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恋の魔法

 黒い猫。最初に名前をつけそびれた。だからそのまま、ただの猫。ときどきもののはずみで黒ちゃんとか呼んだりもするけれど、とうとう名前をつけずにいる。
 猫の方は、これは私の名前を知っている。それも初対面からなれなれしさたっぷりに呼んできたからびっくりだった。
「リコ」
 あれから人生変わった気がする。人生だなんて単語を使えるほど生きてきたわけじゃないけれど。リコ。あいつはいきなり私の名前をささやいた。
「リコ、魔法つかいたくないか」
 黒い猫はささやいた。悪魔のようにささやいた。信じられないような出来事を前にして、私はもちろん信じ切れなかったけれど、耳をふさぐことも出来なかった。だから私は力を持った。見るだけで他人を死なせちゃう力。これを何かと呼ぶならばたぶん魔法としか呼べないんだろう。黒か白かといわれれば、猫の毛の色からして、たぶんきっと黒魔術。
 他の人には、ごく普通の猫の声。
「みゃあ」
 としか聞こえていない。
 でも、私には、ちゃんとした意味持つ言葉に聞こえる、猫の声。ほんとうをいうと、魔法とかはどうでもよくって、猫がしゃべっちゃったことにびっくりして、そして私に話しかけていたことに嬉しくなっちゃって、しかもそう聞こえるのが私だけっていうことに感激しちゃったりしたのだった。夏になる前、まだ五月くらいだった。六年生になってクラス替えがあって、真希ちゃんとも隆志くんとも離れちゃって、ずっといっしょだったのに最後の一年は卒業まで別のクラスなんだっていうショックみたいなのがあって、小学校にいくのに気が重かった、そんなころ。
 下校の途中、寄り道した公園で、ランドセルしょったままブランコに座っていた。ひとりでブランコなんて、そんなところ見られちゃいけない、そうとはわかっていても耐えられない、そんな気分で、漕がずにただ揺られていた。砂場には誰かが作りかけたのか、でこぼこした山があってトンネルのつもりなのか横穴があって、そこからちっちゃな黒い猫が、ひょいと顔をのぞかせた。
「リコ」
 そしてびっくりして嬉しくなって感激しちゃったわけなのだ。

 猫とはともだちになった。家族にまではなれなかった。私は飼おうとしたのだけれど、猫の方が断った。彼は(抱き上げたとき、その、見えちゃったので、オスだとわかった)こういった。
「勘違いするな、自分のねぐらはあるからな、そこまで迷惑かけるつもりはねえってだけだ」
「じゃあ、ともだちにあわせたげるくらいは、いいでしょ」
「やめとけ。俺の声はしょせん本山莉子以外のヤツにはミュウミュウとしか聞こえねえ。だからお前だけに話してるんだ。俺は何もいらねえよ。話し相手になってくれればそれでいい。代わりに魔法を教えてやるよ」
「でも……」
 真希ちゃんに教えてあげたいって思った。隆志くんといっしょに猫をだっこできたらって思った。前だったらそうしてた。ぜったいに。
 でも。
「だいいち、どうやって説明する気だ」
 そう。猫にだって見抜かれてる。どうせ何を話したって、クラスのみんなは無視するだろう。
 真希ちゃんなら聞いてくれるかも知れないけど、信じてもらえるかはまた別の話で……。
「わかった。他の人にはいわない」
「秘密だぜ」
「うん」
 秘密っていう言葉に、ちょっとどきどきした。
 このどきどきの中に、言わずにいるという後ろめたさが少なくとも最初はあった。
 でも、猫にあうために公園に行くようになって、秘密の後ろめたさは消えてゆく。
 素っ気ない番号の名前がついてる、ただの公園。あるのは砂場とブランコとベンチと街灯二本とプラタナス。幼稚園のときは、なんて広いところなんだろうって思っていた場所。隆志くんと一緒に、砂場で泥だらけになりながら遊んだことが何度もある。もうそんなことはない。真希ちゃんも隆志くんも三組だけど、私は一組。そしてあれは、ほんのちょっとの失敗だった。始業式の日、クラス替えのあと、順番に自己紹介をしましょうということになって、自分の番が来たときに私はちょっとだけ、どもってしまった。あれが何でクラス中を爆笑させてしまったのか、どうしてもわからない。何で先生までけらけら笑っていたのか、どうしてもわからない。これまでずっと、目立たないようにしていたのに。ヘンだっていわれないように、髪型だってリボンだって、みんなにあわせてきたはずなのに。
 あれから、なんとなく、一組のみんなとはあわなくなった。無視される理由なんてそれで充分だった。いじめられる理由もそれで充分だった。

 学校の帰り、ひとりで公園に来て猫を待つ。二、三分もすると「よお」という声がきこえてくる。それは生け垣の中からだったり、ベンチの下からだったり、たまに木の上からだったりする。片手で抱けるくらいに小さい、尻尾の短い黒い猫が、私だけに話しかけてくる。
「こんにちは」
「なんだ、汗かいてるぞ、走ってきたのか」
「うん、ちょっと走ったかな」
「馬鹿だな、逃げやしねえってのに」
 そんなことはわかっているけど、ついつい足を速めてしまう。早く猫とお話ししたい、さっさと学校出ていきたい。教室にともだちなんていないから。
 とはいっても、猫に話してあげるのが何かといえば、これが学校のことしかない。
 私の世界は狭かった。
 猫の方がいろいろな話をしてくれた。テレビも見ないのに、ケータイも使わないのに、何でってくらいに物知りだった。
 ただ、猫自身のこととか、魔法のこととかは、あまり話したがらなかった。
「じゃあ、ちょっとやってみるか」
 初めてあってから、二ヶ月くらいたったころだろうか。それまではぐらかされ続けていたけど、とうとう猫は見せてくれる気になったみたいで、肩ならしっていうかんじで首をぐるんとまわした。
 晴れていた、と思う。私と猫はならんでベンチに座っていた。となりで猫は、後ろ足を落として、背筋をぴんとのばして首をあげて、その視線の先を追えばそれは、街灯のてっぺんの、空は青かったし雲もなかったから、はっきり黒のシルエットになっている、カラス。
「カラスがな」
「うん、カラス、いるね」
「あれを、な……」
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 それくらいの間隔、猫はカラスの方をじっとにらんでいた。
「あっ」
 いきなり、風も無いのに落ちていった。
 ぴくりとひげを震わせると、猫はゆっくりと、ちょっと疲れてるようにも見える足取りで、街灯の方へ歩いていった。私もあとをついて行った。そこに倒れていた。羽をぴくぴくふるわせている。
「魔法って……」
「殺すこともできる」
 猫は目を細めて口を開けた。たぶん笑ったんだと思う。
「秘密だぜ」
 ごく。
 と、自分ののどが鳴ったのを覚えている。

 雨の日も風の日も。
 これが嘘でないくらい、公園に行くようになった。
 猫は猫しか知らないことを、わざわざ私だけに教えてくれる。だいじな秘密のはずの魔法まで教えてくれる。それが本当に嬉しかったから。ほとんど話もしないクラスの子たちよりも、公園にいる黒い猫、あの子が私の一番のともだちだった。
 でも、その公園通いも度が過ぎたらしく、やがて近所の人に知れたらしい。ある日の夕食の席で、お母さんに聞かれてしまった。
「さいきん、帰り遅いみたいだけれど」
「う、ううん、ともだちと……」
「でも、前みたく、うちに呼んだりはしてないわね」
「うん……」
「寄り道もいいけど」
 お母さん、箸を置いた。
 ばれた。
「ねえ、りっちゃん。もしかして学校、いやなことがあったりする?」
 横でお父さんは、いつもと同じようにだまって食事。でも、私の答えを待っているのはわかる。
 お父さんはまだだいじょうぶ。でも、お母さんには公園のことはばれた。じゃあ、その先は? 猫は見られた? 猫がしゃべることも? 魔法のことも? どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「お母さん、わたし……」
 だめ、いえない。
「だいじょうぶだよ、クラス替え、最初は知らない子ばっかりだったけど、面白い子もいて、だんだん楽しくなってきて……」
 嘘をついた。
 こうあってほしかったっていうことを、そのまま話しただけなのに、それがぜんぶ嘘だった。
 だけど誰かと仲良くなれる魔法なんて、猫も知らない。
 あ、でも、ひょっとして。
「知るか、そんなもん」
 念のため聞いたんだけど、あっさり否定されてしまった。
 夏休み少し前の日曜日だった。ファーストフードでチキンナゲットパックを二つ買ってから公園に。ちょうど三時、おやつの時間になっていた。私がケチャップはと聞くと猫は即座に首を振った。マスタードはと聞くともっとはげしく首を振った。そのあとでだ。仲良くなれる魔法を知らないかなって聞いたのは。けっきょく答えはノーだった。
「もしかして、ともだちあまりいない方?」とも聞いた。
「お前くらいだよ」と答えられた。
 膝に広げた紙ナプキンの上で、猫はなんにもつけてないナゲットを前足で転がしながら、ちょっとずつかじっていた。ああ、そうか、猫って猫舌なんだ。当たり前のことにようやく気づく。
「冷ましてあげよっか」
「どうするんだ」
「こうしてね」
 小さいナゲットをさらにちぎって小さくして、肉の裂け目をほぐしながら、ふうふうと息をかける。
「ありがとな」
 猫は目を細くして食べてくれた。
 お昼休み、いっしょにお弁当を食べる誰かがクラスにひとりもいなくなっていた私には、こんなことが、とても嬉しい。
 それから猫はナゲットの脂で汚れた私の指を丁寧になめてくれて、そのお礼に私は頭から尻尾の先までゆっくりブラシをかけてあげた。
 こんなふうに公園まで出かけて毛繕いしたりしてるとき、いっそのこと家で飼ってあげるよって、いつもいってるんだけど、そのたびに猫は断っていた。
「ケジメはつけないとな」
 猫は猫のくせに意地っ張りだった。
 そのくせ、私の膝であくびしたり、うとうとしちゃったりするのだった。

 小学校最後の夏休み、まず私がしたのは日傘を買うことだった。お父さんには、へえ、といわれるだけですんでも、お母さんにはからかわれた。
「りっちゃん、そういうおしゃれは、ちょっと早いんじゃないの」
「もお、いいでしょ、別に」
 日焼け止めをぬって、日傘をさして、手提げにはノートも入ってるけど、ついでに水筒と、なぜかキャットフードの缶詰も入ってて。
 これで図書館で勉強するなんて、ああもう、お母さんにはバレバレな嘘だろうけど、それでもいい。私はやることがある。魔法の訓練だ。夏休みくらいしかチャンスはない。
「よう」
 いつもとは違う公園で、猫と待ち合わせ。
 家からは三十分近く歩かなきゃ行けないけど、この河川敷に沿った大きな公園は、近所の人たちの散歩のコースにもなってるらしくて人も多い。猫がここを指定した。
「でも、なんでここ?」
「昼間っからぼーっとしてるお子様が一匹いても目立たない」
「えー、なにそれ」
「それに人が多ければ獲物も多い」
「え……」
 胸元に抱き上げた猫の口から、とんでもない一言を聞いてしまった、気がした。
「ばか、人じゃねえ、鳩だよ」
「あ、そうか、そうだよね」
 たしかに、目に入る範囲にカラスはいない。そのかわり見まわすと、今このときにも、パンくずをちぎって鳩を集めている人がいた。私のおばあちゃんよりももうちょっと年取ったくらいの、腰の曲がったおばあちゃん。にこにこしながら鳩にえさをやっていた。
「リコがその手前のベンチに座ったとして、あそこまで、まあ二十メートルか」
「あの……鳩を」
「訓練にはまあまあな距離だろ、適当に一羽選んで狙ってみな」
「う、うん」
 あの、鳩を。
 殺すわけじゃない、びっくりさせるだけ、そう自分にいいきかせる。
 日傘をさしたままベンチに腰を下ろすと、猫はててっと私の腕からおりて隣に座った。ぐるんと首をまわしてひげを震わせて、ついでに大きなあくびまでみせつけた。どうした、さっさとやってみろ、そんな言葉も聞こえてきた。ちょっとムカ。
「やってみる」
 おばあちゃんからいちばん離れてパンくずをつついてる鳩を選んだ。
 深呼吸、いち、に、さん。そして見つめる。鳩のおおきく膨らんだ胸の中心。
 猫が教えてくれたのは、目をこらすなということ、無限遠を見つめろということだった。それが、目に入るものを見透して、その先にあるはずの、ほんとうのものを見つけることになるという。なんだか騙されてるだけのような気がしないでもない。
 で、それをやってみたつもりなんだけど……。
「あー」
 飛んでっちゃった。
 ほかの鳩もつられてなのか、ばさばさと飛んでいった。おばあちゃんがおろおろしてた。
「まあ、あせるな。もう少しで届く」
「とどく、って?」
「見ているとき、鳩はどうだったよ」
「ええと、なんか、かげろうみたいにぼんやりして」
「揺れていたか」
「うん、揺れてた」
「よおし、見据えた先が揺れていた。それでいい。その速さは」
「え?」
「揺れる間隔、思い出してみろ。それは、そうだな、リコの胸の動くのと比べて速かったか」
「えー、っと、それは、速かったよ、かなり」
「それだ、おぼえとけ、それがリコの見た心臓だ。ぼやけたままじゃなくて、はっきり見えるようになれば、届けられる」
「それが、届くっていうこと?」
「そうだ。お前の意思を、見透せたものに、相手の心臓に撃ち込めるっていうことさ」
 魔法を教えられた。

 けっきょく、夏休みは登校日と台風以外の日は、ほとんど魔法の訓練に使ってしまった。
 お盆も過ぎて、夕方にはひぐらしの鳴き声がまじるようになるころに、私の魔法は届くようになった。そしてわかった。たしかにこれは魔法だ。手も触れずに心臓発作を起す魔法。夏休みが終わるまでに、鳩に三回、カラスに一回、合計四回届けられた。そのうち最後の一回は、いくところまでいってしまった。ほんとうに心臓を止めた。
 そんなつもり、なかったのに、止めちゃった。
「どうしよう……」
 猫にきいた。
 答えはこうだった。
「どうしようもねえよ」
「だって、そんな……」
 どうしようもない。
 死骸は公園の木の根本に埋めてあげた。幼稚園のときから物置に入れっぱなしだった子供用の手持ちのシャベル。もうすっかりさびついてて、十センチくらい掘り返すと、手はすっかり赤さびだらけになった。ごめんなさいごめんなさいと泣きながら鳩を埋めた。猫はというと、横で目を細くして、ただじっと見てるだけ。
「私のせい……」
「ああ」
 魔法。
 そうだ、魔法だ。猫にとっては。野良猫にとっては。見つめるだけで鳥がエサになってくれるんだから。でも私は猫じゃない。
「こんなの、やだ……」
「じゃあ何がほしい、俺が教えてやれるのはこれしかねえ」
「もう魔法とか、そういうのはいいよ。ともだちでいるだけでいいよ。ずっとともだちでいるだけでいいんだから」
「ありがてえな。俺にはリコしかいねえんだ」
 その日だけは、猫とさよならするとき、また明日っていえなかった。
 家に帰ってから、土とさびで汚れた手を洗った。土はともかくさびは爪のあいだとか手のひらの皺にすり込まれちゃっていてなかなか落ちてくれなかった。三十分も洗面所でばしゃばしゃやっていたので、お母さんに、どうしたのって聞かれてしまった。
「手を洗ってるの」
 そう答えた鏡の中の私の顔は、目元が真っ赤に腫れている。
 ばれた?
「転んじゃって、目にゴミ入っちゃって、なんか洗ってて石けんもはいっちゃったりして、なかなか落ちなくって……」
 ごまかせたかわかんないけど、それ以上お母さんは聞いてこなかった。
 でももう、洗面所では泣きづらくて、だから夜、布団の中で泣いた。
 夏休みが終わった。

 二学期最初の日、久しぶりに隆志くんと話す機会があった。
 下駄箱のところでばったりあったのだけど、たまたま隆志くんだけで、たいていいっしょにいるはずの真希ちゃんはいなかった。そのまま隆志くんと一緒に学校を出た。二人きりなんて、ほんとうに久しぶりのことだった。たぶん、六年生になってはじめてだ。
 当たり前だけど、夏休みはどうしていたのっていう話になった。そして私は何もいえなかった。夏休みは何もしなかったから。していたことは、あるにはあったけど、それは絶対に秘密だった。たとえ隆志くんにでも。
 じゃあ隆志くんはと聞くと、「朝練したことしか憶えてないね」なんていって、笑った。
 そういえば、休み中の登校日にちらっと見かけたけど、そのとき隆志くんはユニフォーム着てたっけ。
「ずっと野球?」
「もうすぐ試合だし」
「いつ?」
「ん、知らない? 土曜」
 隆志くんには不思議そうな顔されてしまった。部活の試合予定なんて、廊下の掲示板に貼ってある。
「あ、ご、ごめん」
「……あのさ、りこちゃん」
 信号は青なのに隆志くんが立ち止まる。
 下校する他の人たちが、私たちを追い抜いていく。コンビニ前の交差点。隆志くんちのマンションはここを渡って右に曲がるし、私は左。ここがさよならしちゃう場所。
「なに?」
 言葉を待っているうちに、信号が赤になった。
「クラス違っちゃってさ、あまりあえないけど、ときどきうわさみたいなの、聞いたりするんだけど、学校終わるとさっさと帰っちゃうとか、いつもなんだかうわの空みたいだとか、それから、雨の日に公園で傘さしてひとりでいたとか」
 ああ。
 そっか。ばれちゃったんだ。
「べつに、私なにも」
「うん、何かしてるからどうこうってわけじゃなくって、なんていうか、何もしないっていうか、どういったらいいかな……、何にも興味ないような、そんなかんじがするって」
「それ、真希ちゃんから」
「誰っていうんじゃなくって……」
「そっか、もう誰からもそう見られちゃってるんだ」
「……」
「いいよ、学校つまんないのは、ほんとうだから」
 でも、魔法が使えるんだよ。
 とだけは、いえない。
「でも、だいじょうぶだよ。つまんないだけだし」
 くらいしか、いえなかった。
 そのまま隆志くんとはさよならして、公園に行った。
 猫はその日は来なかった。私はひとりで魔法を試した。カラスを何回もびっくりさせることができた。だいたい二回に一回は魔法が届くようになっていた。嬉しかった。

 二学期、学校は相変わらずつまらなかった。私はいてもいなくても同じで、ときどきノートに落書きされたり、遠くからひそひそ笑われたりの繰り返し。
 変わったとすれば、隆志くんのことだ。
 グラウンドで練習してる野球部の人のなかに隆志くんを見かけると、向こうから手を振ってくれるようになった。練習試合を見に来ないかとまでいってくれた。
「どうしよっか」
 公園で、猫にきいた。
「別にいいさ、勝手にすりゃいいだろ」
「じゃあ、明日はごめん、隆志くんの試合見に行くから、魔法の練習は中止ね」
「かまわねえよ、もうだいぶ出来るようになってるしな」
 そういって猫はさっさと目を閉じて、私の膝でくてっとなった。なんか今日は眠いみたい。
「ねえ」
「ん……」
「ともだちって、いた方がいいのかな」
「あんだよ、いきなり……」むにゃむにゃいいながらだけど、猫は答えてくれた。「まあ、いる方がましだろな」
「私たち、ともだち?」
「そうありてえな」
 そしてそのまま寝ちゃう猫。
 このままいっしょにひなたぼっこしようかとも思ったけど、まだ九月。ちょっと暑い。どうしようかと考えながら猫ののどをなでているうちに思いついた。今日はお父さんが出張で、お母さんは親戚の家に泊まりがけで出かけている。
「ねえ、うち来る?」
 わざと小声で。もちろん猫は寝たまま。答えは待たない。眠った猫をそっと抱えて、そのまま家に連れて帰った。
 目が覚めて、私の部屋にいるんだってわかったとき、猫は怒った。
「帰る」
 てっきり喜ぶと思ったのに。
「なんで。誰もいないんだよ」
「野良は野良でいいんだ」
「なに、それ。わかんないよ、いればいいじゃん。ミルクもあるよ、ねえ」
「ケジメだよ、俺はもう猫なんだ。野良猫なんだ」
「なんで。どうして。私のこと、そんなにいや? 何度も公園いってあげたじゃん。ノミ取りとかもしたじゃん」
「けどな、いまさら、俺が……」
「ね、もう、いつかみたいに飼ってあげるとかなんていわないから。今日はね、お話しするだけ。ちょっとともだちのうちによっただけ。それくらい普通でしょ。私たち、ともだちでしょ、ねえ」
「あー、まあ……」
 それからも猫は猫のくせにああだこうだといったけど、最後には、お皿にあけたミルクを飲んでくれた。
「ね、おいしいでしょ」
 こくんと猫はうなずいた。
 それから夜まで、そして夜になってからも、猫といろいろ話をした。眠い寝るぞ眠らせろと猫は何度かいったけど、そのたびに、もう少しだけ、とかいって引き延ばした。パジャマでおしゃべりっていうのが、なぜかそれだけで楽しかったし、明日の隆志くんの出る試合のことを考えるのも楽しかった。
「浮かれてんな、いつもの三倍増しだ」
 わたし、顔に出やすい?
「まあ、いじめられたとかグチってるよりはいいけどよ」
「ね、明日は、晴れるかな」
「……窓あけてくれ」
 窓を網戸にすると、カーテンがふわっとなった。
「晴れる。風は乾いてる」
「え、そうなの」
「明日の天気もわからねえ猫がいるか。いたら少なくともそいつは野良じゃねえ。晴か雨かは餌場の判断にかかわるんだ」
「でも、普通の猫より、もっといろいろ知ってるよね。風が乾いてるか湿ってるかなんて猫っぽく聞こえないよ」
「そうだな。無駄になった知識もあるが、野良の俺がここまで生き延びてこれたのはあの魔法だけが理由じゃない。メシの探し方とかケガの治し方とか、他の猫よりは知っていたからだろうしな」
「そういうのって誰かに教えてもらったりするの? やっぱり、お母さんとか?」
「へっ……」
 猫は答えなかった。
 かわりに、ぴょんと机の上に跳び乗って、ひらひらしてるカーテンにじゃれついた。そのまま窓から逃げちゃうんじゃないかって、ちょっと焦ったけど、そうじゃなかった。風にあたりたかっただけみたい。
「俺は……」
 出会ってから、半年くらい。
 何度となく聞いて、そのたびに話をそらされたりしてきたけれど、ついに猫は自分のことを話しはじめた。
「猫じゃねえ。猫じゃなかったんだ。人間だった」
 そして聞かされたのは、懲罰、志願、運命、罪科、任務、なんていう新聞でしか見ないような難しい単語がいっぱいで、いまいちわからなかった。
「それがどうだ、よりによって、猫とはよ。やつらもとんだドジ踏みやがって。これじゃ出来るもんも出来やしねえ。何が改変だよ。猫が変える歴史ってか。猫でも出来るっていうのか、クソ。蝶が羽ばたきゃ台風になるのとはワケが違うんだぜ。んなアホな平行世界があってたまるか」
 でも、まあ、愚痴っぽくなってるのは、わかる。
「ねえ、その、未来から来たのは……ひとりで来たの?」
「おうよ、ひとりだ。こんな死刑も同然の任務に誰が志願するかよ。過去に行くっていってもな、それは自分のいるはずの未来とは関係ねえんだ。過去に転送されたっていう事実、それそのものが因果律に作用しちまうのさ。けっきょく平行世界のひとつに波風たててみるってだけしかできねえのよ。俺って存在はその追検証の価値しかねえのさ。へへっ。しかも猫だ。猫ときた。猫の波風ってかよ、クソッタレ」
 何をいってるのか、もうさっぱり。
 でも、猫が泣いてるのはわかった。
「だいじょうぶ」
「何がだ。何もわかってないガキのくせに何いいやがる」
「ともだちだから」
 抱き上げる。
 猫は涙目のままいった。
「リコ」
「なに?」
「あちこち探し回ったんだ。俺の言葉がわかる人間ってのは、けっきょくお前しかいねえんだ。それには多分、意味がある。だから俺は」
 猫は、猫だから当たり前だけどちっちゃくて軽くって赤ちゃんみたいで、そんな猫が私の腕の中でぷるぷる震えながら泣いていた。
「だから俺は、お前に魔法を教えたんだ」
「うん、ありがとう」
 抱きしめて、いっしょに寝た。

 次の日、私の方が先に起きた。猫とふたりで朝ご飯を食べた。実は普通に売ってるミルクって猫にはかなり濃いそうで、猫は水でいいといった。だけど、猫缶の方は、しっかり食べてる。
「こういうの、リコの小遣いで買ってるのか」
「うん、そうだよ」
「無理すんなよ。手前のエサくらい面倒みられんだから」
「でも、おいしいでしょ」
「う……、まあな」
 正直いって、無理はしてる。
 猫缶とか、毛繕い用のブラシとか、いっしょに遠くの公園に行くときのためのバスケットとか、そろそろお小遣いだけじゃきつくなってる。
 でも、猫は絶対に飼われたくはなさそうで、私もお母さんとかお父さんとかには魔法のことが話しづらい。だからこんなふうに、誰もいないときだけ家にいれるというのが続きそう。
「ごちそうさん。長居したな。そろそろ帰る」
「あ、待って。私も試合見に行くから、いっしょに行こうよ」
「俺はねぐらに帰るだけだぜ」
「うん、だから途中までね」
 猫のねぐら。それは教えてもらってない。だけど家を出てから五分くらいで、道が違うからとさよならされた。けっこう近所だったりするのかも。
 猫と別れてから、ひとりで学校にいった。同じ六年生の子が同じ道を歩いてたけど、誰もあいさつしてくれなかった。隆志くんはいないのかな。いないよね。もう先に行って練習してるよね。
 グラウンドまで来ると、もう野球部の人たちはユニフォーム着てキャッチボールとかをしていた。相手のチームも、もう来ていた。そしてフェンスの脇の席には、野球部じゃないけど試合を見に来たっていう子も何人かいた。その中には、嫌がらせしてくる同じクラスの女の子もいたけど、でも真希ちゃんもいてくれて、すごく嬉しかった。
「真希ちゃん、おはよう」
 真希ちゃんにならあいさつ出来る。だから、した。
 おはようが返ってくるはずのタイミングに、なぜか声はなかった。かわりに、じろりとにらまれた。
 三秒くらい経ってから。おはよう、と冷たい声が戻ってきた。違う、冷たいのは声だけじゃなくて、目。
 心の底に、ドライアイスでも投げ込まれたような気がした。
 なんで。どうして。真希ちゃん、私、ここにいちゃいけないの。
 とても隣には座れなかった。私だけ、ぽつんと離れたベンチに座った。これじゃいつものクラスと変わんない。
 それでも、試合が始まれば。と、理由もなく期待した。
 何も期待してはいけなかったのに。
 試合は隆志くんのいるチームの方が優勢だった。隆志くんも、二本はヒットを打ったはずだった。よく覚えてないのは、一本目のとき、他の女の子たちといっしょに拍手をしたら、また真希ちゃんに、氷みたいな冷たい目つきでにらまれたから。それからはもう、縮こまって見てるだけしかできなかった。
 最終回、相手チームの攻撃。ツーアウトでランナーなし。
 最後の打者は外野へのフライだった。高く上がったボールの下、グラブを構えたのは隆志くん。ぱしん、気持ちいい音が聞こえた。とった。ゲームセット。みんなから、わあっと声が上がった。でも私は固まったままだった。外野から戻ってくる隆志くんが、そんな私にピースサインしてくれた。それがなかったら、ずっと融けないで固まってたままだったろう。
 隆志くんたちが後かたづけしてるとき、悪いけど、待たないでひとりで帰ろうとした。
 呼び止められた。
「ちょっと」
 真希ちゃんだった。

「なんでなの」
 土曜日の体育館は、がらんとしていた。
 真希ちゃんの冷たい声が、ひびていた。
「なんでリコが来るの」
「だって、それは、隆志くんが……」
「呼んだっていうんでしょ。そんなのもう知ってるの。私が聞きたいのはね、なんでリコが来てるかっていうこと」
「だって、見に来てって、いわれて」
「だからなんで、それで来ちゃうの。断ってよ。いわれたからってノコノコ来ないでよ、リコのくせに」
 無視されるのは慣れた。ひとりでいるのは慣れた。
 でも、こんなのは……。
「だ、だって」
「だってだってってうるさいな、うざいよ、もう。リコはいつもみたくひとりでボケっとネクラなことやってればいいの。なんでせっかく隆くんの試合だっていうのに来たりするわけ。ぶちこわし」
 真希ちゃん、こんなこという人じゃなかったのに。
「あ、あの、でも、わたし、前みたく隆志くんと真希ちゃんとも」
「ともだちって? 勘弁してよ。リコみたいなクラいの、冗談じゃないって」
 心の底から、ドライアイスで凍らされるような気がした。
「隆くん、優しすぎるからリコみたいなのでも声かけちゃうみたい。でもね、だからって、それにつけ込むのって、かなり許せないんだけど」
 もう真希ちゃんは。
「言わなきゃわかんない? もう来ないでよ、うざい顔見せないでよ、リコみたいなのなんて誰かから相手にされると思ってるの? 隆くんの優しいところ利用しないで。隆くんの隣にいていいのは私」
 真希ちゃんが。
 何もいえなかった。何も考えられなかった。真希ちゃんに嫌われた。ううん、ずっと前から、もう嫌われちゃっていたんだ。
 固まった私を置き去りに、真希ちゃんは体育館を出て行った。体育館の出口では、試合を見に来ていた他の女の子たちがちらちら私を見ていた。そして真希ちゃんは、その女の子たちの中心にいた。みんなでいっしょにけらけら笑いながら立ち去った。
 去り際の真希ちゃんの視線、それはクラスで私を無視してる子から投げつけられる、針みたいな視線そのものだった。
 気づくと力が抜けていた。ぺたんと尻餅ついて泣いていた。私をいじめるように仕向けていたのが、真希ちゃんだった。

 週明け、学校を休んだ。
 起きて着替えるまでは平気だったけど、真希ちゃんの顔を思い出しちゃって目の前が暗くなった。生理が重いってお母さんにいって、学校にも連絡してもらった。
 三日続いた。
 パジャマでベッドにいると、ほんとうに病気になっちゃったような気がした。
 その三日目の、昼間。
「よう」
 声がした。
 びっくりして窓を開けると、軒下には猫がいた。
「元気だしな」
 と一言だけいって、猫はまたどこかに行った。
 でも、その一言で、胸がいっぱいになった。
「うん」
 そうだ。私には猫がいる。人の言葉を話す猫。私だけに話しかけてくれる、私だけのともだちの猫がいる。私のともだちは魔法を使う黒い猫。
 私には猫に教えてもらった魔法がある。

 学校に行った。
 休んでるあいだ、下駄箱には何もされていなかったけど、机にはカッターで傷を付けられちゃっていた。傷は文字になっていた。バカ、ネクラ、キモ。
 授業中はまだよかった。休み時間がつらかった。ひそひそ声が拷問だった。ひとつひとつに、ここにはいないはずの真希ちゃんのドライアイスの言葉が込められているみたいで。
 お昼休み、もう耐えられなくなって、保健室に行った。けっきょく午後は、保健室にただよってる消毒液のにおいをかいでいるだけで終わってしまった。放課後、ランドセルを取りに教室に戻ると、机の傷にはインクが刷り込まれていた。もう、どうやっても消えないだろう。傷をなぞってみた。指先にインクがにじむ。
 私の他には、誰もいなかった。
 掃除も終わって、誰もいない教室。
 誰もいなければ、こんなに静かなのに。
 涙が出た。しばらく泣いた。そして西日が夕焼けに変わるころに目が覚めた。泣き疲れて、うとうとしちゃったみたいだった。
「帰らなきゃ」
 声に出して、やっと歩き出すことが出来た。

 この学校は、下駄箱から校門までいくあいだに、グラウンドを右手に見る。
 帰るとき、見えた。
 野球部の人たちがいた。隆志くんもいた。そして……夕日の長い影をのばしているあの女の子は、真希ちゃんだった。
 あそこまで。
 遠い。
 目を細める。遠い。百メートルくらいある。でも。思い出す。だいじょうぶ。やれる。届いたことだってある距離だ。
 深呼吸。いち、にい、さん。そして真希ちゃんを。見る。見る。見る。見る。見る。見ろ。見えた。とくんとくんとくん、わかる、はっきりわかる真希ちゃんの心臓、あったかいこころ、真希ちゃんのくせに。私は魔法が使えるんだ、その心臓、いますぐ私が……
「バカやろう」
「えっ」
 足下には、尻尾をたてた猫がいた。
「帰るぞ、バカ」
 猫は歩き出した。あわてて猫の後についていった。
 いつもの公園で、猫は立ち止まった。
「話がある」
「う、うん」
 猫が怒っていた。

「お前、魔法嫌いなんじゃなかったのか」
「あんまり好きじゃ……、ない」
「なら、なんであんなことしたんだ」
「してないよ、まだ」
「バカ、しちまったらもう遅いんだっての。鳩だカラスだってのとは違うんだぞ、そこんとこわかってんのか」
「でも、だって、そもそも猫ちゃんに教えてもらった魔法だよ」
「そうだ。俺が教えた。俺はそれを使って生きてきた。どういうワケだか過去に送り込まれたら猫になってたその瞬間から、猫同士のケンカだの、野良犬だの、群で襲ってくる悪知恵ついたカラスだの、生きるためには目の前のやつを殺さなきゃならねえってのをな、十と二年も続けてきた。でもよ、リコ、お前は違う。殺さなきゃいけないか? 殺すだけの理由があるか? 違うな、出来るか出来ねえかってのが出来るって方に振れてるだけだ。殺せるから殺すってだけだろが。必要もないのに殺すな。むやみに殺すのはバカだ。リコ、俺はお前にバカになってほしくはねえ。殺さなきゃならないやつは他にいる。あの岸田真希ってのは人違いだ」
 そう。冷静になってみれば、私がしようとしたのって、人殺し。
 それは……そう、やっちゃいけない気がする。
 でも、猫はこうもいった。他にいるって。
「他に、いるって?」
「この際だ。ついでに俺が送り込まれた理由ってのも教えてやる。歴史を変えるためだったんだ。過去にさかのぼって、阿呆をしでかす人間を阿呆をしでかす前に殺してこいってのが俺の任務だった。俺のつけなきゃいけねえケジメだった」
「その人が……」
「俺のいたクソ未来はもう変わっちゃくれねえだろうよ。それでもな、猫になっちまった俺みたいな存在が起したケシ粒みてえな波風が、それが別の世界線であっても、あり得たはずの平和な世界につながってくれるんなら、それでいいんだ。そう思って泥水すすって耐えてきたんだ。そうでもしなけりゃ、路地裏はいつくばって残飯あさる猫なんてやってられるか」
「よくわかんないけど……その人のせいで、平和じゃなくなっちゃうの?」
「そうだ。日本連合共和国初代国家主席、野中隆志。奴さえいなけりゃ戦争は起きなかった。少なくとも地域紛争で止まったはずだ。第三次世界大戦は避けられたんだ」
「え?」
 野中隆志って。
「三組の、隆志くんのこと?」
「ああ、そうだ。そいつだよ。そいつが歴史の分岐点だ。リコ、殺すべきたったひとりってのは、そいつのことだ」

 大喧嘩になった。
 猫はどんどん口汚くなってって、新聞でしか見ないような単語ばっかり使った理由付けして、でもけっきょくは、たったひとつのことだけを繰り返した。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。その相手というのが、隆志くん。
「だめ、そんなのだめ、わけわかんないよ、隆志くん死んじゃうなんて、だめだよ、だめ、ぜったいだめ」
「何度もいわせるな。こいつはガキの痴話喧嘩の始末つけようってのとは次元の違う話なんだ。二千万人が死ぬかどうか、ようやく特定出来た分岐点だぞ」
「そんなの信じらんないよ。だいたい戦争ってなんのことなの。わかんないよ。隆志くんはそんなのとは関係ないんだから」
「ああ、関係ねえだろうよ。まだ今はな。でもな、ちったあ頭使え、ヒトラーだってポルポトだってガキだったころはあったんだ。殺すならガキのうちだ。ひとりのうちに殺しとくんだ。気づいたときにはもう遅えんだよ。シンパが増えちまったら殺そうにも殺せねえ」
「なにそれ、隆志くんのことゴキブリみたいにいわないでよ」
「るせえ、ゴキブリだったら俺がやってる。ネコパンチ一発だ。だけど俺じゃ出来ねえんだ。俺の魔法は、奴にはもうきかねえんだよ。体格でかくなった脊椎動物の心臓は止められねえ。どうやっても体重が自分の二倍ってあたりまでが限界だ。奴が赤ん坊のころには何度も狙おうとした。けど、知ってるだろ、やつの家はオートロックのマンションの三階だ。おい、これが野良猫にとってどんなにツライか知ってるか」
「ひどい。隆志くん、殺そうとしたの」
「心臓止まってポックリならいい死に方じゃねえか、誰に迷惑かけるわけじゃねえ。世界中巻き込む戦争やらかしたあげくに手前はさっさと自殺なんてのよりよっぽどいい」
「そんなの、ひどいよ、やだよ」
「リコがどんなにひどいとか思ってもな、それだけじゃ未来ってのは変わらねえ。変えるためには……」
「もうやだ、もう嫌い、嫌い嫌い嫌い、死んじゃえ」
 そして私は猫を。
 力を込めて。
 見て。

 猫は人の声じゃなく、猫の声で叫んで、逃げた。
 私から逃げていった。
 私だけになった。
 ひとりぼっちの公園はさみしすぎて、私も逃げた。
 学校にも、また行けなくなった。朝、起きて、学校のことを考えるとそれだけで吐き気がした。いじめられるのがいやだった。いじめる真希ちゃんが嫌いだった。真希ちゃんを殺せちゃう私自身が怖かった。魔法のことはお母さんにもお父さんにも話せなかったから、何も相談出来なかった。
 学校を一週間休んで、二週間休んで、そして……
 その日は台風だった。十月の、たぶん今年で一番強い台風だった。お父さんが会社に行くときは傘だけじゃなく、長靴と雨合羽もつけていった。
「りっちゃん、今日は休校だって。無理に起きなくてもいいみたいよ」
 お母さんはこういってくれたけど、逆に、こういう日は起きることが出来た。休校だって聞いたら、吐き気がちょっと落ち着いたみたいだった。
 一日中、窓が雨と風でびりびりと音を立てていて、そしてだんだん気になってきた。猫はどこにいるんだろう。どうしているんだろう。猫のねぐらって、屋根はちゃんとしてるんだろうか。
 そして夕方、お父さんが帰ってきたときのことだ。
 玄関で雨合羽からばしゃばしゃ雨水を振り落としながら、お父さんが教えてくれた。
「りこ、あれ、おまえが世話してた猫じゃないか」
「えっ」
 お父さんは知っていた。
 ということは、お母さんも知っている。
 猫のことを知られた。
 じゃあ、魔法のことは。
 真希ちゃんのことは。
 私のことは。
 いろんな気持ちがむちゃくちゃで整理できないまま、ずっと逃げてきたものに私は向き合った。
 全身ずぶ濡れで、立ち上がる元気もなく、玄関先にうずくまっていたという黒い猫。
 私が殺しかけた、あの猫だった。

 黒猫というのでお母さんは気味悪がったけど、お父さんは「まあいいじゃないか」といってくれた。お風呂場で猫の体を拭いてあげた。そのとき気づいた。脇腹にも背中にも傷があった。そこだけ毛がなくて、たぶん新しい傷だ。
「だいじょうぶ?」
 お母さんに聞かれないよう、小声で。
「痛くない? 寒くない?」
「リコ……」
 かすかな、声だった。
「きずがあるよ、引っかかれたりしたの?」
「イヌっころにやられた。ヤキがまわったな、俺も。体がついていかねえや……」
「具合悪いの?」
「そうじゃねえ、猫の時間は短いっていうだけだ」
 拭いてあげたあとも、体に力がはいらないみたいで、猫はタオルの上にうずくまったまま。
「こうなって十二年だ、猫には、もう寿命さ」
「えっ……」
「いっておかなきゃ、ならないことがある。俺には、お前しか、いないから……」
「病院、いかないと」
「後にしろ」
「でも」
 猫はしゃべり続けた。
「十二年間、いろいろやってはみたんだがな、猫はどうやっても猫のことしかできねえようだ。人間の歴史は変えられなかった。正直、俺ももう諦めてたよ。お前に会うまでは」
 目が、もう閉じていた。
「言葉が通じたときは嬉しかったぜ、少しだけ人間に戻れた気分だった……つきあわせちまって悪かったな。魔法ってのも、迷惑だったろう。けどな……、俺にはこれしかなかったんだ……。リコに構ってもらいたくて必死でな、思わせぶりに、小出しにして、教えてたんだよ。それに、何も出来ずに野良猫としてくたばるよりは、何かを残したいっていうこともあった。歴史を変えるなんて無理だった……。けど、リコの中に、俺の教えた魔法が、残ってくれるなら、それでもう、いい……」
 見ようとしたわけじゃない。
 でも、見えた。
 猫の心臓が、ゆっくりゆっくり、止まろうとしているのが。
「ねえ、やだ、死んじゃやだ、ねえ」
「リコ、俺以外に世界の未来を知ってるのは、お前だけだ。だから、お前の魔法な、俺は今でも、俺の代わりに、あの隆志って奴を殺すために使ってほしいって思ってる。でも、もういい。使うな。ああ、やっぱりリコを、俺みたいな人殺しにはできねえ」
 抱き上げた猫は、前よりも軽かった。この瞬間にもどんどん軽くなっていくように思えた。抱きしめた私の手をすりぬけて、小さな命が消えていく。
「だめ、死んじゃだめ、またいっしょに公園行こうよ、ひなたぼっこしようよ、ねえ」
「ああ……そりゃいいな……」
 そこまでしゃべって、猫はえずいた。黄色っぽい胃液みたいなものを吐いた。そんななのに、ひゅうひゅうのどをかすらせながら、まだ言葉を続けようとした。
「俺の、名前……」
「なに? 名前?」
「野中洋介……隆志は俺の、じいさんだ。ばあさんの名前が、野中莉子、お前だよ。なあ、だから、魔法使えなんて、酷だよな」
「ねえ、もういいよ、もうしゃべらないで。病院いくよ」
「大戦犯の孫の、ケジメを、ここで……」
 ああ。
 見えた。
 猫の心臓が、最後に脈をうつ瞬間。

 黒い猫。最初に名前をつけそびれた。だからそのまま、お墓を作ってあげるときまで、ただの猫。最期に教えてくれた名前は、他人のようにしか思えなくって。
 学校は、二学期の半分くらいを休むことになったけど、なんとか通った。無視もいじめも変わらなかったけど、ひそひそ声が前よりは気にならなくなっていた。十二年間、誰とも一言もしゃべれなかった小さな黒い魔法使いのことを思い出すたびに。
 中学にあがると、いじめは無くなった。
 私をいじめていた真希ちゃんがいなくなった。魔法を使ったわけじゃない。そもそも魔法が理由でいじめられていたわけじゃない。あの子、中学受験で私立の学校に受かったとかで、公立の私とは違うところに行っちゃったから。それだけでもう、いじめられることが無くなった。
 真希ちゃんさえいなくなれば、そう思ってしまったあの夕日のグラウンドを思い出すことがたびたびある。
 真希ちゃんがいなくなって、実際、私のいじめは無くなった。
 猫が止めてくれなかったら、私はたぶん。
 たぶん……。
「魔法、使い」
「え、なに」
 つい口にしちゃって、隣の隆志くんが不思議そうな顔をした。
 学校からの帰り道、こうして隆志くんの隣を私が歩いていられるのって、あの日の私を止めてくれた猫のおかげなんだよね。
「魔法が使えたらいいなって」
「なにそれ。テスト前なら、そりゃ使えたら、なんかいろいろ良さそうだ」
 隆志くんは何も知らない。真希ちゃんのことを知らない。私のことを知らない。私の魔法のことを知らない。隆志くんにとっては幼なじみの一人が私立にいっちゃって、残ったもう一人とおしゃべりしてる、ただそれだけ。
 でも私は知っている。
 小さな黒い魔法使い。猫から教えてもらった魔法。そして未来。
「隆志くん」
 私の方から手を握る。私より少し高いところにある隆志くんの顔、ほほえんでくれて、そして手から伝わる鼓動がすこし早くなる。
 うん、わかるよ、隆志くん、いまちょっと力いれて握り返してくれたよね。
 でもね、私の使える魔法はね。
 猫の言葉を思い出す。
 殺すべきたったひとり。
「ずっといっしょだよ、隆志くん」
 そして初めてキスをした。

 魔法を使わない魔法使い、魔法を忘れられない魔法使い、魔法にかけられた魔法使い。
 そんな間抜けな魔法使いは、初めての彼氏とのファーストキスで舞い上がってしまいながらも、魔法を教えてもらったあの公園を通り過ぎるときに、遠くどこかの猫の鳴き声を聞いていた。
「リコ、魔法つかいたくないか」

 end


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2014/01/22
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