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 葵の太平洋戦争

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『葵の太平洋戦争』
2006年2月25日、実業之日本社より発売。


第一章 二つの帝国
第二章 累卵のマレー戦
第三章 猖獗地獄
第四章 第二次インパール作戦
結び


 若い男が材木に当てたカンナの位置を決め、一気に引き下ろした。紙のように薄い削りクズが一気に吹き出す。厚すぎる場所もなければ、途切れてしまった場所もない。見事な腕前だ。若い男は他の大工たちに混ざって無心に作業を続ける。
 半纏に脚絆と言った大工のごく普通の装束であったが、面立ちはそれこそ少年のようである。
「おーい、休んでくれ、茶が入ったぞ」
 棟梁の合図で作業にいそしんでいた大工たちが、手を休めて普請場のそこここに腰を降ろした。髪を勝山に結った女将が茶と、いなり寿司を配り始めた。
 暑い。
 梅雨の合間の好天で、半纏を脱ぎ捨て下穿き一丁になった男たちの背には玉のような汗が浮かんでいる。
 女将が先ほど若い男に茶を差し出した。
「あんた、若いのに良い腕してんね」
「あ。ありがとうございます」
 女将が差し出した茶碗を受け取りながら若い男が照れたように頭を掻いた。
 棟梁が割ってはいる。
「女将さん、下手に誉めたりしないで下さい。つけあがりますんで」
 若い男はむっとしたようであったが、言葉を返そうとせずに黙って茶をすすった。確かに若かった。十代後半。世が世であれば元服前かも知れない。若造と罵られて然るべき歳だった。
「そいつは小屋の合間に仕事手伝っているうちに、門前の小僧なんとやらで、腕を上げましてね。下手につけあがらせると若い連中にしめしが着きません」
 小屋とは寺子屋、学校を意味する。
 やけに威厳のある大工の棟梁の言葉に耳を貸さず、女将は若者に問いかける。
「あんた、名前は?」
「庸司(ようじ)です」
「庸司ッたって、名字ぐらいあるだろう」
 姓名を問われて、若者は明らかな当惑を表した。
「藤里です。藤里庸司です」
 女将は目を丸くした。
「ッて、あんた棟梁の息子かい」
「はい」
「だったら早くいいなよ。腕が良くて当然じゃないかい」
 その時、傲然たる音が響いて頭上を黒い陰が覆った。飛行機だ。双発で太い胴体。エンジン音がやけに大きく響いた。なにかにせかされているようだった。
 一堂の視線が吸い付けられる。
 女将もその黒い陰を目で追った。
「いやだねぇ。また、戦争が始まったって言うじゃないか。どうなっちまうんだか」
 若者も、棟梁もそれには答えられなかった。
「おう、始めるぞ」
 ただ、作業に戻っていった。
 大正二十七年、七月のことであった。

第一章(一部略)
 江戸城、本丸御殿。大奥。
 大奥というと淫靡な印象を受けるが、公式的には将軍の私的な生活空間に過ぎない。もちろん、私生活の中には子作りも含まれる場合もあるが、本丸御殿の主は第十六代将軍、徳川家達(ルビ いえさと)。すでに齢七十に至る。大奥の後宮的な意味合いも失われて久しい。また、大奥には原則的には将軍以外の男性は入れないが、何事にも例外はある。特に明治維新以降、時代は大きく動いていた。
「家正をここへ」
 傍女中が家達の居場である西の丸へ走り、後に十七代将軍に就く家正を呼び寄せた。家達はすでに公務の大半を世継ぎである家正に譲っていた。それでもまだ、こうして家正を呼びつけ指示を与えたりもする。
 髷を結い、金刺繍の羽織袴に身を包んだ古風な家達が人物一段高くなった階(ルビ きざはし)から次期将軍を見おろした。
 こちらもまた髷を結い、将軍ほどではないが豪華な装束に身を包んでいる。家正である。
「エゲレスはなんと言ってきておる?」
「態度を硬化させたままにござりまする。また、メリケンも保留させたままであります」
「文麿はなんと?」

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