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2011年04月の近況
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2011/04/11 月曜 『菅原先生のこと』
 菅原先生と始めてあった時のことは覚えていない。
 ただ、それが三十年ぐらい近い昔であるのは間違いない。
 菅原先生はぼくがSFのファン活動に最初に首を突っ込んだ小松左京研究会の初期メンバーだったからだ。
 「奇想天外」誌で矢野徹さんがお題を出してそれに読者が応えて作品にする、という企画が立てられその一位に菅原先生が選ばれるのを見て「うわあ。凄い人だなあ」と思ったのを覚えているから、その前なのは間違いない。
 大学生になり「宇宙塵」に参加すると、ここが菅原先生との強い接点になった。
 ちょうどその頃、娘さんが東京の学校に通っている、と言うので娘さんの顔を見がてら毎月のように石巻からおいでになった。大変ですねぇ、というと「いまは新幹線があるから、すぐだ」と答えられた。

 やはりネット応募だかなんだかの作品募集に菅原先生が選ばれたことがあった。当時のこととて、ネットというよりコンピューター通信である。菅原先生の所にワープロはあったが、接続環境がない。郵政省メールで手紙をいただき、プリントアウトしてお送りした。お返しに誇張なしに段ボール一箱ほどのサンマをいただいた。サンマは足が速い。とても二人で食べきれる量ではない。実家や友人にお裾分けして、塩焼きにして食べた。お裾分けしたのを後悔した。新鮮で、脂ののった極上のサンマだった。
 あれより美味いサンマを食べたことがない。

 ガン告知を受けたこともある(笑)。
 どうも右の脇腹が痛い。菅原先生にそのことを話すと
「ちょっと、そこに横になってみい」
 と言う(たまたま)和室だったのだ。
 菅原先生は患部(?)に片手をあて、その上からもう一方の手で軽く叩いた。
「うお」
 と、うめくほどの激痛が走った。
「肝臓ガンだな。まあ、持って三ヶ月って所だ。いまのうちに身の回り整理しとけ」
 あまり真面目に取らなかったが、後に日赤に行ってバリウムで検査してもらったらこちらの答えはすげないものだった。
「胃でも悪いんでしょう」
 菅原先生に
「誤診ですよ」
 と告げても笑っているだけだった。

 娘さんが学校を卒業してしまうと、さすがに東京にやってくる回数は減った。
 だが、当時まだそれほど普及していなかったワープロを駆使して「ボレアス」誌を創刊した。ボレアス誌の新しい号ができると「ほら、買っていけ」と持ってくる。
 お元気だった柴野先生も「菅原先生はほとんど押し売りだよ」と言いながらも笑顔でボレアス誌を受け取っていた。

 思い出深いのが十年ほど前。
 石巻に石ノ森萬画館ができてしばらくした時、見物に行こうとの話が持ち上がった。
「おう、こい。案内するぞ」
 との、菅原先生の言葉に甘えて十人ほどで石巻に押しかけた。宿まで菅原先生に取ってもらってしまった。
 石ノ森記念館は当然、石巻を一望する公園や、伊達政宗が建造した船のレプリカがある博物館、女川漁港とその資料館のような所に連れていってもらった。
 驚いたのが行く先々で「先生、お元気ですか」と道行く人たちが挨拶していく所だった。かなりの名士だったのだ。
 中には口さがない人もいて、
「あの人も若い頃は名医だったんだけれどねぇ」
 と言ってくる人もいたが、そう言ってくれるからにはやはり名医だったのだろう。
 もちろん、お宅にも押しかけた。北上川に沿った、医院と自宅が隣接した黄色い建物である。後になってグーグルアースで北上川左岸を見ていくと「あ、ここだ」と目立つ建物だった。
 応接室の書棚にはずらりと古今のSFが並び「あ、××がある。初版だ」などと騒ぐとさすがに苦い顔をして「だから連れてきたくなかったんだ」とおっしゃる。
 たぶん、最後に姿をお見かけしたのは去年、柴野先生の通夜だったと思う。
 通夜が終わる中折れ帽を被り、マフラーを巻いた方がそそくさと帰ろうとする。菅原先生のいつものスタイルである。
「あれ、菅原先生?」
 そう思ったが、後ろ姿を追いかける所まではしなかった。無論、菅原先生なら柴野先生のこととなれば石巻からやってくるだろう。お身体を壊されて入院されたとか、医院を廃業なさったと聞いて心配していたが、まだ神奈川まで出てくる元気があるんだ、と安心した。
 地震、津波と聞いて北上川沿いの菅原医院の事を真っ先に思い浮かべた。
 被災者の部分にお名前があったが、菅原先生なら、きっと患者ではなく、医師団の方に加わって飛び回っているに違いない。
 いまでもまだ菅原先生は医師として不眠不休で被災者たちを助け、働きすぎて
「あー、疲れた。おれはもう寝る」
 とか言って、診療室の仮眠用ソファで眠るようになくなったと信じている。

2011/04/16 土曜 色々と
 原発とか、新刊とか、近況とか色々と書きたいことがあるのだけれど、死んでいないのを証明するためとりあえずいろいろと案内。

 秋葉ブログで、「海軍めし」同人誌版、紹介されました。
 商業版も「自分で作るうまい海軍めし」(経済界)もよろしく。商業版はフルカラーです。

 それど「世界一わかりやすい放射能の本当の話」にも寄稿しています。

2011/04/20 水曜 納豆
 納豆がやっとスーパーの棚に復活した。
 大豆はほとんどがアメリカからの輸入なので品薄になるはずがない。それともみのもんたが「納豆が放射能に利く」とか言ったのだろうか?
 と思っていたらスーパーのねぇちゃんが
「アメリカってきっと茨城にあるんですよ」
 納得。

 ところで、ぼくの起居する部屋は暗い。北向きで、すぐマンションの駐車場に隣接しているが、一日中日が当たらない。夏涼しいのは良いのだが、冬は寒くて溜まらない。
 何より暗い。
 外が快晴でも真っ暗である。おかげでこの季節なのに気分が暗くてたまらない。

2011/04/23 土曜 改装と開店
 駅前のマックが改装した。
 新世代店舗とか言うしゃれた雰囲気の店になったのだ。ここは数は少ないがコンセントがあり、使い勝手がよい。改装のためしばらく一時閉店していたのだが、やっと新装開店したので行ってみた。
 メニューはそのまま。ただのマックだ。
 客席に上がると、落ち着いた雰囲気になっている。良いではないか。これだったら、以前、。長居していたホームレス風というか、マック難民風のヒトも入りづらいに違いない。
 ……いや、マック難民は別にどうでも良いのだが、色々と遠慮があるらしくカウンターの端、つまりコンセントのそばに陣取るのでちょっと困るのだ。
 たまたまカウンターの端、コンセントの直近が開いていたのでノートを広げて仕事。カウンターの椅子は座りづらくなったが仕方あるまい。
 と、すぐ隣にマック難民風のヒトがやってくる。イスの間隔が近くなっているので凄い圧迫感である。反対側の席に移る。カウンターは開いていなかったので、四人がけである。ちょっと店に悪いかと思ったが、空いているから良いだろう。
 向かいに親子連れが座る。母親が塾のものとおぼしき問題集と、新聞を取り出して
母「こどもニュースよ、読んで感想聞かせて」
子「脳死って怖いね」
母「そう言うことじゃなくて、全部読んでよ」
子「イヤだよ、怖いじゃないか。それに死んで臓器取られるなんて考えたくない!」
 どうも十五歳以下の脳死臓器移植のニュースらしい。
母(高い声で)「臓器移植はいままでは本人の意思表示が必要だっんだけど、去年から法律が変わって……」
子「そんなのどうでも良いよ。臓器取られるなんて嫌だし、怖いこと考えたくない」
 うるさい、ガキ、オバサン。
 新世代店舗でも鬱陶しいやつらはいると言うだけか。

 あまりの騒々しさに逃げ出す。
 で、新装開店のラーメン屋の開店サービスを目当てに列に並んでみる。列に並ぶなんて、普段ではまずしないのだが、どうせ仕事にならんし、開店サービスだし。
 店のコンセプト(一昨日、ちらしを配っていた)「三田の店に感銘を受け新橋に開店、このたび、吉祥寺に新店舗。男の男による男らしい男のラーメン」
 三田の店って次郎? いや、もともと次郎、地元にあるんだけれど。
 列は長かったが、ラーメン屋なんて開店早いだろうと並ぶ。
 進まない、全然、進まない……おい、土佐ッ子だったらこの人数、十分で捌くぞ!

 かろうじてありついたラーメンは言うなれば「次郎家」
 あーあ、な一日。

 休日の逃げ場はデニーズしかないなぁ。
2011/04/30 土曜 黄害週間
 げっそり。

 あ、不謹慎ですが、原発特需発生中。
 で、原稿書いたり、ゲラ読んだり、いろいろしたりしなければならないのだけれど、嗚呼。

 今日は午前中、改装なったマックで仕事。やはり、休日で店内は騒々しい。
 帰宅、爆睡。起きて仕事しようとしたが、どうも落ち着かない。
 
デニーズへ脱出。


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