03−
NOVEL03

休息文字思考

制作日時:1999/3/初旬


ここに書くことは自分的小説の書き方であり、このNOVEL・EDUCATIONの指針となることであり、
また、自分個人として信念のように思っていることだったりします。

よって、こから先に書かれることが自分のいる領域(一般市場のあるゲームや小説)の”平均意見”ではないことに注意して下さい。
これは自分の意見であり、
それを読んだ方がどう思おうと勝手です。
そして、読んだ方の意見に対して自分がどう思うかもまた勝手です。
意見として世に流れたモノは、受け取った側に消化され、作った側はもはや制御できない。
この、一般的にクリエイターが持つべき理念でここから先もずっと綴るので、以後、宜しく、と。




今回は小休止ってことで、誰が読んでも大丈夫なように書いてます。

■■
さて、
シナリオ講座の息抜きということで、
ここは一つ文字というものについて考えてみましょう
文字です。
言葉ではありません。
文でも単語でもありません。
今ここにこーやって書いてある文字ね。
それを考えてみよう。


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 なぜそんなことをするのかといえば、
「これが全ての基本だから」
 です。
 文字の存在がなければ文も言葉もあり得ず、
 セリフやシナリオさえもありえないというわけですな。

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では文字とは何なのか
と。
自分が思うに、
そして幾つかの本に書いてあるとおりに考えると、
文字の正体は、
「記号」
 ”!”とか”?”のように、
それのみで意味を持つ記号であったりもするし、、
”い・ろ・は”と書いてあればイロハ歌留多ではなく、
その”数字のように数え方の順番”を思考するということ。
「音の表示方法を概念化したもの」
”あ”というのは誰もが見た瞬間に”あ”だと解るが、
声に出すと全員違う”あ”である。
しかし、
皆の中では”あ”に対する統一規格は”あ”であると、
まあそういうこと。
そして、
「ものの存在の意志表示を形状化したもの」
誰かが”あ”と言ったとする。
だが文章上ではちゃんと、
”あ”
と描かない限りそれは存在できない。
自分の本で言うと倫敦がこの感覚を強く有する。

 はて、
自分語が並んでしまったのでワケわかんねーかもしれません。
順番に解説します。


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「文字は記号である」
 というのは、
 さっきの説明で何となく解っていただけるんじゃないのかな、
 と思います。
 
 って書かれているのを見てネコを想像する強者はいないでしょう。
 
 って見たら勢いを感じるのと同じです。
 こういう意味で言うと、
 文字というのは絵に似た力を持っているといえます。
 青い紙に白い物体を描けば雲でしょう。
 描いた人間がそれを雲だと思っていなくても。
 文字というのは強い指向性を持った記号です。
 時には、
 文章なんて長い物を書くよりも文字一つで終わらせてしまうことができる。
 比較例示します。

  
例1(普通の文章)
「曇り空は走る速さよりも鋭く広がった。
 彼女は走るのをやめて、立ち止まる。
 短い前髪を通して、額に冷たいものがあたったからだ。
 走ったところで雲は追いついてくる。遅すぎた。足も、走り出したタイミングも、だ。
 空を見上げた。
 空から雨が降ってきていた。
 その粒が顔に当たる」
  
例2(文字の記号化)
「曇り空は走る速さよりも鋭く広がった。
 彼女は走るのをやめて、立ち止まる。
 短い髪を通して、額に冷たいものがあたったからだ。
 走ったところで雲は追いついてくる。遅すぎた。足も、走り出したタイミングも、だ。
 空を見上げた。
 雨。
 その粒が顔に当たる」

 解るでしょうか?
例1=精密描写
   =描写映像として美しいが遅い:読者に負担は与えない

例2=簡略描写
   =描写映像としては事実を叩きつけるだけなので荒いが、速く強い:読者に負担を与える


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 これは、
「文字とは記号だよーん」
 という例示であって、
「こうせよ!」
 というものではありません。
 それに、
 こういう記号は考えて使わないと、
「ドラゴンがいた」
 などという恐ろしい文章を何も考えずに書くことになります。
(つまりはこういうインパクトあるものは作戦的に使えってーことなのです)。
 だから「記号」とはどういうことなのかハッキリ言えば、
「文字とはそれのみで表現である」
 ということです。
 良くある失敗者の言うことで、
「文字で表現するのが難しくてー」
 などと言ってますが、
 そりゃあかなり大きな間違いで(と自分は思うが)、
 文字では表現できて当たり前。

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必要なのは、
個々がもはや表現形態となっている記号をいかに強く結びつけていくかという、
そのパズルに似た問題の答えです。
ハイ次つぎー。
「文字とは音の表示方法を概念化したもの」
 これはどういうことか?
 文字の定義というものに、
「文字とは音を具象化したものである」=音があるから文字がある
 というのがありますが、
 よく考えるとこの定義は間違いかもしれません。
 先述したネタですが、
 たとえば、
「お」
 と言ってみましょう。
 それで隣の人に、
「お」
 と言わせてみましょう。
 すると気づくのですが貴方の、
「お」
 と隣人さんの、
「お」
 は違うはずです。
 はてさて、
「お」
 という同じ文字を発音したのに違いが出る。
 となると先ほどの定義、
「文字とは音を具象化したものである」
 というのは嘘になります。
 なぜならば発声という計算式は(少なくとも)貴方と隣人さんの分存在するのに、
 それを表現したはずである結果の、
「お」
 は一つしかない
のですから。
 ここでうがった正確さを発揮すると、
 全ての言葉には宇宙生まれて以来発声可能な生物や思念体の数だけナンバーが必要です。
「それを省略してるのが今の文字だろう」
 という指摘は無効ですね。
 なぜなら我々は小学校の時分でさえそんな省略の事実を習いませんでした。
 ならば文字と音の関係はどうなのか?
 正しく正確にいうならば(これもすごい言い方だ)、
 文字とはもはやその発声の起源を無視して、
「音の表現方法を概念化したもの」

 としか言えないわけです。
 つまり、
「お」
 と書いてあった場合、
 それはどういうトーンやボリュームの、
「お」
 を指定する(これが文字を音の具象化とする定義)かなど問題ではなく、
「お」
 という全体的な音を発するための方法を一パーツで表現しているワケです。
(自分の今のフォントが12ドットだから、
「お」
 というこの12ドットの塊が、
 今読んでいる貴方達に、
「お」
 という発音の概念を与え、
 その発声の存在をイメージとして喚起している。
 とまあ難しく言うとこうなりますか)

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 考えてみましょう。
「その女性は、
 あ、
 と叫んだ」

 という文章を見て、
 皆の考えた彼女の声は違うはずです。
 そしておそらく正解はありません
 もし正解を作ろうとするならば、
 それは前後の文脈から「確定的な推測」を行うしかなく、
 それはまさに読者にとっても作者にとっても苦行であり、
 また楽しみでもあるわけです。
(ここで前述の「記号」について考えていただけるとありがたかったりします。
「お」というのは、
そういう意味の記号でもあるわけです)
 そしてまた、
 文字においては音を限定すればするほどダサくなると、
 個人的に自分はそう思ってます。
 なぜならば、
 文字は音を正確に描写できません。
 正確に作ろうとしたら修飾語が多くなって円周率計算のような正解を追い続けるハメになり、
 その回避結果が恐らく現在のライト小説の擬音の羅列であろう、
 と、
 そう思います。
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ケッコー小難しいこと言って
概念のひっくり返しをやってるので
ちょっとここらで床にでも寝っころがって
一息つきましょう
一気に詰め込むと理解できませんし



 てな感じで考えてみますと、
 ここまで提示した意見において文字が扱うのは、
「表現」
「記号によるイメージ」
「音」

 というまさにオーディオ・ビジュアルな形態であり決して、
「作文のための要素」
 ではない
ことがわかります。
 解らない方はまたこの文面を最初から読み直すように。
 つまり文字は文章を作るためにあるのではなく、
 シナリオやセリフを書くためにあるわけでもない。

 何のためにあるのか?
 その疑問に対する答えが、
 前述、
「文字は何なのか」
 という問いかけに対する最後の答え、
「ものの存在の意志表示を形状化したもの」
 です。


 解りやすく言葉を作ると、
「ある物体が存在したいと思っている。
 その、
 存在したいがゆえ存在にする、
 という事実の概念(意志表示)自体を形状化する記号」

 が文字です。
 コツとしてはそれが存在し得ないものであっても、
「文字は概念自体を形状化する」
 のであって、
「そのもの自体を形状化するのではない」
 ゆえに、
「あり得ないものを表現することも可能」
 ということです。

■■
 これはどういうことなのかと考える前に、
 今までの文章で述べたことを思い返してみましょう。
 
 と書かれていた場合は犬を思い浮かべるでしょう。
 では、
 その犬はどこにいるのか?
「?」
 目の前にはいませんし、
 記号である文字は犬本体ではありえません。
 それでも確かに犬がそこにいる
 (ああ、何かシャレみたいになってきたぞ)
 解説すると、
「犬」
 と書かれた時点で、
 犬というものの存在が記号から来るビジュアルとして、
 または頭の中で”いぬ”と想像する音から来るオーディオとして、
 完全に、
 概念ではなく思考の中に、
「形状化」
 されてしまった。
「思考の中に”犬という存在(この存在は動名詞的か)の事実”が発生、
 いやまさに発声した」

 というわけです。

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これが想像力というもので


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 この事実は虚構と現実の間を行ったり来たりします。
 例示しましょう。
「貴方の後ろに誰かがいます」
 この文字の羅列を、
 背後に対する気遣い無しに否定することは不可能です。
 つまりこの文字を読んだ瞬間、
 時間が停止しているならば貴方は間違いなくこの言葉の事実を確かめる術が無く、
 提示されたこの言葉を信じるしかない。
 ここまで読んでふと思って欲しいのは、
「しかし、
 実際だれもいないと自分が事前に知ってたらこの文章は成立せず、
 文字は結局現実の事実に屈するのではないか」

 という疑問です。
 ですが、
 御安心を。
 想像力は現実を凌駕します。


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 文字で作られる、
「存在論」
 は、
 とある英語で言うともっと完璧になります。
 ちょっとその英語を混ぜて妙な文章を書いてみます。
 おそらく、
 ここまでの文意が解る人ならば、
 この文章の成立を認知できるのでは?

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「さあ椅子から立とう。
そうすれば、
NOBODYは何も言わず君の空けた席に腰掛けるだろう」


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 おわかりかな?
 文字が作るのは作文とか描写じゃあなくて、
「事実の発生」
 です。
 考えてみましょう。
 自分は高校の時、
 合宿から帰ってきてはじめて、
「ソ連が無くなったことを知った」
 それも新聞で、

 です。
 これは自分にとってどういう意味をもっていたか?


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 これと同じように、
 いつも貴方が帰宅に使っている道、
 それとは逆にある三軒隣の家が火事でも起こして消えたとしましょう(危ないなあ)
 貴方がその事実を知るのは、
 その家が消えた瞬間ではなく、
 その家の焼け跡を見た直後です。

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事実はその一瞬で作られる
文字がその事実を構成するのだとしたら
これを使わない手はないですな


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 てな感じでワケわからん文章を書いてみました。
 これは言葉の存在学として昔々に語られて、
 今はほとんど忘れられてる考え方です。

「光あれ、
 すると光が現れた」
 これはどういうことなのかと、
 そのあたりの時代からずーっと考えられてきたことなのですね。
 考えましょう。
 この自覚が無いのと有るのとじゃあ作られるモノに雲泥の差が出るのだと思っています。
 デッサンある絵と無い絵の違いくらいデカいと自分は思います。
 


■■
 常識とは意外にも
真理とは別にある
とりあえず今まで触れていたものが
異質なものだと理解できたならば、
それを常識と出来るように本物となってはどうかと。



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