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1998年11月の近況
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1998/11/01の週 11月7日Sat記入 鷹狩りと反響と
 しばらく前から「猛禽を飼えないか?」そんな思いがあった。そんな事を考え始めたきっかけはある動物学者のエッセイであった。アメリカの動物学者夫婦がとある高層マンションに住んでいる。夫妻はハゲタカを飼っている。高層マンションの窓にハゲタカが入って来ると言うシーンで始まる。
 ぼくの住む部屋は井の頭公園に面したマンションの低層階に位置する。窓の外は木の枝が茂っている。まことに結構な環境であるがカラスが騒々しい。基本的にカラスは嫌いではない。飼ってもいいかとも思う。だが、あれだけ群をなしてくると騒々しい。
 そこで猛禽の登場である。ハゲタカも良いのだが、惜しむらくは日本にいない。で、考えたのが鷹である。マンションのベランダで鷹を飼うのである。
「いけ! あのカラスを畳んでしまえ!」
「ピーッ」
「カアカア」
 という戦いが起こらなくとも鷹が一羽いればカラスどもは尻尾巻いて逃げ出すだろう。と、思ったわけではないが、文化の日に浜離宮で放鷹の会があるというので見に行ってきた。
 嫁さんが出入りする呉服屋のつてで入ってきた情報である。「よし、着物着て、鷹狩り見に行く!」と気合いが入った嫁さんにくっついてきたのである。鷹には興味あるし。
 文化の日、明治天皇誕生日は晴れの特異日であるとのことで久々の秋晴れである。昼過ぎに浜離宮にはいるとどこからともなく聞いたことがある「ピーッ」と「キーッ」の間ぐらいの鷹の鳴き声がする。声の方向を見ると木陰で鷹を手に乗せた鷹匠が数名。場内のアナウンスによると鷹のコンディションを整えているとのこと。
 鷹匠の顔がどこかで見たような顔だったとか、いろいろあるのだけれど、やがて開会。日本放鷹協会というところが、中央区その他の支援を受けてもう六回目になるとか。鷹狩りは随分と古い猟法の一つであるがすでに継承者も少なく、無形文化財でもなんでもないとの話。
 振り替えというのだけれど、一人の鷹匠から別の鷹匠に鷹を渡らせたり、渡りといって気にとまった鷹を呼び戻す訓練を見せてもらう。
 鷹がなかなか緊張している。訓練された鷹とは言え、人前で演技するのは気に掛かるのだろう。と思ったら鷹匠から説明。「鷹が緊張しているのはカラスが増えてきたからです。鷹からすると自分の方が他人の縄張りに入っているので、どうしても立場が弱い」
 で、事件が起こった。チョウゲンボウという小型の隼が飛び立ったと思ったら、カラスに追いかけ回されたのである。しかもカラスは卑怯にも二機編隊を組んで突撃してくる。鷹は一羽である。鷹匠も修行中の若い人であり、鷹自身も若い小型の鳥であったため、一時は視界から消えてしまうほどであったが、お師匠さんが呼び戻して事なきを得た。
「カラスがたち悪いのは必ず集団で来ますからね、鷹ではかないません」
 もっとも、このあと出てきたどこかで見たような鷹匠の「伏姫」という鷹。こいつは迫力でした。チョウゲンボウが低翼面荷重の軽戦闘機の乗りで飛んでいたのに対して、伏姫は質量集中型設計で、低翼面荷重、ハイパワーでぶっ飛ばしスピードが違う。飛び方も上手い。若い鷹がグランドエフェクトを使って姑息に飛んでいるのに、地面効果を加速に使う。フレアのかけ方も上手く、ぴたりとタッチダウンをきめる(なんだかエアショーみたいになってきた)。
 とりあえず、一通りおわってから鷹匠さんに質問。
「マンションのベランダで鷹飼えますかね」
「種類によっては糞をそんなに飛ばさないので大丈夫ですよ」
「放し飼い出来ませんか?」(カラス退治に使いたいとは言わなかった)
「いえ、それはちょっと……」

 この後、浜離宮を散策。水上ボートで浅草に向かい、みつ豆を食べながら同行の山岡夫妻と来年のSF大会「やねこん」の参加の打ち合わせをし解散。SF大会行きますよ、もちろん。

 鷹が無理だとして、いまはフクロウが飼えないだろうかとたくらんでいる。というのも、ファーレイ・モーワット「犬になりたくなかった犬」でフクロウの子供を拾って育てる話があって……。

 帰ってきてからだったか、次の日の朝だったか森下一仁さんと、高千穂遙さんからメールで事実誤認の指摘。
 梅原氏からも手紙が届く。返事を書く。
 ぼくと梅原氏の間に若干の意見の相違があるが、取り立てて重大な差であるとは思っていない。というのはぼくら双方が「創作者」の立場で意見交換をしているからだ。
 ただ一本の作品に触れるとき様々な立場がある。「創作者」「編集者」「評論家」これに「読者」を加えても良いかも知れない。それぞれ同じ作品を目にしたからと言って反応は違うはずだ。希代の傑作に出会って、創作者であればどうやればその作品の長所を取り入れられるかを研究し、編集者であればどうすればもっと売れるようになるかを画策し、評論家は新しい位置づけを考える。読者であれば大喜びする。
 SFに接する場合、ぼくや梅原氏は創作者である。あるジャンルが崩壊の危機に瀕しているとしたら、創作者としてどのような対応をとるか冷静に考えれば、テコ入れするか、見捨てるかくらしか選択枝はない。
 たとえば(あくまで例として上げるが)やおい、というジャンルがある。仮にやおいが崩壊しかけている、テコ入れを手伝ってくれないかと持ちかけられた場合、ぼくの答えは決まっている。「無茶言うなよ!」。読んだこともなければ、親近感も持たない。ただ見捨てるだけだ。これはあくまで例として上げたが、このやおいの変わりにあなたが中間的な見方をしているジャンルを入れてみれば、その感覚は判ってもらえるだろう。
 レッテルとしてのSFについて言うと、もはやテコ入れも不可能なのではないか、というのがぼくの見解である。そして梅原さんも同様であろう。
 だけれど、ぼくの中には読者としての青山がいる。読者としては「そんなことないよ、SFはこれからまだもっともっと面白くなるよ」と叫んでいる少年がいる。オトナの物書きとしては「もう、無理だろう」と思っている。
 表面に出てくる形としては「寂しい、だけど仕方ない」という事にならざるを得ない。これはきっと梅原氏も同じだと思う。SFを守りたい、何とかしたいと思わなければ、こんなにあがきはしない。

 創作者としての立場、というと今回、メールをいただいた高千穂遙さん、森下一仁さんも同じ立場に立つと思う。不愉快、あるいは何らかの問題を感じてSFを、SF作家クラブを擁護したいと思ってメールをくださったのだろう。言いたいことはたくさんあったのだろう。だが、現実には事実誤認の指摘だけだった。お二方とも創作者としてこれ以上、弁をふるう事が無意味だと判ってらっしゃるのだ。
かっこ内11/24記入:と、上記のようなことを書いたら高千穂さんからメールをいただいた。「ようは事実誤認を指摘しただけで、そんな複雑なことは考えていないし、言いたいこともない」との内容でした。上記一文は青山が「こう感じた」と記しているだけである。だが、同メール内で高千穂さんから「ネット内では誤解が広がりやすいので、上記のような内容を高千穂が考えているように誤読されやすい」ため、注意してもらえると助かるとの指摘を受け、この部分を付け加えた。繰り返すが上記一文は「青山が感じた」だけであり、高千穂さん、森下さんの真意はご本人に確認しないとならない。森下さんからはメールをいただいていないが高千穂さんからは「ようは事実誤認を指摘しただけで、そんな複雑なことは考えていないし、言いたいこともない」とのメールがあったことを特に明記する》
 高千穂遙さんというとぼくがSFのファン活動を始めた頃、末端のスタッフとしてイベントに関わったとき始めていらっしゃってくださった方で、ぼくとしては恩義を感じこそすれ含むところはない。

 森下さんには事務所が調布にあった頃から行き来があり、何度も愉しい時を一緒に過ごした。事務所が引っ越しするとき鉢植えまでいただいてしまった。
 だから、こんなになってしまったのは「寂しい、だけれど仕方ない」としか言いようがない。

 あと、ふとこないだ覗いた「のだなのだ」(嫁さんの大学の後輩)でのださんの出入りしているサイトでここが結構話題になっているようなことが書いてあって、見てる人そんな多いのかなあ? ヤバイなあ。好き勝手言っているからなあ。
 あーあ、今日、これからSF関係の宴会あるんだよ、石投げられないかなあ。あの連中、冗談で投げかねないからなぁ。来年SF大会行って刺されないかなあ。いや、暴力沙汰はともかくとして、れんごうかいぎ代議員資格剥奪の上、SF界所払いなんてなったら、どうしよう?

 え? 仕事、してますよ。
 現時点での原稿進捗具合

 バトル・オブ・ジャパン8 三枚
 怒るUFO誘拐事件 三一枚
 蒼穹の覇者2 彗星編 七〇枚
 RIKAの月(仮) 三一枚 (脱稿!)
 たぶん「月の上の小さな魔女」に変わります。
 う、もっと進んでいるはずだったのだが。

1998/11/09の週 11月14日Sat記入 人生が詰まらないと思ったら……
 これを書いているのは土曜日、嫁さんが着物を着てどっかに遊びに行ってしまったので子連れ出勤でアップデートである。
 先週あたり、なんとなく生活に張りがない、そう感じていたのだが、先週の日曜に理由がはっきりした。このところ相撲を見ていなかったのである。場所が始まったとたん「求めていた物はこれだ!」と確信した。
 従って、先週のぼくの一日は朝、嫁さんを追い出したあと、娘に飯を食わせ、散歩&買い物に出かけ、帰ってきて飯を食わせ親父が娘を散歩に連れ出している間、仕事。NHK総合の開始時間になるとパソコンをテレビの前に移動して観戦しながら晩飯の準備を始め、七時のニュースで贔屓力士が勝つシーンを観て、九時のニュースで非贔屓力士が負けるのを観て、仕上げに大相撲ダイジェストで一日を締めくくるのである。

 しかしなんですね、こうやってホームページ見直していると、青山ってのは鷹狩りに喜んだり、寄席に通ったり、相撲に入れあげたり、なんか和風な男だね。自分じゃ全然、意識していないのだけれど。

 と、相撲は始まってしまったし、なんというか先週はあまり落ち着かなかった気がする。短編の締切りがあったし、バトル・オブ・ジャパンの著者校もあったせいだと思う。もっとも、木曜に昼間、KKの稲垣さんにゲラを渡して飯を食い、神田に行って資料本をあさり、夕方、朝日ソノラマの高橋さんと打ち合わせ、その足で都響(ベルティーニ!)を聴きに行き、帰ってメールで「月の上の小さな魔女」を入稿するとなんかホッとした。
 本当はほっとしてたりしてちゃイカンのだが(締切りがぁぁぁ)。

 バトル・オブ・ジャパン8 十一枚
 怒るUFO誘拐事件 四一枚
 蒼穹の覇者2 彗星編 七〇枚

 梅原さんから新しいフロッピーが届いたので、こないだからの続きを公開します。
 これを書いている最中に岡本君が出勤してきて
「青山さんのページ、あっちこっちで評判になっていますよ」
「え? そんな評判悪い?」
「いえ、そうじゃなくて、なにも波風立てなくても……って」
 人生、トラブル、ハプニングはほっといても向こうからやってくる、だから避けていった方がいいとは思うのだけれど、始まっちゃたものは仕方ない。ぼくも自分じゃ穏やかな人間のつもりなんですけれどねぇ。
 岡本君の言葉は続く。
「だけれど、これでもう二度とSFバカ本から仕事来ませんね」
 この時はさすがにうっ、となりましたです。

 梅原氏からの手紙が二通続いてますが、これは立て続けに手紙が届いたため。このあとの方にぼくの返信を公開しています。


【引用開始】
1998・10・21
 前略
 北陸は依然、曇りか、雨です。

 さて、私は一つの結論に達しました。
「今から日本に『サイファイ』を定着させるのは、不可能に近いだろう。ゆえに『ホラー』と『スペース・オペラ』で代用すれば、それでいい」
 これが結論でした。
(以前は、スペースオペラと表記しましたが、スペース・オペラが適切でしょう)

 たとえば次のような実例を考えてください。
 現在、ほとんどのパソコン・ユーザーとワープロ・ユーザーはQWERTY配列キーボードを使っているはずです。上段の左からのキー配列がQWERTYとなっているものです。
 このキー配列は誠に不合理です。使用頻度が高い母音のAとOのキーを小指や薬指で押さねばならない点を見ても、効率が悪い。(この原稿もQWERTYキーボードによるローマ字入力で打っている)。
 実は、QWERTYキーボードのキー配列は機械式タイプライターの名残だそうです。タイプライターはキーを押すとバーが飛び出し、バー先端の活字がインクリボンを叩いて印字する仕掛けでした。そのためキーパンチのスピードが早すぎると、バー同士がからまってしまいます。そこで、わざと打ちにくいキー配列にしたということです。
 だが、現代のキーボードはコンピュータに電気信号を送っているだけです。なのに旧来型のキー配列を今も引きずっているのは、不合理の極みです。
 しかし、私は以前に、富士通のパソコンを買った時、親指シフト・キーボードではなく、QWERTYキーボードを選んだのです。
 親指シフトの方が理想的なキー配列であることはよくわかっています。しかし、今から親指シフトにあらためて自分を慣らすのは面倒です。人間とはそういう生き物なのです。
 人間がそういう生き物である限り、不合理なQWERTYキーボードが今後も「デファクトスタンダード」です。

 さて、「サイファイ、SCI-FI」についてですが、アメリカと日本とでは、事情が異なるのです。
 アメリカでは「サイファイ」は「サイエンス・フィクションもどきのクズ」という意味で、侮蔑語として存在していたのです。
 それを、現在ではポジティブに捉えなおして「大衆娯楽サイエンス・フィクション」の意味で立ち上げなおしたわけです。
 つまり、アメリカでの「サイファイ」には「侮蔑語としての歴史」があったのです。
 しかし、日本では誰も「サイファイ」などという言葉は知りませんでした。侮蔑語としても、隠語としても、存在していなかったのです。つまり、歴史がないのです。
 これでは、日本で「サイファイ」を定着させるのは難しいでしょう。

 評論家の北上次郎氏も指摘していたことでしたが、現在では「ホラーという記号表現」は、「ノンジャンル・エンターテインメントという記号内容」に事実上、変質してしまったのです。
 ゆえに「現実の枠組みから外れていく内容の娯楽作品」は、すべて「ホラー」のラベルを張っても構わないのが、現状です。

 すなわち、日本における「ホラー」は、すでに「サイファイ」も一部分として、記号内容の中に含んでしまったのです!!

 私自身は、この現状に割り切れないものを感じます。
 しかし、現在の大衆読者にとっては、どうでしょう?
 彼らの感覚で言えば、「娯楽さえ提供してくれるなら、ホラーのラベルでいい」といったところでしょうね。
 そして、この現状は「我々が不合理なQWERTYキーボードを捨てられないのと同様の現象だ」と見なせるのです。

 となると、日本で今から「サイファイ」を立ち上げなければならない必然性も薄いのです。
 「ホラー」のラベルを使えば商売になるし、「ホラー」の中に「サイファイ」も含まれてしまったのが現状です。なのに、なぜ、わざわざ「サイファイ」を立ち上げねばならないのか?
 この問題に突き当たるからです。
 そう問われたら、私は、この程度の答えしか返せません。
「ホラーよりも、サイファイの方が、梅原克文という人間の感覚にはピッタリ合うから」と。
 しかし、世間は、こう言うでしょう。
「何だ、おまえ一人だけの感覚の問題か。じゃ、おまえの心の中で、勝手にサイファイというラベルを使ってろ」と。
 このように必然性も、説得力もないのです。

 私の次回作「カムナビ」は、角川書店と手を組んだせいもあり、「ホラー」のラベルで来年、出版されます。
 年末には、「二重螺旋の悪魔」も、角川ホラー文庫で出ます。
 他に、打つ手がないのです。
 QWERTYキーボードしか選びようがない状況と、そっくりです。

 では、「キャプテン・フーチャー」「レンズマン」「スター・ウォーズ」「スター・トレック」「銀河英雄伝説」「ダーティー・ペア」などなどの作品は、どうでしょうか?
 「宇宙船に乗って、銀河系を飛び回る冒険物語」は、どんなブランドを名乗ればいいのか?
 やはり「スペース・オペラ」でしょう。

 青山氏は、「スペース・オペラはブランドにはならない」、といった悲観的な内容の手紙を書いておられましたね。
 しかし、私が見たところでは、「スペース・オペラ」は、すでに立派なブランドですよ!
 つい数日前も書店で、森岡浩之氏の「星界の紋章」シリーズの最新刊を見かけました。あのシリーズはヒット作であり、文庫のベストセラーだそうでは、ありませんか。
 しかも、数日前に見た「星界の紋章」シリーズの最新刊には、紙帯に、堂々と大きな活字で、「スペース・オペラの傑作!」と書いてありました。
 要するに、早川書房の社員も、「SF」と銘打つと売れないが、「スペース・オペラ」と銘打つと売れる、という現実に気づいたから、こうなったのでしょう。
 ですから、今後は、「スペース・オペラ」こそがブランドでしょう。
 私は自信を持って、そう断言します。

 ですから、青山氏は、森岡浩之氏の「星界の紋章」シリーズの成功例を引き合いに出し、さらに「銀河英雄伝説」や「ダーティー・ペア」などの成功例を引き合いに出して、編集者を説得すればいいのです。
 そして「SF」ではなく、「スペース・オペラこそ、我々のブランドだ」と言えばいいのです。
 これなら、過去に他の作家たちによる売り上げ実績があるから、編集者も納得するはずです。

 一方、私はこのまま角川書店と手を組んで、「ホラー作家」になります。

 結局、これが結論でした。
 前述しましたが、今この手紙を入力するのにも、私は「不合理なQWERTYキーボード」を使っています。
 不合理だとわかっているのに、「親指シフト・キーボード」に取り替えることが、どうしてもできないのです。
 これが現実というものでしょう。
 現実の前に、我々の美学や美意識が崩れ去る。これは、よくある現象なのです。

 やや意気消沈するような内容になりました。
 しかし、今後はお互い、「スペース・オペラ作家」として、あるいは「ホラー作家」として、商売に励めば、それでいいのですよ。
 では、また。
      草々
【引用終了】


 前記、二通の手紙に対する青山の返信が次の物。


【引用開始】
 前略

 この冬は平年並の気候になるとの長期予報、本当ですかね。
 また、手紙の間が開いてしまって失礼します。

 ホームページへの公開、快諾ありがとうございます。反応微弱であろうとのご指摘、もっともです。ですが誰かがあのような意見を持った、という事をどこかで表明しておいても悪くはないでしょう。また、青山からすると梅原さんの名前を利用して名前を売ると言うあざとい目的も否定はしません。

 「SFはしいたげられたジャンルであった」という言葉について説明不足だったようなので補足します。
 先に結論を述べておきます。SFは不当にしいたげられているという主張を変えるつもりはないのですが「低俗ジャンルだとしても、だから何がどうした?」と言うのが正直な感想です。
 なぜ、SFが不当に低い評価しか得ていない、と感じているかといいますと、一番判りやすい例は賞でしょう。
 SF作品で著名な賞を授賞した作品がどれだけあるでしょうか? 直木、芥川では皆無。推理作家協会賞で三、ないしは四作です。あれだけ売れた「銀河英雄伝説」「創龍伝」、古くは「ウルフガイ」。いずれもなにか授賞しましたでしょうか? 賞の候補になったでしょうか? まあ、授賞しなくても当然と言う気もしますが、読み取れる事実に変わりはありません。どんなに売れてもSFでは賞を受けるような評価を受けられないのです。

「SFは本来、三流文化であるから高く評価されないのである」との説、これもはじめて耳にする意見でなるほど、と感じたものの、それほど強い印象は受けませんでした。
「SFは低俗分野である」いいでしょう。認めるのにやぶさかでありません。低俗だろうと高尚だろうとどちらでもいいことです。
 三流文化であったとしても少年の日に心躍らされた物語の価値が下がるでしょうか? 変わりません。ウェルズやヴェルヌの偉業が色あせるはずもありません。
 マジシャンたちは仮に真っ向から「お前たちは三流だ」と仮に罵られたからと言って、歌舞伎役者にでも転向するでしょうか。するはずもありません。ぼくも同じです。いまさら、高尚とされる文学を書く気はありません。目標は、多数の読者を獲得する部分にあります。SFが三流だとしても青山智樹の経営方針には影響しないのです。

 無論、お前は低俗だ、と罵られて気分のいいはずがありません。
 ですが(このあたりは以前の僕の主張を繰り返す事になりますが)問題は低俗だと言われるのを厭って高尚な分野に持ち上げようとした行為が、結局は失敗だったのです。高尚にはなったかもしれません。ですが、ジャンルとしての純文学化を招き、衰微してしまったのです。
 そこで過去を振り返ってSFの純文学化がどのあたりから始まったかを考えて見ますと----さすがにぼくにはその名前を明示する勇気はありませんが、梅原さんと別のルートをたどって、同じ回答に到達したようです。
 それまで存在したどのようなジャンルにも受け入れられずに仕方なくSFと呼ばれながらベストセラー作家としての地位を確立した努力には頭が下がります。いえ、逆に大手純文学雑誌と専属契約を結び、一ジャンルを確立した天才的経営手腕には瞠目せざるを得ません。一人の大成した作家の姿として見習うべきでしょう。もっとも、氏の特定の数作は突出していますが、個人的にはそう好きな作家ではありませんし、客観的にも空想科学小説作家とは認めがたいと感じていますが。

 SF作家はアイドル歌手的存在である、したがって五十過ぎてまでする仕事ではない、これもおもしろく感じました。以前、ぼくは「スペースオペラは全盛を誇っている」とそのようにいいました。供給者の年齢層は考えませんでしたが、読者の中心はいわゆる若年層です。ここからも実をいいますと「スペースオペラはいつか読まなくなるジャンルである」という結論も引き出せるかと思います。スペースオペラの主要な読者である若者たちが今後も同じく読み続けるかというと、何ともいえません。読者の側も世代交代し、書手も変化して来ると考えるのが妥当です。もっとも、いまの十代の読者が三十代、四十代になり、創作者になってしまったらどうなるのか、大いに興味があるところです。

 ですが、かような認識を持ち、現代日本SFが腐っておりもはや余命幾許もないと認識した梅原さんが、従来のSFを「SF」「サイファイ」「スペース・オペラ」と三分割し、その中のサイファイにみずからを置こうとする姿に、なんというかSFについてこだわりを抱いているように感じられる点が不思議です。

(このあたりまで書いたところで二通目を頂きました)

 二通目の手紙を頂いて、何と言いますか悲痛なトーンに驚きました。おそらくは無理解な編集者となにかあったのではないかとお察しします。
 ぼくの方は、返事が遅くなってしまったいいわけなのですが、10月23日に戦記のシリーズ七巻目を脱稿しました。十二月発行予定だったものが一月初頭。結構な自転車操業です。
 この折りに来年、どう仕事を進めるか話が出ました。『宇宙戦艦が暴れまわる話』でまとまりかけていますが、ここではぼくがスペースオペラと名乗りたい、と主張したところ却下された、とだけお伝えしておきます。出版社はKKベストセラーズ、もともとはグラフ誌の版元で戦記シミュレーションの売り上げによってノベルスも展開して来た会社です。いうなればSF外からの出版社であり、商売に徹したプロ的なところです。
 スペースオペラをブランドとして使用している出版社、星界の紋章、ダーティペア(早川)、銀河英雄伝説(徳間 SF大賞の賞金を出しているのはここだ!)、いずれもSF中心で早川など趣味でやっているとしか思えない会社です。そのために市場受けしないスペース・オペラを使えたのではないかと推測します。

 梅原さんに貼られるホラーと言うラベルについて、お嘆きのようですが、ホラーが安定した市場である現在、ある程度は仕方ないとは思います。といいますのはジャンルをどう呼ぶかは読者が握っていると捉えているからです。
 ですが、悔しいですね。こちらはこうしたジャンルが発展し潰れていく過程の一つを見ているような気がするからです。
 あるジャンルが流行って来ると様々な追従者が現われ、境界作品もとりいれられ、同時に屑も増えます。このあたりが売り上げの頂点で、その後、瓦解、あるいは衰微して来ます。ホラーの進行具合はゆったりしていますが、進行パターンは同じで、すでに境界作品を取り入れるという動きが始まっています。
 ホラーはホラーでもぼくにはやはり「クトゥルー」と「パラサイトイブ」あるいは「二重螺旋の悪魔」を一つのジャンルとくくるのはどうかと思います。それは神林長平と、梅原克文を同一視するような行為だからです。(大笑いですが、ぼくのところにまでホラーの依頼が来ました。廣済堂出版のオリジナルアンソロジー、異形コレクションです。月がテーマなので関係がないわけではないのですが、境界分野の取り入れの典型的な例です)

 こうした情況を見ていますと「今日明日、サイファイを立ちあげるのは難しいでしょう。ですが、十年かけて立ちあげるのは大きな意義がある」と思います。進行は緩やかですし、

 「ジャンルは読者が確立する」と主張を繰り返すぼくがこんな事を言うのも妙なのですが……


 すでに余りに長くなり、内容もまとまりが悪くなってしまいました。
 上記で、一応、今回の結論じみた事にしたいと思います。

 ですが、本当は、かつて「SFとは御三家である」と言われたような「梅原克文=サイファイ」あるいは「青山=……」そんな立場に行くことを目ざすべきだと思います。

【引用終了】


1998/11/15の週 11月22日Sun記入 何もなかった週
 いや、本当に何もなかったわけじゃないですよ。
 日曜にはニフティのオフ会で中華料理死ぬほど食ったし----
  【幹事だった】

 朝の三時に起き出して流星群も観たし----
  【流星観みてるより、ギャラリー観ている方が面白かった】

 相撲もそこそこ盛り上がったし----
  【だらしないぞ、横綱、大関。強い曙の復活を期待しよう……ムリかなぁ】

 都響を聴きに行ったし----
  【ガリー・ベルティーニ指揮マーラー交響曲第三番。交響曲は四楽章制じゃないと】

 バトル・オブ・ジャパン7巻の再校も届いたし----
  【まだ、見ていない】

 「月の上の小さな魔女」の著者校も届いたし----
  【もう、見た】

 ソノラマの高橋さんから催促は入るし、これで原稿が進んでいれば万々歳何も言うことはない。いやまあ、そこそこ進んでいるのだけれど。

 バトル・オブ・ジャパン8 十五枚
 怒るUFO誘拐事件 五二枚
 蒼穹の覇者2 彗星編 七〇枚

 あ、でも全然進んでいない(T_T)
 あんまり面白いこともないので、例によって梅原さんの手紙でお茶を濁します。
 いろいろな感想を抱かれる人もいるでしょうし、そうは見えないかも知れませんが、ぼくはSF関係者のどこの誰にも悪意を持ってはいない。ま、しいて言えば人の顔を見るといちいち喧嘩を吹っかけてくる***と****、*****、****は別だがいずれもファンの範疇に入る人間であり、ここの議論には関係しない。
 何かと攻撃の対象となる大原、神林だが(敬称略失礼します)、大原さんにはぼくは面識無いので何とも言えないが、我が家内は神林同盟の同盟員で、この夏のSF大会に参加できないため、彼女の会費をぼくが会長夫妻に直接手渡した。考えて見りゃあの会費もぼくが立て替えており嫁さんからもらっていない! 嫁さんのファンクラブ会費を払うほどの青山が、悪意をもっているかというと、持っているはずがないではないか!←この辺、アジモフ調。
 ……だが、それと評価や立場は違うと言うことなのだ。

 もう一つ。ぼくと梅原氏の意見には若干の相違がある。それでも、このページで書簡を公開する以上、基本的に青山は同意していると受け取ってもらって構わない。「**批判は青山ではなく、梅原氏が言ったことだ」などと逃げを打つつもりはない。
 だが、それだけに本格的にまずい部分は若干自粛せざるを得なかった。絶対に触れてはならない話題や、青山、梅原と関係のない第三者が関係する部分である。特に後者はここに名前が出ただけで、青山梅原と同意見だと誤解されるのを避けるためで、梅原氏の許可も得ていない。最終的には理解を得られると信じているが、何らかの不都合が生じた場合の責は青山にある。

 このあたりで話題が錯綜しているが、手紙が立て続けに来たりしたためであり、本質的な議論の障害にはなっていないと考える。



【引用開始】

 青山 智樹 様
1998・10・21

 前略
 また、すぐにお手紙を書いています。
 遅れに遅れている仕事もあるので、箇条書きにしておきます。

「低俗なジャンルだとしても、だから何がどうした?」
「低俗だろうと高尚だろうと、どちらでもいいことです」
 もちろん、サイエンス・フィクションを手がけている者は、そういう気持ちで書けばいいのです。
 しかし、それはサイエンス・フィクション作家の個人的な思いです。
 社会全体の通念とは異なるのです。そのことは、念頭におくべきです。

 もう一つは、戦後民主主義教育や、うす甘いサヨク・イデオロギーが、今の日本を覆っていることです。「何でも平等が正しい。不平等は悪」という「悪平等主義」です。
 実際には未来永劫、三流ランクの扱いしかない文化は存在するのです。平等なんて、どこにもなかったのです。
 本来なら、我々サイエンス・フィクション作家は「三流は三流なりに伝統の厚みをつける」、「三流なりに繁栄する」という目標設定で良かったのです。
 ところが、戦後民主主義教育は「建て前」ばかりを教え、「本音」を教えなかったのです。これは最悪の教育方針でした。
 それゆえ、戦後民主主義教育に骨まで毒されたSF関係者は、「我々だけ一流扱いされないのは、おかしい」と思い、被害妄想に陥りました。
 その後、「高尚な文学として扱ってもらいたい」という方向に走る者も現れたわけです。もちろん、これが、さらなる失敗を招きました。
 その辺りは、青山氏もよく分析されていますね。

 筒井康隆氏が、SFの大混乱と自滅の原因の一つであることは、まちがいありません。しかし、今さら原因追究をしても、虚しいですね。

「サイエンス・フィクション作家は、アイドル歌手的存在で、五〇才を過ぎたら、やめる仕事である」
 これは八〇年代の半ば頃から、九〇年代の初め頃にかけての時期に、私が気づいたことです。この時期以降、小松左京先生、半村良先生、手塚治虫先生らが、まったくサイエンス・フィクションを書かなくなったからです。
 しかし、誰もこの事実を口にしないのです。
 気づいている人はいたはずです。しかし、口に出せないという変な空気が、SF関係者を覆っています。

 私が「サイファイ」の立ち上げをあきらめたきっかけは、ハルキ文庫の「SF小説」の全滅を見たからです。

 角川春樹事務所から、ハルキ文庫が出ていますが、この夏、あの文庫は七〇年代日本SFの名作の復刻版を出して、紙帯にも大きく「SF」と銘打ちました。
 そして、これらの文庫本で解説を書いたのは、巽孝之、大森望、高橋良平などの「SF関係者」でした。
 そして先日、10月18日に、富山市内の大型書店を見てみたら、ハルキ文庫のSF小説は全滅!
 現在、ハルキ文庫のラインナップは、ミステリー系とホラー系のみです。わずかに出ている七〇年代日本SFの名作も、紙帯にはSFとは銘打っていないことが多いのです。「あのラインナップの激変ぶりを見れば、ハルキ文庫も「SF」を見離したのは明白です。きっと返本の山だったのでしょう。

 要するに、今の大衆読者は、「SF」も「SF関係者」も一切、信用していない、ということです。
 つまり、一般の読者で、以前に一冊でも神林長平や、大原まり子を買ったことがある人は、「さっぱり、わからん!」と投げだしたに決まっています。そして、「SF」も「SF関係者」も、二度と信用しなくなったのでしょう。

 先週まで、私は「SF」がダメなら、「サイファイ」があると考えていました。
 しかし、書店でハルキ文庫の「SF小説」の全滅を知り、その他の棚も見てまわるうちに、ついに「サイファイ」も、あきらめました。
 今から「サイファイ」を立ち上げる必然性が見あたらないのです。今では「ホラー」が、「サイファイ」も一部分として含んでしまっており、大衆読者にとっては、それで何の問題もないからです。

【631文字削除】

 一方、「サイファイ」の立ち上げは、日本では困難です。
 アメリカならば、「SFもどきのクズ」の意味の侮蔑語として「サイファイ」は存在しましたが、日本では侮蔑語としての歴史もないのです。

 その時、私は「QWERTYキーボードという遺物が、コンピュータ時代に居座っている」という有名な逆説を思い出しました。
 つまり、「一度、社会に定着したものは取り替えがきかない」という現実です。
 「ホラー」が「サイファイ」を含んでしまった現状も、もう取り替えがきかない、と見ていいでしょう。
 もし取り替えがきくとしても、それを行うのは我々の世代ではなく、我々よりも二〇才は若い世代の任務ではないか、と思えてきました。
 そのぐらい、人間社会というものは、一度、定着したものに対しては保守的だからです。

 そして先日、こんな事件もありました。
 角川書店の高根澤氏が、私に何の断りもなく、文庫版「二重螺旋の悪魔」の解説を、柴野拓美先生に依頼してしまったのです。
 私としては、誠に失礼ながら、柴野先生の「解任」を要求することになりました。
 私が、柴野先生に送った手紙のコピーも、同封しましょう。

 KKベストセラーでは、「スペース・オペラ」のラベルは嫌がられたそうですね。まあ、彼らには彼らの思惑があるのでしょう。
 ならば、こういう時こそ発想の転換です!
 「KARATE」や「KICK-BOXING」をやめて、「K1」を生みだした姿勢を見習って、新ブランドを立ち上げるチャンスでしょう。

 貴兄の視点は、こうでしたね。
「『パラサイト・イブ』と『二重螺旋の悪魔』を同一ジャンルとするのは、変でしょう。それは梅原克文と神林長平を同一視するような行為です」
 それについて、私はこう考えます。
「瀬名秀明と梅原克文は、大衆娯楽作家である。ゆえに、瀬名と梅原の距離は近いから同一ジャンルと見ても、それほど不自然ではない。
 一方、神林長平はマニアに受けるだけの作家である。ゆえに、梅原と神林の距離は遠いから同一ジャンルと見るのは、不自然である」と。
 今の大衆の視点を代弁すると、上記のとおりです。

 つまり、青山氏の視点と、大衆の視点には、今なおズレがあると、私は考えます。
 すでに「SFであるか否か」は、世間では基準にはならないのです。「娯楽小説としての価値があるか否か」が、基準なのです。
 その基準で見るなら、瀬名秀明と梅原克文は同一ジャンルなのです。
 我々が何と言おうと無駄です。
 大衆は、そう見ているのです!
 そして、これはQWERTYキーボードしか選べない状況と、そっくりだということです!

 というわけで、我々の世代が「サイファイ」を立ち上げるのは難しい、と結論しています。
 我々より二〇才ぐらい若い世代に、「サイファイ戦略」を授けて、彼らに任せるという、そのぐらいの長期戦略が要ると、考え始めているところです。
 もちろん、それも失敗に終わる可能性もあると思いますが。

では、今回は、ここまでにしておきましょう。
草々 

【引用終了】


 上記の手紙に対して、青山の返事が次のもの。
 話題が錯綜しているが、手紙が立て続けに来たりしたためであり、繰り返すが本質的な障害にはなっていない。

【引用開始】
梅原克文様
1998.11.4 

 前回の手紙はどこかテーマが散漫で申し訳ありませんでした。
 今度はもうちょっとはマシかと思います。

 サティアンの内と外について。これも面白い比喩ですね。ぼく自身は明白に「SF大会関係者」で、サティアンの内側の住人なのですが、それでも----いえ、それだからこそ、SF大会の内側で起こっている事を職業作家が一切気にかける必要はないと、そのように断言します。
 梅原さんは大原、神林の星雲賞受賞でSFサティアン内の蒙昧を指摘されていますが、それは当然なのです。
 星雲賞はSF大会参加者の投票によって決定されます。参加者はここ数年およそ千人程度です。SFマガジンの発売部数が公称数万と聞きますから、話半分に聞いたもののさらに一桁下です。SFの熱狂的な読者のそのまた一部にすぎません。さらにこの全員が投票するかといいますと----内部で星雲賞の投票率が低いのが問題になっているとだけ申しておきましょう。日本SFファングループ連合会議(星雲賞を授与する母体団体です)が投票率を公表したがらないほどの酷さなのです。
 つまり星雲賞というのは、大会ファンの中でももっともマニアックな極小数の意見なのです。これら少数の読者からの評価を受けたからとて受賞は喜しいかもしれませんが、経営的にはまったく無意味です。
 一応、ぼくとSF大会サティアンの関係を示しておきますと、青山はすでに十年以上日本SFファングループ連合会議の代議員として大会に参加し、活動しています。代議員ですと星雲賞の候補作を推薦するのですが、具体的にはぼくの参加するグループ(ある著名作家のファンクラブです)内の意見を取りまとめ、連合会議に提出することです。
 濃厚な結び付きですが、それだけに「作家の経営的な戦略とは無関係」と断言します。SF大会はそれだけ単独のものとして楽しめばいいのです。大会などつまらない、と判断する向きは足を踏みいれなければ良いのです。無視したからと言って何も不都合は生じません。

 と、ここまで擁護するような事を書いていましたが、中にはとんでもない認識違いをしている人物がいるのを認めざるを得ません。一昨年のSF大会で、ある評論家のグループとたまたまであいました。一つ部屋に落ち着いて談笑、とあいなったのですが、当然のように「最近、SFが売れていない。どうすれば売れるようになるのか?」という話題に触れました。始めは冗談のような話をしていましたが、次第にかれらは「星雲賞なり、SF大賞なりを持ち上げれば良いのではないか、それにはどうすればいいのか」を議論し始めました。
 始め、ぼくは冗談でそんな話をしているのだろうと思っていたのですが、どうもそうではないらしいのです。おおまじめで、そんなやり方でテコ入れができると考えているようなのです。
 これにはびっくりしました。
 もはや議論するつもりも消えうせました。ぼくは口をつぐみ、ただ、無意味な議論が頭の上を行き来するのに耐え、やがて席を外しました。
 個人的には親しい友人も含まれていたのですが、考え方はまったく違っていたのです。
 個人としてはともかく、職業作家としてはかような手合いを相手にするのは、それこそ無駄ですし、同一視されても大いに困ります。

 以前の手紙で「青山は宇宙戦艦が大暴れをする話を書くかも知れない」とそのようにお伝えしましたが、実はいま、引き受けるべきか否か悩んでいるところです。これは話を断るわけではなく、具体的には別の話、シミュレーションを書くことになるでしょうが、スペース・オペラを忌避する理由はおそらく梅原さんと似たような理由です。いま、青山の明白にSFと呼べる作品はデビュー作とスラプスティックが一本あるだけ。ですが、もし、ここでスペースオペラを書いてしまったら、SFの不名誉なレッテルを貼られてしまいます。

【2634字削除 絶対に言っちゃマズイ事を口走ったため】

 話は戻ってSFについて。
 柴野先生とのエピソード、さらには書簡のやり取りによって感じられる事は「梅原克文はSFと呼ばれる事を忌み嫌っている」であり、それは正しい態度でしょう。SFは商業的にはすでに滅びたジャンルであり、SFとラベルが貼られると一般大衆は逃げてしまう、そんな現実があるのだったら、避けて当然です。
 先日、やはりこのような話を柴野先生とする機会があったのですが、その時の先生の「だけれど、SFが無くなってしまうってのは、寂しいね」とおっしゃった言葉が忘れられません。ぼくも寂しくて仕方ありません。ですが、それがただの無用な感傷であるのも分かっているつもりです。

 一方、ぼくと梅原さんとでなかなか意見の一致を見ない部分が感じられます。それはジャンルの規定の仕方についてです。梅原さんはサイファイなり、ホラー、大衆娯楽小説というの中に自分を規定しようとしているように見受けられます。つまり、創作者がみずから定義を決めているわけです。
 反面、ぼくはそうした定義づけは読者なり、編集者、評論家の作業であり創作者たる青山の作業ではないと考え、そうした分類が必要となった場合は最低限の必要作業だけでできるだけ遠ざかるようにしています。
 ですから、ぼくの属するジャンルがなになのか、できるだけ気にかけないようにしています。青山の主要商品は「戦記シミュレーション」と呼ばれる分野です。なにぶん新しいジャンルなのでいろいろな言われ方がありますが歴史小説の一分野であるとも、SFであるとも、(青山作品の場合)航空小説であるとも取れます。ですが、どうでもいいのです。無論、ホラーであるとこじつける事もできますが、ぼくは小さな声で「ちょっと違うんじゃないの?」というだけで終りにします。どのように銘打つかは編集者なり読者の領域だからです。

 これもまだ誤解を招いてしまったようですが『ホラーはホラーでもぼくにはやはり「クトゥルー」と「パラサイトイブ」あるいは「二重螺旋の悪魔」を一つのジャンルとくくるのはどうかと思います。』です。やはりぼくはこれは小声でいいますが、クトゥルーが抜けてしまうとずいぶんと幅が狭くなってしまいます。
 小声で、というのも何度も繰り返しますが、創作者はジャンルの規定に手を染めるべきではないと思っているからです。
 いずれにせよ梅原さんが「梅原克文のジャンルはかくかくである」と決めた物にぼくは異を説えるつもりはありません。いっちゃなんですが、どちらでもいいと思っているからです。

 そしてもうひとつ、こちらははるかに重要なのですが、梅原さんのおっしゃる「「すでにSFであるか否かは」世間では基準にならないのです。「娯楽小説として価値があるか否か」が基準なのです」
 に対して青山は「面白いか、否か」が唯一の基準であると考えています。青山の読書経験からしてあらゆる小説の最高傑作の一つに三島の『金閣寺』をあげます。同様にハインラインの『人形使い』もはずせません。どちらも青山にとっては同様に面白い作品です。つまり、これがいわゆるジャンルは無関係とする理由なのです。薄弱たる根拠ですが、青山個人がそう考えているだけの事です。

 話は戻ってしまいますが、いま存在する特定のジャンルの作品を呼ぶ名前がない。こればかりは困りものです。サイファイ、魅力的な響きです。ですが、確かにどうなるかわかりません。引き出しの奥にしまっておきましょう。

 QWERTYキーボードの話、興味深く伺いました。一方、今度、音声入力方式の一太郎が販売されるそうです。青山は購入するつもりでいるのですが、これが普及すればキーボードの問題も吹っとびます。どこかで、おおきなパラダイムシフトが起これば、また新しい道も開けるかもしれません。

 追記:往復書簡のホームページにへの掲載について。
【省略:別にまずいことを口走ったわけではない。高千穂さん、森下さんからのチェックについての報告】
【引用終了】
1998/11/24日Tue記入 ちょっとした修正
 一昨日、アップデートで妙な記述をしてしまったのか、嫁さんのマシン(IE3)で見るとここがぐちゃぐちゃになっている。また、高千穂さんからこのページに誤解を招きやすい表現があるよ〜ん、とのメール。ミス自体は重大な物ではないと考えるが、とんでもない誤解をうけかねないので、その部分を修正。修正ヶ所はここ。
 昨日は嫁さんを風呂に入れに天目山温泉へ。ここは篠田さんに教えてもらった温泉で外来者でも700円で入れる。村内だと300円かな? ジャグジーあり、渓流沿いの露天風呂ありのいいお風呂です。紅葉の美しい渓流を望む露天風呂は最高。ただ、帰り、中央低速道路のべ49キロの渋滞(T_T)
1998/11/29日Sun記入 色々あった週
月曜日は嫁さんを温泉に入れ、
火曜日はホームページの修正、
水曜日は娘の予防接種、
木曜日は嫁さんがオフ会、亭主は一日子守り
金曜日は義父がやって来て
土曜日は親戚の葬式、
 チュラチュラチュラチュラチュッチュッ、一体いつ仕事してるんだろう?

 バトル・オブ・ジャパン8 二五枚
 怒るUFO誘拐事件 九一枚
 蒼穹の覇者2 彗星編 七〇枚

 前の手紙を投函してそのすぐ翌日に梅原氏から書簡を受け取った。いくら何でも梅原氏は前段の青山のファンダム擁護は読んでいないはずである。
 又も錯綜しているが、これに対してぼくは後記する返信を書いた。
 青山はファンダムをめぐる話題は枝葉の部分だと受け取っているが、梅原さんには別の考え方があるようだ。



【引用開始】
 青山 智樹 様
1998・11・4
 前略
 また、すぐにお手紙を書いています。
 やっと、私は最終結論を出しました。

 柴野先生への手紙にも書きましたが、「プロの倫理」が必要なのです。つまり、「プロはアマチュアの非営利イベントとは一切、関わらない」というルールを確立しておくべきだったのです。
 前述しましたが、アマチュアによる大規模な非営利イベントは、「サティアン」と化す性質があります。
 要するに、世間の一般人の基準から、どれだけ、かけ離れた方向に進んでも、誰からも文句を言われない世界が、毎年、三日間だけ出現するからです。
 これは「サティアン」そのものです。
 そして「サティアン」と化すと、「サティアン内だけのアイドル」も現れます。つまり、神林長平や大原まり子などです。
 これらの作家は、「サティアン」の外では、まったく受け入れられませんでした。いかに不毛な状況を生んでしまったかが、よくわかります。

 一方、ミステリーやハードボイルドや、ホラーには、「SF大会」のような大規模な非営利イベントがありません。
 このことが幸いしたのです。SFと異なり、「サティアン」が出現せず、「プロの倫理」が守られたわけですから。

 では、プロの倫理をどう確立しなおすのか。
 それには時間がかかります。
 まず、「SF大会」の自滅を待つことです。
 現在、「SF大会」参加者の平均年令は三〇代だ、と何かで読みました。また、参加者の平均年令は一年経つごとに一才ずつ上がっている、という話も読みました。
 つまり、今の若い世代は、「サティアン」的な雰囲気を嫌っているのでしょう。それゆえ、「SF大会」には若い世代が補充されなくなったのでしょう。
 ということは、このまま放置しておけば、二〇年後か三〇年後には、「SF大会」参加者の平均年令は、五〇代か六〇代になるわけです。
 その頃になれば、「SF大会」は事実上、「老人会」と化し、自然消滅寸前でしょう。その頃には、「SFマガジン」も赤字続きで、自然消滅しているでしょう。
 そして、その頃には、私も五〇代か六〇代のベテラン作家です。
 そうなったら、その時点での三〇代ぐらいのプロ作家たちに、「サイファイ構想」を授け、「プロの倫理」を言い聞かせ、彼らに責任を背負わせるわけです。
 つまり、将来、「SF大会」の二の舞のような「サイファイ大会」といったアマチュアの非営利イベントが開催されたとしても、「プロ・サイファイ作家」は一切、関わらないわけです。
 こうして「プロの倫理」を元に、ゼロから再出発できる環境が整います。
 これで歴史は正しい流れに戻るでしょう。

 なぜ、そんなに時間をかける必要があるのか、と疑問に思われるでしょうね。
 第一に、今、「サイファイ」をブランドとして名乗っても、成功率は低そうなのです。大衆からは、「サイファイ? どうせ、SFと似たようなものだろう。信用できないね」という反応が返る可能性が高いのです。
 第二に、今の大衆読者は、「サイファイ」のような文化を「ホラーの中のサブジャンルだ」と思いこんでしまっているようです。ならば、それを逆用して、今は「ホラー作家」を名乗る方が都合がいいのです。
 今すぐ、「サイファイ」と「ホラー」を切り離すと、「ホラー」に群がっている大衆読者を逃がしてしまうため、現時点での商売上の利点がなくなってしまうのです。
 第三に、「SF」と「SF大会」の存在があります。せっかく「サイファイ」を立ち上げても、SF関係者たちが「それもSFだ」などと言い出すと、梅原克文に続こうとする「プロ作家予備軍」が混乱するからです。
 それを防ぐためにも、大衆娯楽作家は「ホラー」のラベルを利用しつつ、「SF」と「SF大会」の自滅を待つのが、より確実だと考えました。

 もう少し追加すると、アメリカで生まれた「SF大会」という文化は、結局は「悪しき伝統」だった、ということです。
 もちろんアマチュアが非営利イベントを開催すること自体は、構わないのです。
 しかし、なぜか、アメリカでは「SF大会」などにプロ作家がノーギャラ、無料奉仕で参加する、というのが慣例化していたようです。
 そして、その「悪しき伝統」を、無批判で、そのまま日本に輸入したことが、後々の自滅への種だったわけです。

 こう考えてみてください。
 一年三六五日間、ディズニーランドや豊島園などの遊園地を経営するプロの社長や重役がいるとします。
 彼らのところに、「一年に三日間だけ開催される、アマチュアの非営利イベント」からの招待状が来たとしましょう。
 その招待状には「ノーギャラで、無料奉仕で参加してください。旅費、交通費などは自分持ちです」と書いてあるのです。
 遊園地経営のプロたちが、こんな「アマチュアのお祭りイベント」に普通、無料奉仕で参加するでしょうか? 
 参加するわけがないのです。
 もし参加したとしても、プロ経営者たちに、何かメリットはあるでしょうか? プロ経営者として役立つものを、ここから何か学べるでしょうか?
 何もありません。

 こう考えてみると、「多数のプロ作家が無料奉仕で、アマチュア・イベントに参加する」というのは、いかに異常な事態であったかが、よくわかります。

 要するに、「プロとアマチュアの交流の場」など不要だったのです。
 本来、プロとアマチュアの間には、「簡単には越えられない壁」があるのであり、それが正常な状態なのです。
 もし、アマチュアがこの「壁」を越えようとしたら、プロはこう言わねばなりません。
「こっち側はヤクザ者の世界だぞ。大衆読者の心をつかめば大金持ちになれるが、つかめなかったら死ぬまで貧乏地獄だ。それを覚悟してるのか?」
 たいがいのアマチュアは、これでビビッて引き下がるでしょう。そしてアマチュアは、アマチュアの身の程を知るようになるでしょう。

 というわけで、柴野先生ら、年長のSF関係者たちには、何とも申し訳ない結論となりました。
 しかし、今まで、たっぷり考えましたが、やはり、これしか結論はないようです。

 では、二〇年後か三〇年後を、楽しみにお待ちください。
 その時こそ、「サイファイ」が立ち上がるチャンスでしょう。
 その時が来るまで、私は「ホラー作家」を名乗ります。

 では、また。
草々
【引用終了】


 ここも錯綜している。後段の手紙とあわせて読んで欲しい。
 もっとも、次の部分は青山がファンダム擁護を繰り返しているに過ぎない。


【引用開始】
梅原克文様
199811.06

 一昨日、手紙を投函したばかりなのにもう一度あわててこれを書いています。
 前の手紙にも記しましたように青山は明白にサティアンの内部の人間です。従って内部からの観測を報告します。
 まず最初に宣言しなければならないのですが、青山智樹という個人の中にはふたつの面があります。一つは「職業作家」としての姿。もう一つが「SFの読者」としての姿。これは相互に深く関っていますが、もちろん、社会人としてどちらを優先しなければならないかを決断を強いられた場合、迷う事はしません。

 そして、結論を述べてしまうと「SF大会がいかに暴走しようが、プロ作家としては気にかける必要はない」です。

 これは以前の主張の反復になるのですが、SF大会の参加者数は実に微々たるものです。千人程度、というのが実情です。もし、千人が青山の著書を恒常的に購入してくれたとしても、発行部数からしてそれほどの重点をおく必要はない数字です。
 サティアンの支持によってスペキュレイティブ派の作家が生き残り、サイエンスフィクション全体の信用を低下させた、というのが梅原さんの主張のようですが、仮に参加者のすべてがそれら作家の著書を購入したとしても十分な数には達っさず、職業作家として生き残れるはずもありません。二十年かけてSF大会を排除したからと言って、全体的な情況が変化するとは思えません。
 そして、サティアンの中で、わずか一部の支持を受けている作家の影響力などたかが知れています。ですから、逆に梅原克文ほどの作家がなぜ、神林大原などを目の敵にするのか不思議で仕方ありません。

 SF大会を重要視する必要はないとの説をもう少し補強しましょう。それは既存の作家の一部がすでにSF大会ばなれを起こしているという事実です。たとえばかつて御三家と言われたような作家の出席はほぼ皆無になりつつあります。一昨年、小松先生の出席があったのが例外的な事でした。それより若年のクラス、眉村、半村あたりもほとんど姿を見ません。高千穂遙も今年は出身地開催と言うことでゲスト・オブ・オナーとして出席しましたが大会で姿をみかけたのは久しぶりです。

[と書いたら、高千穂さんからメール:七〇年代のSF大会は北海道と沖縄以外、ずっーと開会式から閉会式まで出ているとの由。もっときちんと下調べしなさい、と教育的指導まで受けてしまったが、実を言うとほっとしている。こんな事を書いてしまったのも、SF大会でまともに高千穂さんの姿を見たのはロサンゼルス以来だったためで、参加なさっているはずの方を見落としてしまったのはぼくの一方的なミスで、その点は責められても仕方ない。
 だけれど、著名な作家の出席が減っている(減っているように見える)のは事実で、そんな中で高千穂さんが「毎回出ている」とおっしゃるのはSF大会ファンとして心強い]

何かと攻撃の対象になる神林長平も出席も減って来たようです。今年の大会では星雲賞授賞式の直前に会場入りし、そそくさと帰って行きました。

 これらの事実は既成作家もSF大会が営業上何のメリットももたらさないと判断したからではないかと思います。

 大会はその中に居心地のよい場所を見つけられた者が参加すればいいのです。外には影響をもたらしませんし、中でどんな騒ぎがあっても無視すればすみます。
 一方、サティアンに対峙する場合「プロの倫理」の徹底はぼくも感じていたところです。もっとも、梅原さんの意見とは趣を異にしますが、プロが参加する場合でも「SFの読者」として参加すべきだというのが、それです。
 今年、聞いた話です。あるマンガ家が「来年はSF大会に参加したいのだけれど、最近SFを書いていないので、呼んでくれるのだろうか?」と心配していたとの風評です。ぼくからすればこれこそ大きな間違いであって、参加費を払って参加すれば良いのです。ゲストとして参加したからと言って大会が持ってくれる費用は、大学生が自由にできる程度の額です。気にかける額ではありません。金さえ払えば堂々と参加して企画を断わって何の困る事もありません。
 ゲストとして招待された場合でも当日参加費分の寄付を渡します。これは柴野先生がなさっている方法で、ぼくも真似させていただいてます。
 また、これも話の本筋から脱線しますが、アメリカのSF大会の方法だそうです。ゲスト・オブ・オナー、名誉主賓とでも訳すのでしょうか、アメリカではこれら若干名には参加費宿泊費交通費までも大会が持つが、それ以外のゲストはすべて自費で参加すると聞きます。一般参加者でも企画を持つような場合もありますから、日本で言うゲストと、一般参加者の垣根はないわけです。
 いま現在、ゲストとは何かとの規定がファングループ連合会議には存在しません。誰をゲストとして招き、その待遇をどう規定するかはそれぞれ臨時に設置される実行委員会に一任されます。そのため、今年の大会には招待されたが翌年は声もかからなかった、という現象が生じています。これはマズイとここ数年、連合会議が規定するようにと働きかけていますが、別の議論に属しますね。
 脱線が過ぎたようです。
 いずれにせよぼくがSF大会に参加する場合は「読者」として参加し、それとはまったく別に「プロ倫理」で行動する職業作家としての青山が存在します。他の全ての作家が同様の行動を取るべきだとは言いませんが、プロ倫理が必要であるとの思いは変わりません。

 SF大会の高齢化が進んでいる、というのは事実です。数年前、自分でデータを集めて分析したところ、年間、〇.九歳の速度で高齢化が進んでいます。ですがこの原因についてSF大会が若者に嫌われたというより、コミックマーケットに流れてしまったという分析があり、ぼくはこちらを支持します。

 ファンとプロの交流の場は不要との説。職業作家となった身から振返ってみるとアマチュアとの交流はさして得るものがないようです。ですが、アマチュアであった身からするとプロを間近で見る機会を多く得られたのは大変なプラスでした。SFの世界のみならず文芸全体で宇宙塵ほど多くプロ作家を輩出した同人誌はないと思いますが、好成績を残した理由の一つに「アマチュアがプロを間近で見る事が可能だった」との指摘がされています。ぼくとしては柴野先生の新人育成能力の高さがトップに来ると信じていますが、上記主張も見逃せません。
 壁を越えようとするアマチュアに対して現状を説明したところで引き下がる相手はそうそういません。まあ、その程度で引き下がる人間が職業作家としてやって行けるはずはないと思いますが、どうしても……という向きには宇宙塵に来ていただければ、それなりのアドバイスを与えられます。

 ですが、サティアンという概念で考えた場合、最も恐ろしいのはSF大会以外に中心が存在した場合です。
 SF大会の参加者は千人程度。スペキュレイティブ・フィクションのマイノリティとはなりえない数字です。三十年ほっておけば勝手に消滅するかもしれません。
 一方、SFマガジンの発行部数は二万とも、四万とも言われています。ちょっと多すぎるような数字ですが、いずれにせよSF大会参加者を十倍する購読者がなければ早川書房がいかに殿様商売だったとしてもやっていけるはずがありません。現実にはとりわけ渋いそうですから、大会にも姿を表わさないSFマガジンに掲載されるような作品を支持する読者がいるのです。スペキュレイティブ化をSFファン全体の集合無意識として推し進めているのだとしたら、我々には手が出せません。
 純文学が衰退を始めて何十年立つでしょうか。ぼくの手元にはデータがありませんがSFよりはるかに長い期間、低空飛行を続けているはずです。にもかかわらず純文学イコール高尚という図式が残っています。
 SFが今のペースで弱体化し続けても、すでに高尚になりつつある現状からしてやり難い状態が続くかもしれません。

 パラダイムシフトを目ざしましょう。

 プリントアウトの関係がありますので、このあたりで。

 いままですっかり忘れていたのですが、ホームページのハードコピーを同封します。

【引用終了】


 前記の手紙が着いた直後、再び立て続けに梅原氏から手紙を受け取った。これが直接前回ぼくがしたためた11月4日づけ書簡に対する返信である。
 次の手紙を書いている段階で、やはり梅原氏も前段のぼくの手紙を読んでいないはずである。
 なお、これらの手紙の中で梅原氏は「超メタ言語的な作品」、青山は「スペキュレイティブ・フィクション」という言葉を使っている。だが、あえてここでは厳密な区別は行っていない。いずれも起源を別にする言葉で、厳密に規定しようとするとニューウェーブ論争にまで遡らなければならず、とてもではないが本論に到達しないためである。



【引用開始】
 青山 智樹 様
1998・11・9
 前略
 お手紙、拝読いたしました。

 一昨年(96年ですね)のSF大会で、「とんでもなく現実認識のない評論家グループ」がいて、呆れ返ったそうですね。
 たぶん、そんなことだろうと思っていました。
 私がSFマガジンに投稿し、乱入したのは、97年の夏です。だから、その連中は、私のような視点、論点をまったく知らなかった時期の話ですね。
 今だったら、彼らも「梅原克文の法則」を知った後だから、そんな議論はできないでしょう。そして、今、彼らは私に反論もできず、沈黙状態です。はっきり言いますが、役立たずどもです。

 星雲賞が無意味な賞だというのは、私も感じていました。

【大御所の星雲賞受賞をめぐる批判のため115字削除】

 いいわけないです。
 こんな受賞結果では、私も納得がいかないですね。あまりにも****を甘やかし過ぎています。
 元々、少数のアマチュアのおたくによる投票で決まる賞だから、こんないいかげんな結果になるのです。目利きの選考委員たちが選ぶ賞なら、こんな結果にはならないでしょう。
 実際、星雲賞は世間から全然、信用されていませんしね。

 それと一言。
 私がスペース・オペラを書かないのは、それを忌避しているわけではありません。私も二〇才前後の頃までは、スペース・オペラ読者だったのです。「クラッシャー・ジョー」や「ダーティー・ペア」を欠かさず買っていましたから。しかし、その後は、私の興味の中心が他へ向かった、ということです。
 私が今現在も、大のスペース・オペラ好きだったら当然、スペース・オペラを書いているでしょう。
 私はスペース・オペラは立派な文化と考えていますし、「SF」とはまったく異なる、独立したジャンルだと捉えています。

 さて、星雲賞以外の「賞」の「宣伝効果」についてです。
 これは、やはり、その賞の「歴史の長さと、信頼度」に比例するようです。
 実は、私の「ソリトンの悪魔」ですが、いったんは4万部で頭打ちになり、96年の正月辺りで増刷が止まったのです。
 何しろ朝日ソノラマときたら、親会社の朝日新聞にしか広告が出せないのです。角川書店や講談社なら、すべての新聞に広告を出せますが、朝日ソノラマには、そういう財力がないのです。やはり広告の力がないのは痛いですね。
 ところが、「ソリトンの悪魔」が日本推理作家協会賞を賜ったとたん、96年6月から半年ぶりに増刷が再開して、8万部を越えたのです。
 つまり、推理作家協会賞の歴史の長さと、過去の実績ゆえに、受賞作を必ず買うといった固定読者がいるのでしょう。
(何しろ推理作家協会賞の第一回受賞作は昭和23年、横溝正史先生の「本陣殺人事件」ですよ。名探偵、金田一耕介が初登場する作品です)

【某文学賞批判のために210字削除】

【青山が口走った『言っちゃまずい事』に対する、ものすげーヤバい反応のため370字削除。おれまだ死にたくないよ】

 「SFがなくなってしまうのは寂しいです」と柴野先生は言われたそうですね。
 これは、私も同感です。
 しかし、「SF」はなくなっても、SFの中から「大衆娯楽文化として使いものになる部分だけ」を切り取って、「SCI-FI、サイファイ」や「スペース・オペラ」として別々に立ち上げなおすチャンスはあるのです。ここが、私と、柴野先生の違いなのです。
 まあ、「SCI-FI、サイファイ」の立ち上げは遠い先の話でしょうけど。

 お話変わって、青山氏は、こう見ておられるようですね。
「ジャンルの定義づけは、評論家や読者が決めることです」

 私の見方は、こうです。
「サイエンス・フィクションというジャンルは、特殊な事情を抱えている。つまり、自称SF評論家や、自称SF読者といったマニアたちは、放っておくと『超メタ言語的な作品』を好むようになり、やがて自滅していく。こういう連中に、これ以上、任せるわけにはいかないのだ。
 プロ作家が、自らブランド経営に積極的に乗り出さねば、サイエンス・フィクションの自滅的な傾向は、永久に解決できない!」

「ジャンルの定義づけは、評論家や読者が決めること」
 これは一般論としては、正しいのです。
 しかし、一般論が通用しないケースも、時にはあります。
 そして、そういった特殊なケースだとわかったら、プロフェッショナルが介入するのも、ビジネスマンの知恵なのです。

 たとえば「K1」(ケイ・ワン)の例を考えてください。
 「K1」は、「カラテ&キックボクシング混合勝ち抜き・世界一決定戦」のことであり、自動車レースの「F1」をもじったネーミングです。
 では、質問です。評論家や一般の観客に任せていたら、「K1」のようなイベントは、自然に生まれていたでしょうか?
 答えは、ノーです。
 「カラテ&キックボクシング混合勝ち抜き・世界一決定戦」といった概念が、自然発生するなんて考えられません。自動車レースの「F1」をもじったネーミングの「K1」も、自然発生するなんて考えられません。
 これらは石井和義氏(空手団体・正道会館の館長)の人為的な発案です。
 つまり、「K1」は、「プロフェッショナルが自ら積極的にブランド経営に乗り出したケース」なのです。

 現在までのサイエンス・フィクションの歴史を振り返ってみると、「SFの場合は、評論家や読者に任せていたら、いつのまにかマニアと化した連中のサティアンになって、失敗に終わったケース」であることは明らかなのです。
 となると、「ジャンルの定義づけは、評論家や読者が決める」という、今までの一般論は、「マニアが増えやすいSFには当てはまらない」と考えるしかありません。
 やはり、これは、「プロフェッショナルが人為的に管理するしかないケース」だと見ていいでしょう。ちょうど「K1」のように。
 そこのところを今一度、考えてみてください。一般論は常に正しいわけではないのです。それどころか、一般論が邪魔になる特殊なケースもあったのです。

 では、現状をすなおに見ましょう。すると、SF及びその周辺には、三種類の文化が存在する、とわかります。
(1)マニアックで大衆受けしないSF小説(例:超メタ言語的な作品)
(2)娯楽SF小説(例:マイクル・クライトン)
(3)SFもどき娯楽小説(例:ディーン・クーンツ)
 従来、SF関係者は(1)と(2)を「SF」と呼んでいたのです。
 ところが、大衆読者が金を払ってくれるデファクトスタンダード(事実上の業界標準)は、(2)と(3)です。
 この食い違いが問題だったのです。大衆の視点から見ると、「SF」は、「シニフィアン、記号表現」と「シニフィエ、記号内容」がすなおに一致していないラベルだったのです。
 そこで(2)と(3)とを合わせて、「サイファイ」という新ブランドにするわけです。「サイファイ」ならば、大衆の視点から見た時の「記号表現」と「記号内容」がすなおに一致するわけです。

 前述しましたが、「サイファイ」の定義は、こうします。
 「現実的で日常的な舞台設定から物語の幕が開いて、徐々に超科学・超自然の世界へ客をいざなっていく大衆娯楽ストーリー」です。より具体的には、「もっとも理想的なサイファイ作家は、マイクル・クライトンとディーン・クーンツである」と定義します。
 この定義から外れすぎたものは、「サイファイ」とは認めないわけです。

 ですから、筒井康隆、神林長平、大原まり子などは真っ先に除外です。彼らの場合、この定義から外れすぎた「超メタ言語的な作品」が多すぎるからです。
 この手の「超メタ言語的な作品」を「伝統的な大衆娯楽ブランド」にすることは、不可能でした。それは、もう実証済みです。この手の作品を好むのはマニアだけです。そういうマニアは除外します。
 こうした「厳しい定義づけ」こそが、「プロフェッショナルが自ら積極的にブランド経営に乗り出す」という意味なのです。ちょうど「K1」のように。
 これによって、「サイファイ」は「伝統主義を第一義とする文化」として、大衆から信頼され、定着するでしょう。

 「サイファイ」には、やはり、こうした「管理」が不可欠だと思います。放っておくと、また「SF」のようにマニアの玩具にされて、サティアン化します。私が今すぐ「サイファイ」を立ち上げるべきではない、と思ったのも、そのせいです。
 やはり「SF」の自滅を待ってから、「安心と信頼のブランド、サイファイ」をスタートさせる方が、うまくいきそうです。
 前回の手紙にも書いたように、今現在の私は「ホラー作家」のラベルを利用して商売にするだけで、それ以外の行動は、当面は起こしません。

 前述しましたが、「SF」と「SF大会」の自滅は、すでに決定事項です。もう誰にも止められません。
(そもそも、年令が30代後半の青山氏が「SF大会」に参加し続けていること自体、参加者の平均年齢を毎年、一才ずつ押し上げる要因なのです。このまま押し上げ続けて、早く「老人会」にしちゃいましょう)
 そして、「SF」が完全に消え失せてから、我々はじっくりと「SCI-FI、サイファイ」を立ち上げるのです。そして「プロフェッショナルが自ら積極的にブランド経営に乗り出す」のです。

 その時、我々の世代は「謎の黒幕」となります(笑)。そして我々は各出版社に「サイファイ」を根回ししつつ、若い世代に陰から助言するのです。
 たとえば、こんな感じです。
「まあ、わしらに任せておけ。出版社の奴らは、わしらには逆らえんのじゃ。サイファイ文庫と、サイファイ新人賞と、季刊誌『小説サイファイ』ぐらい、すぐ立ち上げさせてやる。わしらの作品の版権を全部、他の出版社に移すと脅せば、奴らはたちまち真っ青だからな。ちょろいもんじゃ。ぐわははは」
 こんな風に人の弱みにつけこむ、いやなジジイに早くなりたいですね(笑)。

 これは冗談としても、「サイファイ」は、「常にプロフェッショナルが管理する大衆娯楽文化」であり、「純商業ブランド」です。「マニアの口出しなど許さない」という運営方針なのです。
 そうした「人為的な管理」が必要不可欠であることは、これでわかっていただけたと思います。

 お話変わって……。
 そう言えば、すでに安い値段で、パソコン用の音声入力装置は発売されていますね。しかし、だからといって、これが、すぐにQWERTYキーボードに取って代わるでしょうか?
 おそらく、今から10年後には、音声入力が主体になっているでしょう。しかし、補助入力装置としては、やはり親指シフト・キーボードではなく、依然としてQWERTYキーボードが付属していることでしょう。
 つまり、私が言いたいのは、「人間社会というものは一度、定着したものに対して、うんざりするほど保守的である」ということです。

 これは、養老孟司氏の著作『唯脳論』にあるとおり、人間の脳は一〇万年前に進化が終わってしまったからでしょう。
 また、人間の脳の場合、「ハードウエア=脳細胞同士のつながり方」によって、「ソフトウエアが形成される」という事情もあります。
 つまり、QWERTYキーボードの使用者とは、脳細胞同士が、QWERTY配列に合わせた物理的な回路となって、つながってしまった人なのです。
 ゆえに、親指シフト・キーボードに取り替えようとすると、今までの回路と矛盾するため、脳が大混乱に陥るのです。

 現在の大衆読者は、「娯楽サイエンス・フィクション=サイファイ」は、「ホラーの中のサブジャンル」だと思いこんでいるようです。
 だから、今、「サイファイ」と「ホラー」を切り離すと、大衆読者の脳細胞の回路が混乱するだけでしょう。
 ゆえに、私は徳川家康のような心境で、じっくりと機会を待つことに決めたのです。
 石井和義氏の正道会館だって、最初は町の空手道場として旗揚げしたのであり、そこから「K1」というイベントを大成功に導くまで、十数年もかかったのです。プロデュースとは、そういうものです。
 「サイファイ」の場合は、「SF」と「SF大会」の自滅を待たねばならないので、「K1」以上に時間がかかると考えるべきでしょう。

 余談ですが、次回の12月13日の「K1決勝戦」、私は「アンディ・フグの返り咲き優勝」を予想しています。
 で、これをネタに、友人たちとトトカルチョをやっています。他の友人たちは「フランシスコ・フィリォの初優勝」に賭けています。賭金はたった100円ですが。

 インターネット上で、私の書簡を公開したら、3ヶ月で、1800回のアクセスだそうですね。
 つまり、1800÷90日=1日20回のアクセスですか。
 やはり「形式論理」や、「SFイデア主義」や、「サティアン」に飽き飽きした人が、それだけいたということですね。
 多少、勇気づけられました。
 もっとも、私自身は、インターネットに手を出すつもりはありません。どうも面倒くさいからです。今後も青山氏に、書簡を送るだけにしておきます。

 しかし、この往復書簡は意義深いですね。私と青山氏の食い違いを詰めていくうちに、どんどん問題の核心がクリアーになるし、我々の長期目標も明確になっていくではありませんか。

 では、また。
草々
【引用終了
1998年10月の近況へ

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