武内宿禰
タケノウチノスクネ
別称:御食津大神(ミケツノオオカミ)(気比神)、武内宿根、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)性別:系譜:第八代孝元天皇の孫。7人の子は大和朝廷を支えた葛城氏、平群(ヘグリ)氏、蘇我氏、巨勢氏、紀氏、波多氏、江沼氏の祖神格:長寿の神神社:宇倍神社、高良大社、高麗(コマ)神社、平塚八幡宮、気比神宮
 伝説では、実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在である。それにちなんで延命長寿の神さまとして知られている。また、不思議な霊能力を発揮する武運長久、厄除けの神さまでもある。
 「古事記」には、景行天皇に始まって成務、仲哀応神、仁徳まで五代の天皇に244年間に渡って仕えたと記されている。その間にいろいろな功績を残したとされているが、とくに有名なのは、神功皇后の新羅遠征の事業を補佐したことだ。そのほかには、景行天皇のときの蝦夷地視察、応神天皇誕生後の籠坂、忍熊王子の叛乱討伐などといった功績が記紀に記されている。
 こうした武内宿禰の出自に関しては、長く天皇を補佐した有力な存在ということから、蘇我馬子一族をモデルにした存在という説もある。一方で、武内宿禰を祖神とする葛城氏、平群氏、蘇我氏、巨勢氏、波多氏などはいずれも律令時代に大臣となっていることから、そういう有力氏族のイメージが投影されているのではないかともいわれる。いずれにせよ200年以上も生きる人間などというのはいないわけだから、伝説的に作られた人物像である。それはともかく、武内宿禰という伝説的な存在は、天皇の中心として古代の政治で重要な役割を果たしたわけで、そこから”日本初の宰相”と崇められるようになったのである。
 武内宿禰に関する説話(「古今著聞集」)に、次のようなものがある。ある人が京都の岩清水八幡宮に参詣して夢を見た。八幡神は御殿の中から扉を開けて「武内」と呼ぶと、進み出たのは白髪に白髭の老人だった。すると、神は「世の中が乱れそうだから、しばらく時政の子となり世の中を治めよ」と命じ、老人が承諾の返事をしているときに目が覚めたという。そうして武内宿禰が生まれ変わったのは北条義時だった、という話である。後の世に生まれ変わるというのも不思議だが、それも武内宿禰の政治的な能力に対する信仰がいかに高かったかということの象徴といっていいだろう。
 そういう信仰は戦前まで続いていた。戦後生まれの世代には馴染みがないが、戦前には紙幣(5円、1円)の肖像にもなっていて、なかなか身近な存在だったのである。歴史上のイメージと伝説のイメージがない交ぜになっているところからすれば、今のお札の肖像の聖徳太子のような感じだったといえるかもしれない。それにしたって少し古いが。とにかく、限りなく人間くさい神さまである。

 武内宿禰のもうひとつの特徴は、神事に関わり神主、霊媒者として特殊な能力を発揮することである。「日本書紀」には、神功皇后が神田の溝を掘るときに大きな岩が邪魔になったが、武内宿禰が祈ると落雷が岩を打ち砕いたという話がでてくる。このほかにも霊能力の高さを感じさせるエピソードは多いが、そうした性格と関連するのが、福岡県久留米市の高良大社の祭神、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)である。
 高良玉垂神とは、八幡神の第一の随神とされる神である。記紀神話には登場しない神明であることから、この神の性格をめぐってはいろいろと論議がなされてきた。林羅山著「本朝神社考」によれば、「玉垂」の名の由来は、神功皇后が新羅に遠征して海上で戦ったとき、高良明神が潮の干満を操る呪力を持った玉を海中に投げ入れて戦勝をもたらしたことにちなむものという。神功皇后の事業をサポートするそうした事績から、この神を武内宿禰とするのが通説になっている。この神の神徳は武運長久であるから、試験や勝負事などには、祈願するといい結果が期待できるかもしれない。