豊受大神
トヨウケノオオカミ
別称:豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)、豊受気媛神(トヨウケヒメノカミ)、豊由宇気神(トユウケノカミ)性別:系譜:稚産霊神の娘神格:食物神、穀霊神神社:伊勢神宮・外宮、篭(コノ)神社
 よく知られているように豊受大神は、伊勢神宮の御饌(ミケ)の神として伊勢神宮外宮(豊受大神宮)に祀られる穀物女神である。御饌とは天照大神の食べる食物のことで、この神は本来それを調達する役目を果たす神だった。そこから発展して五穀の主宰神となり、稲荷神と並ぶもっとも代表的な農業神となったのである。
 日本の自然神というのは、ほとんどが何らかの形で農耕生産と関わりがあり、その性格に農業神としての機能を含んでいるといっていい。とくに農業神の中心である穀霊を基本的な神格として持つ神々は、その個性の輪郭が非常に曖昧な場合が多い。豊受大神にしてもやはりそうだといっていいだろう。
 たとえば豊受大神は、皇祖神天照大神が祀られる伊勢神宮に鎮座して、天下万民の糧となる食物をつかさどるとされているわけであるが、同じように食物神としての機能を発揮する神として、稲荷神社の祭神の宇迦之御魂神がいる。宇迦之御魂神は、別名豊受姫神ともいい、稲荷神社の祭神名としてよく見かけられる。このように「ウケ」「ウカ」など、そもそも名前が似ていることからして、その性格も同一の神格と考えられることが多いのである。
 さらに、そのほかにも同じ食物神である大宜都比売神保食神若宇加能売命などの神と同一神と考えられたりする。こういうところは共通の性格を持つ曖昧さともいえるが、逆に考えれば、豊受大神は共通の性格を持つ神々の霊力をもトータルに包含する機能を持っているともいえるわけだ。ことさら独自性や個性にこだわらず、よい意味でのいい加減さで人々の願いを聞き入れてくれるところが、日本の神さまらしいところでもある。豊受大神のイメージもそういうものと考えればいいだろう。

 豊受大神に関して、記紀神話にはその経歴やいつごろ伊勢神宮の外宮に祀られたのかということについて詳しいことが書かれていない。唯一の手がかりとなるのが、豊受大神が外宮に祀られた由来を記した「止由気(トユケ)宮儀式帳」という朝廷に提出された文書にある話だ。この中で雄略天皇の夢に現れた天照大神は、「わたし一人ではさびしいし、食事も心やすらかにとれないから、豊受大神を御饌の神としてそばに呼んでほしい」と指示。そこで雄略天皇は、丹波国(京都府)から豊受大神を迎えて伊勢の地に祀ったとある。
 ここで丹波国がこの神の出身地として出てくるわけだが、ではなぜ丹波国なのかという疑問が出てくる。ひとつの説として、そもそも豊受大神は天照大神の御饌の神として祀られたのが先で、丹波国には奈具社(ナグノヤシロ)のような穀物の女神を祀る社が多かったころから、由来譚として結びつけられたものと考えられる。もうひとつの説は、もともと結びつきがあったと考えるものだ。その根拠とされるのが、「丹後国風土記」逸文にある天女の話である。
 昔、天女が丹波の泉で水浴びをしていて衣を隠され、天に帰れなくなって老夫婦の家に身を寄せる。そこで天女は霊酒の醸造を教え、夫婦をたちまち金持ちにするが、成金に奢り狂った老夫婦に邪魔にされて追い出されてしまう。泣く泣く放浪の旅に出た天女は、やがて奈具の村に安住の地を見つけ、のちに死ぬと奈具社の神として祀られた。
 ここに出てくる奈具社の神というのが、穀物の女神の豊宇賀能売神(トヨウカノメノカミ)といい、人々の信仰が篤い有力な神だった。この神が伊勢に迎えられて豊受大神として祀られるようになったのではないかということである。おそらく豊受大神の原像というのは、穀物の女神の豊宇賀能売神のような、農民が信奉する神だったのだろう。それが天照大神に仕えるという立場を得ることによって、いわば地方神から全国神へと変身することになった。つまり、天照大神を祀る伊勢信仰の広がりとともに、豊受大神も広く祀られるようになり、その結果、稲荷神と並ぶほどに有力な神として発展したのである。