美人の誉れ高く、日本の代表的な海の神である宗像三女神は、福岡県の宗像大社や広島県の厳島神社の祭神としてよく知られている。
「日本書紀」には、天孫降臨の際にその道中の安全を守護するようにと天照大神から命じられたとあり、そこから海上安全、交通安全の神として信仰されるようになった。
それぞれの神名についてみてみると、「多紀理」は「田岐津」と同じ意味で、潮流が早く激しい様子。
また、市寸島比売命は「神霊を斎き(イツキ)祀る島の女性」という意味で、厳島(神社)の呼称もこの神名に由来するといわれる。
「古事記」に市寸島比売命は、「宗像の興津宮に坐す」とあるように、宗像三女神は福岡県の宗像大社の祭神である。
玄界灘に浮かぶ沖ノ島(沖津宮:オキツグウ)、大島(中津宮)、そして陸地(辺津宮:ヘツグウ)の3つの宮に祀られた神霊が、それぞれ個別の神格としてイメージされ、それで3人の女神となったものである。
海は神秘的な力を持つ。
豊かな恵みをもたらすが、その一方で荒れ狂ったときには人も船も飲み込んでしまう凶暴性を発揮する。
だから、海に生活の糧を求める古代の人々は、海に対して強い恐れと崇敬の気持ちを感じ、海を司る神霊を鎮めるために、それを祀って安全と恵みを祈願した。
宗像三女神も、そうした海の神秘的なエネルギーが神格化されたものである。
宗像三女神が大いに力を発揮し、その神威を高めたのは、朝鮮半島や中国大陸との交通が盛んに行われるようになった4世紀末頃である。
もともとは北九州地方を基盤とする海人(アマ)集団(通説では筑紫国の海人族、宗像君とされる)の信仰する海の神だった。
要するに、各地の海に生きる人々が祀る海の神と同様に、一地方神にすぎなかったわけである。
ところが、大陸との交流が盛んになるなかで、その存在が非常に重視されるようになった。
九州と朝鮮半島の間にある玄界灘は、名にし負う荒海である。
ここを無事に航海することが船乗りの一番の関心事だった。
そのため人々は、大陸との交流の海の道にあたる島々に宗像三女神を祀って航海の安全を守護してもらうことを願った。
それを伝えるのが宗像大社の沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮である。
特に沖ノ島は”海の正倉院”とも呼ばれるほど、祭祀遺物が出土し、古代日本の祭祀の様子を知る貴重な文化遺産になっている。
こうした祭祀を行ったのは、当時の大和政権である。
つまり、強大な権力と結びつくことによって、航海の守護神としての宗像三女神は有力な神の座を獲得したのである。
一説に、もともと宗像三女神を信奉していた宗像君一族は、外洋航路型・海外志向型の海人族だったといわれる。
実際、この神は海外航路の守護神として力を発揮したわけで、そういうことからイメージを膨らませれば、”国際交流の守り神”といった性格も持っているといえよう。
宗像三女神のうちでも、ことに際立つ美人のイメージが定着しているのが市寸島比売命である。
実際、宗像三女神のなかでも一番人気があり、この神だけを祀る神社も数多くある。
人気の要因のひとつは、のちに神仏習合の本地垂迹の考え方によって弁天様と同神として崇められるようになったことだ。弁天様というのは、七福神の1神の弁財天のことで、もともとはインドのヒンズー教の川の神ブラフマン(梵天)の配偶神とも娘神であるともいわれ、財宝の神、美の神、また琵琶を持った像でも知られるように芸能の神とされる。
日本に入ってからは民間信仰との習合によって、水の神、農業神としても崇められるようになった。
市寸島比売命が弁財天と習合した結果、神仏混合の時代には宗像大社や厳島神社から全国各地に分祀されていた宗像三女神は、その多くが弁財天を本尊とするものに変わってしまった。
江戸時代になって七福神などがもてはやされるようになると、宗像三女神はすっかり影がうすくなったといっていい。
その後、明治の神仏分離で、祭神として復活した神社もあるが、弁財天のまま今日に至っているものも多い。
まあ、どちらの名前であろうと御利益は同じである。
弁財天としての市寸島比売命は、知恵、財福、戦勝、子孫繁栄の他、音楽、技芸、弁舌など芸能に関する神威を発揮するなかなかめでたい神といえる。
なお、姉神の奥津島比売命は、のちに大国主命と結婚し阿遅鋤高日子根神を生んでいる。