03−
NOVEL03
制作日時:1999/3/初旬
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今回は小休止ってことで、誰が読んでも大丈夫なように書いてます。
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なぜそんなことをするのかといえば、
「これが全ての基本だから」
です。
文字の存在がなければ文も言葉もあり得ず、
セリフやシナリオさえもありえないというわけですな。
「記号」 ”!”とか”?”のように、 それのみで意味を持つ記号であったりもするし、、 ”い・ろ・は”と書いてあればイロハ歌留多ではなく、 その”数字のように数え方の順番”を思考するということ。 |
「音の表示方法を概念化したもの」 ”あ”というのは誰もが見た瞬間に”あ”だと解るが、 声に出すと全員違う”あ”である。 しかし、 皆の中では”あ”に対する統一規格は”あ”であると、 まあそういうこと。 |
「ものの存在の意志表示を形状化したもの」 誰かが”あ”と言ったとする。 だが文章上ではちゃんと、 ”あ” と描かない限りそれは存在できない。 自分の本で言うと倫敦がこの感覚を強く有する。 |
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「文字は記号である」
というのは、
さっきの説明で何となく解っていただけるんじゃないのかな、
と思います。
犬
って書かれているのを見てネコを想像する強者はいないでしょう。
!
って見たら勢いを感じるのと同じです。
こういう意味で言うと、
文字というのは絵に似た力を持っているといえます。
青い紙に白い物体を描けば雲でしょう。
描いた人間がそれを雲だと思っていなくても。
文字というのは強い指向性を持った記号です。
時には、
文章なんて長い物を書くよりも文字一つで終わらせてしまうことができる。
比較例示します。
例1(普通の文章)
「曇り空は走る速さよりも鋭く広がった。彼女は走るのをやめて、立ち止まる。 短い前髪を通して、額に冷たいものがあたったからだ。 走ったところで雲は追いついてくる。遅すぎた。足も、走り出したタイミングも、だ。 空を見上げた。 空から雨が降ってきていた。 その粒が顔に当たる」 |
例2(文字の記号化)
「曇り空は走る速さよりも鋭く広がった。彼女は走るのをやめて、立ち止まる。 短い髪を通して、額に冷たいものがあたったからだ。 走ったところで雲は追いついてくる。遅すぎた。足も、走り出したタイミングも、だ。 空を見上げた。 雨。 その粒が顔に当たる」 |
解るでしょうか?
例1=精密描写
=描写映像として美しいが遅い:読者に負担は与えない
例2=簡略描写
=描写映像としては事実を叩きつけるだけなので荒いが、速く強い:読者に負担を与える。
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必要なのは、
個々がもはや表現形態となっている記号をいかに強く結びつけていくかという、
そのパズルに似た問題の答えです。
ハイ次つぎー。
「文字とは音の表示方法を概念化したもの」
これはどういうことか?
文字の定義というものに、
「文字とは音を具象化したものである」=音があるから文字がある
というのがありますが、
よく考えるとこの定義は間違いかもしれません。
先述したネタですが、
たとえば、
「お」
と言ってみましょう。
それで隣の人に、
「お」
と言わせてみましょう。
すると気づくのですが貴方の、
「お」
と隣人さんの、
「お」
は違うはずです。
はてさて、
「お」
という同じ文字を発音したのに違いが出る。
となると先ほどの定義、
「文字とは音を具象化したものである」
というのは嘘になります。
なぜならば発声という計算式は(少なくとも)貴方と隣人さんの分存在するのに、
それを表現したはずである結果の、
「お」
は一つしかないのですから。
ここでうがった正確さを発揮すると、
全ての言葉には宇宙生まれて以来発声可能な生物や思念体の数だけナンバーが必要です。
「それを省略してるのが今の文字だろう」
という指摘は無効ですね。
なぜなら我々は小学校の時分でさえそんな省略の事実を習いませんでした。
ならば文字と音の関係はどうなのか?
正しく正確にいうならば(これもすごい言い方だ)、
文字とはもはやその発声の起源を無視して、
「音の表現方法を概念化したもの」
としか言えないわけです。
つまり、
「お」
と書いてあった場合、
それはどういうトーンやボリュームの、
「お」
を指定する(これが文字を音の具象化とする定義)かなど問題ではなく、
「お」
という全体的な音を発するための方法を一パーツで表現しているワケです。
(自分の今のフォントが12ドットだから、
「お」
というこの12ドットの塊が、
今読んでいる貴方達に、
「お」
という発音の概念を与え、
その発声の存在をイメージとして喚起している。
とまあ難しく言うとこうなりますか)
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てな感じで考えてみますと、
ここまで提示した意見において文字が扱うのは、
「表現」
「記号によるイメージ」
「音」
というまさにオーディオ・ビジュアルな形態であり決して、
「作文のための要素」
ではないことがわかります。
解らない方はまたこの文面を最初から読み直すように。
つまり文字は文章を作るためにあるのではなく、
シナリオやセリフを書くためにあるわけでもない。
何のためにあるのか?
その疑問に対する答えが、
前述、
「文字は何なのか」
という問いかけに対する最後の答え、
「ものの存在の意志表示を形状化したもの」
です。
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これはどういうことなのかと考える前に、
今までの文章で述べたことを思い返してみましょう。
犬
と書かれていた場合は犬を思い浮かべるでしょう。
では、
その犬はどこにいるのか?
「?」
目の前にはいませんし、
記号である文字は犬本体ではありえません。
それでも確かに犬がそこにいる。
(ああ、何かシャレみたいになってきたぞ)
解説すると、
「犬」
と書かれた時点で、
犬というものの存在が記号から来るビジュアルとして、
または頭の中で”いぬ”と想像する音から来るオーディオとして、
完全に、
概念ではなく思考の中に、
「形状化」
されてしまった。
「思考の中に”犬という存在(この存在は動名詞的か)の事実”が発生、
いやまさに発声した」
というわけです。
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文字で作られる、
「存在論」
は、
とある英語で言うともっと完璧になります。
ちょっとその英語を混ぜて妙な文章を書いてみます。
おそらく、
ここまでの文意が解る人ならば、
この文章の成立を認知できるのでは?
「さあ椅子から立とう。 そうすれば、 NOBODYは何も言わず君の空けた席に腰掛けるだろう」 |
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これと同じように、
いつも貴方が帰宅に使っている道、
それとは逆にある三軒隣の家が火事でも起こして消えたとしましょう(危ないなあ)
貴方がその事実を知るのは、
その家が消えた瞬間ではなく、
その家の焼け跡を見た直後です。