|top|挨拶|map|梅原氏|梅原氏|自分本|引出し|おもちゃ|忘れたい|掲示板|ワープ||料理|

梅原氏からの手紙3月8日

Page bottom 

 青山 智樹 様
1999・3・8

 前略
 前回、私は、「自分のホームページを立ち上げる」という予定を書きましたが、中止します。
 青山氏も書いていましたね。
「ホームページを立ち上げるのは骨が折れる」と。
 私も昔は、コンピュータ・ソフトの仕事をしていました。ですから、この種の作業をやろうとすると、大量の時間とエネルギーを食われることは熟知しています。
 それに、「ホームページを立ち上げた後の運営」も、かなり面倒くさそうだな、ということも予測できます。
 ですから、「ホームページ」への意欲は萎えました。

 そこで適当な時期を見て、私は直接、****氏に手紙を書こう、と思っています。住所は、推理作家協会の手帳に載っていますからね。
 「SFマガジンへの不自然な赤字埋めをやっているのではないか?」と直接、問いただしてみよう、と思うのです。今年中にやるつもりです。
 で、もし、****氏から返事をもらえないのであれば、私もホームページを立ち上げます。そして、そのページ上で、「****氏から返事をもらえなかった」と暴露するわけです。

 また、「赤字埋め疑惑」という私の主張がまちがっていて、恥をかいたとしても、私は平気ですよ。その時は****氏らに謝罪するだけで、話は終わりですからね。

・「SF小説を超メタ言語的小説へと変えた犯人は早川社長であろう、という推測」
 それも当たっていると思います。
 どうも、早川書房というのは、本業の片手間的に、かなり趣味的に経営されている出版社だ、と思えるのです。
 そして同じことは、本の雑誌社についても言えます。
 要するに、メディア経営者の早川浩や、****の正体が、「準おたく」であることが大問題なのです。
 で、これに「おたく」の****と、「大金持ち」の***が荷担したような気がします。

・「柴野先生との対立について」
 これは、「対立」ではなく、正確には「絶交」なのです。
 だって、今の柴野先生は、私に対して何一つ反論してこない状態ですからね。対立にすら、なっていないのですよ。
 にも関わらず、柴野先生は旧来の「神林長平などを支持する態度」を改めないのです。
 やはり、人間とは、こういう面もあるのです。
 「あなたにはビジネス意識がない。プロフェッショナル魂がない」と指摘されて、理性では「その通りだ」とわかっているのでしょうが、感情面では、その指摘を受け入れることができないのです。
 仕方がないので、私は「絶交」を続けるだけです。

 ここで思い出したことが、あります。
 「塵も積もれば/宇宙塵40年史」(出版芸術社)です。この本の内容は、ほとんど柴野先生へのインタビューです。
 この本には、柴野先生と、SFマガジン初代編集長の福島正実氏とが不仲になり、その後はある程度の仲直りをした、という経緯が記されていました。
 不仲の始まりは、柴野先生を排除した形で、福島氏が日本SF作家クラブを立ち上げた事件からだそうです。つまり、ファン活動を熱心にやっていた柴野先生のような人を、福島氏は「プロSFが発展していくためには邪魔だ」と考えていたらしい気配を感じます。
 どうやら福島氏は、「ファン活動とは一切、関わらないプロフェッショナルな組織」として、「日本SF作家クラブ」を立ち上げ、その方針で運営したかったようです。
 だとすると、これは今、私が考えている「サイフィクト構想」と、そっくりではありませんか!
 つまり、福島正美氏と柴野先生とが不仲になった問題点は、何一つ解決されてはいなかったのです。曖昧に先送りした状態だったのです。そのため私と柴野先生との間で、「歴史は繰り返された」のではありませんか。
(インターネット用の注釈。福島正実氏は故人です)

・「言ってはいけない空気の打破について」
 これについては、遠回りな説明からしなければなりません。

 私は、現在の日本SF作家クラブの経営方針を高く評価しています。
 つまり、私は、心情的には、徳間書店と徳間書店側に立つ関係者を応援したいのです。宮部みゆき氏や瀬名秀明氏らに「日本SF大賞」を授与するという「大衆娯楽SFの路線」を応援したいし、今後も続けてもらいたいのです。
 また、今回は特別賞を、井上雅彦氏の「異形コレクション」にも授与しています。それにも、私は賛成です。

 しかし、今なお、小松左京先生による「大衆娯楽SFの路線」に抵抗を続けている連中がいます。
 SFマガジンや、本の雑誌、日本経済新聞などにコラム記事を書いている、鏡明、高橋良平、大森望、森下一仁、川又千秋、山岸真などなどです。
 これらの連中は、巽孝之と異なり、「ポストモダン」を看板にはしていなかったのです。そのため、彼らの「SFイデア主義」と、小松左京先生による「大衆娯楽SF」との違いが、明確に見えにくかったのです。そこを利用して、うまく立ち回っている卑怯者どもです。
 彼らは、口先では、小松左京先生の業績をほめちぎります。しかし、その一方で、小松左京先生と徳間書店による「大衆娯楽SFの路線」には逆らっています。何しろ、相変わらず「わけのわからない小説」や、「遠い未来を舞台にした大衆受けしない小説」を、「現代SF」などと称しているのですから。
 「面従腹背」とは、こういう奴らのことです。
 孔子の言ったとおり、「巧言令色すくなし仁」がそのまま当てはまる連中です。
 実は、こういう「面従腹背」の奴らこそが、いちばん厄介なのです。こういう矛盾した態度を取り続ける奴らが「SF評論家」を名乗っているから、「SF」は大衆から信用されなくなったのです。

 繰り返しますが、私は、現在の「日本SF作家クラブ」の経営方針を高く評価します。
 しかし、私は、彼らとは絶対に合流しません。その理由は、鏡明、高橋良平、大森望、森下一仁、川又千秋、山岸真などなどの「面従腹背」の連中がいるせいです。
 また、こういう「面従腹背」の連中に、メディア上での発言権を提供してしまう、早川書房、本の雑誌社、日本経済新聞なども大問題です。つまり、早川浩や、****の責任問題でもあります。
 小松先生も本音を言えば、これら「面従腹背」の連中や、それに協力してしまうメディアの経営陣たちをぶっ殺したいのではないでしょうか。

 ところが、これら「面従腹背」の連中は、口先では、小松左京先生の業績をほめちぎります。だから、小松先生も拳の振り上げようがない、という状態におかれているようです。
 孔子の言ったとおり、「巧言令色すくなし仁」です。口先のうまい奴こそが、実は裏切り者なのです。また、裏切り者だからこそ、それがばれないように、口先がうまくなるのです。
 どうやら「言ってはいけない空気」の本質は、これのようです。
 小松先生も、自分をほめちぎる連中こそが、実は裏切り者である、と心の底では気づいているでしょう。しかし、それを言い出しにくい状況なのでしょう。

 「帝王学」という言葉があります。つまり、「リーダーに必要な態度」のことです。
 その項目の一つに、「巧言令色すくなし仁」もあるのです。「リーダーにおべんちゃらを言う奴こそ、危険な人物である」と、孔子はとっくの昔に見破っており、時の権力者たちに忠言していたのです。
 また、シェークスピアの「リア王」などにも、以下のようなエピソードが出てきます。
 つまり、王様は、自分のそばにピエロ(道化役)を配置しておくのです。そして、このピエロには、「王様への悪口を言いたい放題、言える」という特権を与えておきます。そうしておくことが、王様のバランス感覚を保つために必要不可欠だからです。
 小松先生は、こうした「帝王学」に無知だったのかもしれません。口うるさいピエロを、そばに配置しておかなかったのですから。

 そう言えば、青山氏も書いていましたね。「小松先生の前で、SFは失敗だった、とは言いにくい」と。
 つまり、ピエロをやるのも、なかなか大変なことなのですよ。
 私は、やっていますが(笑)。

 まあ、今のところは、小松左京先生による「大衆娯楽SFの路線」と、梅原克文による新ブランド「サイフィクト」による両面作戦で、「面従腹背」の連中をいぶし出してやればいいでしょう。
 「面従腹背」の連中は、今では小松左京先生から完全に無視されてしまい、かなり動揺しているようですしね。ざまあみろ。

・「世界の遠さを表す基準」
 これは、要するに「形式超越イデア主義」を捨てて、「形式分類主義」という常識に立ち返る、ということですね。
 繰り返しますが、「SF」は廃止して、以下の三つの形式分類にするのが、より正しい経営方針なのです。

・「サイフィクト=大衆娯楽サイエンス・フィクション」
・「スペース・オペラ=宇宙冒険活劇」
・「スペフィクト=スペキュレイティブ・フィクション=超メタ言語的小説=マニアックで現実味のない小説」

 この三つは、別々の形式であり、別々の人間たちによって、別々に運営するべきでした。
 しかし、今まで、このことに気がついて、主張する人間がいなかったのです。
 まあ、インターネット上で、この手紙を見た人たちは、徐々に理解してくれるでしょう。

・「かっては筒井康隆もSFに分類しておいて、問題はなかった」
 それも当たっていると思います。
 つまり、今は、こう定義するべきなのです。
「かっては筒井康隆を、小松左京先生らの仲間として位置づけた時代もあった。だが、現在は違っている」と。

 本来、分類項目とは「永遠不変のイデア」ではなく、流動的なものなのです。
 たとえば科学の分野でも、新発見がある度に旧来の分類項目が一新されています。これは、よくあることなのです。
 一例をあげましょう。
 モルモットは別名テンジクネズミとも呼ばれるように、旧来はネズミの一種だと思われてきました。しかし、DNA情報を調べたら、ネズミではなく、ウサギの一種だったと判明したのです。その直後、動物学の分類項目は書き換えられたのです。
 つまり、分類項目とは永遠不変のものではなく、流動的なものなのです。これは「現状を追認するだけのもの」であり、いつ書き換えられるかわからないような、「不安定なもの」と捉えるべきなのです。
 それなのに、旧態依然とした分類項目に「永遠不変の絶対的なイデアの価値」を見いだしてしまう人々が、何と多いことか! 世の中の不毛な論争は、常にここに起因しているのです。
 「分類項目とは適時、作り直すものだ! なぜ、こんな簡単なことがわからんのだ!」と、私は言いたいです。

・「評論家は、寄生虫みたいなものだ」

【前の手紙では伏せて置いたが「評論家は、寄生虫みたいなものだ」と言ったのは梅原氏ではなく、この青山です。話題が評論家への態度に触れたとき「評論家は寄生虫のようなもの、何を期待しても無駄」と青山が受けたのが発端である。言葉は強いが、世の評論家諸氏に含むところはない。また、評論家のみなさんには非常な不快感を与えてしまったかも知れないが、青山は自分の思考をかえる必要性も感じていない】

 そのとおりです。
 ただし、寄生虫にも、「良い寄生虫」と「悪い寄生虫」がいるのです。そこまで深く深く見抜くべきです。
 つまり、「良い寄生虫」とは、宿主(作家)をエサのある場所に誘導し、宿主にたっぷり栄養を摂らせて、その結果、寄生虫も栄養を摂るわけです。共存共栄なのです。ミステリー作家たちと、ミステリー評論家たちは、まさにそうした理想的な関係にあります。
 これだったら、OKなのです。

 では、「悪い寄生虫」とは何か?
 「旧来のSF評論家」です。
 彼らは、宿主(作家)をエサのない場所に誘導するのです。その結果、宿主は栄養が摂れず、やせ細っていきます。当然、寄生虫も栄養失調に陥るのです。
 ところが、「悪い寄生虫」は、そんな状態になっても、宿主(作家)をエサのない場所に固定しておこうとするのです。そして寄生虫も宿主も、共に自滅する道を選ぼうとするのです! 自分がやっていることを「善意だ」と信じ続けて!

 欧米の格言をもう一度、繰り返しましょう。
「地獄へ至る道は、善意という名の石畳によって舗装されている」

 評論家が、すべて「悪い寄生虫」というわけではないのです。実は、「良い寄生虫」と「悪い寄生虫」がいるのです。そして、私は「悪い寄生虫」を批判しているのです。
 要するに、「悪い寄生虫」とは、以下のような評論の仕方をする連中のことです。
 「この作品は低俗な大衆読者には受けないだろう。しかし、より次元の高いSFイデアの価値を理解できる高級な人種には、計り知れない価値のある作品なのだ」

 最近、書店に行ったら、神林長平の文庫本に、山岸真による絶賛文句が付けてありました。
 「こういう小説こそ、本当にうまい小説なのだ」とか(苦笑)。相変わらず、「悪い寄生虫」がはびこっています。
 大衆読者は、神林長平のような作家は好まなかったのです。そんなことは、もうとっくに結論が出ているのです。山岸真らが何を言っても、大衆は信じないのです。
 きっとSF評論家というのは、マーケティング・リサーチ(市場調査)という言葉の意味も知らない連中なのでしょう。
 かっては、私もこうした「SFイデア主義」に騙されていたのです。そして「わけのわからない実験小説」を書こうとしたのです。つまり、エサのない場所(読者が少なすぎる領域)に誘導されてしまったのです。
 本当に大迷惑でした。

・「サイフィクト」について」
 このネーミングも、まだ暫定案です。
 たとえば石井和義氏(空手団体・正道会館の館長)は、「K1」を立ち上げて、成功させた人です。
 しかし、いきなり「K1」というブランドが生まれたわけではないそうです。「K1」以前には、「格闘技オリンピック」や、「カラテ・ワールドカップ」といった名称のイベントも開催していたそうです。それらを経て、「K1」に到達したそうです。何事にも試行錯誤の過程はあるのです。
 ですから、「SF」→「サイファイ」→「サイフィクト」への移行は、二歩前進と言えるでしょう。
 問題は、さらにもう一歩か二歩、前進する余地があるか否か、ですね。
 まあ、気長に新ブランド名の案を練り続けましょう。どうせ二〇年計画ですから、慌てる必要はありません。
 KODAK、コダックというネーミングの実例は、なるほどと思いました。

・「****氏が、〃***〃というネーミングの使用権で、出版社に抗議した件について」
 まさにこういう事例を、私も例として挙げたかったのです。
 同じように、徳間書店も、早川書房と本の雑誌社などに対して抗議し、訴訟を起こすことは可能でしょう。
 つまり、徳間書店は、「大衆娯楽SF」の路線を取りたいのです。ところが、早川書房と本の雑誌社は、「SF」という言葉を「おたく文化」の意味で使っているのです。
 「これは営業妨害である」として、徳間書店が訴訟を起こすのに充分な理由ではありませんか。
 徳間書店は、この点に早く気がついて、裁判を起こすべきですね。気がつかないのであれば、「SF」は、やはり滅ぶ可能性が大です。
 まあ、滅んだら、その時は「サイフィクト」が取って代わりますが。

・「スペース・オペラ新人賞という提案」
 「日本SF新人賞」が創設されましたね。
 そこで思ったことは、徳間書店は、「スペース・オペラ新人賞」も同時に創設すれば良かった、ということです。

 実際、私には不思議でならなかったのです。
 スペース・オペラ作家たちは過去に、莫大な黒字を稼いでくれたではありませんか。ならば、第二、第三の****【御本人から「私の名を出してくれるな」とのお願いをいただいたので伏せる】氏や、****氏、****氏を発掘するためのコンテストを開催するべきです。
 もしも私が出版社の重役とか部長などの立場だったら、当然「スペース・オペラ新人賞」を発案するでしょうね。確実に儲かりそうな気がしますから。
 しかし、どこもやらないのですよ。
 「みすみす金儲けのチャンスを逃し続ける気なのか」と、徳間書店と早川書房に対して言いたくなります。
 まあ、「ソノラマ文庫大賞」や、その他のジュニア小説の新人賞が、スペース・オペラ新人賞」に近いような立場を採っているのかな、とも思いますが。

 たぶん、これらの原因は「勘違いの思い込み」でしょうね。
 つまり、未だに「スペース・オペラ」のことを、「SFの中のサブ・ジャンル」だと思い込んでいるからでしょう。しかも、当のスペース・オペラ作家たちまでもが、そういう思い込みにハマっているようです。
 しかし、繰り返しますが、「スペース・オペラ」と「SF」は別々の形式であり、別々のジャンルだったのです。
 その証拠に、「日本SF大賞」は過去に、スペース・オペラを選んだことはないし、今後もそれはない、と断言できるからです。
 唯一の例外は、梶尾氏の作品でスペース・オペラ風の小説「サラマンダー殲滅」に授与したケースがあったことでしょう。
 しかし、あれは例外中の例外でしょうね。そもそも梶尾氏に授与した理由の一つは、「梶尾氏はスペース・オペラ作家ではないからだ」と簡単に推測できるからです。
 ですから、今後も、「スペース・オペラ作家の書いたスペース・オペラ作品」に対して、「日本SF大賞」や「日本SF新人賞」が与えられることは、絶対にないのです。
 繰り返しますが、「スペース・オペラ」と「SF」は別々のジャンルだったのです。それが真相であり、現実を素直に見つめて、出てくる結論なのです。

 ですから、本当に金儲けを考えているのなら、徳間書店はなりふり構わずに、「スペース・オペラ新人賞」も同時に立ち上げるべきだったのです!!!!!
 そうした判断力と決断力を持つ出版業界人がいないことが、現在の悲劇の一因なのでしょう。おまけに、当のスペース・オペラ作家たちも、こういう現実的な視点を持っていないのですから。

 そして私が提案する「サイフィクト」は、「SF」とも、「スペース・オペラ」とも異なる別のジャンルです。
 なぜなら、「サイフィクト」は、「神林長平や、大原まり子のようなSF作家を絶対に受け入れないジャンル」だからです。
 「サイフィクト」は、「大衆娯楽ジャンル」であり、たとえるなら人気テレビ・ドラマの「X−FILES」のような作品を理想とする、新ジャンルなのです。

 つまり、もし、「SF」がこのまま完全に失敗に終わったならば、その時は「サイフィクト」が「保険」となり、取って代わるわけです。
 「サイフィクト」の本当の存在意義は、そこです。

 PS
 ところで、私の次回作「カムナビ」ですが、1920枚で脱稿しました。
 フロッピー・ディスクを角川書店に送ったので、これからゲラ刷りになるわけです。そして最終チェックを入れて、出版です。
 発売はゴールデン・ウイークを過ぎるでしょう。下手すると、6月かもしれません。
 しかし、いくら遅れても、7月にはならないと思います。もう完成度97パーセントぐらいですから。
(インターネット用の注釈。ゲラ刷りとは、試し刷りのことです)

 では、また。

Page top 
|top|挨拶|map|梅原氏|梅原氏|自分本|引出し|おもちゃ|忘れたい|掲示板|ワープ||料理|