倭迹迹日百襲姫神
ヤマトトトヒモモソヒメノカミ
別称:夜麻登登母母曾毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)性別:系譜:第七代孝霊天皇の娘で、大物主神と結婚。弟は吉備津彦命神格:預言者的巫女神社:田村神社、吉備津神社
 早口言葉である。まだの方には是非お試しいただきたいが、これほど呂律の怪しい神名というのはなかなかどうしてあるものではない(もちろん古代の王たちの名乗りを全文すばやく読み上げれば舌はいくつあっても足りないが)。まあいい。この神は、神社の祭神としてはあまり一般に馴染みのない存在である。むしろ、だからこそこのような名前のまま時を経てきたのだろう。私ならば歴史の表舞台に登場したとたんにモモソ姫神と略すこと請け合いである。しかし、神話のなかでは、三輪山の主である大物主命と神婚する女性として有名である。倭迹迹日百襲姫神と大物主命との神婚の話は、いわゆる箸墓伝説といわれるもので、「日本書紀」の崇神天皇の条には、次のように記されている。
 倭迹迹日百襲姫神は大物主命の妻となったが、夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができなかった。そのことに日々不満を募らせた倭迹迹日百襲姫神が、ある夜、是非顔が見たいと強引に迫った。そこで大物主命は、「朝になったら櫛箱に入っているが、姿を見ても決して驚くなよ」と告げた。翌朝、櫛箱を開けた倭迹迹日百襲姫神が中にいた小さな蛇を見て驚き叫ぶと、蛇はたちまち若者の姿となり、恥をかかされたことを激怒して、大空に飛び上がって三輪山に登ってしまった。それを見て自分の行為を後悔した倭迹迹日百襲姫神は、箸で女陰を突き刺して死んでしまう。箸は丹塗矢と同様に、来訪する神が宿る依り代と考えられ、箸で女陰をつく話は、妻となる巫女と神の交わりを象徴するという。のちに倭迹迹日百襲姫神が葬られた墓は、昼は人間が、夜は神が作ったといい、それを当時の人々は箸墓と呼んだという。現在、その墓とされるのが大和(奈良県)の三輪山麓西側にある箸墓古墳で、日本でもっとも古い巨大古墳(全長約280m)である。

 古墳の規模は、一般的に葬られた人の生きていたときの社会的な地位(権力)を表している。その意味で、立派な箸墓古墳に葬られた倭迹迹日百襲姫神と呼ばれた女性は、相当に大きな力を持っていたと推測される。そこから作家の黒岩重吾氏なども、大和政権の最初の首長が女性だったということとからめながら、倭迹迹日百襲姫神という女性は、卑弥呼のような巫女的な女王ではなかったかと述べている。
 実際に「日本書紀」の記述でも、倭迹迹日百襲姫神はたいへん聡明で英知に長け、霊能力が優れていたといい、第十代崇神天皇の支配力を背後で支えるような存在だったことがうかがえる。
 たとえば、全国に疫病が流行して田畑はあれ、多くの民が飢えに苦しんでいたとき、崇神天皇は大三輪氏の祖オオタタネコに大物主命を祀らせて疫病を鎮めたという話がある。このとき大物主命は、最初に倭迹迹日百襲姫神に憑依し、「大和の国の主である自分を重く祀れば、必ず国土は平安になろう」と託宣した。それを倭迹迹日百襲姫神が崇神天皇に進言して国の疲弊を救ったのである。また、あるときタケハニヤスヒコ命が謀反を計画するという事件のときには、倭迹迹日百襲姫神がいち早くそれを予言して叛乱を未然に防いだという。
 倭迹迹日百襲姫神が妻となる大物主命は三輪山の主であるが、三輪山というのは大和朝廷にとっては非常に重要な祭場であった。のちに伊勢に太陽神天照大神が祀られる以前には、三輪山において大和朝廷の太陽神祭祀が行われていたのである。そして、崇神天皇の命でその祭司をつとめたのが倭迹迹日百襲姫神だった。
 以上のように、神の託宣を受けて王者を補佐する預言的巫女という倭迹迹日百襲姫神の姿からは、国の政治を左右する力を発揮した卑弥呼や神功皇后といった女性の姿が連想される。どちらも霊能力豊かな女性であったことはよく知られている。はじめにも述べたように、神さまとしてはあまり名前が売れていない倭迹迹日百襲姫神だが、その霊力は女神の中でも有数の力を隠し持っているといっていいだろう。たとえばその力とは、さまざまな願い事を成就させてくれる力、いつ遭遇するかも知れない災厄から守ってくれる力といったものである。