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梅原氏への返信1999年1月30日
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梅原克文様
1999.1.30

 青山です。
 またまた間が開いてしまい失礼しました。
 最初にホームページ公開にあたって大幅に一部を付せた事をご報告します。

 ***批判の部分です。

【数えるのが面倒なほど削除】

 長い前置きになりました。
 幾つかの細かい点について。

・「SF大会参加者が、SFマガジンを恒常的に読んでいるわけではない」
 SFマガジンがファンの告知板をかねているについて。数値を上げて議論する事はできないのですが、身の回りにもそうした人間は多いようですし、ぼく自身も立ち読み派で、確かにろくに記事も小説も読みません。
 ただ、買った人間は読んでいるのではないでしょうか。
 読んでいるとすれば梅原さんが主張されるような「SF大会ファン=SFサティアン」という図式が成り立ちますが、読まないのであればこの構図は崩れます。
 ぼくは「SFファンがSFを偶像崇拝した結果、SFが衰微した」という説を覆したいのでこのような主張をします。

・「SFマガジンの歴代編集長は、ファン出身なので、アマチュア・イベントのSF大会を誌面で大きく取り上げてしまう」
 梅原さんの誤解を招いたようですが、今岡清編集長はファン出身でしたが、その後の編集長たちがどうだったかは、ちょっと判りません。
 ただ、ぼく自身は最近ではSFマガジンの出版傾向を決めたのは早川書房の役員たちではないかと勘繰ったりしてしまいます。一時期、社長みずからがSFマガジンの編集に当たっていた時期があります。

・「オタク排撃論について」
 梅原さんがこのような理論武装を行っていたとは知りませんでした。
 オタク排撃論、結論においてはまったくその通りだと思います。もっとも、ぼくのスタンスは「オタクを追い出せ」ではなくて「相手にしてもしかたない」ではありますが。
「いわゆるオタク、SFファンを相手に商売をしても始まらない。一般大衆を取りこまなければならない」とは常日頃から感じていた所であり、これは梅原さんとは同傾向の意見だと思います。
 こうした結論に至ったぼくの考えは次のようなものです。
 SFファン、マニア、オタク、サティアンの住民、こうした人たちはいわゆる「熟達した読者」です。かれらは日常的に本を読み、小説を消費します。
 そう言った意味では有り難い顧客なのですが、いかんせん数が少なすぎます。
 かれら全員が我々の著書を購入してくれたからとて、それほどの出版点数には結び付きません。SFマガジンの印刷部数を参考にしても二万程度と言うのがせいぜいでしょう。この数字ですととりあえず商業出版として成り立ちますが、商売としてうま味があるかというと、そうでもありません
 いわゆるベストセラーは様々な基準がありますが、大ヒットで百万。小中ヒットで五万から十万と聞きます。こうした数字を実現するためには一般大衆、つまり「普段は本を読まない人」にも著書を買ってもらわなければならないわけです。
 そうした作品は玄人受けするものより、一般大衆向けに味付けしたものでなければなりません。一般大衆向けとは言うものの作品のレベルを下げるという手抜きとは違います。判りやすい、読みやすい丁寧な作りが要求されるだけシビアです。
 作品の善し悪しに対する評価はマニアの方が厳しそうですが、現実には反対です。マニアは沢山の作品に目を通していますから、反対にできの悪い作品も多く読んでおり、技術的な欠陥を持つ作品でも「(いままで読んだ)最低の作品よりマシ」という捉え方もします。結果、技術的な欠陥を持つ作品でも新しい見るべき所がある作品を評価しがちです。
 したがって、マニア受けする作品とは「新しい見るべき所がある作品」で、新味を出すためには既存の完成されたパターンから離れる傾向がでがちとなり、それは一般大衆の嗜好から離れかねないことを意味します。
 むろん、理想的にはマニア、一般、双方から支持される作品がベストなのですが、それは二律背反を含み、双方の要求をかなえることは至難の業となります。
 結局、マニア受けする作品を追求すると、少数の読者の支持は取り付けられるでしょうが、大多数の一般大衆からはそっぽを向かれてしまうわけです。
 このようなマニア追求型の作品がSFに蔓延し、現在の衰微が訪れた、と受け取っています。

 まあ、ぼく自身は梅原さんほど強烈にオタクを敵視する必要はそれほど感じませんが、擁護する必要性も感じません。一方、梅原氏の態度はメンタリティの一部として理解しているつもりです。
 梅原氏の推理については、公開は別に述べた理由から物怖じしてしまいます。小心者とお笑いください。
 ですが、梅原さんがインターネットに乗り出すのは大歓迎です。
 インターネット環境を整えるためだけにコンピュータを購入するのはばからしいですが、梅原さんの場合、すでにウィンドウズ搭載のハードがある模様。あとはモデムを通じて電話線を接続し、プロバイダと呼ばれる接続業者に依頼して繋げば明日にでも可能でしょう。
 プロバイダの選択も様々な条件を比べなければなりませんが、今では無料で一定時間アクセスできるお試しコースのようなものが色々ありますので、乗り換えながら比べるのが良いかと思います。青山も現在のプロバイダに定着するまで、五つものプロバイダの無料お試しコースを渡り歩きました。
 正直言って自分でホームページを開設するのはちょっとした骨ですが、ページによっては「掲示板」と総称される第三者が何を書きこんでもかまわないスペースを設けており、ここを利用するのが自分の意思表明にはもっとも手っ取り早いでしょう。遅ればせながら青山のページもやっと先週、掲示板を設置しましたので、インターネット環境整備のおりには、ぜひお好きにお使いください。
 もっとも、掲示板は開かれた場所ゆえ、誰でも自由に出入り可能で、論争など始めると泥沼になる可能性があります。ぼくの場合はアクセスを週に一度にするとの制限をかけていますが、何らかの対策を用意しておかないと、本業に影響が出かねません。

・「言ってはいけない空気について」
 繰り返しになるのですが誰がその中心なのか? という疑問が払拭できません。

 柴野先生との対立、ぼく自身は心を痛めていると、表しておきます。双方ともに友人であり、恩師であるからです。

 感情論は置いて、SFをダメにした中心の長老格、梅原さんからは柴野先生であると見えたのでしょうが、ぼくにはそうは見えないのです。
 柴野拓美という人物を見ると二つの顔があります。
 一つは翻訳家、小隅黎。アーサー・C・クラーク、J.P.ホーガン、ラリイ.ニーブンらの翻訳者であり、押しも押されもせぬ大物です。ですが、翻訳者ではSF全体の舵取りは不可能です。日本の文芸全体を見ても、たとえばミステリでも主流は国内作品であり、海外作品ではないのと同じです。

 二つ目の顔がファンダムの長老としての顔ですが、ファンの集まりの人間が何を言ったからとて、直接的な影響はありません。逆に宇宙塵の主宰者としてスペースオペラ、サイファイ派の作家を送り出してきたところから、SFのメタ言語小説化を防ごうとした第一人者でもあるわけです。

 むろん、ファンダムを敵視する梅原さんのこと、ファンダムの象徴として批判したのかもしれませんが、攻撃を振り向ける対象がほかにある場合、柴野先生に矛先を向けるのは本来払うべき労力を別のところに使っていることになりかねません。
 また、ぼくの目から見た場合、梅原柴野対立は「創作者対読者」の立場で交わされているように見えます。
 今までも主張してきたことのくり返しですが、読者がこのような意見の交換に入りこむと、必ず感情論に踏みこんでしまいます。読者には赤字か黒字かについての興味はありません。好きか嫌いか、善意悪意だけなのです。おのずとすり替わってしまいます。
 幸か不幸か、柴野先生は創作者ではありません。国内SFに相対するときは読者の立場以外取りようがな いのです。
 また、柴野先生の翻訳者としての立場であれば「創作の売り上げの多寡」をの会するのは難しいのではないかと思います。いずれにせよ、梅原さんと柴野先生の議論は食い違います。
 梅原さんはファンダムに対して悪意を持っているのですから、柴野先生が「悪意を感じる」と言ったのもごく当たり前です。経済問題に柴野先生が感情論で反論したものですから、梅原さんが拒絶したのもこれまた当然と見えます。
 双方の理論がかみ合っていないのです。おそらく、というよりまず間違いなく、柴野梅原の対話では双方が自分の意見を開陳するだけに終わり、実のある結論は得られないでしょう。
 青山の感情としてはお二方に和解していただきたく強く希望しますが、文筆業者としては「そう言った事もあったのだ」と意識にとどめるにしておきます。

・賞について。
 後退したと言われていまいましたが、以前の手紙にも書きましたように、賞の効果というものは特定の一つ二つを別にすると、ほぼないものであると認識しています。スペースオペラ大賞が設立されたと仮定した場合、ま、自分が授賞したとしたらそれなりに喜しいでしょうし、知人が授賞すればお祝いに駆けつけます。ただ、それだけの事です。

 ここに述べたのは些細な事かもしれません。我々の議論においては大体の意見の一致を見て来たもので、多少の意見の相違があったとしても結論や対応に大きな変化はないものです。
 シニフィアン、シニフィエの対応も大切かもしれませんが、なによりも重要なのはサイファイという発想によって「世界の遠さを表わす新しい基準」を作れた部分ではないかと思います。
 ぼくがこの往復書簡でえた成果のなかでも、大きな一つです。
「サイファイ」「スペース・オペラ」「SF(スペキュレイティブフィクション)」の順に世界は遠くなります。
「世界の遠さを表わす新しい基準」、青山の造語であり、説明が必要でしょう。
 物語はすべて、作者が作り上げた人工の世界の中で進行します。
 スペース・オペラなどですと「宇宙船と光線銃」、ファンタジーならば「剣と魔法」が幅を利かす世界なわけです。こうした世界は言うなれば「遠い世界」です。剣と魔法も、宇宙船と光線銃も存在しないのですから。遠い世界を舞台とする場合、読者を作品世界に引き込む特別な努力が必要になります。
 一方、われわれに最も「近い世界」は現代日本です。これであれば読者はスペースオペラや、ファンタジー世界の特別の言葉を理解する必要もなく、すんなり入っていけます。
 現代日本より若干離れた世界は、たとえば「現代、海外」であるとか「江戸時代、日本」、さらには「近未来SF」であるとか「サイファイ」も比較的近い世界に分類できるます。
 SFに限らず従来の分類ではこうした「世界の遠さ」を規定する言葉はなかった様に思います。もっとも、いまでも分類する必要はないかもしれませんが、作品を作り上げていく上で一つの指針になります。
 何かと言いますと、世界が近ければ近いほど一般大衆に受け入れられやすくなるわけです。
 ここ数年のベストセラー小説を思い返してみると、そのほぼすべてが「現代日本」を舞台としています。日本ではないものでも、時間的なずれがあったり、地理的な距離はあるものの、いずれも非常に近い世界を想定しています。
 SFではこうした距離について言及されたことはないかと思いますが、梅原定義によるサイファイ「現実的で日常的な舞台設定から物語の幕が開いて、徐々に超科学・超自然の世界へ、客をいざなっていくストーリー・パターン」は非常に現代日本に近い世界であり、一般大衆に受け入れられやすい物語だといえます。
 こうして考えるとスペキュレイティブ・フィクションが支持を受けられないのも理解できます。世界が遠すぎるのです。

 これは余談になりますが、「世界の遠さ」を基準として考えた場合、スペース・オペラやファンタジーはかなり遠いものにかかわらず高い支持を得ています。
 いままでの青山の主張と相反するようですが、これは剣と魔法や、宇宙船と光線銃の世界はいまの人々にとって、それなりのリアリティを持っているからでしょう。居心地の悪い現実より、ゲームやアニメで見知った世界の方に、昨今の若い人たちが親近感を抱いたとしても不思議はありません。

 この遠さに関連して感じたのが、スペースオペラも、ファンタジーも最初から作品世界の中で物語が始まることです。それぞれの世界に独自のルールがあり、現代日本との関連は希薄かあるいは全くなくてもかまいません。それぞれを定義付けるのは「世界」なわけです。
 そうすると、スペースオペラも、ファンタジーの一種であといえるかもしれません。無意識にスペースファンタジーという言葉を使うことがあったのですが、意識せずに正鵠を射ていたようです。
 同様にぼくが書き続けている戦記シミュレーションもファンタジーの一種であると捉えることができます。物語世界は数十年前の日本であり、戦艦大和、ゼロ戦などの現実のものを使っていますが、事実との関係は希薄です。反対に登場する兵器類が独自のギミックと化しているようにすら感じられます。

 これもくり返しになります。「シニフィエ、シニフィアン」の適切な対応も重要ですが、それは本来、評論家の作業です。
 我々のなすべき最大の義務は力のある作品を作り出すことです。作家の権力とはつまりは作品に起因するものです。大きな賞を授賞するような作品も、作品自体の力があるから認められるのです。
 我々が繰り返して来たような分析は作品にフィードバックさせるための分析でなければなりません。そうした努力の上に高い評価を受ける作品を積み重ねて行って、やっと権力が得られるのでしょう。長い道です。努力は嫌いですが、嫌なジジイになるのも結構大変そうです。


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