南チロル

Südtirol


北・東部ドイツを中心に紹介していますが、今回は方角をかえて
最近仕事で出張した北イタリア(南チロル)を紹介してみました
長く複雑なヨーロッパの歴史の中で形成された二(多)言語国家や、言語的少数民族を抱える国のケースは数多くあるが、「あのイタリアにドイツ語圏がある」というのは案外知られていないのではなかろうか?右下の地図の赤い部分、イタリアの州の名前で Alto Adige 、ドイツ語で Südtirol (南チロル)という地域がそれである。右のオーストリア地図で言えばインスブルックの下の少しえぐれている部分、ここにイタリア地図の赤いジグソーピースがはまる。

ミュンヘンからアウトバーンでオーストリアのインスブルックに向かい、そこを過ぎて更に南下するとブレナー峠の国境を越えてイタリアに入る。あるいはチロルのエッツタールを南まで走り詰めるとティンメルスヨッホという鞍部にイタリア国境がある。が、いずれの場所も国境を越えても「おお、イタリアに来た!」という気がしない。風景はオーストリアと極端に変わらないし、看板や標識にイタリア語が混じるもののドイツ語が幅を利かせている。国境を越えたことを知らなければオーストリアの中にイタリア語地域があるのかと錯覚するくらいである。

この地域、容易に想像がつくように元はオーストリア領・ドイツ語圏だったところ(このページの一番下に当時の古地図を掲載してある)、第一次世界大戦の結果イタリア領となった。その後ムソリーニの元で強硬なイタリア化政策が進められドイツ系住民は少数民族となって迫害された。第二次世界大戦時にヒトラーがここを強引に奪還してしまわなかったのはやや不思議な気がしないでもないがムソリーニとの関係を配慮したのだろうか?第二次大戦後も、ここはザールランドのように住民投票によって帰属を決めるというようなことにはならず、イタリア領として残った。

戦後もその位置づけは微妙なままで、ドイツ系住民が言語・文化の対等な扱いを求め自治権を得るまでには何度と無く流血を伴った自治権獲得運動や独立運動が展開された。

現在は落ち着きを見せているが、私が駐在していた81年から98年の間という、つい最近にも独立(分離)運動が報じられていた。ドイツ語が同権を得たのは1989年になってのことである。

なお1991年の統計によると、この地域の当時の人口約42万人の内、ドイツ語話者は約68%、イタリア語話者は約28%、その他にレトロマンシュ語系ラディーノ語話者が4%であった。



Südtirol im 20.Jahrhundert (Alfons Gruber)

下記は南チロル地域の観光局が発行しているガイドブックにある一節、「20世紀の南チロル」という題名の小史、及びその試訳である。
「時は優しい女神」...こういったのはギリシャ時代の劇作家ソフォクレスであるが、またそれは時として激しく鞭を打ちならす。それは人々に厳しい試練となることもあるのだ。

20世紀の前半、南チロルでは女神はその優しい面を見せることはなく、まったくその逆だった。苦難の道は既に多くの若者達が犠牲となった第一次世界大戦の前線で始まっていた。

イバラの道はさらに1919年、南チロルのイタリアへの併合の後も続いた。イタリアの政治家は新しい”臣下”をリベラルを旨として扱い、言語と文化に配慮すると約束したが、それはやがて空手形となってしまった。ベニト・ムソリーニが1922年10月ローマに於いて権力を掌握したとき風向きは大きく変わった。彼の目標は南チロル住民をイタリア人にすることだった。
Die Zeit ist eine sanft mütige Göttin, sagte der griechische Dramatiker Sophokles einmal. Aber gelegentlich knallt sie auch ganz gehörig mit der Peitsche. Das kann dann für die Menschen zur argen Heimsuchung werden.

Von ihrer Sanftmütigen Seite haben die Südtiroler die Göttin Zeit in der ersten Hälfte des 20. Jahrhunderts nicht zu spüren bekommen. Ganz im Gegenteil. Der Kreuzweg begann schon an den Fronten des Ersten Weltkrieges, wo Tausende und Abertausende ihr junges Leben lassen mussten.

Der Leidensweg setzte sich nach der Annexion Südtirols an ltalien (1919) fort. Zwar versprachen italienische politiker, sie wtirden die neuen "Untertanen'' nach liberalen Prinzipien behandeln und Sprache und Kultur achten, aber ihre versprechen erwiesen sich bald als leere Worthülsen. Der Wind schlug radikal um, als Benito Mussolini im Oktober 1922 die Macht in Rom übernommen hatte. Sein Ziei war es, aus Südtirolern ltaliener zu machen.
【エットーレ・トロメイの悪名高い政策】

ボーツェンに於けるムソリーニの子分はエットーレ・トロメイスといい、ガエターノ・サルヴェミーニの言葉を借りれば「イタリアの少数民族を苦しめるために次から次に新しい手を考え出す男」であった。ファシストは南チロルのドイツ人学校をイタリア化し、地域の公的機関を中央の鎖に結びつけ、「南チロル」という名称、及び歴史の中で成り立った地名や耕牧地の名称を禁止し、従わない南チロルのドイツ系住民を遙か離れた南イタリアの島に追放した。

「この地をイタリア化する」という意志に疑問の余地を無くすためにファシスト達は「凱旋門」を建立た。その前面には今日も尚、彼ら(ファシスト)が他の者達に(南チロル人に)法、芸術及び言語を伝えたという碑文が見て取れる。


1930年代初頭になってこの文化的な画一化政策が少なくとも短期的には奏功しないことが明らかになると、ファシスト達は国家主導でのイタリア人入植政策(特にボーツェンとメランに)を実施した。これによって南チロルのドイツ系住民は彼らの故郷において少数民族の地位に追いやられた。それまでは同化政策が戦略的な原則であったが、以降は多数による圧倒が政治的な指導原理となった。


Ettore Tolomei
Ettore Tolomeis berüchtigte Maßnamen :

Mussolinis Handlanger in Bozen war Ettore Tolomei, "der Mann, der immer wieder neue Methoden erfand, um die Minderheiten in ltalien zu peinigen" (Gaetano Salvemini). Die Faschisten italienisierten die deutsche Schule in SüdtiroI, nahmen die öffentliche Verwaltung an die Zentralistische Kandare, verboten den Namen Tirol und die historisch gewachsenen Ortsund Flurnamen undverbannten Südtirolerdie nicht nach ihrer Pfeife tanztenauf einsame lnseln in Süditalien



AIs Zeichen dafürdass an ihrem Willen, "dieses Land italienisch zu machen"nicht zu zweifeln warließen die Faschisten in Bozen ein "Siegesdenkmal" errichtenauf dessen Stirnseite noch heute die lnschrift prangtdass sie - die Faschisten - "den anderen" - den Südtirolern - GesetzeKunst und Sprache vermittelt hätten


AIs sich Anfang der dreißiger Jahre herausstelltedass diese Strategie der kulturellen Gleichschaltung zumindest kurzfristig nicht zum Erfolg führte, setzten die Faschisten auf massive staatlich geförderte Zuwanderung von ltalienern vor allem nach Bozen und MeranDadurch sollten dieSudtiroler in ihrer Heimat in die Minderheit gedrängt und dann an die Wand gespielt werdenHieß zuor Assimilierung das strategische Gesetz so war nun Majorisierung der politsche Leitsatz.

【残る者と去る者】

このドラマの第三幕は1939年、ヒトラーとムソリーニの間で合意された移民者に関するベルリン条約で、それはイタリア人になりたくない南チロルのドイツ系住民をドイツ帝国に移住させることを目的としていた。これによって南チロルの住民は重大な試練の場に立たされることとなった。すなわちドイツ帝国に移住する者は彼らの民族性を維持することが期待できた代わりに故郷から遠く離れた地で荒れ狂う戦火の中で不安な将来と向き合わねばならなかった。そして残ることを決めた者達は、彼らの民族性を放棄し、場合によってはイタリア南部に「移植」されることを覚悟せねばならなかった。











ヒトラーとムソリーニに政策に沿っていれば、今日の南チロルにはドイツ系住民は皆無であるはずだった。が、現実にはそうはならなかった。ヒトラーの千年帝国は13年後灰燼に帰し、ムソリーニもまたイタリアで突然の不名誉な終末を迎えた。第二次大戦後(第一次大戦後と全く同様に)南チロルは民族自決の権利を与えられなかっが、それでも1946年のパリ条約で自治を行えるベースとなるプラットフォームを与えられた。

もちろん自治が外形と実体を得るまでには更に年月が必要だった。イタリアの首相で外務大臣でもあったアルシーデ・デガスペーリはオーストリアの外務大臣カール・グルーバーと共にパリ条約に署名し、南チロルをイタリアのトレンティーノ市と共に地域を統合し、これによって南チロルに約束した自治をもたらした。しかしながら1948年1月に発効した自治規約は、その精神においても、また文面上もパリ条約を履行していなかった。50年代にローマで民主的に選出された政府が南部から大量のイタリア人を強制的に移住させようとしたとき、南チロルのドイツ系住民にとっては、イタリア政府がこの地をイタリア化するという公式目標を決して諦めていなかったことが明らかになった。

両大戦中及び戦後10年の間、南チロルの政治的指導者であったカノニクス・ミヒャエル・カンパーは当時、舵が急に転換されない場合は南チロルが死に向かう行進をするようなものだと語っている。1957年11月のジグムンドクロンでの大規模なデモによって転機が訪れた。当時35000人の南チロルぼドイツ系住民達が由緒有る城を見ながらイタリアの南チロル政策に反対してデモを行った。その何ヶ月か前にSVP(南チロル民族党)の指導者となったジルヴィウス・マグナーゴは「トリエントからの分離」を要求した。もちろん南チロルが「トリエントの抱擁」から解放されるまで更に10年がかかった。
Dableiber und Geher:

Der dritte Akt in diesem Drama war das Berliner Umsiedlungsabkommen des Jahres 1939 zwischen Hitler und Mussolini, das den Zweckverfolgte,die Südtiroler die nicht ltaliener werden wollten, ins Deutsche Reich auszusiedeln. Die Menschen im Lande wurden damit in eine furchtbare Zerreißprobe gezwungen. Wer ins Deutsche Reich auswanderte, konnte zwar hoffen, sein Volkstum zu retten, ging aber gleichwohl fern der Heimat angesichts des tobenden Kriege einer äußerst unsicheren Zukunft entgegen. Und wer sich fürs DabIeiben entschied, musste gewärtgen, sein Volkstum aufgeben zu mussen und möglicherweise in südlichere Regionen "Verpflanzt" zu werden.




Wäre es nach den beiden Diktatoren Hitler und Mussolini gegangen, gäbe es heute keine deutsche Volksgruppe mehr in Südtirol. Aber es ist anders gekommen. Das tausendjährige Reich von Hitler fiel nach dreizehnjahren in Schutt und Asche, und Mussolini nahm in Italien auch ein jähes, unrühmliches Ende. Nach dem Zweiten Weltkrieg wurde den Südtirolern zwar - genauso wie nach dem Ersten - das Selbstbestimmungsrecht vemeigert, aber immerhin erhielten sie mit dem Pariser Abkommen1946eine Plattform, welche die Grundlage für eine Autonomie bildete.

Freilich bis diese Autonomie Gehalt und Gestalt bekam, floss vieI Wasser die Etsch und den Eisack hinunter. Alcide Degasperi, italienischer Außenminister und Ministerpräsident und mit Karl Gruber, dem österreichischen Außenminister, Unterzeichner des Abkommens in Paris, koppelte Südtirol mit dem italienischen Trentino zu einer Region zusammen und brachte damit die Südtiroler um die Früchte der versprochenen Autonomie. Das am 1.Januar 1948 in Kraft getretene neue Autonomiestatut erfüllte weder den Geist noch den Buchstaben des Pariser Vertrages. Und als die demokratisch gewählten Regierungen der fünfziger Jahre in Rom die künstliche Zuwanderung von Italienern aus dem Süden massiv forcierten, wurde den Südtirolern klar, dass das offizielle ltalien das Ziel, dieses Land zu italienisieren, noch keineswegs aufgegeben hatte.

Kanonikus Michael Camper, die große politische Leitfigur der Südtiroler in der Zwischenkriegszeit und im ersten Jahrzehnt nach dem Krieg, hat damals vom Todesmarsch der Südtiroler gesprochen, wenn das Ruder nicht herumgerissen würde. Die Wende kam mit der Großkundgebung von Sigmundskron im November 1957. Damals demonstrierten 35.000 Südtirolerinnen und Südtiroler im Anblick des historischen Schlosses gegen die italienische Südtirolpolitik. Silvius Magnago, wenige Monate zuvor auf den politischen Schild der SVP gehoben, forderte das "Los von Trient". Es dauerte freilich noch über zehn Jahre, bis sich die Südtiroler aus der "Umarmung" des Trentino befreien konnten.


Silvius Magnago
【包括法案と自治への道】

1969年11月22日、メランの保養所の大ホールに於いて包括法案が決議され小休止が訪れた。この包括提案は時間をかけた交渉の末に、親自治推進のイタリアが南チロルに容認する用意のある譲歩の総まとめであった。包括提案の生みの親としてジルヴィウス・マグナーゴは歴史に名を残した。交渉にはけたたましい「音楽」(騒音=>騒動)がついて回った。高圧線の鉄塔が倒され、死者まで出た。


南チロルはまた、当時のオーストリアの外務大臣ブルーノ・クライスキーが問題をニューヨ−クの国連に持ち込んだことによって世界から注目を集めることになった。いまやイタリアは国際的な圧力にさらされた。とりわけ国連がオーストリアとイタリアに南チロル問題を平和裡に解決するような道と方法を見出すように公式に要求してからはそうだった。徐々に交渉はレベルが上がっていった。ボーツェンとローマ、そしてローマとウィーンと、そして最終的に前述の包括提案が議論されるに至った。60年代のイタリア側においては、誰よりもアルド・モーロ(外務大臣及び首相)が南チロル民族党にとっての分別有る交渉相手であった。

1972年イタリアの憲法(の一部)となったこの包括提案は、地域の撤廃(放棄)をもたらすものではなかったが、かつての民族主義的な束縛からの広範囲な解放をもたらした。南チロル人は徐々に、自分たちの思い通りに、広範な「自治の家」を構築することができるという感触を得ていった。自治の建物を支える大黒柱としては、何よりもまず公的機関の採用と促進される住宅建設に於ける民族への比例配分の導入であり、行政における(裁判所と警察も)ドイツ語のイタリア語に同格にすることが挙げられた。ほかにもドイツ系南チロル人が、南チロルを再び故郷と思えるための数多くの決定がなされた。

だからこそ、今や自治のメリットを約立たせる番である。そして今、州政府首相ルイス・ドゥルンヴァルダーの指導の元で、多くの南チロル人がひたむきに能力を発揮しつつそれを実践している。南チロルは今日、経済的な繁栄を謳歌している。そして南チロルに住むイタリア人も、また他地域からここにやってきた者もここで幸せを享受している。これは、様々な民族が南チロルに於いてダイナミックな競争の中で平和裡にその将来を形作りたいという、よい兆候なのである。
Das Paket und der Weg in die Autonomie

Eine Zäsur bildete der 22. November des Jahres 1969 mit der Verabschiedung des Paketes im Kursaal von Meran. Das Paket - das ist die Summe jener Zugeständnisse, die ein autonomie- freundlicheres Italien den Südtirolern nach langwierigen Verhandlungen einzuräumen bereit war. AIs Vater des Paketes ist Silvius Magnago in die Geschichte eingegangen. Begleitet wurden diese Verhandlungen von schriller "Musik". Hochspannungsmasten wurden in die Luft gejagt, und auch Tote waren zubeklagen.


Internationale Aufmerksamkeit erhielt Südtirol auch dadurch, dass der damalige österreichische Außenminjster Bruno Kreisky die Streitfrage bei den Vereinten Nationen New York anhängig machte. Nun war Italien international unter Druck geraten, Zumal die UNO Österreich und ltalien offizielle aufforderte, Wege und Mittel zu Suchen, um das SüdtiroIproblem auf friedlichem Wege zu lösen. Allmählch kamen Verhandlungen auf verschiedenen Ebenen - zwischen Bozen und Rom und zwischen Rom und Wien - in Gang, die schießlich zu dem vorher erwähnten Paket führten. Auf italienischer Seite hat sich in den sechziger Jahren vor allem Aldo Moro - DC
Außenmnister und Ministerpräsident - als einsichtiger Verhandlungspartnerder Südtiroler Volkspartei SVPerwiesen.

Das Paket, das im Jahre 1972 italienisches Verfassungsgesetz wurde, brachte zwar nicht die Abschaffung der Region, wohl aber eine weitgehende Befreiung aus ihren ehemals nationalistischen Fängen. Die Südtiroler gewannen nun allmählich den Eindruck, dass sie das "autonome Haus" weitgehend nach ihren Vorstellungen gestalten können. Von den Säulen, die das neue Autonomiegebäude stützen, sind vor allem jene über die Einführung des ethnischen Proporzes bei der Vergabe von Stellen im öffentlichen Dienst und im geförderten Wohnbau und die Gleichberechtigung der deutschen Sprache mit der italienischen in öffentlichen
Ämtern - auch bei Gericht und polizei - zu erwähnen. Aber auch viele andere Bestimmungen sorgten nun dafür, dass die Südtiroler SüdtiroI wieder als ihre Heimat betrachten konnten.

Nun ging es darum, die Vorteile der Autonomie zu nützen. Und viele Südtiroler tun es - nunmehr unter Führung von Landeshauptmann Luis Durnwalder
- mit Zielstrebigkeit und Geschick. Südtirol ist heute ein Land, das wirtschaftlich blüht und in dem es vielen Menschen gut geht. Auch immer mehr ltaliener in Südtirol - und jene, die von außen als Gäste ins Land kommen - fühlen sich hier wohl. Das ist ein gutes Omen dafür, dass die verschiedenen Volksgruppen in Südtirol ihre Zukunft im dynamischen Wettstreit friedlich gestalten wollen.

【主要な町の風景】



Bozen / Bolzano


Brixen / Bressanone




【関連リンク集】

南チロルの言語事情(多言語社会研究会)
なポコの放浪記(メラーノの街の紹介)
第一次世界大戦(イタリー戦線の記述あり)
南チロル関連ポータルサイト(独・英・伊語)
南チロル自治に関するポータルサイト(独・伊語)
南チロル民族党(SVP)のページ(独語)
Brixen / Bressanone の街紹介ページ
【南チロルの民族事情:詳細】

In Südtirol leben drei Volksgruppen: Deutsche, Italiener und Ladiner.

Die Deutschsprachigen stellen mit 287.503 Personen 67,99 Prozent der Bevölkerung, die Italiener mit 116.914 Personen 27,65 Prozent und die Ladiner mit 18.434 Personen 4,36 Prozent der Bevölkerung; diese Angaben beziehen sich auf die letzte Volkszählung, die im Herbst 1991 (alle zehn Jahre) durchgeführt wurde und bei der rund 13.000 Personen aus verschiedenen Gründen keine oder keine gültige Sprachgruppenzugehörigkeits- bzw. Zuordnungserklärung abgegeben haben bzw. keine abgeben konnten.

Laut amtlicher Bevölkerungsstatistik betrug die Einwohnerschaft Südtirols Ende September 1999 461.664 Personen, womit ein leichter Bevölkerungsanstieg im Vergleich zum Jahr 1998 zu verzeichnen ist, der zum einen auf die Entwicklung von Geburten und Sterbezahlen zurückzuführen ist (sowohl die Geburten- als auch die Sterberate hat im Vergleich zum Jahr 1998 zugenommen), zum anderen aber auch auf einen positiven Wanderungssaldo von 199 Personen.

Die Ladiner sind die älteste und gleichzeitig auch die kleinste Sprachgruppe im Lande; im Obervinschgau wurde noch im 17. Jahrhundert rätoromanisch gesprochen. Bis heute haben sich in Südtirol die ladinische Sprache und Kultur in den beiden Dolomitentälern, in Gröden- und Gadertal, erhalten. In den acht Gemeinden dieser Täler haben sich durchschnittlich 90 Prozent der Wohnbevölkerung bei der letzten Volkszählung 1991 als zur ladinischen Sprachgruppe gehörig erklärt. Als kleinste Sprachgruppe in Südtirol sind die Ladiner die am meisten gefährdete sprachliche Minderheit mit einem Bedürfnis und Anspruch auf besondere Schutzmaßnahmen.

Die Italiener in Südtirol leben hauptsächlich in den Städten Bozen, Meran und Leifers sowie in den größeren Zentren; allein in der Stadt Bozen leben laut Volkszählung 1991 68.109 der insgesamt 116.914 in ganz Südtirol lebenden Italiener. Bei der letzten vor dem Ersten Weltkrieg ? also vor der Angliederung Südtirols an Italien ? durchgeführten Volkszählung im Jahre 1910 lebten 7339 italienischsprachige Bewohner in Südtirol (= 2,9 Prozent der gesamten damaligen Einwohner Südtirols).

Die starke Zunahme des italienischen Bevölkerungsanteiles in Südtirol erfolgte v.a. in den Dreißiger Jahren (im Zuge der vom Faschismus vorangetriebenen gewaltsamen Italianisierung des Landes), aber auch noch in den Jahren nach 1945, und erreichte bei der Volkszählung 1961 mit 34,3 Prozent den höchsten Anteil; bei den nachfolgenden Volkszählungen hat sich ein leichter prozentueller Rückgang des italienischen Bevölkerungsanteiles ergeben (1971: 33,3 Prozent; 1981: 28,7 Prozent; 1991: 27,65 Prozent).

Mit fast 68 Prozent stellt die deutsche Sprachgruppe in Südtirol die Mehrheit. Zusammen mit den Ladinern stellen die deutschsprachigen Südtiroler innerhalb des italienischen Staates eine Sprachminderheit dar, für die auf der Grundlage des Pariser Vertrages mit dem Autonomiestatut und den nachfolgenden Durchführungsbestimmungen gezielte Schutzmaßnahmen für die Erhaltung der sprachlichen und kulturellen Eigenart gesetzt worden sind. Erst im Mai 1989 ist nach langjährigen Verhandlungen das Dekret des Präsidenten der Republik Nr. 574/1988 zur Gleichstellung der deutschen Sprache mit der italienischen und für den Gebrauch der deutschen Sprache in der öffentlichen Verwaltung bei Gericht, Polizei, usw. kundgemacht worden.

Dem Faschismus war es trotz harter Verbote und Gebote und gezielter Maßnahmen gegen die Südtiroler nicht gelungen, aus Südtirol ein italienisches Land zu machen. Der Pariser Vertrag sicherte den Südtirolern besondere Maßnahmen zur Erhaltung des Volkscharakters sowie der wirtschaftlichen und kulturellen Entwicklung zu. Das neue Autonomiestatut von 1972, das nach längerem Ringen vom demokratischen Italien zugestanden worden ist, stellt heute eine gute Garantie dafür dar, daß die deutsche wie die ladinische Sprachminderheit als Volksgruppen in ihrer sprachlichen und kulturellen Identität überleben können, wobei die neue Autonomie und die vollständige Durchführung und Einhaltung der darin vorgesehenen Schutzmaßnahmen sicherlich auch die Voraussetzungen für ein friedliches Zusammenleben der drei Sprachgruppen im Lande bilden.

【第一大戦前のチロル地方】


トリエントあたりまでオーストリア領(チロル)である