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 梅原氏からの手紙2000年03月21日

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 青山 智樹 様
2000・3・21

 前略
 藤崎慎吾氏「クリスタル・サイレンス」を読みました。
 しかし、その感想を述べる前に、以下の文章を読んでください。

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 アーサー・C・クラーク批判の続きをやりましょう。
 「シミュラークル」という文化人類学の用語が、「SFの自滅」について説明するためのキーワードになる、と思いついたからです。

 「シミュラークル」とは何か?
 私が理解した範囲で述べるならば、以下のようなケースです。
 ある土地に独特の伝統文化がありました。それは、やがて時代の波に押し流されて一度、滅んでしまいました。しかし、それを惜しむ人たちも現れます。そこで、その人々は土地の老人たちから話を聞いて、その伝統文化を復活させたのです。
 ところが、そこでミスが起きました。伝統文化のオリジナルな形とは、多少異なる形で復活させてしまったのです。つまり、後世の人間の「余計な創作」が入り込んでしまい、オリジナルとは似て非なる「まがいもの文化」が誕生してしまったのです。
 こういうケースを「シミュラークル」と呼ぶわけです。
 文化とは、こういう厄介な現象を引き起こすことがあり、文化人類学者までもが、これに騙されてしまうケースもあるのです。つまり、実際には一度滅んでから後世に作り直されたことで変質してしまった「まがいもの文化」なのに、「五〇〇年前からの伝統文化が、現代まで変わることなく受け継がれていた!」などと勘違いされてしまうケースです。

 さて、次に、本稿では「サイエンティフィック・ロマンス」という言葉を復活させて、再定義しておきましょう。
 これは、かってジュール・ヴェルヌや、H・G・ウエルズの作品の総称だった古い言葉です。
 本稿においては、ヴェルヌやウエルズから、オラフ・ステープルドン辺りまでの作家を「サイエンティフィック・ロマンス」と呼ぶことにします。
 そしてアーサー・C・クラーク以降の作家を「SF」と呼ぶことにします。

 では、なぜ、両者を別々のラベルで分けたのか?
 「サイエンティフィック・ロマンス」と「SF」との間には重大な相違点がある、と私は判断したからです。「両者の間には思想的な断絶がある」という視点で歴史を見なおすわけです。

 結論から先に言うと、以下の図式です。
・「サイエンティフィック・ロマンス」
  =「デファクトスタンダード」(事実上の業界標準)
・「SF」
  =「シミュラークル」(まがいもの文化)

 ジュール・ヴェルヌは「人類から超人類への進化」という主題で、小説を書いたことがあったでしょうか?
 私の記憶では「なし」です。
 私見ですが、ヴェルヌは「科学とテクノロジーの発達が新たな冒険ストーリーを生みだす」といった主題で小説を書いた人であり、この主題形式の「創始者」です。
 しかし、「超人類への進化」なんて、彼にとっては小説の主題としては問題外であり、脳裡をよぎりもしなかったようです。
 何しろヴェルヌは、「三銃士」の作者アレクサンドル・デュマの弟子だった人ですからね(青年時代のヴェルヌは、デュマの自宅に通って添削指導を受けていたそうです)。
 ヴェルヌは古典的冒険小説を受け継ぐ「伝統主義派の代表」だったのです。

 H・G・ウエルズは、どうでしょうか?
 こちらも「なかった」と思います。
 たとえばウエルズのデビュー作であり、代表作の「タイムマシン」を見てみましょう。この作品の主人公は時間航行機を発明し、一九世紀末から八〇万年後の未来に旅立ちます。そして主人公は「人類が退化し、退廃してしまった未来」を目撃するのです。
 つまり、ウエルズにとっても「超人類への進化」など小説の主題としては問題外だったようです。
 それどころか、ウエルズ作品には「シビアな現実認識」を感じます。要するに彼の視点はこうでしょう。
 「すでに人類は進化の袋小路に突き当たっている。これ以上の進化などないし、下手すると今よりも退化し、退廃するだろう」と。

 ステープルドンの「オッド・ジョン」は、「人類から超人類への進化」を主題として扱った、世界初の小説でしょう。
 しかし、「オッド・ジョン」には「超人類への進化を美しい物語に仕立て上げるような意図」はありません。それどころか、私はこの作品にも「シビアな現実認識」を感じます。
 何しろ、「オッド・ジョン」の結末では、人類側が、超人類たちを「悪」と見なして滅ぼしてしまうからです。
 実際、人類側から見れば、「超人類とは、現世と現人類を時代遅れにしてしまう存在」です。だったら、芽が小さいうちに摘んだ方が、人類にとっては得でしょう。「オッド・ジョン」という小説は、そうした人類側にとって都合のいい結末を迎えるのです。
 つまり、ステープルドンの視点は、「現世と現人類を肯定する視点」であり、「超人類への進化には否定的な視点」です。

 さて、以上の三人の作家たちを分析すれば、「サイエンティフィック・ロマンス」の視点の特徴は明かです。
 繰り返しになりますが、特徴は「現世と現人類を肯定する視点」であり、「超人類への進化には否定的な視点」です。

 では、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」は、どうか?
 実は、これこそが「サイエンティフィック・ロマンス」とは異なる小説だったのです。何しろ「現世と現人類が時代遅れになることを容認する視点」であり、「超人類への進化を肯定する視点」で描かれています。
 明らかに、それまでの「サイエンティフィック・ロマンス」とは異なる文化が誕生したのです。
 それが、「SF」という名前の「イデア主義的で、自滅的な文化」だったわけです! これが真相です。

 ここで一度まとめましょう。私はこう見ているのです。
 「サイエンティフィック・ロマンス」こそが「王道となる文化」であり、「伝統的な大衆娯楽文化になりうるもの」であり、「デファクトスタンダード(事実上の業界標準)」である、と。
 そして、現代において「サイエンティフィック・ロマンス」の伝統を受け継いでいるのは、マイクル・クライトンであり、ディーン・クーンツでしょう。彼らの作品には、「現世と現人類を肯定する視点」が溢れていますから。

 では、クラーク以降の「SF」とは何だったのか?
 「その正体は、シミュラークルの一種だった」と、私は思っています。つまり古くからの「サイエンティフィック・ロマンス」を受け継いでいるように見えて、実は別種の「まがいもの文化」が生まれていたのです。これが真相です。
 何しろ「SF」特有の「現人類を否定する視点」とは、すなわち大衆読者の存在を否定する視点に他なりません。そして大衆読者たちにしてみれば、自分たちを否定的に見る視点で書かれた小説など金を払って読むわけがありません。

 「サイエンティフィック・ロマンス」と「SF」とは、もう一つ重大な相違点があります。
 図式にすると、以下のとおりです。
・「サイエンティフィック・ロマンス」
  =大衆読者に読んでもらうことを考慮して、日常的で現実的な舞台設定から物語を開幕して、徐々に読者を超科学や超自然の世界に誘導する。
・「SF」
  =大衆読者に読んでもらうことをまったく考慮しておらず、いきなり非日常的な遠い未来から物語を開幕するような愚行を、平気で行う。

 この相違点を見ても、やはり両者は別々の文化だとわかるはずです。
 「SF」とは、このように大衆読者からの需要をまったく無視した「シミュラークル=まがいもの文化」だったのです。これは、二〇世紀における「文化の奇形児」であり、「文化のミステイク」だったのです。滅ぶしかないのです。

 では、私が提唱する「サイファイ構想」とは何なのか? 実は、これは「サイエンティフィック・ロマンスの伝統を受け継ぎ直すこと」も、同時に意味していたわけですね。つまり、「サイファイ」と「サイエンティフィック・ロマンス」とはほとんど同義語なのです。
 ですから、「サイファイ」ブランドにおいては、クラーク以降のSF作家は「シミュラークル」だったとして、その過半数を切り捨ててしまうわけです。そして元祖ヴェルヌと開祖ウエルズの正当な後継者は、クライトンとクーンツだった、という風に位置づけを考え直すわけです。

(念のため追記します。「スペース・オペラ」は、「サイエンティフィック・ロマンス」とも「SF」とも異なる、独立ジャンルである、と私は区分します)
(もう一つ追記します。ビッグ・スリーの残り二人、アジモフとハインラインも、厳密に言えば有罪です。彼らの作品も「いきなり遠い未来から物語が開幕する」ことが多いからです。しかし、彼らの作品には「超・人類的な思想」はあまり見られません。その点を考慮してアジモフとハインラインは無罪だ、と私は考えます)

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 さて、「クリスタル・サイレンス」の感想です。
 (と言うわけで、削除:青山。もし、気になるようでしたらご連絡ください>藤崎さん)

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 改めて書いておきますが、あと十五年か二〇年もすれば、我々も五五歳から六〇歳になっています。その時点で自動的に世代交代は果たされて、我々が最長老の世代になり、「サイファイ」が「デファクトスタンダード」の地位を占めるでしょう。
 一方、「SF」の側に打つ手はありません。
 ですから、「サイファイ作家」を増やすために後輩を勧誘したりとか、そうした宣伝活動などは特に必要ないでしょう。
 言うならば、我々は消費者市場の自然な流れを見て、その上でサーフィンをして勝ち残ってしまうわけです。
 一方、波乗りのできない「シミュラークル」は溺れ死ぬだけです。
 二〇年後の作家予備軍の青少年たちが、どちらをお手本に選ぶか? 結果はわかりきっています。

 では、また。
      草々

 PS
 私のところに河出書房新社から「総特集Jミステリー」(文芸別冊KAWADE夢ムック)という本が郵送されてきました。
 これには「作家、梅原克文は『サイファイ』という新ジャンルを主張している」といった記事内容が載っていました。P54、P56です。青山氏のホームページ・アドレスも記述してあります。
 小さな扱いの記事ですが、評論家たちも、これ以上「サイファイ」を無視するわけにはいかなくなった、ということでしょう。


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