櫛名田姫神は、日本神話の中でもことに有名な怪物退治の英雄譚を彩る美しいヒロインである。
「日本書紀」では、奇稲田媛とも書かれている。
「奇(クシ)」はものをたたえる意味の美称で、それが「稲田」にかかることによって、稲穂がよく実った美しい田を表している。
美田はすなわち稲の豊穣に通じるものである。
素盞鳴尊の八岐大蛇退治の神話に登場する櫛名田姫神は、出雲国の簸川(ヒノカワ=島根県の斐伊川)の上流に住む足名椎、手名椎という老夫婦の8番目の娘であった。
このあたりの詳細は八岐大蛇退治で述べたので省略する。
この事件のあとに素盞鳴尊の妻となった櫛名田姫神は、大国主命へと続く国津神の家系を作ってゆく。
櫛名田姫神は、立派に実った稲田を象徴する神である。
一方、櫛名田姫神が生贄になりそうになった八岐大蛇は、もともと怪物、悪神といった存在ではなく、蛇体の水神、つまりは農耕神であったと考えられている。
古来、龍蛇は水神の化身であるとされてきたもので、水神は稲田にあっては田の神とも呼ばれる。
昔から、農民は豊作を願う神祭りにおいて水神つまり蛇神を祀った。
その儀式において祭司をつとめ、儀礼のひとつとして神の妻となる巫女がいたと考えられる。
そうした巫女からイメージされたのが櫛名田姫神だった。
また、櫛名田姫神を養育する老夫婦の足名椎、手名椎も、やはり稲田と関係する存在である。
その名前のナヅは「撫でる」、チは「霊」の意味であり、稲田の霊を撫育するというふうに理解することができる。
これもまた農耕儀礼において神を祀るものの役割をうかがわせる。
おそらく足名椎、手名椎の原像は、出雲の地で古くから行われていた稲の神を祀る祭司の姿であり、それが神話に取り入れられたものと考えられる。
また、八岐大蛇を稲田に祟りをなす水神と見ると、素盞鳴尊の助力を得てこれを滅ぼし、克服した稲田の神、櫛名田姫神の姿は、当時の水害に対する恐れと共にそれを克服する願望、または実際になんらかの技術的進歩によって実際に克服したのではないかという事実がうかがえる。
櫛名田姫神は、そもそも稲田の守護神であるが、実際に櫛名田姫神が祀られている神社の神徳を見ると、農業神としてのイメージがいささか薄いように思える。
それはなぜかと考えてみると、多くの場合この神は、夫神の素盞鳴尊や御子神の大国主命と一緒に祀られる場合が多いことに気づく。
この二神はどちらも八百万の神々の中でもスーパーヒーローともいわれる存在である。
それ故に女神の櫛名田姫神は、祭神として妻、母的なイメージが強調されることになった。
それで本来の稲田の神、農業神というより、縁結び、夫婦和合といった神徳が中心になってきたのではないかというふうに思える。