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 進撃戦略航空軍3〜遙かなる峰を越えて

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 2001年12月4日、学習研究社、歴史群像新書より発売中→あとがきを読む

進撃戦略航空軍3〜遙かなる峰を越えて §序 章 「崑崙」対「コルセア」
§第一章 戦闘機「飛燕」到着
§第二章 ダバオ総攻撃
§第三章 インパール作戦
§第四章 ムスタング出現
§終 章 新たなる戦場
 あとがき

§序章
「来るぞ」
 機長席で双眼鏡を握っていた新宅正史(ルビ まさし)少尉がつぶやいた。
 崑崙爆撃機はクラークフィールドを発って三時間。ルソン島を後にし、レガスピーを回避して、長大な航続力を利して洋上に出てからミンダナオ島、南端、ダバオを目指していた。
 ダバオはミンダナオ島南東部、ダバオ湾西岸に位置する市域面積二千平方キロの超広域都市である。フィリピン、ダバオ州の州都であり、政令都市でもある。戦前から日本による開発が盛んで、開戦時の日本人駐留者は一万八千を数えた。同数の日本人が抑留されていると考えられた。なんとしても奪取しなければならない都市である。
 一直線に飛べば燃料の節約にもなるし、時間もかからない。航法も楽だ。にもかかわらず、複雑な経路を取ったのは敵の目から発見されないようにするためであった。
 にもかかわらず、迎撃に遭った。
「やはりレーダーってのは凄いんだろうな」
 新宅少尉が表情を硬くして機長席から爆撃席へ降りて行った。航法士も爆撃席の脇にある前方銃手席に付いて機銃を試射した。通信士、偵察員も崑崙特有の金属ドアを開いて後方に飛びだして行った。
「後部銃座、上方銃座良いか?」
 新宅少尉の声が音響連絡機----電気式マイクロフォンを伝わって流れて来た。すぐに準備良し、が返って来る。これは各員が配置に付いたのを確認するだけでなくそれぞれの乗員の無事を確かめるためでもある。
 崑崙が飛ぶのは飛行高度八〇〇〇メートルの高空。空気は薄く、低酸素症にやられてぶっ倒れるのには十分な高度だ。四人が常駐する操縦室内であれば誰かが倒れても酸素マスクを当ててやれる。だが、操縦室から離れた場所にある上部、後部銃座ではそうも行かない。
 操縦士である鍛冶明も、副操縦士、近藤弘道(ルビ こんどうひろみち)こと近道も漫然と飛行機を飛ばしていて済む状態ではなかった。右斜め前を飛ぶ隊長機が発光信号をきらめかせるのと同時に自動操縦装置解除。明は操縦桿とラダーに圧を加えるようにして機を隊長機に接近させ、編隊を緊密にする。緊密な編隊は爆弾の集中密度を上げ攻撃精度を上げる。
 戦闘機に対する反撃も、対空機銃を密集させる事によって効果的になる。
 編隊の維持は絶対に必要、かつ重大な任務で、慎重、かつ精密さを要求される作業だった。
 高々度は空気が薄い分、速度は出るが三舵の利きを悪くする。しかも崑崙は重い。つまり操縦桿を切ってもなかなか舵は効かず、逆に動き始めると今度は止まらない。つまり、思うように機が動いてくれないからといってやりすぎると、空中衝突に結び付く。
 隊長編隊二番機の明などまだ楽な方だ。編隊を稠密にするだけで済む。第二編隊ではダイヤモンド編隊を組んだまま上昇して隊長機編隊の上に覆いかぶさらなければならない。最近になって採用された立体ダイヤモンド編隊である。高度変化をともなうだけ困難な動きになる。
 その代わり、立体的な隊形であるため、四方からやって来る敵機に対して、より多くの前方機銃を向ける事ができる。ヨーロッパ戦線で利用されているコンバートボックス編隊に近いものである。
 操縦席、双眼鏡も何も持たない明の眼にも前方、かすかにけぶった陸地の上に針で突いたような黒い点が幾つも数えられるようになって来ていた。
「近道、肝据えていけよ」
 話し掛ける口の中が砂漠のように渇いていた。
「一等兵殿こそ、漏らさないで下さいよ」
 近道の方も声の震えを抑えているようであった。
「お前とは違わぁ」

【中略】

 萱部少佐と、藤岡少佐が二人で明たちの機体にもやって来た。編隊機の中でも比較的損傷の少ない機体であった。被弾は結局、三発。前方から受けた胴体タンクへの一発。主翼の空洞部を打ち抜いた一発。胴体を直撃して上部銃手を負傷させた一発。
 いずれも軽微な損傷だった。
 燃料を抜いたタンクの中に整備員が入って内側からゴムを張り、外から蝋付け。桁には接ぎをあてて鋲止め。鼻歌混じりの作業だ。全部で一時間かからないだろう。
 だが、一渡り見わたすなり萱部少佐は三秒で断じた。
「飛行不能」
 帳面に簡単に書きこんだ。
「待って下さい。自分なら大丈夫です。かすり傷です」
 隊長の臨検のため待機していた滝沢が肩の傷を押して敬礼した。
「人間の怪我に付いては軍医が決める。問題はそんなところより、お前ら、戦闘機無しで飛びたいか?」
「行けとおっしゃるのであれば、どこへででも」
「だからと言って、あの世まで行かせるわけにはいかん」
 とぼけた表情で、天井に開いた孔を検分するのは藤岡少佐だった。
「おまえらが何と言おうと、おれは損耗率を高めに報告する。現実に落ちちゃいないが、一式ならあの世行き間違い無しの被害を受けており、理由も明らかだしな」
 いままで、コレヒドール、レガスピー攻撃に当たって崑崙の被害はゼロに等しかった。着陸に失敗して脚を折ったのが二機ほどいるだけだ。特殊なエンジン配置のため、崑崙の主脚は特に長く、折損事故はエンジンのオーバーヒートと並んで崑崙の二大弱点であった。
「ともかく、おれは上層部になんとかしろとねじこんでやる。頭使うのが上の連中の仕事だからな、考えてもらうさ」

「考えてもらうって、何するつもりなんでしょうね?」
 夜、宿舎で飯を食いながら近道がぼんやりと考えこんでいた。
「新型機ですかね。おれ、もう新型機は結構ですよ」
 近道は最若年の搭乗員でありながら、いままで何度も機種改変をくり返し、今度の崑崙で四機種目である。言い換えるならば、それまでずっと外れの機体を乗り換えて来たことになる。
「崑崙の改変は、まあないだろうな」
 答えたのは機長、新宅少尉である。
「崑崙は問題があるとしても悪かない。ちょっとした手直しはやってもらいたいところだが、下手に装甲厚くすれば速度が落ちる。対空機銃増やすにしても限度があるし、やっぱり速度が落ちる。やるとしたら戦闘機なんだろうが……」
 新宅少尉は言葉を濁した。
 機体規模の小さい戦闘機は双発、四発の爆撃機と比べて、武装、エンジン、航続距離、様々な要素のバランス設定が難しい。

■あとがき
 疲れました。本書に関しては様々な意味で疲れました。編集さんにも迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。ですがまあ、自分で予定した着地点には達したと思ってます。

 第一巻の頃からココロを入れ替えて、あとがきは「あっ、軽く」行きたいと思っていたのですが、さすがにそうは行かなくなりました。
 さて、何年か前、シンガポールを訪れました。
 市の中心のエンプレス・プレースから七十番のバスに乗って三十分、セラングーン・ガーデン・ウェイというひっそりとしたバス停を降りて住宅街の中の細い道を進むと、左に公園とも広場ともつかない目立たない一画があります。
 日本人墓地です。
 ほとんどが江戸時代のものらしく、墓石と言っても風化して漬け物石みたいなのが並んでいるだけです。墓地だといわれなければそうとは判らないでしょう。
 この時の目的は明治の言文一致運動の先駆者で洋行からの帰路、インド洋上で客死した二葉亭四迷の碑に詣でる事でした。まあ、漱石が国語教科書から消える昨今、二葉亭四迷と言っても判らない人は多いでしょうが、まあ、昔の作家です。これもまた、墓地の隅、陽のあたらない場所にありました。
 石碑に手を合わせ帰ろうとするとやけに立派な碑が目に入りました。
「インパール作戦、戦没者慰霊碑、書、牟田口廉也」
 ぼくは滅多に義憤や公憤に駆られる人間じゃないのですが、この時はさすがに蹴り倒してやりたくなりましたね。無論、牟田口中将に慰霊の心が無かったわけではないでしょうし、本人も最善を尽くしたのでしょう。遺族会なり、本人が碑を建てようとした時、辞退する立場にもありません。ぼくは碑に手を合わせ、墓地を後にしました。
 その夜、たまたま、市の中心部にある戦争記念公園を通りかかると日本占領時期死難人民記念碑の下で二十歳ぐらいの中華系と思しき若者がギターをかき鳴らしていました。
 ちょっと、複雑な気分になりました。

 えーと、まずは崑崙。前回のあとがきで「推進牽引両用の四発機を見たことがない」と書いた所、喜しいですね、読者の方々から「こんなのがあるよ」、とメール、BBSの発言いただきました。
 大半の機体は古く、はっきり言って第二次大戦の現用機として通用するものではありません。フランス、イタリアのは高速化というより質量の集中を狙っていたようです。
 唯一、ドイツのドルニエ26飛行艇のみが高速化を目指していたようですが、爆撃機ではありません。
 いろいろ考えたんですが、結局は時代に間に合わなかったんじゃないかと思います。
 本文にも書きましたけれど、まずは普通の四発機を作れる国と言うのが限られていました。日本はともかく四発機を嫌い、ドイツはグライフに急降下性能を求めたぐらいですから、大量の爆弾を運ぶという発想が無かった。いや、無かったというと嘘になるのですが、精密爆撃を優先した。
 可能だったのがアメリカですが、B17で成功し(それも最初は渋りましたが、ヨーロッパ大戦の勃発によりやっと開発に乗り出したものです)B29を実用化して、終戦を迎えます。第二次大戦で最高速の四発爆撃機がB29で、それで十分でした。
 もちろん、次世代機を開発しなかったわけではないのですが、時代は変わっていました。
 爆撃機は核爆弾を輸送する手段と変化し、冷戦に対してアメリカが要求したのは大型化であり、そしてより高速のジェット爆撃機となるのです。
 もし、レシプロ機の時代がもう少し続いたら、高速化を狙った推進牽引両用機が出現したかもしれません。もちろん「IF」の世界の話ですが。

 次に飛燕改。
 少なくとも飛燕改と呼ばれる飛行機は存在しませんでした。飛燕のエンジンを金星に換装した戦闘機は存在しましたが、これは五式戦と呼ばれカッコよさげな名前は付けられていません。
 でもまあ、ものは一緒です。
 五式戦はそれまでろくに英米機に対抗できる戦闘機を持たなかった陸軍に諸手を上げて歓迎され、ものの本によると「対戦闘機用として活躍が期待された」とあるほどで、五式戦登場の頃のアメリカあたりの戦闘機と言うとすでにムスタング。本当によほど期待されたらしいです。
 もっとも、飛燕がかなり早期に実戦投入されていたのに対して、五式戦は旧式エンジンとの組み合わせにもかかわらず投入は一九四五年。戦闘機ばかりが戦争をするわけじゃないですけれど、たとえばガダルカナル辺りに投入されていたら戦況はだいぶ変わったものになっていたでしょう。

 明るい話題、軽い話題……本書やぼくの身の回りに思いを巡らせてもあんまり見当たりません。強いて上げるなら、書庫の蛍光灯を換えたぐらいでしょうか。一本切れていたので、だいぶ明るくなりました。

 オチが着いたのでこの辺で。
 本シリーズはこれでお終いですが、青山はまだ書き続けますし、別の所でも仕事しています。では、また。

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