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梅原氏からの手紙1998/11/25
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【引用開始】
 青山 智樹 様
1998・11・25

 前略
 少し、お知らせしておきます。 
 ソノラマ文庫NEXT(シニア版)から出る「ソリトンの悪魔」ですが、解説を関口苑生氏に書いてもらっています。
 ところが、原稿を読むと、関口氏が「SF」という言葉を多用し過ぎていたのです。「まずいな」と思いました。
 しかし、もう時間的に書き直しを要求するのは無理です。12月10日発売で、原稿を受け取ったのが11月18日ですから。
 そこで、この解説については、あきらめて、このままにしておきます。

 また、関口氏は「SF関係者」ではなく、「ミステリー評論家」です。それだけでも、現時点での大衆読者の信頼度は違うはずです。
 また、原稿の内容は、「梅原克文は大衆娯楽作家であり、現代SFと称する作家や作品とは別物」と書いてありますし、「推理作家協会賞を受賞した作品」であることも、もれなく記述してくれています。
 よって、大きな問題はなかろうと判断しました。

 ちなみに同じぐらいの日付で、「二重螺旋の悪魔」が角川ホラー文庫から出ます。

 それと今まで言葉足らずになっていた部分を、少し追加しておきます。
 青山氏の言うことも、よくわかります。
「SF大会の参加者は千人ぐらいに過ぎない。それよりも、2万人以上いるらしい、SFマガジン読者の方が問題である。彼らは『純文学読者が、純文学を自滅させた時のパターン』を、そのまま辿っている」
 それも正しい視点です。

 この状態は、オウム真理教の用語を使うと、わかりやすくなります。
 つまり、「SF大会」の参加者は「出家信者」なのです。一方、SFマガジン読者は「在家信者」です。
 そして私に言わせれば、どちらも「サティアンの住人」であり、まったく同じ連中です。私が、「SF大会」に向けた批判論は、そのまま「SFマガジン読者」に当てはまるのですから。

 「SFマガジン」に未来はありません。
 現在の日本は、高度成長経済もバブル経済も、完全に過去となり、未曾有の大不況です。
 中央公論社も潰れかかって、読売新聞社の傘下に入りました。三一書房という出版社も危ういようです。
 この不況下で、早川書房が赤字続きの「SFマガジン」を続けることなど不可能でしょう。

 以下は、出版業界人から聞いた実話です。
「ほとんどの月刊の小説誌は赤字なのだ。
 では、何のために赤字経営を続けているのかって? 
 つまり、月刊小説誌とは稲刈り機、コンバイン・マシンなのだ!
 つまり、作家には、こう言うのだ。『そろそろ、あなたも連載の一本ぐらい持たないと』とか、『そろそろ短編集を出す時期です』といった台詞だ。これで作家の尻を叩いて、書かせて、月刊誌に掲載する。そして、それらを後で単行本にするわけだ。
 こうして生まれた作品は、売れっ子作家や、将来売れっ子になりそうな作家ならば、後でハードカバー、新書ノベルズ、文庫、映像化と、一作品で四度おいしい結果になる。これで月刊誌の赤字が埋まって、おつりがくるわけだ。
 つまり、月刊小説誌とは作家の尻を叩くムチであり、書かせる口実なのだ。だから、赤字経営でも許されるのだ」

 では、現在の「SFマガジン」は、どうでしょうか?
 こういった「一作品で四度おいしい結果」になっているでしょうか? 「月刊誌の赤字を埋めて、おつりがくる」ような経営状態になっているでしょうか?
 なっていませんね。
 出版業界人から聞いた、上記の実話を元に考えれば、「SFマガジン」は大赤字であり、潰れるのは確実です。
 だから、放っておきましょう。

 「SF大会」参加者の平均年齢は毎年、0・9才ずつ上がっているそうですね。
 また、参加者の高年齢化の原因は、コミック・マーケットに若い世代を奪われたから、だそうですね。
 細かいデータをありがとうございます。

 実は今、思い出したことがあります。
 昔、「宇宙塵」のミニ機関紙「autumn sword fish」がありましたね。(今はインターネット上に場所変えしたんでしょうか? それだとインターネットをやっていない私が知らなかったのも、当然ですが)
 確か8年ぐらい前に、青山氏が「autumn sword fish」紙上に「SF大会リポート」を載せていて、「毎年、運営スタッフの負担が重くなり、問題化している」という一節があった、と記憶しています。

 よく考えたら、「問題化するのは当たり前ではないか」と今、思いました。
 だって、「SF大会」は、これで黒字を稼ぐというプロの仕事ではないのですよ。アマチュアによる非営利イベントです。
 そんなアマチュア・イベントが毎年、開催地を変えて、毎年千人も集まるほどの大きな規模で行われているなんて、「異常なバブル状態」です!
 「SF大会」の運営スタッフたちは、他に職業を持ちながら、暇な時間を利用して、運営に当たっているアマチュアでしょう。そんなアマチュアたちが、これほど負担の重い大規模なイベントを、無報酬で運営しているなんて、「ウルトラ異常な状態」だと気づくべきです!
 これはアマチュアの「身の丈、身の程」を完全に越えています! 世間全体を見回せば、こんな常識外れなアマチュア・イベントは、他のジャンルには存在しないのですから。
 スタッフたちの負担の重さが問題化するのは、当たり前なのです。
 それなのに、こんなイベントを続けてきたのですから、もはや、これは「宗教的情熱」に達しており、「サティアン化している」としか言いようがありません。

 私は、こう考えます。
「アマチュアにはアマチュアの身の丈に合ったレベルがある」と。
 そうした常識に従えば、毎年、開催地を変えて、毎年千人も集まるような大規模なアマチュア・イベントなんて、無用の長物でしょう。
 アマチュア・イベントならば、次のようなレベルが適切でしょう。
 まず、「全日本大会」といった大イベントは、アマチュア・スタッフには負担が重すぎるから、真っ先にやめればいいわけです。
 そして「東京大会」、「大阪大会」、「仙台大会」、「福岡大会」といった地方大会だけにするわけです。
 当然、それぞれの開催地は固定されるわけです。また、地方大会ですから、参加者の人数も200人ぐらいになるでしょう。
 もちろん、もっと少なくてもいいのです。どうせ、非営利イベントであり、これで黒字を稼がねばならないというプロの仕事ではないのです。だから、たくさんの人数を集めねばならない理由もないのです。
 各地方ごとに、小規模な集会を気楽に運営する、という形でいいわけです。
 これが、「アマチュアにはアマチュアの身の丈に合ったレベルがある」という意味です。
 そして繰り返しますが、プロ作家は、こうしたアマチュア・イベントに一切、参加するべきではありません。プロは金儲けのために小説を書いているのであり、アマチュアのお遊びに付き合うのは筋違いだからです。
 それがプロとアマチュア、双方の本来のあり方です。

 他にも、思い出しました。
 これも8年ほど前です。当時、まだ残存していた月刊誌「SFアドヴェンチャー」に、こんな記事が載っていました。
 当時、東京で開かれた「日本SF大会」の閉会式で、「金返せ!」の合唱が起こって、運営スタッフが憮然としていた、という記事です。
 つまり、参加者にしてみれば、安くない参加費用を払ったのだから、それに見合う娯楽サービスを提供して欲しかったのでしょう。ところが、この時のスタッフたちには、それができなかったのでしょう。
 しかし、私に言わせれば、本当に娯楽が欲しいのなら、プロが経営する遊園地に行くべきです。アマチュア・スタッフが無報酬で運営しているようなイベントに、プロなみの娯楽サービスを望むこと自体、そもそも無理なのです。
 つまり、今の「日本SF大会」が「アマチュアの身の丈を越えて」、大規模になりすぎたために、参加者は無意識のうちに、プロの遊園地並みの娯楽サービスを期待してしまったのでしょう。そして、期待が満たされなかったので「金返せ!」の合唱が起きた、と考えられる事態です。
 地方ごとに、もっと小規模な集会を、もっと安い参加費用で行っていれば、こんな風に「金返せ!」の合唱など起きるはずがなかったのです。

 さて、前述してきたとおり、「SF大会」は参加者の高年齢化に歯止めがかからない状況のようです。
 だったら、放っておけばいいでしょう。
 参加者の平均年齢が50才を過ぎたら、体力的に見ても、これほどスタッフに重い負担のかかるイベントを、無報酬で行えるはずがないのです。
 いずれ「SF大会」は「アマチュアの身の丈」にまで縮小し、「地方大会」のみとなるでしょう。むしろ、今の状態こそ「アマチュアの身の丈を越えた、ウルトラ異常なバブル状態」だと言っておきます。

 以上は、誰も指摘しなかったポイントですので、私が指摘しておきます。

 「SFマガジン」の異常な編集方針も、ここに起因してたことが明らかになりました。
 何にしろ「SFマガジン」ときたら、アマチュアの非営利イベントに過ぎない「SF大会」を毎年、特集ページで取り上げているのですから。
 なにゆえ、商業出版社の雑誌編集部が、ここまでアマチュアの非営利イベントに肩入れする編集方針を取っているのでしょうか?
 異常さも、ここに極まれり、です!
 他の商業雑誌は、こんなことはしていないのですから。
 遠からず「SFマガジン」も、リストラの対象になるでしょう。

【コミケ批判 本筋からずれるので八百字略】

 さて、以下は、今回の手紙への返事です。

 「梅原が、サイファイにこだわる理由」、「超メタ言語的な作品を忌避する理由」などについては、やっと、ご理解いただいたようですね。
 これは、私と青山氏の経歴の差から出たものですね。
 私は、いわゆるファン活動に手を出したことがほとんどなく、最初から小説で金儲けすることのみに意識を集中しており、マニアやおたくは相手にしていないから、前述してきたような視点になるのです。
 青山氏はファン活動に関わっておられたから、私が感じる苛立ち、怒りがわかりにくかったのでしょう。

 「サイエンス・フィクションには、自滅的な傾向がある。この問題点は人為的な管理をしないと、永久に解決しない」
 これは、なかなか理解してもらいにくいポイントでしょう。青山氏には、わかってもらえたようですが。

 私は、二〇代後半の頃から、「サイエンス・フィクションをビジネスとしてのみ見る視点」を持ち始めました。すると、日本SF作家クラブの人々は、ビジネスマンとしてはあまりにもお粗末だ、と気づかざるを得なかったのです。
 彼らの主張は、「2400年も時代遅れのプラトン主義、イデア主義」でした。
 「SFには、他のジャンルにない特別な高次元のイデアの価値があるのだ。だから、そのイデアの価値を追求していれば、それでいいのだ。出版市場での娯楽商品としての価値など、低次元の価値観に過ぎないから、無視してもいいのだ」
 彼らが言っていることは、結局これだったのです。
 どうもSF関係者というのは、SFというものに「自分たちの宗教」を見いだしてしまう傾向があるようです。つまり、「宗教の代用品」だったのです。
 しかし、イデアの価値など、どこにもないのです!
 ない証拠が、この活字SF氷河期です!
 ないものを追い求めるから、こんなことになったのです!
 もうSF評論家と称する2400年も時代遅れの連中は、放っておきましょう。

 前述しましたが、私は20年後、「謎の黒幕」になることを目指します。
 陰から出版業界を自在に操り、「SCI-FI、サイファイ」を立ち上げよう、というわけです。
 青山氏も、それに加わってくれると、ありがたいのですが、まあ、その時になってから考えてください。
 また、インターネット上で、この往復書簡を見た人の中には、いずれ協力してくれる人もいるでしょう。

 私の「サイファイ」の経営方針も、ご理解いただけたようですね。
 また、以下の青山氏の視点も、的確な分析です。
「早川書房のSFコンテスト出身者は、あまりにもスペキュレィティブ派、つまり超メタ言語的な小説を書く作家が多い」
 つまり、そういう連中ばかりをデビューさせてしまった、「SFコンテスト」の判断基準に、まず大問題があるのです。
 また、そうした超メタ言語的な作品を支持してしまう、SFマガジン読者が1万人か2万人ぐらいはいた、というポイントもあります。
 その結果、「一部の人間だけのサティアン」が出来上がったわけです。
 つまり、超メタ言語的な作品に、イデアを見いだす人々です。自分たちが2400年も時代遅れな妄想に、はまっていることに気づかない人々です。

 青山氏の奥様が、神林長平ファンとは初耳でした。
 もちろん、それはそれで構わないのです。

 ただし、梅原克文と、神林長平とは別々のジャンルなのです。私は、それを主張しているのです。
 梅原も、神林も「SF」に分類するという「イデア主義的な視点」に、私は反対なのです。
 つまり、「超メタ言語的な小説」と、「大衆娯楽小説」とは、形式が異なるのですから、別々のジャンルとして分類するのが当たり前なのです。
 ところが、少なからぬSF関係者が、梅原克文を「SF作家」として絶賛しておきながら、その同じ口から神林長平も「SF作家」として絶賛する言葉も吐くのです。
 この点が、一般の大衆読者には理解できないポイントなのです。
 「形式が異なる小説を書いているのに、どうして両方ともSF作家なんだ?」と。これが大衆読者の視点であり、疑問なのです。

 ところが、SF関係者たちには、「梅原克文の作品にも、神林長平の作品にも、SF関係者だけに見える、SFイデアが透けて見える」と思いこんでしまう傾向があるのです。
 その結果、まったく形式が異なる作品なのに、「あれもSF、これもSF」と言いたがります。
 その一方で、ディーン・クーンツの作品や、瀬名秀明の作品などになると、「形式的には似ていても、SF関係者だけに透けて見えるイデアがない」と感じるらしく、こういうのは「SFもどき娯楽小説」と言いたがるのです。

 これが大衆読者と、SF関係者との乖離を生んだのです。
 形式だけで判断する大部分の大衆読者と、特殊なイデアの価値観で判断する少数のSF関係者。
 これでは、両者は理解し合うことはできません。

 そこで、「サイファイ」は、こうしたイデア主義を人為的、かつ徹底的に排除するわけです。
「形式だけで分類する」という常識に戻るのです。
 これが大衆読者を意識したブランド経営だと、私は結論したわけです。

 実際、映画「コンタクト」を巡る小論争も、おかしかったですね。
 高橋良平は「コンタクト」を「アンチSF映画」と評しました。
 ところが鹿野司や、SFマガジン編集長は、「すばらしいSF映画」と評したのです。
 同じSF関係者でも、こんな視点の違いが現れるのは、なぜなのか?
 これは各自の持つイデアが異なるからです。形式で分類せずに、一人一人の個別のイデアで、勝手に判断するからです。そのために、ある作品を巡って「これはSFだ」「いや、ちがう」といった終わりのない論争に、はまり込むのです。

 ところが、形式で分類すれば、ことは単純になります。
 私は「マニア向けはSF」、「大衆向けはサイファイ」という形式分類を試みました。
 これで、映画「コンタクト」を巡る論争は終わるのです。
 「コンタクト」は「大衆娯楽作品だから、SFではなく、サイファイである」と簡単に結論が出るのです。

 そして前述したとおり、アメリカでレンタル・ビデオ店をのぞくと、「SCI-FI」の棚はあっても、「SF」の棚はないのです。
 当然、「コンタクト」は、「SCI-FI」の棚にあります。
 つまり、高橋良平や、鹿野司、SFマガジン編集長らの小論争は、アメリカでは、とっくに終わってしまった議論だったのです。
 アメリカでは、すでに「SF」と「SCI-FI」とは、まったく別物として存在していたのですから。
 いずれ、日本も、このやり方を見習うしかないでしょう。

 今、SF関係者は、さぞや梅原克文に腹を立てているでしょうね。
 でも、仕方がないのです。
 たとえば、石井和義氏(空手団体・正道会館の館長)が、「K1」という新ブランドで、「カラテ&キックボクシング混合勝ち抜き・世界一決定戦」を始めた時は、旧来の空手流派の連中は、さぞや苦い顔をしたのではないですか。
 「K1なんて、空手の伝統をぶちこわしにするイベントだ」と思われたのではないですか。
 今のSF関係者の心境は、それと同じことではないでしょうか?

 というわけで、12月13日のフジテレビ「K1決勝戦」ですが、必ず観ましょう(笑)。

【略】

 では、また。
草々
【引用終了】

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