気比神
ケヒノカミ
別称:御食津神(ミケツノカミ)、伊奢沙和気神(イザサワケノカミ)性別:?系譜:敦賀(福井県)の産土神神格:風の神、海の神、穀物神神社:気比神宮、剣神社
 気比神を祀る福井県敦賀市の気比神宮は、日本海の敦賀湾に向かって建てられていて、いかにも海の神を祀る神社という感じである。 敦賀湾は古来、日本海の良港として知られ、京都に運ばれる物資などは、その多くがここに集積された。 そうした重要な港湾を守る神でもある気比神は、古くから航海の守り神、漁業の神として信仰されてきた。 また、別称で御食津神とも呼ばれるように、気比神はまた食物神であり、農業を守護する風の神でもあった。 さらに、別称の伊奢沙和気神という神名の由来については、神功皇后の息子の応神天皇が敦賀を訪れたときに、そこに祀られていた気比大神と名前を交換し、応神天皇はもとの伊奢沙和気という名前から誉田別(ホンダワケ)に、気比大神は誉田別から伊奢沙和気大神になったという。
 古くから航海の神が祀られた敦賀港は、その神を信奉する航海民を通じて朝鮮半島との交流があったとも考えられている。 当然、半島から渡ってきた人々もいた。 そうした渡来系の人々は、彼らの信奉する神をこの地に祀り、やがて土着の神と一体化していった。 もともとが土着の神といわれる気比神にはよく分からない部分も多いが、渡来系民俗の信仰する神の性格がそこに含まれているのではないかということも、そうした謎のひとつである。
 土着神であった気比神の信仰の歴史のなかで、画期的な出来事だったと思われるのが、神功皇后が三韓遠征ののち、息子の誉田別尊をはじめ群臣を従えて気比神宮に参拝したことである。 たぶん気比神が航海の神としての神威を発揮して遠征軍の海路を守護したことに対するお礼のための参拝だったのだろう。 これを期に、その後も遣唐使の盛んな時代には、朝廷が幣帛(ヘイハク=神への供え物)を捧げ、遣唐船の航海の無事を祈願するようになったのである。 このように気比神は、朝廷からも厚く崇敬されることによって、日本の神々のなかでも重要な位置を占めたのである。

 気比神にはもうひとつ、風の神という顔がある。 気比神といえば、古くから大和(奈良県)の龍田神社や広瀬神社の風神と並び、北陸、敦賀地方の有力な風神として知られてきた。 風の神は、海に生きる航海民にとっても重要な神であるが、同時に農耕民にとっては、作物を冷害から守るために大事に祀らなければならない神だった。 だから、日本では古くから太陽、月、雷などの自然現象の神霊と共に、農民の間で強く意識された神霊のひとつだった。
 「古事記」に「御食津神は、気比神なり」とある。 御食津神というのは、穀物霊で、宇迦之御魂神保食神と同じ性格を持った食物神のことである。 前期のように風の神はすなわち農業の神であり、作物を実らせて食物を保証する神でもあったのだ。 信濃国()諏訪神はじめ、風の神を祀る神社は各地にあるが、悪気を帯びた風は作物の成長に害を与える。 北陸海岸では、冷たい北風が海から陸に吹き付けると、農作物が大きな影響を受けた。 そのため、人々は海岸に風の神を祀って、風に乗って悪霊が内陸に入り込むのを防いでもらおうと願ったのである。
 以上のように、気比神というのは海の神であると同時に農業の神としてその神威を発揮することによって、いまも多くの人々の信仰を集めているのである。