セカンドインパクト以来、夏以外の季節を忘れた日本列島。
第三使徒襲来から数え三度目の春が、少なくとも暦の上では第三新東京市にも訪れようとしていた。ネルフはあの時と同じように国連直属の非公開組織としてこの都市で活動し続けた。同じように使徒が繰り返し第三新東京市に襲来しているという事実がその存在理由だった。
第三使徒から第六拾七使徒まで、ネルフはほぼ独力でこれらを撃退してきた。
本部侵入を許したのは第拾壱使徒、第拾四使徒、第拾七使徒、第拾八使徒、そして第四拾伍使徒の五つのケース。しかしいずれも使徒の無力化に成功している。そして殲滅を確認し得なかったのは第拾八使徒のみである。
いつ果てるとも知れぬ人と使徒との戦いにおいて少なくとも無敗であり続けているネルフをどう評価するかは、その人間に与えられた情報によって異なった。
ネルフの存在すら知らされない市民にとっては評価以前の問題であった。彼らにとって使徒とは天災の一つ、行政機関はそれに対処して当然。
使徒との戦いにおいて幾度か協同戦線を張った戦略自衛隊にとっては、得体の知れぬオーバーテクノロジーを持ち独断専行に傾きがちな、危険な友人。
国連にとっては厄介事を処理してくれ、しかも資金は日本持ちというありがたい組織。ネルフの上部組織ゼーレが第拾七使徒によって事実上壊滅させられた直後は、ゼーレを離れたネルフに危機感を抱くむきもあったが、繰り返し迫り来る使徒とそれに人型兵器エヴァンゲリオンでもって対抗し続けるネルフを頼らざるをえないのも事実であった。
ではネルフ内部の人間にとっては、これまでのネルフの無敗の戦績がチルドレンと呼称されるエヴァンゲリオン搭乗可能な少年少女という実に危ういファクターに負っているという事実を知る者にとってはどうか。
第三新東京市地下ジオフロント内にあるネルフ本部。人類の砦。
その中を司令執務室へと向かう作戦部長の葛城ミサト三佐にとっては、自らが所属するネルフを人類を滅亡から救う十字軍と考えられずにいた。
その理由の一端は並んで歩く人物の進めようとする計画にあった。
「アレは最初っからさあ、怪しいって思ってたんだけどね」
一応制服ではある革のタイトスカートに赤のジャケット。トップモデル並みのプロポーションを制服臭さを感じさせない着こなしで包んだミサトが大袈裟に首を傾げるジェスチュアをした拍子に自慢の胸をたっぷり隠すほどの長い髪が揺れる。
「あれって」並んで歩く白衣の女性は手にしたクリップボードから視線を外さずに相槌を打つ。
「結局は六十七番目だったとゆーナインスチルドレン」
「また蒸し返す気?」
「尻拭いさせられた身にもなんなさいよ」
「槙タカオの感染に関しては技術部としても手落ちがあったことは認めます。だから一応聞いてあげる。ミサトが怪しんだという理由は何、また女の勘じゃなくて」
白衣の女性もまたネルフの構成員だった。ショートに揃えた金髪だがそれが染めた色であることは黒い眉毛からわかる。細いフレームの眼鏡の下、左の目許の泣き黒子は切れ長の目から怜悧な印象を与える彼女の表情をいくぶん和らげていた。
「あの子、目つきが悪かった」
「あんたねえ」
「冗談冗談。ノリ悪いわよ、厄年おんな」
三本指を立てた手をひらひらと振るミサトに白衣の女性は苦笑いしながら切り返す。
「あなたは来年」
親友同士でなければ言及できない点ではある。
激務に災いされてか仲良く二人揃って三十代未婚女性。指摘されてうれしくなる年齢は二人とも通りこした。
そんな彼女たちの双肩にかかるものは大きい。
ある部屋の前で立ち止まる。
エイスチルドレン、ナインスチルドレンと二人続いて使徒であったという事実の前に、ネルフはエヴァンゲリオン操縦要員確保のために新たな手段をとらざるをえなくなっていた。そのために二人は出頭するように命じられた本部の深奥へと歩いてきたのだった。
「赤木リツコ、葛城ミサト両名、参りました」
眼鏡を外したリツコは司令執務室と書かれた扉をくぐった。その後を先程までの冗談をいっていた時とはうって変わって険しい顔のミサトが続いた。
白い空間。午後の日差しがただでさえ白い病室をさらに漂白するように充たしている。部屋に入った少年は舌打ちしながら窓辺のカーテンをまとめる紐をほどいた。
「アスカ、気分はどう」
病室のカーテンをずらしながら少年は話し掛けた。この病室に見舞う亜麻色の髪の少女と出会ってから、少年は十センチ以上は背丈が伸びた。しかしどこかしら腺病質的な印象を与える外見は、当時の彼を知るものがいれば変わらないというはずである。
直射日光が病室の主の寝顔に当たらない程度にカーテンを加減すると、少年はサイドボードの花瓶と携えてきた花を手に病室を出た。
惣流・アスカ・ラングレーは眠り続けていた。
身体的に異常は無いにもかかわらず、第拾八使徒と接触して以来、眠り続けて三年目になっていた。可能な限りこの病室を訪れては花瓶の水を替え、髪が乱れていれば梳いてやり、そして物言わぬ眠り姫に話し掛ける少年の行為も三年目になっていた。
正体は第拾七使徒であったフィフスチルドレン、渚カヲル。
正体は第拾八使徒であったシックススチルドレン、山岸マユミ。
彼らのためにファーストチルドレン、綾波レイは一度その命を絶たれ、彼らのためにセカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーは未だ眠り続けていた。
そして一時の間であったにしろ彼らに好意を抱いた少年は、こうして自分が生きのびていることに心のどこかで素直に喜べずにいた。それがサードチルドレン、碇シンジであるこの少年に病室へ足を運ばせ続け、エヴァンゲリオンのパイロットであり続けさせていた。
「どう、アスカ」
静かにドアを閉めるとシンジは眠り続ける少女に向かって抱えた花瓶をかざす。
「ちょっときつかったかな」
サイドボードに花瓶を置き、さした二本の赤いチューリップを嗅いで、彼は少し顔をしかめた。
「でもクレゾールみたいな匂いよりいいよね。それにこの色がアスカに似合うかなって、そう思って」
眠る少女と言葉を止めない少年。
「マナもそういってくれたし」
穏やかな寝顔を見つめながらシンジは喋る。
「昨日はね、こんなことがあったんだ……」
だが機械のように前回見舞いに訪れてからの出来事を喋るシンジの瞳は何も見てはいなかった。
カードキーをスロットに通してドアを開ける。明かりをつけようと壁のスイッチを探る。
「ただいま」
無人の部屋に言葉を投げる。葛城ミサトのマンションに少なくともたった今入ってきたシンジ以外には一人もいない。シンジの他は二羽である。
くぇっ、くぇっ。
ちっ、ちっ。
「わかった、わかった。僕もお腹空いたしね」
キッチンに入ったシンジは畳まれた段ボールを見て軽く溜め息をつく。
(これじゃあ今日も荷造りできないかな……)
時計を見ると十時を回っていた。世帯主葛城ミサトは今夜は本部に泊まる。こういう日に居候のシンジは自分の引っ越しの準備を進めておきたかった。ミサトの目の前でやるとみるみる彼女が落ち込むのがわかるからだ。しかし今日はシンジも疲れていた。日付が変わってまで起きていられる自信がなかった。
(まあ、あとは小物だし)
自分に言い訳をつけると遅い夕食の準備。簡単に、ただし食べざかりの高校生が満足するくらいのそれなりの量の食事を用意する。
「ほら、ペンペン」
食卓につく温泉ペンギンにはコロッケの半切れとドレッシングのかかっていないキャベツを取り分けてやる。だが羽根をばたつかせて、くぇっ、くぇっと鳴かれる。
「委員長も甘やかせすぎたよ」
一時期このペンギンの世話をやってくれた中学の同級生のことがふとシンジの頭を過る。苦笑しつつ自分の皿からペンギンにコロッケをもう半切れ。
「はい、カヲル君」
そして窓辺の籠の中にいるシジュウカラには小皿の水と固めの米飯をひとつまみ与える。ちちちっとさえずるからと普段は無難にチーちゃんだが、ミサトがいない時はターミナルドグマで拾ったこの鳥をシンジはカヲルと呼んでいた。
「いただきます」
ミサトのいない食卓ではシンジはいつも儀式のように二羽に向かって喋る。
「今日はね、こんなことがあったんだ……」
「次善の策として、ですね。あくまで」
ミサトは声に非難の色をにじませた。
彼女はネルフにあっては作戦部部長の要職にある。しかしこの部屋にいる四人の中で比べれば実際の権限が最も小さい人物でもある。
正面には執務机の上で腕を組んだまま無言のネルフ総司令、碇ゲンドウ。その傍らに立つ痩身の初老の男、副司令の冬月コウゾウ。少し離れて椅子に座っている白衣の女性はネルフ技術部部長の赤木リツコ。
ミサトに許されているのは活動状態にある人型兵器エヴァンゲリオン、すなわち初号機、六号機、拾号機の運用と、それに伴い現場で必要な数十の超法規的措置だけである。
だが残りの三人は違う。
「これまで通りチルドレン選出には努力してくださいますね」
「ああ」
ゲンドウは詰め寄るミサトにいつもの彼らしく最小限の言葉で答えた。
「そういうことであれば無理には反対しません」
ネルフ総司令の碇ゲンドウに楯突き通せるはずもなかった。それでもミサトにしてはあっさりと折れたものねとリツコは少々驚いた。ゲンドウの傍らに立つ冬月も意外そうな表情だった。
「ですがあくまで補助としてです。所詮はダミーです。複雑な戦闘行動が取れない以上、限定された局面での補助兵力としてしか運用は出来ません。八号機、九号機の轍は踏めませんから」
最後の言葉をいう時、ミサトはちらとリツコの方を見やった。即座に射るような視線がリツコから戻って来るがミサトは怯まない。
「チルドレンのコントロールにあるエヴァ。使徒に対抗できかつ信頼に足る兵器は現状これ以外にありません。これは作戦部の総意でもあります」
「いいだろう」とゲンドウ。
依然、厳しい視線をゲンドウに注ぐミサト。
(これでミサトは言質を取ったつもりだろうか。だとすれば甘い。このひとは……)
リツコはミサトから顎鬚と赤い眼鏡の奥に表情を隠す上司、そして愛人でもあるゲンドウに視線を戻した。
(このひとならミサトの想像する最悪のケースにも眉すら動かさない)
(そして私はこのひとについてゆく……)
「赤木君、進めてくれたまえ」ゲンドウが断じた。
「はい」
これでダミープラントは新たな段階に入ることとなった。予算は後からついてくる。
立ち上がったリツコはミサトの拳に気付き彼女の肩をそっと叩く。
「行きましょ、ミサト」
部屋を出た途端、ミサトは廊下の壁に拳を力任せに叩きつけるというリツコの思った通りの行動に出た。もっとも今いたばかりの部屋とは反対の壁を叩くだけの分別はあったが。
「何も問題はないわ」
「リツコ、あんた司令に似てきたんじゃない」
刺をあらわにいう口調だった。長い付き合いとはいえお互いの男女関係に踏み入ればさすがに角が立つものだ。
取り合わず歩きだすリツコ。その後をわざとらしい足音を立てて続くミサト。
「人は変わるものよ」振り返らずにリツコはいった。
「それって望んだ変化なわけ」ミサトは吐き捨てるような物言い。
「適応といった方がいいかしら」
「流されてるだけってんじゃないの」
「トランジスタシス」
「言葉遊びは止めなさいよっ」
語気を強めたミサトに対しリツコがようやく振り返る。
「既にサードチルドレンは了承済み」
「……!」
「だから問題はないわ」
立ち去るリツコの背後でもう一度拳が壁を打つ音がした。
寝入りばなの自己主張を止めない電話のベルに、シンジは目をこすりながら受話器を取った。相手はセブンスチルドレン霧島マナ。用件は明日は暇かということ、つまりデート。
「ああ、いいよ」
承諾すると電話の向こうではしゃぐマナには悪いとは思ったが彼は早々に受話器を置いた。髄液の採取をされたせいか、サードチルドレン碇シンジはひどく疲れていた。彼はその晩は夢も見ずに寝た。
バスケットを片手に下げた栗色のショートカットに麦藁帽子の少女が空いている手を振ってかけよる。空色のノースリーブのワンピースが雨上がりのそよ風に軽やかに舞った。
マナにはこんな夏らしい装いが似合う、シンジはそう思っている。そういう自分には何が似合うかピンとこずにいるのでとりあえずジーンズに薄緑色のポロシャツ。
周囲にはデートの服装で相談できる人間はいなかった。シンジも身分は高校生とはいえ、第三新東京市に学校そのものが存在しないのだから、同級生にたずねるということは出来ない。いきおい同年代の人間といえばエヴァンゲリオン搭乗員たるチルドレンしかいない。つまり綾波レイと霧島マナの二人だけ。
「シンジぃーい、おっはよーお」
「おはよ、マナ」
シンジは軽く手を上げてマナに会釈した。かけよるマナのスピードは緩まない。
(ってまさか抱きつくつもり……)
一歩ひきかけたシンジの首根っこには彼の予想通り跳びついたマナの腕が回った。
「シンジ、おはよっ。待った?」
爪先立ちで頬ずりせんばかりのマナの手をほどくと、シンジは笑って十時二十五分を示している腕時計を見せた。
「五分前だよ」
「でもさ私さこの間みたいに待たせちゃシンジに悪いと思って三十分は余裕もって出ようってつもりでいたんだよもぉこういう日に限って二度寝しちゃうしなっかなか髪決まんないし服だって」
マナの言葉がぱたりと止まる。シンジがマナの前髪を指で流したからだ。
「似合ってる」
「えっ」
「似合ってるよ」
頭半分シンジより背の低いマナは赤くなった頬だけでなく赤くなった額も一緒にシンジに見せるかっこうになった。
「行こ」
「う、うん」
顔を真っ赤にしながらもマナはシンジの左腕をとり自分の右腕と絡ませて歩いた。
シンジは右手にマナのバスケットを持って、左手にはひんやりした腕と熱い掌を感じながら、人通りのない街を歩いた。
「だけどホンットなあんにも無いんだね、ここって」
少女がセブンスチルドレンとしてネルフにやって来てから変わらない愚痴をこぼした。
「そうだね、ここは」
対使徒迎撃要塞都市、第三新東京市。
この街に来てミサトに高台からこの街が要塞であることを見せられた頃に比べても、変化はあった。その変化をシンジは当事者として見続けて来た。
「修理するより壊される方が速いから」
使徒が来る度、エヴァンゲリオンが出撃する度に街が要塞にシフトしていった。三年前は少ないながらも存在した猥雑な通りや歓楽街はほとんど消えた。就学児童の疎開は完了し学校も全て閉鎖された。街は清潔な兵装ビルのスペースで埋められていった。縦横にリニアチューブが走り、センサの網が覆った。
エヴァンゲリオンにとっては心地好い街になった。
「でもさ、気のきいた店なんていわないケドさ、カラオケくらいあっても」
そういう街に来てまだ四ヶ月。十六才のマナにとってはいささか納得がいかない。
「そうかも」
「でしょでしょ。だからさあ、せっかく休みになったって」
「ピクニックじゃ、つまらない?」
シンジに首を傾げて見つめられ、マナはぶんぶんと首を横に振る。
「ううん、そんなことない」
「なら」微笑を作るとシンジは目を細めて太陽を見上げた。
「晴れてよかった」
「うんっ」
屈託なく笑うマナには上を向いたシンジの目は見えなかった。
郊外というよりは市の外れの調整緑地。そこにある小高い丘は一方はえぐられたように土をさらしているが二人は苦労して木陰を探した。ビニールシートは一応敷いたが、朝方は雨であったにもかかわらず既にほとんど地面に湿り気はない。
焼けつくような日差し、遠景にはビルのかげろうが揺らめいていた。
周りには、少なくとも目につく所には黒服連中はいない。
目の前には胸の前で手を握って不安げなマナの顔。
「ど、どうかな」
マナの視線をこそばゆく横顔に感じながらもシートの上にしゃがんだシンジは切り分けられたサンドイッチを口に含む。
「頑張ったんだけど、その」
無言で咀嚼し続けるシンジにマナの視線が急に弱々しくなる。
「やっぱり……だめかな……鰺サンドって……」
答える代わりにシンジはサンドイッチをつまんでいない方の手の親指と人差し指でマルを作って見せる。マナの顔にぱっと笑みが広がった。
「わっ、やったあ」
「前に僕が作ったのよりもおいしいよ。今度からはマナに頼もうか」
「えっ、」
「だめ?」
「ううんっ、ぜんっぜんそんなコトない。むわぁかして」
胸を張っていうマナに苦笑しながらシンジは、ありがとうといって、そのまま背中をシートに投げ出し寝そべった。
「この前どこまで話したっけ」日差しの強さに薄目になったシンジが、横で両足を伸ばして座っているマナに問う。すると少しトーンの下がった声が返って来た。
「んーと、四十二番目までかな」
「じゃあ今日は第四拾壱使徒。よく覚えてるよ。E型でね……」
シンジが言葉を濁した。
「たしか、綾波さんが、その」
マナが促す。
「綾波は伍号機だった」
「その、こっ、交代したんだよね」
「交代か、うまいこというね。事実はこう。僕が守れなくて、伍号機は真二つ、綾波が死んで、僕は助かって、綾波が生まれた。今の綾波は五人目の綾波」
「シンジのせいだってわけじゃ……」
麦藁帽子の影がさした。
マナが上からシンジの顔を覗きこんでいた。逆光、マナの頬の滑らかな輪郭、輝く空。
「僕が守らないと綾波は僕を守って死ぬ」
シンジはマナに聞かせてやった。
第四拾壱使徒発見を報じた巡視艇がその直後消息を絶ったこと。自分が乗る初号機とレイの乗る伍号機が輸送機に吊下げられて無人の八丈島に迎撃に向かったこと。使徒の超振動攻撃が島の形を変えてしまったこと。初号機が土石流に身動きがとれなくなった時、伍号機が単独で使徒に攻撃を掛けたこと。伍号機が切り裂かれたときそのエントリープラグが射出されなかったこと。
綾波レイが死んだこと。綾波レイが生まれたこと。
麦藁帽子の影が揺れた。
まぶしい青色の空に浮かぶ白い断雲がシンジの目にとまった。
青みがかった銀髪、透き通るような白い肌。
流れる雲の一片がシンジにレイの後ろ姿を連想させた。
シンジの知っている綾波レイが、シンジの知っていた三人の綾波レイたちが、ストックされ水槽に浮かぶ何体もの綾波レイのいれものたちが青空を流れていくような気がした時、シンジは泣けるかなと思った。
「綾波はね、自分のことを知ってるんだ」
──私が死んでもかわりはいるもの──
「だから迷いが無い」
──下がって、碇君──
「僕がすくみ上がっている時も」
──あなたは死なないわ──
「綾波は狙いを外したりしない」
──私が守るもの──
「いつも冷静で、はやまらないし、ためらわないし」
──これが私の歌──
「そんな綾波が、僕は」
こわいんだよ、といいかけてシンジは手の甲で目を覆った。
「もういいよ、シンジ。無理に話してくれなくても」
「どうして」
「だって辛いんでしょ、泣いてるもん」
「泣いてない」
(……涙が出ない……)
「ううん、泣いてる。ごめんね、もういいよ」
「そう」
(……今の僕って泣き顔なの……なら何で涙が出ない……マナの方が泣き出しそうだっていうのに……)
「優しいね、マナは」
「違う、優しくない。私ってシンジに酷いことしてる。ごめんね、ごめん…………お、おかしいね、私が泣いてどうすんだろ……」
マナが肩を震わせて涙をこらえていた。
「私だったら耐えられない。おんなじ人が死ぬのを何度も経験するなんて」
シンジは手首で目をこすっているマナにハンカチを渡してやる一方で、嗜虐に似た感情に襲われもする。
「綾波はまた死ぬかもしれないよ」
シンジは努めて軽くいってみた。
「それに僕だって」
「やめてよっ」
「……ごめん」
シンジは起き上がってマナの背中をぽんと軽く叩いてやった。もっともそれがきっかけになってマナはシンジの胸の中で本格的に泣き出してしまった。
マナのワンピース、襟の折り返しの部分の縫い目が膨らんでいることにシンジは気付いた。この事実をしかるべき筋に、例えば今も自分達を監視しているであろう黒服ないしはその上司に報告すべきかどうか。
(どうとでもなれ)
「マナ」と声をかける。
潤んだ二つの瞳がシンジを見上げる。
「僕等はエヴァのパイロットだ」
マナが言い返す前にシンジは抱きしめたマナにキス。
作戦部長
「今回の使徒は例によってE型、戦自の遅滞行動は望み薄ね」
拾号機搭乗員
「二つも来ますよ、ミサトさん。せめてどちらかに」
作戦部長
「甲乙とも移動速度は毎時十キロと低速。そこを突くわ。ここに集結される前に各個撃破。まず初号機と六号機で最近接の目標甲に攻撃をかけます。拾号機は射出口待機」
拾号機搭乗員
「いっそ三対一の方が」
作戦部長
「そうしたいところなんだけど、目標乙がちょっち不安なのよね。これ見て」
拾号機搭乗員
「翼……ですね……」
作戦部長
「今はまだ歩いてるだけなんだけど、こいつにだけこれ見よがしについてるのよ。飛んでこられるとヤバいしね。マナちゃんはその押さえでもあるわけ。まあこの移動のペースならレイとシンジ君が目標甲を片付けてから戻っても間に合うわ」
初号機搭乗員
「具体的には何分です」
作戦部長
「目標乙が仮に最も波形パターンの近い第伍拾使徒同様の飛行速度を出せるとした場合、こちらの移送時間を差し引いて正味十五分。のんびり歩いて来てくれるんなら七十五分。戦闘がこのうちに済めばレイもシンジ君も後半戦に参加出来るわ」
拾号機搭乗員
「戻ってきてよね」
初号機搭乗員
「戻るよ」
「などと口走った手前」
エヴァンゲリオン初号機のエントリープラグ内でシンジはレバーを握る手を二三度閉じては開いた。目の前に映し出されているのは増光された夜の海岸の映像。そしてそこに立つE型、つまりエヴァンゲリオンを模倣した形状の第六拾八使徒(甲)が上半身を海面から出しているところだった。
「さっさと済ませないと」
パレットライフルの照準レチクルは既に使徒に対してロックしてある。後はATフィールド中和可能な間合いに引き寄せればいい。だが使徒のスピードは海岸線に近づくにつれて落ちていった。今ではほとんど静止していた。
「綾波」シンジはポジトロンライフルを携行している六号機パイロットを呼んだ。
「撃てる?」
「遠いわ、二十発では破れない」二十とは自立電源型ポジトロンライフルの最大連射数である。連射といっても発射間隔は毎秒二発と遅い。
「僕が出る。掩護頼む」
「シンジ君、水中戦闘は避け……」
後方の指揮車で初号機と六号機の管制担当をしている日向マコト一尉のいいおわらぬうちにシンジが初号機を崩れたビルを波間に従えた旧伊東市の海面に飛び込ませた。
戦闘開始。トリガーを引きパレットライフル一弾倉を使徒のATフィールドに叩きこむ。効果無し。だが注意は惹いたようで、使徒は接近する初号機に手を伸ばす。初号機、ATフィールド展開。お互いの壁が干渉しあって、海面が複雑に波打つ。
「綾波、今だっ」
初号機の左方の六号機から使徒に向かって二分の一秒のパルスで光が走る。四発目、五発目が、使徒の胸部を捉え、六発目が左脇をかすめたところでレイはトリガーを戻す。初号機、ライフルを捨てて瓦礫の廃ビルを足掛かりに跳躍。空中でプログレッシブナイフを抜き、着水直前に使徒の胸にある赤い球体に突き立てる。
右手でナイフを突き立て左手で使徒を海面下に押し込める初号機。水中では陽電子ビームはいくらも進まない。海岸でポジトロンライフルを構えるレイは照準を外す。
五秒、十秒、二十秒……
「目標、沈黙」
コンソールに張り付いた部下の報告にマコトはどっと冷や汗を出しながらも安堵の息をついた。
「レイちゃん、シンジ君、直ちに撤収だ。そのままR66に入ってくれ」
「何分経ちました、日向さん」
「十分だがな、急いでくれ。あっちも速い」
マイクを置きかけた手を止めたマコトはもう一言付け加えた。
「あのな、シンジ君」
「何です」
「ライフル投げ出すのは出来れば陸の上にやってくれ」
マナの心は戦々兢々だった。東京湾に入った段階で第六拾八使徒(乙)は背の翼を広げて舞い上がったという。着地点は第三新東京市かその周辺だろうが正確な位置が掴めるまではジオフロント内で地表に射出される時をじっと待っていなければならない。
そして使徒(甲)の迎撃に向かったパイロット達が間に合うか。
間に合わなかった時は拾号機だけで戦わねばならない。
「大丈夫よね……ここなら兵装ビルだってだいぶ機能して……」
自分に言い聞かせるように呟くマナ。E型使徒との単独戦闘は彼女には経験がなかった。
(……目標をセンターに入れて……目盛りが一周したらファイア……その前にセンターを外れたらホールドのまんまで……回避しなきゃならないときは……)
「マナ、準備いい」
「は、はいっ」
「射出ポイントはD−33」ミサトが市の東端部の位置を告げた。
「三十秒後、使徒の着地直前に出るわ。出たら左手72番ビルのポジトロンライフルで砲戦。翼をたたむ所を狙いなさい、いいわね」
「あの、碇さんたちは」
「大丈夫。むこうは片がついたわ、すぐに来るから」
すぐに。すぐってどれくらい。五分、十分、それとも。
長く、短い、三十秒。何度も唾を飲む。
「拾号機、発進」
「っつ!」
リニアカタパルトが拾号機をジオフロントから地表の要塞都市に運ぶ数秒間、マナは臀部に血液が集まり軽くブラックアウト。がくんと上方からの衝撃を感じて地表の固定具に到達したことがわかる。血液の偏りが戻る。
(なのに暗いまんま……あれ……)
「って今は夜じゃん」
(でもどっかに投光器が……)
拾号機がポジトロンライフルを手に取るのと舞い降りようとしている使徒が地上から照らし出されるのは同時だった。まさしくエヴァンゲリオン型、エヴァそのままの形。マーキングこそ入っていないが、色も伍号機以降の白に似ている。目立つ違いといえば一対の白い翼と鉤爪状の指先くらい。
(あっちの方がかっこいいかも)
照準がロックされるまでの一秒に満たない間そんなことを考えるマナ。使徒の上に重ねて表示された円弧が黄色から緑になった瞬間、弾かれたように射撃開始。
連射上限の二十発はたちまち終わる。全てをATフィールドで防いでしまった使徒は悠然と翼をたたみ拾号機へと歩きだす。バッテリーのリチャージにかかる三十秒は長すぎると判断したマナはライフルを捨て兵装ビルからもう一挺を取り出そうとする。
だが捨てる方向が悪い。
使徒に拾われる。
強ばるマナ。
「い゛」
「何やってんの、速く撃って!」
マナは撃てなかった。とっさに身を守ろうとATフィールドを張ってしまった。使徒に拾われたライフルはもちろん発令所からの指示で爆破されるが、そのチャンスをマナは逃してしまう。ミサトの指示もむなしくポジトロンライフル一挺が無為に失われる。
「んもっ、こいつう」
今度はATフィールドを中和しつつ単発で使徒の胸部のコアを狙う。だが干渉フィールドの影響が強くライフルの射線が直行しない、当たらない。
(……近づかなきゃ……でも……あの爪……)
躊躇するマナ、先手は使徒。使徒が腕を垂らし腰を落として飛び掛かる。拾号機の懐へ下から薙ぎ上げるように進む使徒の左手。マナは咄嗟にバックステップ、牽制射撃。狙いをつけずにぶっ放したうちの二発は幸運にも使徒に当たるが勢いは止められない。もつれ合って倒れる。組み伏せられたのは、拾号機。
「掩護射撃、使徒の上半身を狙って!」
ミサトの指示が二十四発の地対地ミサイルになり使徒は爆煙に包まれる。二十五発目は煙の中をマナがこの辺だろうと見当つけて拾号機の片手で棍棒のように振り回したライフル。使徒に当たりはしたがライフル自体は紙細工のようにひしゃげてしまう。使徒は両足と左手で拾号機を押さえ、勝ち誇ったように右手を高々と上げると拾号機目掛けて振り下ろした。
(よけられない!)
マナは迫り来る鋭い鉤爪のシルエットに思わず目を閉じてしまった。
そして覚悟していたよりはるかに少ない衝撃に呆気に取られて目を開けたときに視界に飛び込んで来たもの──
from eva-01
という文字列がそれだった。
つづいて音声。
「大丈夫?」
「えっ、シンジ?!」
拾号機に馬乗りになっていた使徒は顎から上が吹き飛んで、胸部にはコアを二つに分ける断面が刻まれていた。使徒にライフルの狙いをつけたままの六号機がゆっくり近づいて来た。
「シンジ、シンジは?」
「君の後ろ」
拾号機の背後から、ぬっと紫の初号機の腕が伸びて拾号機を抱えあげた。
「ごめん、ちょっと遅れた」
「あ……」
マナの頭の中でやっと自分は虎口を脱したのだということに理解が及んだ。
「たすかったんだ……」