柿本人麿
カキモトノヒトマロ
別称:人麻呂、人丸とも書く性別:系譜:持統・文武の2代の天皇(687〜706)に仕えた宮廷歌人神格:歌聖、歌神神社:柿本神社
 柿本人麿が和歌の神さまであることは一般にもよく知られているところであるが、神さまとしての人麿は和歌の神としての他にもさまざまな守護神として信仰されている。 たとえば、火伏せの神、安産の神、農業の神、風波の神、あるいは眼疾の神や紙の製法を伝えた神などである。
 そもそもが歌人なのに、どうしてそうしたいろいろな信仰が生まれたのかという疑問は当然わいてくる。 それについては、たとえば防火の神や安産の神というのは、名前のヒトマルという読みが、「火、止まる」「人、生まる」という語呂合わせによって信仰に結びついたのだと考えられたりしている。 いささか安易に思えるが、今日だって語呂合わせによって幸運を求めようとする傾向はあるのだから、それが信仰に発展しても不思議はない。 それも、古来から歌人として人気のある人麿が人々に信仰されていたという背景があってのことである。 むしろ、わたしとしては日本の神さまのこのような柔軟さ、いい加減さは嫌いではない。 村にひとつだけある神社に祀られているのが海の神だからといって、その神に無病息災、家内安全を祈ってもいいではないか。 そういう意味で民衆に親しまれ、頼られてきたことを考えると、太陽神としての不動の位置を占める天照大神よりも好感が持てるというものだ。
 こうした人麿に対する信仰は、一説には御霊信仰との習合によって生まれたともいわれる。 日本人は、古くから死霊や霊魂といったものへの恐れを感じ、それを神として祀ることによって守護霊へと転化させてきた。 御霊信仰は、恨みを残して死んだ者の霊魂が生きた者に祟りをなすという恐れから発生したものである。 人麿も都から地方へと転属させられ、そのまま戻ることがかなわずに死ぬという、いわば御霊としての資格を備えている。 そういうどこか悲劇的な雰囲気を思わせる部分は、天神様の菅原道真と重なっている。 しかも、どちらも当代きっての文化人で、のちの世の人々には非常に人気がある。 そういう人気者の神霊にさまざまな願い事を託すというのは、心情的にも理解できる。 これは、「人間から神へと昇格した」神さまに共通して言えることでもある。

 柿本人麿は、山部赤人と並ぶ万葉の代表的な歌人で、「万葉集」には長歌16首、短歌61首が収録されている。 人麿の出身は大豪族春日氏の傍流の柿本氏であることははっきりしているが、生没年や官歴などに関しては不明な部分が多い。 おそらく早くから歌の才能は周囲に認められるほどだったのだろう。 その才を認められて宮廷に出仕し、持統、文武両天皇に仕えて宮廷歌人として活躍した。 しかし、その主な作品が作られているのは、持統3年から文武4年(689〜700)の間わずか11年ほどに限られている。 その内容も皇子、皇女の死を題材にした挽歌、天皇の行幸の供をしたときの歌など、宮廷歌人としての姿がうかがえる。 この間は、人麿にとってはもっとも華々しい時代だったろうが、その身分は従六位以下という決して高くはないものであったようだ。 だから、のちに石見国(島根県益田市)に配属されるときも、下級官吏として中央から地方へ飛ばされたようなものだった。 この以前にも四国や九州にも遣わされた記録がある。 そして、最後に人麿は石見の地でその生涯を終えたのである。
 人麿の人物像については謎が多いといったが、「万葉集」が編まれた時代からすでに一種の伝説的な人物になっていたらしい。 その伝説的な要素は、平安時代末期以降に「古今和歌集」で「歌仙(ウタヒジリ)」と祀りあげられることで神格化され、歌道家や歌を志す人々によって歌聖、歌神として仰がれるようになったのである。