別名の「天照」の字から天照大神の名を連想するように、この神は太陽を神格化したものと考えられる。
太陽信仰は原始時代から各地にあったもので、古代においても天照大神が高天原の最高神に祀られる以前は各地の有力氏族がそれぞれ独自の太陽神を崇拝していた。
そのころの神々は、特別な名前もなく氏族の祖神、氏神として素朴に祀られていた。
天火明神もそうした太陽神のひとつであったが、その中でも有力な存在であったことから記紀神話に独自の神として登場したと考えられる。
そこから、天照大神の原型だったのではないかという推測も生まれているのだ。
そういう推測はともかくとして、とりあえずはっきりしていることは、天火明神を祖神として信奉していたのが古代の中部地方に勢力を張っていた尾張氏である。
この神の気性の激しさや強力なパワーは、太陽のエネルギーに他ならない。
だから、尾張一族の人々はそうした日の神の霊威を崇め、開拓の神、農業の守護神として信仰していたのである。
素盞鳴尊に代表されるように、若いときに乱暴者だった神というのはその後の変身によってなかなか味のある魅力的な存在となるようだ。
天火明神もそういう面をもっている。
兵庫県地方の古代の伝承を記した「播磨国風土記」に描かれているこの神の姿をみると、もともとは異常に気性が激しく暴力的だった。
昔、大己貴命(オオナムチノミコト(播磨国風土記では父神となっている))が、息子の天火明神と一緒に旅をしていたとき、息子の気性の剛直さに心を痛め、仕方なくだまして置き去りにしようとした。
息子を水汲みにやり、その間に船を出したのである。
やがて戻った息子は、去っていく船を見てだまされたことを知り、大いに激怒した。
すぐさまものすごい風と波を起こして船を追いかけさせ、たちまち父親の乗る船を破壊し沈没させてしまった。
ここに描かれた天火明神の怒りのパワーは、なんとも凄まじいものである。
これだけのパワーを発揮するのだから、相当な霊力を秘めている存在だということがうかがえる。
しかし、記紀神話では、天孫という系譜が知れるだけで、その一方では海幸彦、山幸彦と兄弟とされたり、饒速日尊と同一と見られたり、なにかと謎の多い神でもある。
とはいえ、その本来の姿は、農業を守護するエネルギッシュな日の神であることは確かだ。