我が国の女神は、御子神を生み出す母神としての性格を色濃く持ったものが多い。
その中でもとりわけ神功皇后は、”神の子を産む聖母”として代表的な存在であり、息子の応神天皇と一緒に神として祀られ、母子神信仰と深く結びついているところに大きな特徴がある。
母子神信仰とは、霊力の高い女性(巫女)が、処女受胎して神の子を産むという考え方に基づく信仰である。
こういった信仰は世界各地にあり、もっとも有名なのがキリスト教の聖母マリアとその子のイエス・キリストであろう。
記紀神話では、はじめ応神天皇の父は仲哀天皇とされている。
ところが段々と仲哀天皇の存在感は消えていき、やがて神功皇后が処女懐胎によって応神天皇を産んだ聖母伝説というイメージに変わっていく。
それは神功皇后の一種の異常出産の話に象徴されている。
神の子というのは、だいたいにおいて人間並みの尋常な経過をたどって生まれてくることはない。
神功皇后の場合、それは「鎮懐石伝承」として語られている。
伝承では、新羅遠征中におなかの子が産まれそうになったため、皇后は卵形の美しい石を2個、腰のところにつけて呪いとし、出産を送らせることを願った。
そうして筑紫国に凱旋してから無事に出産したとある。
要するに、呪術的方法で出産をコントロールしたわけであるが、これによって妊娠から出産まで15カ月もかかっている。
この異常さは神の力を示すもので、すなわち生まれてくるのが神の子であることを暗示しているのである。
このように、神の子を産むということから、神功皇后は玉依姫命とも共通する性格を持っているといわれ、実際に古い記録には神功皇后を「玉依姫」と記しているものもある。
玉依姫は、日本に古くからあった母神信仰を背景に持つとされているが、神功皇后の聖母神的性格も同様で、そのベースには九州地方に広がっていた土俗的な母子神信仰があるという説が有力である。
たとえば、北九州あたりでは「神母(ジンモ)」とか「聖母(ショウモ)」という母神が崇拝されていたという。
この母神は豊穣をもたらす大地母神の性格も持っている。
そうした九州の地に皇后伝説の伝承地が数多く残り、各地に皇后を聖母神として祀る神社が多いことは、神功皇后と古い母神信仰との強い結びつきをうかがわせるものである。
神功皇后については、「古事記」では仲哀紀、「日本書紀」では神功皇后紀のなかで、いわゆる「神功皇后伝説」として詳しく物語られている。
そこから浮かび上がってくる皇后の姿とは、朝鮮半島に遠征し新羅を征討した英雄的支配者、神秘的霊威力を示す巫女といったものである。
夫の仲哀天皇が九州南部に住む朝廷に反抗的な豪族、熊曾族を征討しようとしたとき、神功皇后が神懸かりして占うと、神は「西方に金銀財宝の豊かな国がある。それを服属させて与えよう」と託宣した。
ところが仲哀天皇は、託宣を信じずに熊曾を攻撃してしまい、神の怒りにふれて急死する。
天皇を葬ったあとに神功皇后が再び神意を問うと、「この国は皇后の御腹に宿る御子が治めるべし」という託宣があった。
さらに託宣する神の名を問うと、「神託は天照大神の意志であり、それを伝えることを命じられた住吉の三前大神である」と答えた。
こうして神意に従って皇后は、住吉三神を守り神として軍船を整えて新羅の国に遠征し、これを平定するという大事業を成し遂げる(三韓征討伝承)。
その後、大和に戻った皇后は、仲哀天皇の他の2人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて自ら摂政を行った。
以上のように、伝説には皇后の神懸かりをはじめ、さまざまな呪術的行為を行う様子が描かれている。
ここでは神功皇后は、神懸かりする神主としての機能を果たしているのだ。
神主とは、神の言葉を取り次ぐ者のことで、祭政一致の古代国家にあっては女性が神主となっていた。
その代表格が卑弥呼であり、そこから神功皇后は卑弥呼のイメージと重ね合わせられたりする。
そうした女傑が、神意を具現するために生みをはじめ多くの神霊の守護を受けながら大いに功績をあげるという伝説は、なかなかロマンチックであり、何よりも男に勝る女傑のパワーは印象的だ。
なお、今日では本来の聖母神としての信仰が厚い神功皇后であるが、戦前には伝説に語られる武力的なパワーが朝鮮侵略、占領という軍国主義政策を支える役割を果たしたということも、神功皇后にまつわる歴史的な事実として記憶しておくことが大事だろう。