建御名方神
タケミナカタノカミ
別称:武南方神、諏訪神性別:系譜:大国主神の子、兄は事代主神神格:軍神、狩猟神(山の神)、農耕神(風の神)神社:諏訪大社
 国譲りにおいて、父の大国主命が高天原の最高司令神天照大神から「地上の国の統治権を禅譲しなさい」と迫られたとき、これに最後まで抵抗したのが建御名方神だった。結局は、敗れて故郷の出雲を追われ、信濃国に逃れて諏訪湖のほとりに隠棲したというのが神話のストーリーである。そのまま受け取ると、まるで”負け犬”的なイメージになるが、これはあくまでも天孫系を主役とする神話編者の創作にすぎない。結論から先にいってしまえば、本来、諏訪神というのは信濃国の諏訪地方に発生した有力な地方神だった。おそらく大和政権が東方へと勢力を伸ばす過程で、当初はまつろわぬ神として立ちふさがったのだろう。反抗的な人々が信ずる神だといっても、有力神だけに抹殺するわけにもいかない。そこでマイナーなイメージで神話のなかに組み込んだということが考えられる。もっとも、一般的には「古事記」編者の当事者である中臣氏が、自らの祖神である武甕槌神の勇武を高めるために建御名方神をだしにしておとしめたという説が有力だ。
 実際、諏訪地方に伝わる縁起譚の「諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」には、建御名方神がこの地に来て先住の地主神や諏訪湖の龍神(水の神)などの神々を征服して鎮座した、とその武威が強調されている。また、とくに鎌倉時代以降は西の八幡神と並び、霊験あらたかな軍神として大いに崇敬され、全国各地に諏訪信仰が広がり、諏訪神社が祀られるようになった。
 もともとが武威にすぐれた神格でなければ、軍神、武勇の神として崇敬を集めることもなかったはずである。そうでないと、記紀神話の”負け犬”的な神が、一方では日本を代表する軍神・武神であるという矛盾した現象の説明がつかない。

 諏訪神は、古くから狩猟神として信仰されてきた。その遺風は鹿の頭を神に捧げる上社の御頭祭(オントウサイ)に残っている。狩猟に使う弓や矢などの道具(武器)に宿る精霊ということから連想され、武威にすぐれた神、つまり、軍神としての信仰が始まったのであろう。単に狩猟神(山の神の一種)、諏訪湖に宿る龍神(水の神)にとどまっていれば、地味な地方神のままであっただろう。ところが、「武威にすぐれた神」のイメージが発展したことによって、諏訪神はいわば全国的な霊威神となった。そのイメージを高めたのが、神功皇后の新羅遠征のときの活動や、坂上田村麻呂の東征を守護したり、あるいはまた元寇のとき龍神として現れて大いに神威を発揮したという、軍神としての活躍の伝承である。
 平安時代にはすでに武勇の神、軍神としての名声は高まっていたが、戦神、武術の神としての信仰が高まったのは鎌倉時代のことである。諏訪大社の下社の山宮として、霧ヶ峰高原八島湿原に御射山社がある。この社は本来、田を潤す水源を守る山の神(田の神)の祀るものであるが、鎌倉時代にはこの八島湿原の一帯で鎌倉御家人や全国の武将が集まって、諏訪大社に奉納する武術の競技会が開かれたという記録がある。弓術と馬術が武門のステータスとされるようになったのはこの時代のことで、源平の屋島の合戦で名を馳せた那須与一などもこの協議会に参加していたらしい。

 そもそも諏訪神は、信州の諏訪地方の山や石などの精霊から、諏訪地方の大地を治める神格に発展した神である。とくに、諏訪神は古来、風の神として有名で、諏訪大社にはかつては風の平穏を祈る専門職として風祝(カゼハフリ)というものが置かれていた。また、諏訪神を迎える(勧請する)ときには、薙鎌(風の悪霊を鎮める和鎌=ナギガマの意味ともいわれる)を受けて、それを御神体とすることになっている。
 ふだんから農作業に使う鎌に乗り移るところなどは、いかにも庶民的な感じがするではないか。風の強い地方の民俗信仰に、風の悪霊を払うために風切鎌を立てるという風習があるが、そのルーツは諏訪大社の薙鎌ではないかとされている。悪霊が風を吹かせると海では暴風雨として船を難破させ、陸では病気を流行らせたり、農作物の成育を悪くして不作をもたらしたりする。そうした風の悪霊を鎮めてくれる力を諏訪神は持っているのである。以上のようにもともとは山の神として狩猟を守り、水源の神(田の神)や風の神として農業を見守るといったふうに、いわば地元の人々の生活の源を司る神霊としての姿が諏訪神の原像なのである。武神としての姿は神威を高め信仰を広めることに大いに役立ったが、それはあくまでも一面であり、昔も今も諏訪神を支えるのは農民を中心とする庶民の信仰なのである。