ギュンター・グラス
私の(二十)世紀
Günter Grass
Mein Jahrhundert


 ギュンター・グラスの名前は以前から気にかかっていた。もちろん有名な作家である。毒を含んだ寓話などでノーベル賞を貰ったことも,また最近では正書法の改正に異を唱えたことも知っていた。そしてあの「ブリキの太鼓」という有名な映画の原作者だということも知っていた。ただ,著書は読んだことがなかった。

「ブリキの太鼓」はドイツで2度見た。なんだか解らない映画だった。何故これが絶賛されるのか正直言って解らなかった。解らないながら,あの壊れた弦楽器を弾くようなビロロロ〜ンという効果音だけが妙に印象に残っている。最後の方で老婆が「カシュバイ」がどうのこうのと呟くシーンも印象に残っている。だけどそれがどういう意味を持つのか今日まで解らずに心に引っかかったままである。多分,母親の血がスラブ系の少数民族カシューブ人ということと関係があるんだろうけど・・・。

そんなグラスの Mein Jahrhundert を出張の帰りの飛行機の睡眠薬代わりにとハンブルグ空港の書店で衝動買いしたのが思えば間違いだった。いつかは何かを読んでみなければ思っていた作家の本で,またこの世紀末に,彼が20世紀を総括した内容・・・これは是非・・・と思ったのだが。



400ページ程の本の内容は20世紀の100年間を1年を一編とした短編小説の100編の集合体で表現したものである。それぞれの年にドイツで起こったエポックメーキングな出来事に直接間接に関わった人々がそのことに関するエピソードを語るという形式となっている。ドイツのあらゆる場所で,100年間に亘って,かつ老若男女,右左,上流中流下層あらゆる層の(多くの場合)名もない人々が語る個人的エピソードの集積の奥に有るモノ,言い換えれば空間的,時間的,社会的な3次元の座標空間に100個の点をプロットして,それをレンダリングすると見えてくるポリゴン・・・それがグラスにとっての20世紀のドイツだということになる。

こんな構成の物語は見たことがない。彼の構想力には恐れ入るばかりである。更に言えば,ドイツという舞台にして初めて,その構想力が Geschichte (物語・歴史)として実現できたのだと思う。日本の百年を描くのにこの手法は可能だろうか?アメリカの20世紀を描くのにこの手法は意味をなすだろうか?空間的,時間的,社会的な軸にプロットされた100個の点それぞれがまた,別の世界の何かと関わり続けたドイツにして初めてこの手法が活きたと思うのである。

飛行機の中でパラパラとめくって読み始めて面食らったことがある。何が書いてあるのかは概ねわかる。だが翻訳を意識して個々の文章を分析的に読むと全く歯が立たないものがあるのだ。そもそもこの100年のドイツに起こった事件の数々とその背景を知らないとかなり厳しい。それに加えて数々の方言が出てくる。更に「語り口調」が多いために必ずしも書き言葉を基にした型どおりの文法に沿わないものも多いと思われる。1900年頃の流行言葉で今は辞書にも載らない死語もあるかも知れない。とっさの思いつきだけどなにやら感じが伝わるという翻訳不能な語法もある。そんなあれやこれやを謎解きのように考えながら読みふけっていたらあっという間に成田に着いてしまった。睡眠薬のつもりがとんだ覚醒剤だったワケである。

日本に帰って訳書を探したがまだ出ていない。ネットで書評を探したが見あたらない。そもそもこれだけ有名な作家によるドイツの世紀を総括する著書というのに「読んだ」という日本人ドイツ関係者に出会わない。ひょっとしたら、これ、翻訳に困っているのではないだろうか?とさえ思えるのだ。実際、これを和訳するのは殆ど不可能に思われる。方言一つにしてもそうだ。方言には独特のステレオタイプが存在する。日本の場合、東北弁を聞けば雪深い北の地方がその背景に想像され、沖縄弁を聞けば透明な海と白い砂浜を(場合によっては異文化の香りを)想像する。ルール地帯の鉱夫の方言を表現するのにピッタリの日本の方言はどう選択するのだろう?ザクセン訛の章はどのように違いを持たせて表現するんだろう?まあ、それはどっちみち不可能なことだと割り切ったとしても数々の翻訳不能な(あるいは日本の翻訳者がいまだかつて出会ったことのない)単語や語法が登場している。結局、これはドイツに生まれ育ちドイツの空気を吸ってドイツ語が、あるいはドイツそのものが身に着いたものでなければ、つまる所ドイツ人でなければ読めない本なのではないかとさえ思うのである。

翻訳書が無いので自力で読んでみることにした。下記はとりあえずの読書ノート的メモである。それもランダムに...というか解りやすいところから手を着けている。徐々に増やしていくつもりだが...平均4ページ程度の短編が100編...今世紀中に読み切るだろうか?案外ライフワークをまた一つ増やしてしまった様な気がする。これを読み切るのは21世紀...それが私にとっての Mein Jahrhundert なのかも知れない。

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この本を読まれた方、読んでおられる方、これから読まれるという方、意見交換などさせて頂ければ幸甚です。


年号
場所
重要事件
語り手
テーマ
概要(訳ではないので念の為) コメント・メモ
1903

Hamburg
Altona
Leipzigのサッカー選手(男)

ポーランド人や外国人のドイツ(人)化
ハンブルグ・アルトナで行われたサッカー(今で言うクラブ対抗UEFAカップか?)の決勝戦、VfB LeipzigはハンブルグDFC Pragと戦った。Pragは、電報の間違いによって決勝戦に現れなかったKarlsruheの代わりに急遽決勝に出ることになった。結果はLeipzigの圧勝だった。活躍したフォワードはStanyとRisoだったが、勿論それだけではない。チーム一丸となっての成果だ。StanyはStanischewskiというポーランド出身でドイツに帰化した名選手だった。このアルトナでの選手権以来、ドイツのチームは上り調子となったがそれはポーランド生まれの選手の活躍だけに因るものではない。この後Schalkeの大活躍を支えたのもFritz Szepan、Ernst Kuzorraら外国生まれの選手であった。ジャーナリズムはPragの選手が前夜Reeperbahn(Hamburgの繁華街)で羽目を外しすぎたのが原因だと書いたりしたが、主審は「上手い方が勝つのさ」と...  
1923

Chemnitz
曾孫のいる老婦人(女)

インフレーション
今見るとあの当時の紙幣はなかなか小綺麗に見える。曾孫達はモノポリーゲームのお金として使ってるわ。他にも壁崩壊当時の東独の紙幣も取って置いたんだけど、こっちはゼロが少ないんで小銭にしかならないみたい。母が死んだ後、家計簿の間からインフレ当時のお金を見つけたけど、この家計簿を見ていると感慨深い。長女の私を含め4人の娘を育てるのは大変だったと思う。豆1プフントが1千万マルクとか、あまりインフレのスピードが速くて3人の下宿人達にその都度食費を貰わなければならなかったとか...。父が早くに亡くなった後、下宿人のエディ小父さんは母と仲良くなったけど、船乗りだったエディ小父さんが貯めていたドル銀貨のお陰で何とか食べていくことができた。公務員だった父の年金だけでは水も飲めなかったでしょう。ハインツェさんは遺産の土地を小作に出して農作物で納めさせた。代用貨幣や、ついにはレンテン・マルクが導入されたときハインツェさんはうまくやったわ。エディ小父さんはその後共産党員になり資本家のことを「山高帽を被った鮫」なんて悪口を言ってた。でも、母が(通貨が統一されて)西のお金を経験しなかったのはよかったと思うわ。またどうなるかって心配しなきゃいけないし、これでまたオイロが導入されるなんて目に遭うのよ。  
1933

Berlin

Hitler政権獲得
Berlinの画廊の主人(女?)

Hitler政権獲得と「頽廃芸術」・ユダヤ人芸術家への迫害
Max Liebermannの晩年の様子
Hitlerが政権を獲得したというニュースがラジオから流れてきたときは、従業員のBerndと軽食をとっていたときで半分聞き流していた。Schleicherの退陣以来、もう「彼」しかいなかったのだから。私は驚きはしなかったが、政治にこれっぽっちも興味の無かったBerndは「逃げなくちゃ!」と慌てていた。いわゆる「頽廃芸術」とされるKirchner, Pechstein, Noldeらの作品の一部はアムステルダムに疎開させてあったが、あのマイスターのはまだ手許にあった。それは頽廃芸術という範疇ではないがマイスターがユダヤ人と言うだけで危険にさらされていた。街ではSAが松明行列の準備をし、群衆が集まる異様な雰囲気の中、胸騒ぎのした私は店を閉めBrandenburg門の側にあるマイスターの家に急いだ。到着したとき松明行列が始まったようだ。マイスターとその妻Marthaは屋上に、これから旅立つかのように帽子と外套を身に着け下の通りを見ていた。彼らはここから1871年の普仏戦争の凱旋も、1914年の大戦への進軍も、1918年の革命的な水兵の部隊の行進も見ていたのだ。喧噪の松明行列を見下ろしながらベルリン訛で「反吐が出る程、こんなに沢山は食えないな」と呟いた。私とBerndが逃げたアムステルダムに促そうとしたが言葉が出ず、彼らもまたその意志はない様だった。私の手許にあった彼の絵は、その後比較的安全な(好ましくは無いけれど)スイスに移された。Berndは私から去っていった。あ、これはまた別の話だわ... ユダヤ人のリアリズム画家 Max Liebermann の屋敷はブランデンブルグ門に接して直ぐ左の建物であった。この話の語り手(画廊の経営者)は女性か男性かが文章からは読み取りにくいが、おそらく Liebermann に最後に会ったとされる Anita Daniel だろうと想像される。

auffem Dach, Liebermannsches Haus, berlinern

1935

Frankfut/MとDarmstadtの間


青年研修医(多分男)

Hitlarの公共事業アウトバーン建設と過酷な労働条件による身体障害
Frankfurt/MからDarmstadtを結ぶアウトバーン建設の労働条件はスコップによる手作業人海戦術という原始的で過酷なものだった。それでもそれは何万という若者や失業中の人々に職をもたらし有り難がられた。その労働現場では「スコップ症」あるいは「スコップ亀裂」という症状が多発していた。スコップを使う過酷な労働によって肋骨の特定の場所に亀裂が入るというものであった。本来は「労働不能者」として直ぐに解雇されねばならないところ、ブレーディング博士は解雇を遅らせるために長期間入院させ、またそうすることで問題を顕在化させようとしていた。実際には潤沢な労働力(裏を返せば失業者)のお陰でアウトバーンは予定通り開通し、開通式には総統も出席して祝辞を述べ労働者を讃えた。ブレーディング博士はそんな公式行事に出席する必要はないと病院を巡回した。博士は後に「スコップ症」に関する論文を専門誌に発表しようとしたが許されなかった。  
1938

Esslingen
(Schwaben)

「水晶の夜」事件
中学校の生徒(女)

「水晶の夜」のユダヤ人迫害と1989年の外国人
1989年ドイツ中がベルリンの壁崩壊で沸き立っているというのに、東ベルリンのPankowに住んでいるおばあちゃんが自由に西に出られるようになったというのに、歴史の先生は「ほかに11月9日に起こったこと、中でもちょうど51年前に起こったことを知っているかね?」なんて授業をするものだからちょっとした怒りを買っていた。だれもちゃんと知らないようなので先生は「水晶の夜」について話した。ユダヤ人が襲われ、いろんなものが壊され特にクリスタルの花瓶や貴重な物が意味もなく壊されたそうだ。先生の失敗は歴史の時間をかなり割いてこのことばかりを取り上げたことかも知れない。父兄会に出たお父さんは「私もソ連占領地域から逃げてここに来た。娘達にナチスのことを教えるのは反対じゃない。でも世界中がドイツを祝福してくれている今じゃなくたっていいのではないか?」と言ったらしい。でも我々生徒達は逆にだんだん興味が湧いてきていた。トルコ人の同級生達や、イランから来た友達Shirinにとっても...。先生は父兄会でうまく反論したらしい「子供達が不正義がどのように始まりそれがひいてはドイツ分割をもたらしたかということを知らなければ、壁が崩壊したことの意味を正しく把握できないでしょう」。親たちはみんな頷いた。先生がこの話の続きを延期しなければならなかったのは残念だけど...。でも前より少しはわかったのは、その時Esslingenではみんな黙ってたか見ない振りしていたらしいということなの。だからクルド人の同級生Yasirがトルコに送り返されることに対して私達は市長に講義の手紙を書いて全員でサインしたの。先生の意見で、ユダヤ人が迫害されたとき町の人達が何もしなかったことには触れなかったけれど...今はみんなでYasirが町に居られることを祈ってるわ。  
1951

Marienborn
(DDR)

初老の女性(女)

戦時労働時の貯蓄の補償
戦時中フォルクスワーゲン工場で、賃金の一部を貯蓄し将来、自動車を貰うという制度が有ったが、戦後かなり経って西独の連邦裁判所はその処理に関する調停案を決定した。その時家庭の事情で実家のあった東独に引っ越していた女性が、夫の貯蓄分の請求を行ったがなしのつぶて。フォルクスワーゲン経営幹部に宛てた、それに対する苦情の手紙文。

(全訳の試み)
さほど長くない手紙に実に豊富な情報量
・主題の事実の他に
・カブトムシの生産量
・ロシア人の強制労働
・VWのメキシコ進出
・ポルシェ博士
・東西ドイツの国境構築
・二つの通貨

このエピソードは何故1951年なのか?

Gauwagenwart
1961

Stuttgart

ベルリンの壁構築
60過ぎの暖房配管技術者(男)(出身はHildesheim)

ベルリンの壁と東からの脱出支援・老人の回顧と寂しさ
壁が崩壊して数年後,シュッツトガルト。60半ばと思われる語り手が,ベルリンの工科大学の学生で暖房配管の技術を学んでいた学生だった1961年当時,色々な方法で東からの脱出を助けたことを思い出し語りしている。パスポートや書類を偽造したり,外国人になりすましたり,下水道を這うように通ったり,トンネルを掘ったり,時には糞尿に膝までつかりながら・・・。政治は信用していなかった。実践あるのみ。アパートから飛び降りてマットをはずして死んだり,チェックポイント・チャーリーで撃たれた有名なPeter Fechter事件のようなことは日常茶飯事だったが,自分達の関わった脱出では死者は出なかったのも自慢だ。赤ん坊を連れた母親が乳母車をトンネルの外におきっぱなしたなんてヘマはあったけれど・・・。最近はしかし,こういう話にだれも興味を示さなくなった。息子だってそうだ。ここシュツットガルトはもともと分断と関係なかったから仕方ないが,それでも壁があった頃は「あの頃はどうだったの?」と聞いてくれるものもあったが,壁崩壊以来もう誰も興味を示さなくなってしまって話を聞いてくれないのが寂しい。あの頃は自分の人生で一番充実していた。当時,東で教育学を学んでいた学生でやはり東から脱出した妻のエルケがいみじくも言った「あの頃のあなたは今とは別人だったわ。あの頃私たちは,本当の意味で『活きていた』んですもの・・・」  
1991

Leipzig

湾岸戦争
子供がいる40代後半位の親達(多分男)

湾岸戦争への抗議とヴェトナム反戦の回顧
コンピュータ操作のミサイルが目標に命中する様子をCNNが実況し、死んだ人がいるという感覚の希薄な湾岸戦争。子供達にローソクを持たせて抗議しようという意見と、油田が燃えているという現実にそんなものは無意味だという意見。我々が68年にヴェトナム戦争に抗議のデモをしたときにはヴィジョンがあった、訳の分かっていない子供達にそんなことをさせても無意味だ。そうはいうけどライプツィヒでは壁の崩壊につながる月曜デモの運動はそうやって始まったじゃないか・・・と果てしない議論が続く
会話文のみによる構成
Leipzigあたりの方言が会話に含まれているか?

男達の会話と判断しきれるか?(Scheißeなど荒っぽい会話の雰囲気から判断したが...)
       

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