季節の薫り![町田/相模原] PartU ( Autumn in 2000 )
晩秋の小春日和、小さなデジタルカメラをぶら下げて歩くと、楽しい緊張感が生まれる。
町田と相模原の境界、境川周辺の小さな自然風景は、さりげない癒しを与えてくれる・・・
『 達観の境地 』
風にそよぐ清楚な「すすき」が、もし何かを語っているとすれば、われわれは何を聞くだろうか?
栄枯盛衰、生者必滅、色即是空、空即是色・・・・
吹く風に逆らわず、いわんや恐れるはずもなし。
同科の稲のように目立ち、買われたが故に、結果、人為改良(改造)のおもちゃにされることもなし。ただ、年に一度、月見の際に引き合いにされる成り行きを許したことだけが不覚!(頭を垂れて深く反省!)
生息する場所(代表的生息地:川原!)と云い、一目瞭然のその姿と云い、すすきは、断固、姑息な文明に対する永遠の彼岸的存在としての道を歩んでいるのだ。
『 Natural Clock 』
色づく街路樹にさえ、気付く余裕やゆとりを失ってしまった世紀末現代人!
ドッグズイヤーだ、マウスイヤーだと文明のクロックばかりを速めてしまって、その落しどころを失ったまま走り続ける観あり!
動物、植物に内在する凡庸ながらも、ひたすら確かな時間機構!
人は、すっかり季節を放棄し、季節とともに意義付けられた人生をも、放棄したかのようだ!色鮮やかな人生の代替品としての乾いた生活、経済的生活をもがき獲得するために。
『 丹精な主 』
ぶらぶらと散歩する楽しさのひとつには、人様の庭先で惜しげなく咲き乱れる花々を眺めさせていただくといった余禄がある。
自宅の庭の手入れを怠る怠け者にとっては、貴重な季節の情報ソースとなる。
丹精な主の庇護よろしきを得た花々たちの場合は、やはりどこか誇らしげに咲いていたりするから不思議なものだ。
『 厳かな虫たち 』
花粉にまみれ、無心に菊の花の蜜を吸う蜂と蝶が目に止まった。
カメラを接近させても、一向に動じる様子のないのがいじらしい。
所有権の観念も、一瞬先への不安も、まして来年の景気動向、先々の老後の心配もなく、ただひたすら今のみに忘我できる小動物たち!
「虫けら!」なんぞと言って威張る人間たちに較べ、虫たちはなんと厳かに見えたりするのだろうか・・・
『 遊歩者たちの友 』
境川の遊歩道沿いの川側には、背丈以上の山茶花(さざんか)の木が植え詰められている。
健康のために歩く人々が次第に増えているが、夏は、そうした人たちに木陰を与えてきた。
そして、晩秋から冬にかけては、紅色の花や純白の花々が、常緑の葉を伴って、アスファルトを黙々と歩く人々の気分の単調さに、文字通りの彩りを提供しているのだ。
『 風情か、機能か 』
農家の敷地の一角だと思われる、陽当りのよい斜面には、鈴なりの実を誇らしげに実らせた蜜柑の木が見つかった。
ところで、晩秋の代表的光景のひとつには、すっかり落葉してしまった枝々に、深い朱色のクリクリとした柿がたわわに実るといった風情ある姿が思い浮かぶ。
日暮れ近く、見渡す程の広がりの農地に、一軒の農家が見え、農家の庭からは、うっすらと焚き火の煙が立ち昇る・・・。となれば、こんな情景には、そんな柿の木の風情がなんとしても欲しくなる。なおかつ、夕焼けを背にした、柿をついばむからすのシルエットも添えられるならば、もはや申し分ない・・・。
目の前の蜜柑の木は、特に風情があるわけではなかった。むしろ、よく育った植木鉢か舞台の小道具のようでさえあった。とかく現代は、脱風情、機能優先のこうしたものか・・・
『 豪放な古木 』
一面に広がった農地のかなたで、古木と呼ぶべき高い樹木が、いつも姿よろしく出迎えてくれるそんな箇所がある。どこか気高さを感じさせ、大変気に入っているアングルのひとつである。
こんなご時世なので、売り地となった土地の事情から、歴史ある古木が切り倒される光景を目にすることもめずらしくない。
この古木には、人間生活の事情によって切り詰められる経緯に脅かされることなど微塵もなかったのかもしれない。風雪や雷などの自然以外に敵なしといった幸せの生い立ちが、のびやかな四肢から窺えるのである。
このお宅を訪ね、平安なこの百年の歴史話をお伺いしたいとさえ思うくらいだ。
『 優雅な釣り人 』
一年を通して境川を散策していると、さまざまな野鳥が訪れていることを知る。
決してきれいだとは言えない川であり、時として不心得者の業者が毒性の汚水を排出し、川の浄化のために放流されている鯉などが浮かぶこともあるのだ。
浄化が安定している時は、4〜50センチもある鯉が群れている光景、亀が手頃な石の上でフリーズして甲羅干しをしている情景、そして常連さんのマガモを初めとした野鳥などが目を楽しませてくれる。
どんな小魚や虫がいるのかわからないが、なにやら餌を求めてのことであろう、まるで長靴をはいた釣り人のようにたたずむ野鳥は、「こさぎ」である。しばしば見かける優雅な訪問者である。
『 はぐれカモメ 』
時々見かけるのがこの「カモメ」だ。海岸で目にするように群れておらず、ほとんどシングルで見かける。
境川は、下り下って湘南の海、江ノ島付近の海に流れ込んでいる。このかもめは、仲間内での不祥事をとがめられ、追われ追われて数十キロ北まで逃げ込んできたはぐれカモメなのだろうか?
あるいは、目当てはこの境川に非ず、湘南の海よりももっと荒稼ぎのできる穴場、たとえば釣堀であったりするのだろうか?
『 生協的マガモ 』
常に見かけ、境川の光景に溶け込んでしまっているのがこの「マガモ」である。
町田の薬師池公園にも、相模原の淵野辺公園にも多数で群れて住み込んでいる野鳥である。雛鳥を連れて泳いだり、彼らを見守りながら日向ぼっこをしたり、なんとも家族的な鳥たちである。そして、いずれでも、愛鳥家たちからパンくずなどをもらったりしてかわいがられ、なついたりしている。
だいたいが境川の護岸は急傾斜なので、猫などの仇敵も近寄れなくなっているため、マガモたちは川面や、散在する草地混じりの川原で落ち着いて生活しているのだ。
境川も、大雨や長雨の時は、泥流まがいの色となり、川原が見えなくなる水量で、流れも急となる。おそらくそんな場合には、どこか避難場所があって、そこへ飛んでゆくのに違いない。
『 縄文以来の「大山」 』
町田/相模原のはるか南西には、カリスマ性を漂わせる風格を持った山、「大山」が望める。
古来、信仰の山とされてきたことは知られている。「大山参り」という有名な落語があるので、少なくとも江戸時代には大衆的な信仰の山となっていたのであろう。
私見ではあるが、思うにその時期は限りなく遡り、縄文時代からではないかと想像させる。それというのも、この画面(撮影場所は都立忠生高校付近)のすぐ右手には縄文遺跡発掘跡があるのだ。そして、大山に向かった画面中ほどの低地には境川が流れているのである。
縄文人たちが、清流であった古代の境川に接し、はるかコニーデ型の神秘的な山を眺めながら日々の生活した、と想像することは唐突過ぎるであろうか。
夕日の空にくっきりと存在を示す大山の姿は、そんな想像を寛大に首肯しているように思われてならない。

