。
それに、擬音には行数などの兼ね合いからくる限界があるために、表現できる幅というものいうものがあります。

それで、結論を言えば自分の現在していることがこの問題に関してはベターだと思います。
つまり「Aはドアを思いきりばたんと音をたてて閉めた」程度の控えた擬音語程度にとどめておくべきだと思います。
MESSAGE#9 闇羽 鴉 さん 1999年02月21日(日) 18時29分

>擬音について
私は使わない方が良いと思います。今日は時間が無いのでくわしい理由は
明日書きますが、一言で言うと

       『北方謙三さんの文に魅せられたから』

です。氏の作品を一冊読んでみて下さい。擬音を使わなくてもあれほど素晴らしく
(凄まじく?)迫力のある描写が出来ることが解ります。
おすすめは『皸』(『ひび』集英社刊・1575円ハードカバー『罅』パート2)です。
擬音精舎の鐘の声 さの さん 1999年02月21日(日) 22時53分

以下の文は私の主観で書かれています。
>擬音について
結論から先にいうと,擬音は『アリ』です。
あれは言葉と同じ表現方法だと私は思っています。
私達が『話す』ことで自己を表現しているのに対し,
風とか火とか,諸々のモノは擬音で自己を表現している。

我々も言葉以外に,叩いたり,歩いたり,そういう行為で
音を出して自己を表現できる。もっとぶっちゃけて言えば,
言葉も擬音の一つだと思っています。

変な話ですが,「おはよう」と同じ意味合いの言葉をまったく知らない言語で話された場合,
そこに込められている意思がわからなければ,言葉でもそれはただの音です。
逆に風の音でもなんでも,そこに込められている意思が伝わればそれは言葉となりうる,と思っています。
「じゃあ台詞の意思が伝わるなら,擬音の意思も伝わるよなあ。」
というのが私の考えです。
もう少しお付き合いを。
私が小説などを書く場合,擬音は『』で表現しています。
人の台詞と混同しない様にカッコの種類は変えています。
これが正道なのか邪道なのかは分かりませんが,
とりあえずこの手法?は気に入っています。
無論まだ借り物の状態なので,自分のものにしていかなければなりませんが。

そんなわけで私にとって擬音は,ある意味台詞と同格です。だから私は台詞を使う限り,多分擬音も使います。
答えになっていないかもしれませんが,私の意見はこんなところです。長文,乱文失礼しました。
わいわい さん 1999年02月21日(日) 23時24分

>第二議題について。
有るべきか否か、という点では、有るべきだと思います。
ただ単に反対するほどの理由が見つからない、ということもありますが。
確かに、擬音語なら別になくってもかけるな、とは思います。
でも、擬音語だって立派な日本語の文の成分の一つなわけだし、
それに私は日本語をとても美しい言葉だと思ってるので、
たとえその一部であろうとも否定されると悲しいかな、と。

「小説を書く」という立場で限定していうならば、私はちょっとわかりません。
小説を書いたことがないので、
擬音語というモノがどういう影響をその小説に及ぼすのかがわからないので。
ただ、誰がいったか忘れたけど、
「物書きにとって(物書きが書く文章にとって)、
 その言葉の次に続く言葉は、その言葉以外になく、それ以外にはあり得ない」

と作家が言ってました。
(うろ覚えですが、要するにAの次にくる言葉はBしかないということを言ったんだと思います。)
小説家の書く文章が、そういう風に言い切れるモノかどうかはわかりませんが、
Aの次に続ける言葉の選択肢の一つとして、擬音語があってもいいんじゃないかと思います。

最後に、読み手としての意見を言うと、私は全然気になりません。

ところで、今回の議題に対するにあたって、
川上さんの本(香港下・一部分のみ(^^;)を読み直したんですが、
私の見たところ擬音語は全く使われてませんでした。
改めて自分の洞察力のなさを実感(;;)。

ちょっと長くなってしまいました。
上のを全部まとめると、
擬音語だって立派な日本語である。無くなっていいはずがない。
ってところでしょうか。(ちょっと趣旨とずれてるなぁ)
使う使わないは、当人の自由だと思います。
とりあえず、闇羽さんの使わない方がいいと思う理由が気になります。
明日も見に来ねば。
それでは。
第2議題は参加してみます ナゾの田舎者 さん 1999年02月21日(日) 23時56分

擬音ですか・・・
読者的には「ある意味あり」といったところでしょうか・・・
擬音が使われれば、その個人による擬音として受け取れるわけで
状況説明をされたとき、その情景を思い浮かべるのが苦手な人には歓迎すべき手法でしょう
ライト小説という枠ならばあったほうがいいのかもしれません。

ただ、情景を思い浮かべる技量がないのに小説を読むというのはボクのウニ頭には邪道に思えます。
提示された文章から自分なりの解釈による情景を思い浮かべていく。
それが小説の正しい読み方だという考えから離れられないからです。
で、情景が浮かべられるのならば「擬音」より状況説明のほうが
場合によってはスピード感あふれるものになったりするはずです。

だとすれば「擬音」は執筆サイドとしては「あまり使わないほうがよいもの」ということになります。
例えば川上さんはOSAKAにおいて
雷にも似た音
という表現でもって
両サイドから攻撃を受けて壊れるドアの音
を書いています
擬音に頼っていたならばこういった表現を自由に使えるようになるのか?
なんとも言えませんが、ひとつだけわかること、それは

「擬音」の多用は小説家としての成長を妨げる

ということではないでしょうか・・・
実際には擬音を使わなくてもよいものに使っているわけですから
擬音を表現する能力は育ちませんよね。
偉そうに言えば、擬音を使うというのは
その音を擬音よりもわかりやすい表現で書く技量がない
ということを認めたということにもなりうるわけです。


くわえて擬音には大きな弱点があります。
1、どうしても文章が軽くなる
2、作者の意図がはっきり伝わるとは限らない

の2点です。
「1」はライト小説と言われるジャンルを離れてみればわかること
例えば司馬遼太郎の「燃えよ剣」という作品には数多く剣戟のシーンが登場しますが
擬音を読んだ記憶はとりあえずのところありません。
それは作者の力量なのでしょうが、その力量の差が文章を軽くしてしまうのではないでしょうか
「2」については擬音に対する個人の解釈がつきまとうからです。
例えばさきほどの川上さんの「雷のような」という表現ですが
雷の音とその破壊力は小説を読むものなら大抵知っているはずです。
そして現場の音が「相当大きな音である」ということは読者全員に伝わります。
しかしここで、例えば「バキバキ」という擬音を使ったとします。
世の中には「バキバキ」という擬音に「相当大きな音」という判断を下さない人もいるわけで
その人には両サイドの攻撃がいかに凄まじいものであったかが伝わらない可能性があります。

擬音は万人に理解されうる表現ではあるが限界がある
そして擬音を表現できた方が読みやすい文章が書ける

長々と書いてきましたが、結論としてまとめるとこんな感じです。

そういうわけで個人的には「ナシ」ですね
絶対になくすべきとまでは言いませんが、悪いものではある。
そんなところですね。
ごめんなさいっ。また長いのっ。(オカマ風) 九頭竜川 さん 1999年02月22日(月) 01時50分

擬音についてですが、ナゾの田舎者さんの意見にほぼ同じなので、
それ以外のことを考えてみました。(長いっすよ。ごめんなさいね)

まずコミックにおけるの音の描写を考えました。
ここで使われている言葉は結構パターンが決まっていて、
外来語、文字の形、配置の仕方などの手法で様々な音を表しています。
つまりここから
「擬音で表せる音は少ない」
という感想をまず持ちました。

小説においては、コミックのような擬音の視覚的表現が難しく、
字体、文字の大きさ、記号との併用などでしか、
視覚的に多様さを持たせられません。
よってさらに表現できる音が少なくなるのです。


では、擬音を使う利点は何か。
擬音は音の表現以外の描写も持つと思います。
「グラスをコトリと置く」
上の文章を擬音使わずに表現してみましょうか。

「グラスを静かに置く」
「グラスの底の一端がまず音を立て接地し、その後安定する」
…etc.

いずれもぴったりこないと思います。
「コトリ」という言葉には
「音」「音のした状況」「音を出した存在の行動のニュアンス」
(まだあるかな?)
といった複数の、限定された表現が含まれていると思います。
擬音があらかじめある程度の表現力を持っているため、
文章の簡略化、また擬音でしか表現できない状況の説明ができる
といえます。
ほかの利点といえば、
作者が音を明確に指定したいとき、文章の調子を一度変えたいとき、
擬音のダイナミズムの利用などでしょうか。

では擬音を使わない利点は何か。
どのような音がしたか作者の側で誘導でき、
なおかつ音は読者の想像に任せることができる
ところです。
よって擬音で表現できない複雑な音、未知の音、
あるいは作者の知らない音、を表すことができるということでしょうか。
ほかには、視覚的な文章全体の統一感を崩さない、
ということもあるように思います。

欠点は、
互いの特徴がそのまま相手の欠点になる、ということで省きます。

擬音の是非ですが、
使う人次第ということしかいえないです。
必要に応じてというところでしょうか。
僕としては作品として成立していれば制限をしません。
誰か面白い使い方するひと、でてきませんかねぇ(ため息)。
ぎおん・・・ ケイン・ティス さん 1999年02月22日(月) 02時36分

・・・平仮名だと駄目ですね、これ。えーと、ワンテンポ
遅いですが、僕の前回の書き込みで10回転でしたか。
あれが入ってしまうとは思わなかったもんで・・・
他に言いたかった方、すいませんでした。
今回は早いうちに書いておこう
(なんか他の方々に比べてフランクな意見かとは思いますが・・・)

擬音。あってもいいような気がするし、無くてもいいような気がします。
僕の場合、場面を出来得る限り映像化し、映画やアニメのような感覚で文章を読む傾向があります。
(映画化の時の俳優が表紙に載ってるよーな原作小説を多く読んでいた為)だから、
擬音は有ったらそれを音声化してその妄想、もとい想像に当てはめられます。無くても、
大概の音はこれまた想像して当てはめたりしてます。
映画化とかの時に勝手なギャップに苦しむ時もありますが。

テニスで言う所の、片手バックで打つか両手バックで打つか、
そういう感じ、スタンス、フォームの違いなんじゃないかなー、
なんて思ってここまで書いてからこれは僕の読み方の場合だな
とか気付いたりしてます。すいません。

ちなみに、僕が擬音でしか表せないと思った音は
ゴソリ
です。病気に対して投与された薬の副作用・・・
髪の毛の抜ける表現は、印象深くするにはこれ以外
に考えられない。初めて頭の中で想像とかみ合わせた時、
体が震えた記憶があります。(しかも感銘を受けてたりして)

うわ長くなったなぁ。・・・それでは失礼致しました。

指針

さあ、今夜もレス 川上稔 さん 1999年02月22日(月) 05時09分

>第二議題
自分が擬音を使わないタイプの物書き屋だということは解られてるみたいですね。
しかし、これだけ反響があるとは驚き。もっとこれからも来るでしょう。
これはおそらく皆がどれだけ自分が小説を読む(書く)スタイルに対して、
「こだわっているか」
の指針になると思います。


なお、ちょっとした情報。
昔の日本、ライト小説が出たばかりの頃は、やはりライト小説にも擬音が無かったのです。
文章というものおいて擬音とは、
「下等なもの」
と思われていたのですね。

それはただ単に文壇(明治から始まる口語文体小説の頃には擬音というテクも無く、
大家はそれら無しで書いたために、新鋭なテクは大家によって下等とみなされていた)の影響なのか
それとも真に不要であったのか。
もしく、ならば何故、今のライト小説には擬音を使ったものが多いのか。
そのあたりを考えてみると面白いかもしれません。つまりは歴史的背景。
擬音表現で言うなれば、かの故手塚治虫氏は、戦後マンガのほとんどの擬音大系を作り出したのですが、
「”しーん”という擬音は自分が作ったものの中で一番自信がある。
英語にできないし、絵で描かれるからこそ静けさが描ける」
そのようなことを言っておられました。
>ゴソリ(髪抜け音)
書くとこうかな。
−−−−−−−−−−−−−−−
髪を無造作に指にたばさみ、頭を吊るように上に引いた。
すると、繊維質を断ち切る連音が耳の近くで響き、毛髪が頭から剥がれていった。
自分が抜け落ちる触感に背筋が震えた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
難しい……
グラスを置くのもありましたよね。
>コトリ
−−−−−−−−−−−−−−−−−
肘を木のテーブルに突き、手の中のグラスを見る。
空だ。
器の中の空白を見ながらグラスを木のテーブルにゆっくりと置けば、空っぽを支える静かな堅い音が
テーブルの方から響いた。そんな気がした。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
やっぱ難しいな(笑)
言えることは、状況を必要とするということか、自分の場合。
これも皆さんのヒントになりますかねー……?
私は… 紺乃瑞華 さん 1999年02月22日(月) 10時34分

第二議題、スタートですか…。

>擬音
私は、あっても無くても良いと思います。ある場合は、その状況とかが、分かるし。
擬音って、その状況によって一人一人、違う聞こえ方をするのではないでしょうか?
なので、キャラによっても、場面場面でも聞こえかたは違うと思うので、
「この時、このキャラの場合は、こう聞こえた」と言う事で擬音を表現しても良いと思います。
無い場合でも、川上さんの作品は、状況説明の文章(?)で、ちゃんと状況とかが読み手に
伝わっているので、私の場合はどちらでも良いと思います。
使うか、使わないかは、作者の自由だと思います。
って、自分で、小説とか書かないから難しい事は、言えませんけど…

考えがまとまったら、また書きます。
明日、最終試験・・・ J.s さん 1999年02月22日(月) 13時25分

第二議題・・・、って回転早過ぎッスよ、皆様。
今更僕の意見なんて出しても一笑される位、いろいろな意見が飛び交っていますが、まあ聞いて下され。

まず私的な感想としましては、『スタイル』の違いに応じなければならないということですね。
確かに川上さんの作品では擬音語で表記すると作風が崩れてしまう恐れもあります。
しかし、擬音語や擬態語を文章として書き表せる能力を持たないというレッテルを擬音を用いる作家に貼ってしまうのはどうでしょうか?
恐らくそれは間違いでしょう。

プロとして最低限の知識と文章力は持ち合わせているからには、
物事を表記できるレベルが素人である我々より劣るということはないはずです。
では何故ライト小説に、その擬音がよく用いられるのか。
読者の年齢層、マンガ程度の感覚で読める、何より電撃で角川歴彦氏が定義する『新世代』『新鮮』。
その中にある擬音は近代の一端を表現し、歴彦氏の『若者達の確かな評価』に於いて確かな読解を表記させようとしています。
文芸を文化からより身近へ。
例えば「自分、活字読むと目眩するぜ」と言う人も、擬音という短な一語により通常一、二行かかる内容を理解してしまいます。
言い換えれば、文章を単なる音にしてしまう擬音も、音で場面を感じ取らせる手段でしょう。
あくまで他人本位で考えた時、自分が良いと思った一文も、傍からみて相手も良いと思うでしょうか。
我々が擬音を否定しても、肯定する人もいるでしょう。
特に臨場感を感じたい時、攻撃が全て文章な宇宙戦争モノや、感情が全て擬音な学園恋愛モノ
・・・僕は嫌ですね。
作家は自分のスタイルを持っているからこそ作家なのだし、
「あるべきかないべきか?」の質問は、川上さんの小説という範囲で、ないべきと僕は答えます。

p.s 川上さんに指摘されながらまた文章が固い・・・
第二議題 YONO さん 1999年02月22日(月) 15時48分

>コトリ
自分なりに書いてみることにします
−−−−−−−−−−−−−−−−−
男はグラスを一気に煽って空にする。
テーブルの上に置く、微かに軽い音が出たような気がした‥‥
−−−−−−−−−−−−−−−−−
てなもんですか?
やはり、コトリという感覚は出ないかな?
>ゴソリ
こっちも書いてみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
ふと何気なく手を髪にやる‥‥戻す、髪の毛が一房二房と抜け落ちる感触があった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
一文で申し訳ない(^^;
ちょっと難しいですね。 これらの文をを擬音無しで書くのは難しいですね。

勝手にまとめてみよう。
 スタイルであるというので使わない、使わざるを得ない状況を作らない、と言うのが使わない派
 使う派は使うと言っているので何とも言えない。
補足… 紺乃 瑞華 さん 1999年02月22日(月) 17時45分

朝、書き込んだ物の短い補足(?)

擬音を使うか使わないかは、作者の自由だと思うんです。
J.sさんがおっしゃってるように、擬音を使わない作品がもし使って作風を崩してしまうと、
「今までの作品は何だったんだ?」
と読者に思われたら、それはそれで失敗
ですし、でもかえって、
「今回の作品は、よかった」
っと思われたら、作者の勝ち
だと思うので。私は自由だと思います。
月曜日の憂鬱 大塚直広 さん 1999年02月22日(月) 18時24分

さて、第二の議題と言うことで、『擬音』ですか。
ということで書こうとして過去ログを見ると、私の言いたいことはほぼ言われている様子。
しかも意見もなんか落ち着きを見せてきていますし。
まあそれでも一応書くことにします。

最初に結論から言えば、やはり、
「あってもいいし、無くてもいい。その作家の表現上の問題」
となります。
例のグラスを置くときの音がやはり一番いい例ですが、
「擬音でしか作り得ない表現」と言うものがあるのです。
そんな特殊(ということも無いが)な例でなくても、
「猫が鳴いた」と
「猫がニャーオと鳴いた」を比べてみてください。明らかに別の印象を受けると思います。
また、文章の持つ意味すら変わってきます。
たとえ「猫はかわいらしい声で鳴いた」としても、「猫はその種としてあるべき声で鳴いた」としても、
『ニャーオ』と言う擬音一つが出すのと同じ意味と印象を文章に与えることはできない
のです。
つまり、これが擬音の持つ効果です。
川上さんがどれほど工夫しようが、これと同じことを擬音なしではできないでしょう。
ただし、しようと思わなければ話は別です。
というより、完全に別の話になります。
たとえば、あかほりさとる氏の『SMガールズセイバーマリオネットJ』と言う小説を見てみましょう。
手元に無いので記憶の話になりますが、
確かふんだんに擬音が使ってあったような気がします。
さて、これと同じモチーフ、同じストーリーで、ただし『擬音』は無しで書いたとしたらどうなるでしょう。
おそらくはもっとシリアス味が強まり、人物描写に深みが出るかもしれませんが、同時に氏の持ち味である、
「ハイテンション且つハイスピードな文章」はある程度(というよりほとんど)失われるのではないでしょうか。
これについてどちらを好むかは、作者と読者、それぞれの問題で、
決して優劣の問題ではないと考えます。

要するに作家は、自分の作品に合う印象を与えるように言葉を選択していけばいいということです。
というよりはむしろ、自分のやりたいようにやればいい、ということですか。
作品というのは言うまでもなく、作者の作り上げた世界です。
ルールなんてのは作者自身が決めてしまえばいいんです。そんなもんなんです。
要するに面白ければ(もちろんエンターテインメント的なモノだけでなく、知的なものからすべてふくめて。
英語で言う(interesting)勝ち、ということでどうでしょう。
わいわい さん 1999年02月22日(月) 22時29分

○前回の発言に対するちょっとしたつけ足し(?)
前回発言した時点では、
擬音の短所がいまいちわかってなかった私ですが、
ナゾの田舎者さんや九頭竜川さんの意見を聞いたらよくわかったような気がします。
また、ケインさんのいう「ゴソリ」とか、
擬音語でしか表現できないこともあるってことにも気づかされました。
なんて有意義な会議室なんでしょう。
新しい考えや論を知った日は総じて気分いいものです。

ところで、擬音語っていつから登場したんでしょう?
擬態語はすぐ出てきそうだけど、(万葉集にもあるし)
擬音語っていう概念はいつからなのかしらん?
知ってる方いたらぜひ教えて下さい。

それでは、この辺で。
〜BGMは"I GOT A RHYTHM" BY GEORGE GERSHWIN♪〜
Little・・・ Maki さん 1999年02月23日(火) 00時14分

>第二議題
擬音についてですか・・・。まず、結論。
必要に応じて要るが、必要以上には要らない。
硬い文章の場合は、そんなに要らない。
(ライトノベルには多用されているように思う)

擬音にも色々とある。
ドアの音・機械など、動くものには全て音を持っている。
小説にはその全てを書くわけにはいかない。
まず、容量が限られているのが挙げられる。
次に、擬音は音を特定してしまうからである。

本はそこに書かれていることしか情報がない。
そして、それ以外の情報を個人の想像で賄う。
著者がどうしても特徴づけたい音に対して擬音をつける。
大体これぐらいが擬音のバランスだと思う。



それでは、これにて。ではまた、明日。
勝負!! RosenBeet さん 1999年02月23日(火) 03時23分

はじめまして、RoseBeet(ろ〜ずんび〜と)と申します。

さて、自分の意見が書けるか?自分と勝負です。

About 第二課題 「擬音(ぎおん)」
ひらがなで「ぎおん」って書くと、京都の「祇園」みたい・・・
それは、さておき、まずは結論を。
擬音は必要である。いる。
それは、擬音は、擬音でしかできない表現方法を持つから。
当たり前ですね。

僕は表現方法は多いにこしたことはない。と、考えます。
特に、それを明確に端的に、そして感覚的に書くなら、
「擬音」は欠かせない。そう、思うのです。

ただ、言わせてもらうなら、
僕は「擬音」を使った、面白い小説を知らない。
「擬音」で感銘を受けたことがない・・・。
心の中で何か、叫んでます。
それは「擬音に対する好奇の期待」と
「今までの擬音に対する不信」が。
そして、その過度の期待が生み出したのが
「擬音は技である」
という論です。これは
・「擬音」で感銘を受けたことがない自分
・きっと「擬音」は使いこなすのが、難しいのだ。
・「擬音」は「技」だ。

っていう、短絡的なものに過ぎないのですけど、
僕はこの短絡を信じたいのです。
これに、諦めてしまった人、また、端っから否定した人は
「擬音」など必要ない。と感じるんでしょうね。多分。

僕は、まだ、触れた事のない小説がいっぱい有ります。
ある程度まで、「読んだ」と実感できるまで、結論は出ないのかもしれません。
だから、私は「擬音」を要る。と答えます。
「擬音」を表現方法の選択肢に、残すために・・・。

逆に言うと,僕は「極めて」無いのでしょうね。
「こだわってない」とも言います。

あ、3時だ。(笑)
ぶらり旅って感じですか 破軍星 さん 1999年02月23日(火) 04時53分

ココの掲示板では初めまして、破軍星と申します。
後輩に圧倒され役立たずの先輩とも言いますが。
なにやらよからぬ事を語られて無いかヒヤヒヤです(笑)。

それはそうと、第二議題、「擬音」について、漫画サイドの人間として
まあちょこっと。
面倒くさい場合は下まで飛んで行ってね(笑)

擬音、といっても迫力を出す物から状況説明に使われるものまで様々ですが、
まあ、漫画の場合もその場面の状況によって使う、使わないを判断します。
ココで面白いのが、漫画それぞれでかなり似たようなシーンがあっても、
擬音は割と一致しないのです。
何故か判りますよね。
そう、「音」を文字表記する時、個々で受け取り方が違うからです。
それと同時に、「文字表記された音」に対しても個々の受け取り方が
違ってきます。敢えて例示の必要は無いでしょう。
んじゃあそれって成り立ってるのか!?
漫画は成り立っちゃう場合が殆どです。なにせ、「絵」でも説明してますし。
その上で、「擬音」は「書き文字」という形態を取って、
ある物は勢いよく迫力を出すように、ある物は心情をわずかづつ吐露
するように、デザインで見せていくことが出来る訳です。
さて、小説はどうでしょうか。
数世代前の小説は、表現を積み重ねる事で情景を、空気を描写してきました。
ただそれは、「判り易」くはありません
でした。そこへ漫画の台頭が始まり、
今日電車の中で広げられるようにまでなってしまいました。
そして、これに呼応するように、擬音を多用した小説が出てきた訳です。
脚本かと見紛うような文章密度による漫画により近いスピード感、
そして擬音を多用する事によって漫画的情景を描写。
生活の中で当たり前のように漫画が読まれるようになったが故に生み出す
事が出来たもの、でしょう。時代の産物って奴でしょうか。
一世代前の人が、漫画絵的挿絵が付いた擬音小説にあからさまに
嫌悪を抱くのは、底辺が「漫画文化で溢れ」てないからでしょうね。

誤解が無いように言っておきますが、私はこれを「安易」とは言ってません。
ある意味、出るべくして出てきた訳ですから。
んでは、それを踏まえた上で。

擬音の使用、どちらが是でどちらが非である、とは言えません。
作家がどう表現したいか、極端な括りですが「漫画的」か「文学的」か
で取捨選択すると同時に「読者にどう見られてしまうか」をきちんと
考慮すべきであり、逆にそれさえ気をつけていればいいと思います

全面賛成・全面反対じゃあ表現的に幅を極端に狭くしてしまう事に
なってしまうんじゃないかと思いますしね。
必ずしも「解り易くなければならない」とは限らないと思いますし。
表現の積み重ねも大事だし、擬音の一言に含まれる幾多のメッセージも
無視できません。そういう事です。

え?私自身の趣向としてどうなのかって?
30分で一冊読めてしまう小説は「漫画でやればイイじゃん」とか
思ったりして(笑)
ま、漫画畑の人間なんで言葉が足りない分はご勘弁下さい。
んでは、乱筆乱文、失礼します。
3200hit!? 朱翼天使・氷神 蒼流 さん 1999年02月23日(火) 10時24分

>擬音に関しての追加
前に一度書きましたが、皆の意見を読んだところでいろいろと。
いるかいらないか、ということで言えば、
「必ずしもいるものではないが、選択支としてそれを選ぶ作家もいる。
つまりは別にあって困るものでもない。」

というところでいかがなものでしょう。
で、もう少し突っ込んだことを書くと、上に自分が書いた、
「バビュゥゥン!!」
てのも擬音語(擬音を使った擬態語?)ですよね?
この文を読んで擬音反対派(偏見か?)の人達は、
「あ、擬音使ってるからコイツの文読まんほうがいい」
なんて考えたでしょうか。
もしそうならこの文章自体読まれてないはずですが、大抵の人はそうじゃないと思います。
ということは別に共存は可能なのでは?と思います。
さらに言えば、上の文で擬音を使用したことで、多少なりとも文にコミカルな雰囲気が出ているように感じます。
すなわち、
特定の擬音語を使うことで文章自体の雰囲気、
ひいては世界観までを表現できる
のではないか」
ということです。そこから考えるとキャラがハメをはずしている場面等であれば擬音を使っていくのも悪くないかとも思いました。
最後にもう一つ、短い擬音だけで一行を埋めてしまうことで、音と同時に静寂を表すことすら可能である、ということがあります。例えば、
−−−−−
暗い廃工場の中、男は握っていたピストルの引き金を引いた。

パァン。

短い銃声。ただそれだけだった。
そして次の瞬間、自分は血の海に転がっていた。
−−−−−
イマイチだな。何となくわかるような気もするけど。
擬音もうまく使えば(使えてないけど)生きてくるのではないか、と。
とにかくそういう意見もあるということで。

長くなりましたがお付き合いいただきありがとうございます。
それではこの辺でさようなら。

三日ぶり徹夜あけ キーウィ さん 1999年02月23日(火) 12時15分

もうへろへろ。

>第二課題
擬音、と言うことですが、
それを使用すると文章全体のイメージがまったく別物になってしまう、

と、自分は思います。(似たような書き込みあるような……(汗)まあ、さておき)
これは、文章と擬音とでは、表現の次元が違うと言うことで、
例えば視覚に対しての聴覚、又は痛覚との違い
とでも言いましょうか。
(人により感じ方はさまざまですが)文章とは、視覚に近いものだと思います。
視覚的表現としての絵画により、痛み、静けさ、やかましさを表すことは可能ですよね?
でも、痛みを感じるなら殴られたほうがはやい。
つまりこの、振り上げた『こぶし』が『擬音』だと思うのです。
本質的に差異はあれど、どちらも食らってみりゃ痛いことに変わりはありません。

と言うのが自分にとっての擬音で、使用に関してはやっぱり個人の自由だと思います。
一般的に擬音の多用は稚拙に思われがちですが。が、その本質を見極め、
効果的に活用すれば、この限りでない
と私は思います。

こんなところですかね。
脳みそ沸いてきたのでそろそろ限界ッス。
ではっ!!
相も変らず(汗) ういんど さん 1999年02月23日(火) 14時10分

>擬音
 う〜ん、個人的な意見なのですが・・・
 やはりその人の感性により変わりますよ、音の表現は、と。
 しかしなんか皆さん、凄いなぁ・・・
 勉強になることばかりだった(汗)
 
 擬音で思い出しましたが、大学時代のアルバイト先で面白い経験があります。
 中国の留学生に擬音のことで質問されたのです。 それは・・・
 「雪が<しんしん>と降る」
 と、言うもので、留学生はそんな音しないし、その前に音が無いと言っていました。
 (まぁ、これは擬音語とは違う擬態語かも知れませんが(笑))
 その他の大体において違うようで、かなりいろいろ話しました。
 代表的な擬音語(鳴き声など)もやはり違いが多く、とても面白かったです。
 まぁ、英語でも鶏の鳴き声は違う表現ですからねぇ。 使っている言語(母国語など)の発音に近いものを
選んでいるのでしょうから、違いが出てもおかしくはないのですが。
 これはいい経験でした。 ・・・って、話題からずれたような(苦笑)
 
擬音すか いんぐらむ さん 1999年02月24日(水) 00時22分

擬音使った方がイメージしやすい、という点はあると思います。
挿し絵とかでイメージ喚起を起こすことも出来るでしょうけど、やはり小説は”文章”が主体。
ならば、読者がイメージしやすいように擬音や、その他の手法を用いることは間違いではないハズ。
作者によって、擬音を使う人と使わない人がいるでしょうが、それは表現技法の考え方の違い。
「どちらが良いか」というのは、好みもありますし簡単には判別出来ないでしょう。
水彩画と油絵、どちらが優秀かを比べるようなものです。

読者としては「面白い小説が読みたい」というのが本音ですし、最終的な判断は作者に任せるしかないのでは。
擬音 YONO さん 1999年02月24日(水) 02時09分

>擬音
何というか自分なりに他人の意見を見つつ主張してみます。
「擬音」とは技術の一環である。 そしてそれを使うも使わないも個人の自由である。 と言うところですか。
簡単ですね。 
好みを書いてみるなら、表現方法の自由を奪いかねないと思っているので(今の自分には)必要ありません。

ps.この文章をうってて思うこと文章はやっぱむずかしい。
お初です。 IIjima さん 1999年02月24日(水) 16時32分

今回初めてここに書き込みします。
ずっとROMをしていたのですが毎日見ている自分に気づいたので・・・とまあそんなわけです。

>擬音について
自分は表現上いいものだと思います。
擬音を使うことにより短い文章でその発するモノを肌で感じることが出来ると思いますから。
それを表現することで説明文ぽくなるのを防ぐ役目もあると思いますし。
言っている自分はそんな好きじゃないんですけど(笑)
わいわい さん 1999年02月24日(水) 19時53分

>擬音について
昨日台所にいてふと、小説って料理と似てるよなぁ・・・と思いました。
まあどちらも創作活動なのですから、似ているのは当たり前のことなのでしょう。
それで、何を言いたいかというと、擬音というのは料理を作る上での一つのスパイスなのだな、と。
たとえば、焼きそばを作るとして、
ただ純粋にそばだけを炒めたり(具なし)、
キャベツやら人参やらを入れるなり、
はたまた納豆を入れたりなんて事も、
全部はコックさんの思惑一つなのだなぁ、と。
(できあがった料理が純粋に焼きそばなのか、それとも物体Xになるかどうかはおいといて)
んで、こんな感じで料理と小説を同一化して考えれるのなら、
その焼きそばが美味いかどうかは、
その焼きそばを食べた人たち(つまり作家&読者)の主観によるものであるんじゃないかと。

・・・ん〜、なんか変な文章になってしまった。読み流してやって下さい。
1999年02月28日(日) オレギオン(怪獣の名前みたいだなあ)川上稔
 
では、擬音問題について自分なりの意見を。

まずは余談じみたものから導入。
前提として言うなれば、自分はものを書くと言うことに対して古い人間です。
自分は色々なところで言っているとおり、ライト小説をほとんど読まないです。
13歳から19歳の6年間においてそういう小説を読んだこともなければ、
19歳の折りに友人に、
「現在の代表的なものを20冊ほどリストアップしろ」
とさせ、それを読んだくらいです。


(※現在(2000年夏)ではちょっと違います。
このところ、
ライト小説のレーベルが増え、
数が増えたため、
”ライト小説を地盤とした次世代のライト小説の市場”
が生じたため、
他の本を読んで基礎力など付ける必要がある一方で、
ライト小説を読んで現在の市場のための基礎力を付ける必要が出たからです。
よって現在は、必須としてライト小説を読んでますし、
擬音も読めるようになってます)
以下、
そこらへん御理解の上で宜しくお願いいたします。


それ以降は友人の作家のものしか目を通していない、と。
これらの理由についてはいずれ語ります。
自分がどうしてライト小説を書こうかと思ったか、そういう理由にもなっているから。
さて、そういう人間、つまりはライト小説を読まない人間は擬音をどう思っているのか。
はっきり言うと、
「読めねえ」
うん。
読めないですよーマジに。
誤解を恐れずに言うと、自分は詩に書いてあるような、
「川が流れている
 るんるんるるるるるる」
とか言う音も読めねえー……。
小学校の国語の授業で、
「こんなバカらしいの読めるか!!」
と言って中村昭子先生(仮名)と喧嘩したのは自分です(笑)。

だけど先生、詩とかっていう感性と理論のものを、
「教科書が正しい」
って固定する考え方は自分的というか教育的にかなり問題ある発言だと思います。
「教科書のようなものもあります」
ってなら別だったんですが。

話がズレました。
えーと、どういうことか?

「どういうことです?」
と自分に問うたのは去年のメディアワークスの忘年会で向かいの席に座った
秋山瑞人氏と、よしみる氏だったり。
実は今回の疑問はそこに端を発しているのです。以下、自分のマジセリフと周囲の
人(秋山瑞人氏や編集さんや古橋さん、上遠野さんに、クルーエルの新井輝氏、
そのほか)のツッコミ。
どのセリフが誰かは明らかにすると迷惑がかかる可能性も大なので自分で考えましょー(笑。
上の名前も一部伏せた方がいいかも。
ヒント:「先頭のセリフは自分」
(読解問題:配点30点)

「いや、だって、擬音読めないんだよ自分。
 書いてあると”う”とくるか”ぷ”とか笑って本閉じちゃうんだマジに
 ついでにいうとそこから先を読まないことは多々ある。
 好きな作家だろうと関係無し。
 好きな作家だけど、買ってきた本の一行目で、
 ”ぽちゃん。
 雨が落ちた。”
 って書いてあったおかげで自分はその本を読むのをやめたよ」
「げー、そら怖いっすよ川上さん。せっかく買ったんだものー」
「払った金に対しては自分が全責任をとるよ。擬音を書いた作者が悪いとは
言わない。ただ読めない自分が悪い
ということは解ってる。だから本を閉じて
”捨て用本棚”に入れて”すまんな、買ってしまって”と供養して終わり」
「本当にダメなんすか?」
「うん、書いてあると横にスパーンと置いて
”ハイありがとうございましたあ!!”
とか八百屋みたいに叫んで二度と読まない」
「ぐあー、わしの本も擬音があるのにー」
「●●さんのは擬音が三回ありましたが何とか読みました。
擬音で閉じたことはありましたが、面白かったですよ」
「でもわしの本じゃなかったらー」
「捨てたかもしれないですね。その場合、内容が自分のムシズを上回ってたら
一度本を閉じて、三日ぐらいしたら読みます

「三日(笑)よしよし許してやろう、ってカンジだなあ(笑)」
「買ったからには自分のモノ。無論、内容を云々言う権利は買った自分にはない
ので文句は言いません」
「そうなると川上君の文章には擬音がないわけだ」
「”ガツンときた”という主人公の感覚的な伝文系ものや、”蕭々と鳴る”
とか、”焼。と炎が叫ぶ”っていうのはやりますが、擬音をそのままポンと
おいて一表現ということはしないです」
「自分では絶対”ちゅどーん”とかって書かないんだ?」
「だって自分の頭の中の爆発はもっとスゴイですから」
「ああ、文字より先に絵があるのね」
「どーだろなあ」
「たとえばボクはマンガを書くけど、擬音とかって絵のように描くわけ。
それは音がこう動いているというか、勢いがあると伝えたいわけだ。
それに似ているかもしれない」
「うへー、言ってることが高度だ」
「デカルチャ〜」
「何? デカルチャ? それは聞き捨てならんなあ」
「あ、同士がいた。わし、ゼントラーディ語がしゃべれるよ」
「おー、挨拶挨拶(笑)」
「あー、自分も加わりたい〜(笑)」
「話がズレてるって(笑)」
閑話。
「要するに川上君の場合は字で絵を描いてるんじゃないのかな?
 ボクは文章書かないからうまく言えないんだけど、そのあたり」
「そうかもしれない。ただ、自分の作品内で方式は統一させたいというのがあるんですよね」
「そらあどういうことっすか?」
「小説では風景とかを描写してるよね。それってルールとして自分にちゃん
と課してるわけ。”青い空”って言っても誰も蒼一色の空を考えないっしょ?
そういう場合は”蒼一色の空がある”って言わなきゃならない」
「でも、その蒼は人によってまた違うよね」
「そうです。想像力の質の違いがある。でも、音は違う」
「”ちゅどーん”って書いたら、それしかない?」
音は言葉と直につながるから。最も直接的なんですよ。似たのがセリフ
であって、セリフは「」にあることが直接感じられるでしょ? でもセリフ
はそうであるというルールなんですよね。文章中で”バカめ、と告げた”と
書いてもセリフはセリフ」
音はセリフになり得ない?
音は言葉になるのかどうか。それが問題です。派手な爆発音を書いている
人もいますが、果たしてそれは正解なのか? 感覚として見せたいという
のであれば、何故にその表現だけルールが違うのか?」
「つまり川上君から見たら、擬音ってのは小説の中の”絵”なわけだ」
「小説というのは想像させるものだと思ってるんですけど、その中に擬音が
はっきり書かれてると、そこだけ想像しなくて済むんですよ」

「うわー、怖いこと言ってる気がする(笑)」
「でもマジだよ〜(笑)要するに買った本は自分のもの、書かれてる文章を
どう想像するかも自分のもの。でも擬音はその中で完全に正解なわけ。想像
させるといよりも、”この音”という風に書かれてるから。そうなると
自分の想像力が走ってる中に、いきなり他人が介在することになる」
「すっげー自信のある読者だなあ(笑)」
「作家の書いた物は読者に想像力を喚起させる素材だ、と?」
「想像できるからこその読書でしょー」
「マンガの書き文字も確かにフツーの書体じゃないもんなあ。効果音を
写植に任せない
のは多分、川上君が言ってるのと同じなのかもしれない」
「ホンモノが出せるワケじゃないですよねー、アニメとも映画とも違う。
逆に想像させることがマンガとか小説の強みだと思うわけ。で、そういう
ルールは昔から連綿と作られてたわけで、改革派気取って破る人もいいけど
ひょっとしてそれは単に想像力奪ってるんじゃねーのかなあ、と」
「想像力を奪われると、本を閉じるわけだ」
「だって想像してる途中でいきなりホンモノだもの。自分、擬音を、
”そういう感覚の音がしたという文字の形をとった記号”として理解
できるほど若くないし」
「紙の上の活字は描写のためにある、と」
「擬音をやれば簡単だし、今の読者にはそれが向いてるのも解りますけど、
でも読めないんだよなあ(笑)」
「結局それかい(笑)」
「アデアスケス・スキタル・マクロス」
「ヤット」
「まだやってるよこの人達〜(笑)」
「いやはやいやはや」

三人寄れば何とやらというが、集まりすぎてよく解らなくなってしまった気が
だけどこの会話の中に、自分のようなタイプ、つまりは擬音の外側の小説だけ
を読んできた人間の思考は全て詰まっていると思います。
技量? 作風? それは単に作者の問題。
想像力を使わなくてもいい場所がある(ように見える=自分のような人間は
擬音を”活字ではあるがそういうカンジの音がしてるという記号”
的な訓練を受けてないから、擬音は擬音として見てしまう)というのは
自分のような読者にとっては不気味だったり。

だから本を閉じてしまうわけです。
ついでに言うと、自分より上の年代の多くの人は、そういうのを見切るのが
自分よりも強いです。

「擬音ばっかりでマンガみたい」
とはっきり言うのですよね。その人達は。(そういう人達でもマンガは読む
ので、小説とマンガにおいて頭の中で棲み分けがなされてるということか)
擬音。
それがあっても構わない。
だがそれがあると自分は読めないし、自分の世代以上の多くの人が読まない。
そりゃあ自分の意とするところではないな、と。
無論、書く人なりに狙いはあるんです。
ついでにいうと、そういうものを書くための能力を自分は自分の中に見つけて
いません。おそらく不得手。それをするのが。
自分の得手は音を文字で感覚表現する方にあることは間違いなく、そしてそれ
をするのが好きなのだなー、と。
自分のようなスタンスで書かないならば、使っても構わない、ってか、使うべきです。
文章のレベルが落ちるだのなんだのは、プロならば覚悟の上。
ひょっとしたらそれでレベル上がるかもしれませんし。
そういうものではないのかな、と。

自分の意見はそんなところ。

いやはや長いですねどうも。


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自分と他人の共通点
そして非共通点
自分は他人に与えられるのか自分のみなのか
それを判断するのはやはり自分だけ。



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