武甕槌神
タケミカヅチノカミ
別称:鹿島神、建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)、建御雷神、建甕槌命(タケミカヅチノミコト)、建御賀豆知命、布都御魂神性別:系譜:伊邪那岐命が火の神迦具土の首を切ったときの血から生まれた神。藤原氏の祖神神格:刀剣神、武神、軍神、雷神神社:鹿島神宮、春日大社、石上神宮、真山神社、古四王(コシオウ)神社、塩釜神社、椋神社
 鹿島神は茨城県鹿島町の鹿島神宮の祭神で、日本神話に登場する武甕槌神とされている。この神はなんといっても武道の神としてのイメージがもっともポピュラーである。剣豪小説などにも登場する有名な塚原卜伝を祖とする鹿島新当流をはじめ鹿島神道流、鹿島新陰流、鹿島神流といった流名の「鹿島」は、武神の霊力を受けた神聖なる剣技であることを示している。上代の常陸地方の伝説などを記した「常陸国風土記」にも、鹿島社に武具が奉納されたと記されているから、鹿島神は早くから武神として信仰されていたらしい。のちの戦国から近世にかけてのころになると、鹿島神宮は剣術家たちに崇敬され、武道の道場の役割も果たしていた。そんなわけで、剣豪小説好きにとって鹿島神の名は、とくに独特の響きを持って感じられるのである。
 鹿島神宮の宝物館を訪ねると、全長271pという国宝の剣を見ることができる。その長大な剣を目にすると、なるほど武道の神さまの持ち物らしいと誰もが感心するはずである。そもそも武甕槌神は、日本神話で天神の意志を象徴する「正義の剣」として重要な役割を果たす霊剣十握剣の神格化であり、長大な剣は武甕槌神の本来の姿といえる。神話の中の武甕槌神は、国譲りにおいて高天原の最高司令神の名で地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣され、見事にその役を果たしている。武甕槌神とは、地上の国を平定する武力と権威の象徴なのである。

 我が国のほかの神々と同様に、武甕槌神もその性格として複数の要素を備えている。剣の霊というだけでなく雷神でもあり、古い土着神としての性格も備えている。「御雷」の名前の通り、神話の中でも武甕槌神を落雷としてイメージさせる話がしばしば登場する。古代人は、天から降ってくる恐ろしい雷を剣になぞらえた。稲光は鋭い剣が一閃してものを切り裂き破壊する強力なパワーだ。霊剣布都御魂剣の「フツ」は剣がものを切り裂くことを意味している。さらに、落雷はすべてを焼き尽くす火の力も持つ。そもそも武甕槌神は火の神迦具土神の血から生まれたのだから、火の霊力も持っていると見ていいだろう。
 さらに、軍神としての信仰の中には、水軍の守護神としてのものもある。これは、たぶん「常陸国風土記」香島群の条に鹿島神が船を陸と海とに自由自在に往来させた、と記してあるところからきたものと思われる。鹿島地方は陸と海の境に位置する土地である。本来、鹿島神はこの地方の海上交通の神として信仰された土着の神でもあったのだ。
 古代の常陸国といえば、中央に住む人々の感覚からすればほとんど東の果てで、それより北(東北地方)はいわば魑魅魍魎の住む暗黒の異界だった。しかも、鹿島は海と陸との境にも位置している。だから、鹿島神というのは中央から見れば境界に宿る神霊だったのである。一般に境界に宿る神霊というのは悪霊の出入りを防ぐ霊力を持つものとされ、古くから大事に祀られた。おそらく鹿島神もそうした神霊としての信仰も強かったのだろう。
 そうした悪霊を防ぐ鹿島神の姿は、民俗信仰の中にも色濃く残っている。関東や東北に分布する鹿島信仰の「鹿島(人形)流し」という神送り(人形送り)の行事などがそれで、この神送りは悪疫退散に霊験ありとされている。

 前述のように、鹿島神はもともと常総地方の土着の神であった。その地方神が、神話の中で最強の武力を象徴する武甕槌神として登場することになった背景には、大和政権の東国進出との関係がある。朝廷軍が東北地方に遠征するとき、この鹿島の地は大変重要な拠点基地であったl。そして、北へ発進する朝廷軍を守護する軍神として霊威を発揮したのが、地元の有力神である鹿島神だったのだ。
 もうひとつ、鹿島神=武甕槌神を大和政権に深く結びつけた大きな要因は、有力氏族の中臣(のちの藤原)氏の存在である。鹿島神の本拠地である常総地方は、中臣氏の祖、中臣鎌足の出生地といわれ、この地を支配する中臣氏一族はこの地方の古くからの守護神である鹿島神を深く信奉していた。そうした関係で、奈良の平城京に春日大社が創建されると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神として祀った。これによって鹿島神は一躍中央の舞台に進出し、日本の有力な神としての地位を獲得したのである。