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梅原氏への返信2000年02月19日
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梅原克文様
2000.2.19

 ぼくがこれを書いている今はすでに確定申告も終わり正月気分など微塵も残っていませんが、個人的には昨年の内の仕事を仕上げていたので相応の年明けが過ごせました。まずはめでたい正月でした。

 まず、前段の書簡をホームページで公開したことをご報告します。
 内容については特に異はありません。旧SF関係者たちの責を問う声のトーンがぼくの立場とは違う気がしましたが、これは別にどうでも良いことです。

 カムナビ、実を言うともう少し部数が行くのではないか、そう考えていました。
 ぼくの立場は一定で「作品の売れ行きは、作品の持つ力によって決まる」と考えています。「カムナビ」は「二重螺旋」や「ソリトン」に匹敵する力を持っていますから、それに近いものがあるのではないか、そのように予想していたわけです。
 もっとも、あとは読者が決めるべき事。ぼくなどが意見を開陳するものではないでしょう。

 先日、いただいた書簡でいささか感じるものがありました。クラークに関する部分です。
 まず最初に表明しなければならないのですが、ぼく自身はクラークの熱心なファンではありません。「都市と星」「幼年期の終わり」等はさすがに目を通していますが、取り立てて感銘を受けたわけではありません。ですから、梅原さんの主張する「超人類への進化がSFファンたちを誤った道に導いた」という説についても、同意も反対もできないのです。

 ですが、今回の手紙をいただいて「そろそろSF開闢期の作家たちの再評価をすべき時が迫っているのではないか?」そのような感を強くしました。
 ぼく自身はポリシーとして存命中の作家の実名批判はしない、という立場を採っているのですが、ビッグスリーに付いてはそろそろ解禁かも知れません。

 日本ではSFと言う言葉が定着し、出版界の中での地位を築いたのは福島正実以降。
 世界的にはいわゆる1940年代の黄金期、ジョン・キャンベルJr以降として良いでしょう。それ以前に科学小説であるとか、SFという言葉は存在していましたが、今ほどの重きを持ったものではなかったはずです。
 この時期を代表する作家たちがいわゆるSFの代表的な作家と考えられます。国内的には、星、小松、筒井三氏のいわゆる御三家。
 世界的にはアジモフ、クラーク、ハインラインのビッグスリーです。
 日本で何が起こってきたかはすでに論証しました。

 続いて世界ではどうか? 少なくとも世界から日本の受けた影響を考えるべきではないか。梅原さんの問いかけからそのような必要性を感じたのです。

 評価は様々でしょうが、アジモフはSF作家と言うより、科学解説者として捉えるべきでしょう。科学解説者、というと歴史にはジョージ・ガモフが挙げられますが、アジモフは質、量もにその数十倍の著作を残しています。

 そして、ハインライン。個人的にはハインラインにもっとも親しみを覚えます。後年は饒舌的なほどの超大作を表し、一部からは手厳しい批判を受けますが、そのすべてがミリオンセラーとなります。

 そして、クラークです。先にも述べましたように、ぼくにとってのクラークは「有名だけれども、良さが判らない作者」です。
 それでも、クラーク作品に付いて考察をめぐらしてみますと、クラークの提示する作品のコンフリクトに違和感を覚えます。
 小説は登場人物がコンフリクトを解決することによって進展していきます。コンフリクトの性質が、小説の性質に大きく関与します。
 ハインラインの場合は自分が「小説のパターンは二つしかない。ボーイ・ミーツ・ガールとビルトゥィングス・ロマンだ」というだけあってかなり徹底しています(もっとも、これは晩年の超大作には当てはまらないようですが)。
 で、クラークの場合、大抵の場合に置いて、科学の進歩であるとか、人類の進化であるとかである場合が多いようです。
 だとすると、コンフリクトの設定が読者から遠すぎるのではないか? そのような疑問が発生します。しかしながら、それがコアなSFファンに感銘を与え、クラーク類似の作品を良しと思い、追いかける者たちも生まれてくるでしょう。
 ところが、あまりに一般読者の意識から遠いものを物語に据えてしまうとそれがSFであるか否かに関わらず「純文学的な」傾向を持ってしまうのではないか? 今のところ、そのように考えています。
 まだ、それほど考察を重ねているわけではないので、あまり上手く言えないのですが、もし、SFの純文学化の始まりをビッグスリーの誰かに求めるとしたら、これはクラークかもしれません。
 もっとも、クラークの時代にはSFの可能性を呈示するために様々な方法が試みられ、その中の一つに過ぎなかったでしょうし、クラークならずとも誰かが同様の模索を始めていたでしょう。
 誰か……ディックか、バラードか、ブラッドベリかもしれません。スタージョンの法則を持ち出すまでもなく、その中には判ってやっている作家もいれば、九割に入るものもいるでしょう。
(このあたりを考察するのにずいぶんと時間を掛けてしまいました。すみません)
 ですが、誰でも良いのです。すでに「何が起こってしまったか」は判っているのですから、我々がなすべきは、その轍を踏まぬ事です。
 ぼくはすでにクラークに興味はありません。どうでもいいことです。

 ぼくは現在、今自分が興味を抱かされる作品に着手しました。仮タイトルは「ディンクス」。内容は……想像にお任せします。自分でも不思議なほど心地好くストーリーがすすみます。
 SFの冬に対して我々はどう立ち向かうか? この命題に対して梅原克文は「サイファイ構想」を打ち出しました。
「ディンクス」はSFの冬に対する青山の回答です。
 これは潜在的好SF読者の指示を得られないかもしれません。ひょっとしたら梅原さんを含む多くの人々を混乱させるかもしれません。

 また、いささか宣伝じみるのですが、二ヶ月ほど前から篠田節子氏が「週刊朝日」誌上で「百年の恋」なる連載を開始しました。この作品について、合作といえるほど大きな協力をしています。もうそろそろ同誌上にぼく自身の文章が載るはずで、これもまたぼくにとっては「ディンクス」と同一線上にある作品です。

 ですが、ぼくは帰って来るでしょう。

 では、また。

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