ちょっと長い前書き

なぜドイツに興味を持ったんだろう


1.ドイツ人とは?そもそも「..人(ジン)」とは?そして再びドイツ人とは?
2.ドイツとは?ドイツの歴史とは?
3.東西の壁
4.ナチスの遺産
5.東プロイセン
6.そんなわけで

1.ドイツ人とは?
  
そもそも「..人(ジン)」とは?
  
そして再びドイツ人とは?

 1981年、私が初めてドイツに赴任した時、職場の同僚にクドロフスキーという名前の輸出マネージャーがいた。マーケティングにはヴォシュニアックがいた。技術にはグレンコヴィッツがいた。総務にはヴォイノヴィッチがいた。彼らはドイツ語を喋り、ドイツ人であることを誇りにしており、そのスラブっぽい名字の響きが故に差別されているなどということは微塵もなかった。もちろんポーランド語やロシア語はまったく喋れなかった。彼らは皆、普通の「ドイツ人」なのだ。

 そういえば、当時デヴューしたばかりのサッカー・ドイツナショナルチームの名選手はリトバルスキーといった。仕事で関係のあった広告会社の社長はヨハンセンといった。北欧の名字の響きがする。政治家の名前にラフォンテーヌとかいうのがいた。こりゃフランス人じゃないのか?だんだんドイツに慣れてくるにつれ、謎は深まった。何故、彼らがドイツ人なの?ドイツ人の名字って、シュミット、シュロェーダー、ヴァーグナー、ヘルマンやクラウス、ブライトナー、ホーネッカーみたいなのじゃなかったの?

 日本だったら毛さんや周さん、金さんや朴さん、あるいはグェンさんという名字の人が居たら、たとえ日本人だと主張し、日本国籍を有し、日本のパスポートを持っていたとしても、大陸系のルーツの人なんだなということを周囲は意識するだろう。差別までされるかどうかは、周囲の文明度に大いに依るとは思うけれど、変名で日本名を名乗る人が居るということは、少なくとも本名では「純粋な日本人」として見てもらえないということなんだろう。それが、ドイツでは堂々とクドロフスキーであり、リトバルスキーなのだ。何故?

 そんな一方で、当時、ホロコーストというユダヤ人迫害の記録映画がテレビで放映されて話題を呼んだ。原題は「ヴァイス家の物語(歴史):Geschichte der Familie Weiss」といった。ヴァイスは「白」...ドイツっぽい名字じゃないか。いろいろとナチスのユダヤ人迫害に関する本を読んでみると、ドイツに居たユダヤ人は当然ながらドイツっぽい名字が多いようだった。スラブ系の名字が奇異にもなんとも思われずドイツ人である国で、ドイツっぽい名字の人たちが迫害されたということは...?迫害された対象というのはユダヤ教だったということなんだろうか?

 戦前のナチスのプロパガンダで、スラブ人のことを「下等人間:Untermenschen」といってたみたいだから...戦前だったら職場にはグレンコヴィッツもヴォイノヴィッチも居辛かったか、あるいは居なかったのだろうか?ということは、今、西ドイツにいるスラヴっぽい名字の人たちは皆戦後、東から来たんだろうか?戦後、ドイツ人が、住んでいた場所をポーランドやソ連に占領され追い出されて来たという話はあるが、スラヴっぽい名字の人たちだけが追い出されてきたなんて...そんな話はあったっけ?

 あるいはポーランドに占領された旧ドイツ東部にはもともとスラヴっぽい名字のドイツ人が多かったのか?ポーランド兵グレンコヴィッツが、ドイツ人グレンコヴィッツの家のドアを蹴破り、銃で威嚇しながら「明日の午前6時までに家財道具を置いて出ていくように」と冷たく命令したんだろうか?当時の私の語学力はそんなややデリケートなテーマを同僚であるグレンコヴィッツやヴォイノヴィッチに根ほり葉ほり尋ねるにはまだあまりにレベルが低かった。

 ずっと後の話だが、アラブ系っぽい、肌の浅黒い黒髪の彫りの深い顔立ちの女性が「カナダ人」だったということがあった。カナダは移民の国だからイギリス、フランスのルーツが主体とはいっても、受け入れられればアラブ顔のカナダ人が居てもおかしくはない。この場合「...人」というのは人種を意味しないで「...国の国籍、パスポート所持者」という意味で使われている。呂比須ワグナー、ラモス瑠偉や高見山大五郎は「日本人」だ。

 でも...人種って何だろう?どういう定義なんだろう?黒人と白人くらいなら比較的分かりやすい。まあ、分かりやすすぎるから差別の種にもなりやすいんだろうけど。イタリア人と北ドイツの同僚の「顔つき」や「体格」は違っていて、外見でおおよその判別はつく。イタリアとドイツがワールドカップで戦えば、サッカーファンじゃなくてもどちらがイタリアでどちらがドイツか、かなりの確率で言い当てられるだろう。でも、スラヴ「人種」とゲルマン「人種」くらいになってくると区別は出来るのだろうか?ヴォイノヴィッチがクラウスと再婚して名字がクラウスに変わったら、今まで何となく「スラブ顔」だと見えていた彼女の顔は、知らない人から見れば「ゲルマン顔」と思われるのではないだろうか?人種って..何なんだろう?

 ペルーにフジモリ大統領がいる。日本人ならすぐにピンとくる「藤森」さんか「富士森」さんの末裔だ。彼は日本語をもはや話せないとはいっても、ペルー人(ペルー国籍及びパスポート所持者)だとはいっても、「日本人」としての親近感を感じてしまう。名字も顔も「日本人」っぽいからだろう。でもフジモリ大統領自身は、基本的には自分をペルー人だと思っているだろう。パスポート保持者という意味のペルー「人」を超えて、もっと深い意味での「ペルー人としての民族的アイデンティティ」を身につけているだろう。だからこそ、大統領が務まるのだろう。彼の反対勢力も、少なくともそのことは認めているだろう。では、民族って何?人種(も定義がわからないけど)と似たようなものじゃないの?ゲルマン民族大移動というときの「民族」は、ゲルマン「人種」とは違うの?

 ちょっと想像しにくい非現実的な例ではあるが、もしペルーと日本が戦争をしたらフジモリ大統領は「ペルー人」として日本軍?(自衛隊?)に、日本人に対して銃を向けるだろう。これがドイツと周辺国だともう少し想像しやすい。ドイツ人であるクドロフスキーやグレンコヴィッツの親父達(彼らもドイツ人...のハズ)は、戦時中「ドイツ国防軍」にいたとしたらポーランド侵攻の時、どんな想いでいたのだろう?バルバロッサ作戦の時にはどういう立場だったんだろう?ヴォイノヴィッチやヴォシュニアックの親父達が、ワレサやマゾビエツキの親父達の家に火を放ち、砲弾を撃ち込んだのだろうか?やっぱり、そうなんだろうな。ドイツ人SS将校グレンコヴィッツが、ポーランド人政治犯グレンコヴィッツを銃殺にする局面というのがあったとすれば...それでもやっぱり引き金を引いたんだろうな。

 壁が崩壊した後で、東独がまだ西独に吸収合併される前、一時東独の首相にローター・デ・メジェールという人がいた。なんだかフランスっぽい響きだなと思ったことがある。統一後の今、コールの後はシュロェーダーが首相だが、成り行きによってはオスカー・ラフォンテーヌが首相になる可能性だって十分にあった。彼は別に名前がフランス的響きだからなれなかった訳ではないのだから。元ハンブルグ市長でドイツ有数の教養人とされるドナーニィという名前はハンガリーの名前だし...。

 要は...ドイツ人というのは、結構フジモリさん的な人が多いということなんだろう。北ドイツにはそもそもスラヴ系の「人種」「民族」が住んで居たわけだし、三十年戦争ではスエーデンに占領された訳だし、アルザスを取ったり取られたり、ポーランドを分割して取ったりまた返還したり、国境が伸びたり縮んだりしているうちに、いろんな「人種」を抱え込んだ結果、「典型的ドイツ的な名前だけがドイツ人」という発想は無くなってしまっているのではないだろうか?日本では「朴」さんが総理大臣になるのはちょっと想像しがたいが、ドイツ人にとっては「デ・メジェール」でも「ラフォンテーヌ」でも抵抗はない...そのくらいルーツに関してはもはや気にしていないのではないだろうか?

 そこで...では何が故に「ドイツ人」なんだろう?何がクドロフスキーやヴォシュニアックやラフォンテーヌやシュロェーダーやホーネッカー達を「ドイツ人」として纏め、繋ぎ止めているんだろう?何が共通であるが故にドイツ人はドイツ人なのであろうか?



2.ドイツとは?ドイツの歴史とは?


西暦1700年の中部ヨーロッパ:太線は神聖ローマ帝国(歴史地図ソフト"Centennia"より)

 では、ドイツとはいったい何だろう?ドイツとは、そもそもいったいどこを指すんだろう?

 日本の北方領土というのがあって、返還の主張の根拠に「日本固有の領土だから」というのがある。あれはヨーロッパ人には、理解はされてもすんなりとは通じがたい概念ではないだろうか?今はロシアとポーランドに分割されて地図の上からは消えてしまった東プロイセンはドイツ固有の領土だろうか?少なくともロシアの「固有の領土」ではなかっただろう。プロイセンとオーストリアが争ったシュレジエン...ここはポーランドの固有の領土だろうか?あえて言えば、オーストリアとドイツのどちらかの「固有の領土」ではなかろうか?

 大陸の中で、領土を取ったり取られたり、地図の上から消えたりまた現れたと思ったら前とは形が違っていたり、そういう歴史の繰り返しだったヨーロッパでは、固有の領土という主張はどういう意味を持つのだろう?それを言い始めたら歴史地図を一枚一枚めくって時を遡り、どの時点の話をしているのかで収拾がつかなくなるのではなかろうか。たとえ北方領土に、かつて一度もロシア人が住んだことはないという消去法が適用できても、戦争で勝ったら前の住民を追い出して、そこに住んじゃうのはヨーロッパの歴史では普通のことみたいだけれど。

 (ポーランドなんかその典型だ。ポーランドの固有の領土ってどこ?そういえばポーランドにはドイツの逆に、シュミットさんとかワグナーさんなんていう、ゲルマンっぽい名字の「ポーランド人」というのはいるのだろうか?かつての東プロイセンに「少数民族」としてのドイツ人は居るようだが、彼らはドイツ人であることを主張する少数民族。そうではなくて、万一ドイツと再度戦争になればドイツに銃を向けるポーランド人のシュミットさんって...いるのだろうか?)

 それはともかく...ドイツという名前はビスマルクが諸邦を統一して初めて国の名前となる。それ以前はドイツという国はどこにも無かった。わずか130年ほど前のことである。ならば、あえてドイツ固有の領土と言ってみた場合は、その時の領土がそうなのか?

 高校の教科書を読み返してみた。ドイツの歴史を遡るとカール大帝、西フランクと東フランクとロタール領、そして神聖ローマ帝国に突き当たる。それ以前はむしろもやもやとしていて、本にも民族大移動の時代とぐらいにしか書いていない。ミナゴロシと覚えた西暦375年のフン族の侵入が引き起こしたことになっている「ゲルマン民族」大移動。それから西暦800年のカールの戴冠までのあいだはなんで詳しく書いていないんだろう?

 神聖ローマ帝国...何故ゲルマン人の帝国が「ローマ」帝国なんだろう?皇帝ってなんだ?王となにが違うんだ?封建制度ってなんだ?封建制度って、封土を与えてやる代わりにオレを守れよ、オレに従えよという契約関係だと習ったし、従わなかったら封土を召し上げ、お家お取り潰しになると理解していたが...その一番上の皇帝を選挙で選ぶ?そんなことがあっていいものだろうか?徳川家のポジション・将軍を選定諸大名が選挙で選ぶなんてことは想像がつかないし、そんなあやふやなトップを誰が敬うのか?そんな制度が成り立つのだろうか?

 「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(das Heilige Römische Reich Deutscher Nation)という言い方があったように思う。あれ「ドイツ民族の...」だったかな?国民のだったとしたら、ドイツという国がないのになんで「ドイツ国民の」なんだ?民族のだったとしたら、ドイツ民族って意識があるのに、なぜローマ帝国なんだ?ドイツ民族って...なんだ?なぜチェコ語地域のボヘミアまで含めて何故「ドイツ..の」なんだろう?

 神聖ローマ帝国って...国連やEUみたいなものだったのかな?細かい諸国を束ねる上部団体組織みたいな...。ならば事務総長は選挙で選ばれるのもわからないでもないし、国連軍みたいな多国籍軍を組織してトルコのような外敵と戦うのもわかるような気がする。国連事務総長はあまり強大な国からは出ないように、神聖ローマ皇帝も選挙で選ぶことにして暴走を防ぎ、その上あまり力の無かったハプスブルグ家を選び続けた...ということなのかもしれない。でも、ほんと?そんなできた話があるのかな?

 神聖ローマ帝国の中は、概ねドイツ語を喋りながら諸邦がバラバラだったようだが。フランスの中は、なぜバラバラの諸国に分かれていなかったんだろう?

 神聖ローマ皇帝って...何だ?皇帝ってなんだ?ナポレオンが皇帝になったからって、なんで神聖ローマ皇帝はやめちゃったんだろう?あいつはフランス地域の皇帝、オレはこっちの東地域の皇帝だって、居直ればよかったのに...。部下がみんなナポレオンの方を向いちゃったというわけでもないだろうに。それとも上司のローマ法王(教皇だったか)が、おまえは頼りにならんから今後はナポレオンに任せるとでも言ったのかな?そもそもローマ教皇と皇帝の関係って何なんだ?

 神聖ローマ帝国が「ドイツ...の」ならば、なぜその範囲全部がドイツのルーツにならないんだろう。ドイチュラントってどこのこと?ドイツ語圏がドイチュラントなら、オーストリアは含まれないの?

 東西の壁でドイツが分断されていて、それが崩れたときに東独は独自生き残りの道を探ったが、社会主義を捨てた東独が西独と別の国である必然性は無い。だから統一に向かって流れは動き出したというのは定説である。ではドイツとオーストリアは何故統一しないのか?ほぼ同じドイツ語を話し、お互い資本主義の枠組みの中でいるドイツ(西ドイツでもいい)とオーストリアが、別の国である必然性はあるのか?西独と東独は同じドイツ民族だが、オーストリアは別の民族ということなのか?民族って何?

 ドイチュっていう単語は、かつては奥の院で使われたラテン語に対して、民衆の言葉というような意味だったようで、それがやがて、そういう言葉を喋る地域みたいな概念、ドイチュラントというように広がってきたらしい。そうすると、まだビスマルクが統一してそれが国名になる前までは、ドイチュラントといえば広くオーストリアまで含んだ地理的概念だったんだろうか?それとも除いて考えられていたんだろうか?

 そういえば、1848年のフランクフルトのパウルス教会で集会をやった時に、オーストリアを含んで纏まろうというのが「大ドイツ主義」で、除いて進めようというのが「小ドイツ主義」だった...ということはオーストリアもドイチュ(ラント)という範疇に入っていたんだろうな。だったらはやり何故、ドイツと統一しようって話が出てこないんだろう?適当な経済単位でまとまって、そこそこうまくいってるから、何も今更ドイツとくっつくメリットは無いということかな?

 適当な経済単位だったらバイエルンは何故独立しないんだろう?アイルランドよりも大きいはずだぞ?オーストリアとドイツが統一しないのはハプスブルグとプロイセンの確執が尾を引いているからかな?バイエルンはとりあえずどちらでもなかったはずだからしがらみは無いはずだけどな?

 受験時代に読んだ教科書や参考書は、こういう疑問を差し挟む前に、点を取るためには丸暗記する性質のものだったから、改めてドイツというところに来て考えてみると、素朴な疑問でいっぱい、私にとってドイツは解らないことばかりであった。解らないことがあれば...解明してみようじゃないか! 

 とはいえ、まだまだ勉強中、まともに自分で納得がいく答えが出たものはひとつもないのであるが..



3.東西の壁


東ベルリン、ブランデンブルグ門の前で談笑するソ連兵と複雑な表情のドイツ人(1981年3月)

 東西の壁のある時代にベルリンに旅行に行ったことも、私の興味に火を点けた。

 私はいわゆる全共闘世代よりも少し後の世代に属するのだが、大学に入ったときには正門は閉ざされており、その前には独特の書体のアジ看板が立ち並び、ヘルメットの学生がマイク片手にガリ版刷りのアジビラを配っていた。新左翼が過激派と呼ばれ、徐々に追いつめられ、支持しがたい方向に走り始めた時代であった。

 とはいえ、マルクスの「共産党宣言」やレーニンの「帝国主義」、宇野弘蔵の「経済原論」などは、大学生の「教養」として読んでおかないと、麻雀に明け暮れていたノンポリ学生の小生のようなものでも、なにやら肩身の狭いものがあった。冷戦はまだまだ決着などついておらず、傍目には互角ではあったが...社会主義陣営、特に「ソ連」という存在は、説明のし難い不気味感があった。

 ドイツに初めて駐在した1981年、まだ両陣営は互角には見えたし、パーシングやSS20などというミサイルの配備で互角に突っ張りあっていた。しかし、あの壁というのは、西側の戦車の侵入を防ぐものにしてはお粗末だったし、国民の脱走を防ぐためにしては大げさすぎた。そこまでして脱走を防がなくてならない、また外からの情報を遮断しないとやっていけない社会体制って..何?

 東ベルリンに入って驚いた。入るときは西の雑誌を持っていないか徹底チェック、チェックポイントを過ぎたところは戦後すぐから時間が止まったような廃墟同然の建物。通りには警官がいっぱい、赤旗や国旗の原色の他は妙に沈んだ無彩色の町。建物は西とは明らかに様式の異なるモダンだが安っぽい。毒ガスかと思われるような排気ガスを撒き散らしながらパタパタという音をたてて走る自動車らしいもの。これが...あの社会主義なの?学生の時に一度はそういう方向もあるかなと思っていた社会主義の現実なの?

 中に入り込んでもっと見たり聞いたりするにはチェックが厳しすぎた。大体、ライプツィッヒやドレスデンなんていう音楽で有名な町に行ってみたいと思っても、とんでもなく手続きが面倒なうえに、気が向いて別の場所に行くなんてこともままならないらしい。なんで?どうして?いいじゃない、別に破壊工作なんて考えてもないんだからさ。旅行くらいさせてくれたっていいじゃん?

 ダメだ、見るな、入るな、という拒絶が強ければ強いほど、なんでなのぉ?と突っ込んで調べてみたくなる...これは健全な好奇心というものではなかろうか?



4.ナチスの遺産


人体実験用の設備(ブッフェンヴァルト強制収容所跡にて:1998年3月)

 今は欧州へは殆ど直行便になったが、当時はアンカレジ経由が主体だった。その後、ゴルバチョフの時代になってからだったと思うが、直行便が運航され始めた。そのころ、モスクワ回りの便というのもあって、モスクワのシェレメチボ空港で降りて給油をした。その間を利用して乗客は空港待合室で待ったり免税店を冷やかしたりした。

 空港の隅に本や、新聞が置いてあるコーナーがあって、そこにキリル文字でプラウダと読める新聞が置いてあった。読めもしないロシア語だが、写真は第二次大戦の最後、赤軍がベルリンを陥落させた時、ライヒスタークの上に兵士が旗を立てている有名な写真だったように記憶している。聞くところによると、ナチスドイツの悪行と、それに対してソ連がいかに戦って勝利したかというプロパガンダ特別版が常に置いてあるのだそうだ。戦後、そろそろ40年も経とうとしていたのに..。

 聞けばイギリスのテレビでも、毎週土曜日にナチスドイツがどんなひどいことをしたかという番組を放映しているということだった。しばらく住んでわかったのだが...ドイツ人は周辺諸国から嫌われているようであった。一人のドイツ人は哲学をする、二人のドイツ人は音楽をする、三人以上のドイツ人は戦争をする...とか、英語は仕事をする言葉、フランス語は愛を囁く言葉、イタリア語は歌を歌う言葉、スペイン語は神と語る言葉、そしてドイツ語は馬を叱る言葉...などと。

 ドイツ自身も過去を見つめていた。当時3つのチャネルしかなかったドイツのテレビでも、よく戦前、戦中のことを放送していた。ホロコーストもそうだったし、メリル・ストリープ主演の「ソフィーの選択」はドイツ語に吹き替えられて、ナチスの将校はバリバリのドイツ語、メリル・ストリープはポーランド訛の巻き舌ドイツ語で...おそらくオリジナル以上にリアリティがあったハズだ。ナチスやドイツが狂気に走っていく経過や、ユダヤ人迫害の経緯、アウシュヴィッツなどのドキュメンタリーもよく放映されていた。

 毎週末、第三チャネルでは「40年前」という番組があり、ドイチェ・ヴォッヘンシャウという、40年前のニュースというか、プロパガンダフィルムを放送していた。勇ましい音楽と、鷲のシンボルがいかにもというフィルムで、駐在した1981年の40年前だから1941年のものから見始めたことになる。大半はどこの前線で大勝したとか、志気は高いといった大本営発表ニュースだが、戦時中のにしては非常に鮮明なフィルムだった。

 ニュルンベルグのかつてのナチス党大会跡で開かれたナチスの展示は「Faszination und Gewalt:魅惑と暴力」という題名だった。正直に言うと、ナチスの建築や構想には妙に引き込まれる要素もあるように感じる。シュペーアの首都ベルリンのゲルマニアへの改造構想、超広軌鉄道、巨大なドームや建築物...馬鹿馬鹿しいの一言で片づけるにはちょっと引っかかってしまう妖しい魅力を...感じないと言えば嘘になる。

 強制収容所の残虐行為。西ドイツにある収容所跡はベルゲン−ベルゼンにしても、ノイエンガンメにしても、綺麗に整備されてあまりオドロオドロしさというのはなかった。が、本や写真集には十分恐ろしいものがあった。人間ここまで残虐になれるものか...。

 また、ユダヤ人というのが、冒頭のドイツ人って何?と同じくらい解らない存在であった。こちらは、ドイツ人と違って、身の回りに大勢居るというような近い存在ではなかったから、わかりにくいのは当然ではあるのだが、なぜあれだけ迫害されて、ユダヤ人であることをやめないのか?消えてしまわないのか?この「科学の時代」に、世界の最後に自分たちだけが救われるという選民思想などというおとぎ話を本当に信じているのだろうか?あれだけ迫害されてなお、ジプシーと違って、世界の政治や経済に何故あれほどの存在感を与え続けられるのか?ユダヤ人って...いったい何?

 というわけで、「Fasizination und Gewalt:魅惑と暴力」の両方に、かつ加害者と被害者の両方に好奇心を抱いてしまった。これは...不健全な好奇心だろうか?



5.東プロイセン


東プロイセンから追放されてきたウルリッヒさんの誕生パーティ。親戚と一緒に招待される(1998年3月)

 戦争が終わったとき、ソ連やポーランドの支配下になった地域から、大勢のドイツ人が追い出されてきたらしい。それは並みの数ではなく何百万というような数だったという。そういえば...回りに、そういう人が多かった。クドロフスキーの家族はケーニヒスベルグの方の出身らしかった。

 後にリューネブルグに住むようになってからは、町に東プロイセンの博物館があり、同郷人会があり、借りていた家の大家の母親がそちらの出身であり、家の住所がグンビン通りといって、東プロイセンの地名にちなんだ物であったりで、東プロイセンが身近に感じられた。引揚者といえば、日本なら満州というところだが、東プロイセンの歴史は満州のそれとは比べ物にならないほど、ドイツの一部であった。

 逃げてきたり追放された世代はだんだん減ってきている。当時10歳だったとしてももう60を越える年になっているのだから。そういう爺さん婆さんと話をするのが結構好きで、仲良くなっていくうちに、これは一度行ってみなければ...と思った。東プロイセンばかりではなくて、シュレジエンもズデーテンも、ポメルンも、一度は旧き良き時代のドイツ、「失われた故郷」というやつを、爺さん婆さんに代わってこの目で見てみなければ...

 そしておあつらえ向きに...東西の壁が開いたのであった。



6.そんなわけで

 まだまだ、私の好奇心のターゲットになりそうなことは山ほどあるのだ。まあしかし、ここまでを纏めていうと、ヨーロッパの歴史を解ったような気になるためには、その真ん中にあった(ある)ドイツの歴史を解ったような気にならないと、肝心なところが抜けちゃいそうだなという感覚である。

 そんなわけでドイツの歴史の本を読んでみた。たまたまヒットしたのが、おそらくホームランだとおもうのだが、「私の図書館」でご紹介する H.Schulze"Kleine Deutsche Geschichte" (ドイツ小史)という本である。ここまでの疑問にかなりきちんと答えをだしてくれている。この人は、他にもまた 「ヨーロッパの歴史の中の民族と国家」という、私のさらなる疑問にぴったりの本を書いている。

 東の方にも何度と無く、何十度となく出かけてみた。野次馬のレベルを出ないとはいえ、気になっていた場所には大体行ってみた。東プロイセンにも、シュレジエンにも、強制収容所の跡にも...

 しかしながら、好奇心は好奇心を呼ぶ。見たかったことを見てしまったら終わり、知りたかったことを調べ終わったらオシマイにはならないのだ。ドイツというのは噛めば噛むほど味の出るスルメのようなものなのかも知れない。次は一転西に転じてドイツとフランスの確執とは何だったかを調べるかもしれない。あるいは、ロシアの歴史をチェックするかも知れない。ポーランド史は必修科目だ。

 それもこれも...ドイツというスルメをもっと美味しく食べる為に....。