応神天皇
オウジンテンノウ
別称:八幡神、誉田別尊(ホンダワケノミコト)、大靹和気命(オオトモノワケノミコト)、品陀和気命(ホンダワケノミコト)、八幡大菩薩性別:系譜:第十五代天皇。第十四代天皇仲哀天皇神功皇后の子神格:武神、文教の祖神神社:宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、気比神宮、筥崎宮、その他八幡宮、八幡社
 八幡さまのお祭りというと、なんとなく郷愁を誘われたりする方もいるだろう。ある程度のご年輩の方は、子供の頃八幡さまの境内で遊んだことのある人も多いだろう。それくらい、日本全国どこの町や村に行ってもである神さまであるということだ。この神さまも時代によって、人々の信仰の姿勢がだいぶ変化してきた。戦前までは武神として崇められてきたが、戦後は平和の観念が浸透するなかで、縁結びや交通安全の神といった、庶民的で親しみのあるイメージが強まっている。そんな八幡神のイメージを簡単にまとめると、次のようになる。日本に大陸文化が真っ先に入ってきた北九州に生まれ、土着のさまざまな信仰や外来の仏教を巻き込みながら、国家神へと発展し、武家の守護神となって日本の津々浦々へと浸透した強力な神さまである。
 一般に八幡神は応神天皇(誉田別尊)であるとされている。伝説的な存在であるこの応神天皇は、神功皇后が神懸かりして産んだ神の御子であるということから、王神=応神となったという。応神天皇と八幡神の結びつきを示す古い縁起として、平安後期成立の歴史書「扶桑略記」に、欽明天皇の御代に八幡神が現れた話がある。
 豊前国(大分県)宇佐郡の厩峰の麓の菱潟池のほとりにひとりの容貌奇異な鍛冶の翁が住んでいた。その翁が金色の鷹や鳩に変じるのを見た、この土地の神主で大神比義(オオガナミヨシ)という者が、翁に仕えること三年。ある日、もし神ならば私の前に姿を現してくださいと祈ると、翁は3歳の童子に姿を変えて竹の葉の上に立ち、「我は十五代の応神天皇であり、護国霊験威身神大自在王菩薩なり」と名乗ったという。
 また、応神天皇に関する伝説には、その治世において、近畿から西日本一帯の海の民、山の民をことごとく平定した優れた王として描かれている。実際の歴史上では、その活躍の時代は4世紀末にあたり、日本では鉄の文化が普及し、大和朝廷が大いに発展した時代で、朝鮮半島との交流を深め、国内では東国への進出が行われた。そうした朝廷の発展の勢い、ことに軍事的なパワーが、応神天皇=八幡神の性格に強く反映されているというのが定説になっている。

 歴史上でも八幡神の名が一般によく知られるようになってくるのは、源氏の氏神とされて、霊威も強力な武神として祀られてからである。とりわけ源氏の信仰を象徴するのが源義家だ。彼は7歳の時に岩清水八幡宮(京都府)の社前で元服し、自ら「八幡太郎義家」と名乗った。のちに義家が武士の理想像とされたのも、八幡神の威光が背景になっていたからである。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として篤く祀った。これにならって鎌倉御家人をはじめ全国各地の武士にも崇敬されるようになり、その信仰が庶民の間にも広がっていったのである。
 八幡神が関係する鎌倉時代の有名な出来事として元寇(蒙古襲来・1274)がある。元の大軍が襲ってきたとき、八幡神はその神威によって季節はずれの暴風雨を起こして敵の軍船200あまりを沈め、蒙古軍の侵略から国を護った。こうして敵国降伏の武神としての力を顕現させたことによって、いよいよ国家鎮護の神、武神としての名声を不動のものとした。
 しかしながら、後年、太平洋戦争当時、人々が信じた神風はついに吹かなかった。歴史上、神風といってもよい奇跡的な力が働いたのは、私の知る限りではこの元寇と日露戦争中の黄海海戦のみである。前者においては、執権北条時宗が、後者においては秋山真之参謀以下、一兵卒に至るまでが亡国の危機感に燃え、人としてできうる限りのことをして臨んだ結果である。無謀きわまりない侵略に終わった豊臣秀吉の朝鮮出兵や、単なる神頼みでしかなかった太平洋戦争後期においては、八幡神は一切その力を振るってはいない。つまり、人事を尽くして天命を待つという状態でなければ神の心は動かせないのであろう。

 八幡神を祀る総本社は大分県宇佐市の宇佐八幡宮である。その宇佐八幡神の発生に関しては、はっきりしたことは分からないが、もともと大分県を中心とする地方の土俗的な神々があり、それが仏教の伝来(538)以降に集合されて八幡神の姿になったものらしい。だから、その基本的な性格として、地方神であった頃の水の神、日(火)の神(鍛冶の神)、母子神といった要素を持っている。
 宇佐八幡神の威力、本来の日の神=火の神=鍛冶の神としての機能が発揮されたのは、天平勝宝元年(749)の東大寺大仏鋳造の時である。その際、「天神地祇を従えて銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて大仏を鋳造しよう」と託宣して、その事業の成功を助けた。これを機に宇佐八幡宮は、我が国の神社のなかでもいち早く仏教と結びつき、朝廷の崇敬を受けるようになり、八幡神は地方神から一躍中央に名を売りだしたわけである。
 こうして、その神威の実力を示して中央進出を果たした八幡神は、神仏習合の神として在来の神々のなかでも第一番に「菩薩」の号を奉られた。そして、平安時代から、その後の武士の時代にかけて、さらにその機能をパワーアップする。特に、そのきっかけとなったのが山城国(京都府)に平安京が作られたときに、王城鎮護のために京都の南の要衝に勧請されたことだ。それが岩清水八幡宮で、皇室の祖神、都の守護神となった八幡神は、伊勢と並ぶ重要な神社として、大いに朝廷の尊崇を受けるようになったのである。

 八幡神は、鍛冶の神のほかに水の神としての性格も持っている。一例として、八幡の紋は巴型のデザインで、これは水の渦巻き状態を象徴したものである。この巴紋は、八幡神が武士の守り神であることから武将紋ともいわれるが、一般には屋根瓦にこの紋が使われたりしている。その理由は、防火に役立つと信じられているからである。防火の信仰は、鍛冶の神=日の神という性格から発生したと考えられる。もともと水の神でもあるから火を消すという意味もあり、さらにいえば京都の岩清水八幡宮は、京の都城ができたときに京都盆地の入口である淀川沿岸の地に建立され、海(外界)からの悪霊を防ぐ役目を果たした。そういう呪術的な信仰が一般の生活にも広がり、悪霊が家に入ることを防ぐ呪いとして、屋根の四方に巴紋を配置する習俗が産まれたのである。