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2002/05/26

 PD5で支援砲撃ができないってのは、やっぱバグだったようです。パッチをあてたら直りました。セーブデータも持ち越せるみたいですんで、初回版なヒトはあてましょー。

 今日は読んだものみっつ、観たものひとつ。
 読んだもの、ひとつめ、「EDEN/遠藤浩輝」第七巻。犯罪者になるという覚悟を決めたエリヤ、この巻では自分が状況を作る側にまわります。振り回されつづけたエリヤ、次巻でようやくペドロと対決。という前に、七巻では並行してペドロとマヌエラの過去が語られてまして、その章題が「赤いスイートピー」。恥ずかしくもしんみりさせる遠藤節。

 ふたつめ、「マフィアとルアー/TAGRO」。アワーズライト掲載の読切とか同人作品からセレクトの九編を収録した短編集。なかでも「思い出エマノン」を小道具に使った「トリコの娘」はアワーズ増刊で読んだときすごく印象深かった記憶がありまして、こうして再読できるのはウレシイです。で、再読しまして、ああやっぱりうまいなーと。たった十六ページってのが信じられない密度、余韻。何度でも読み返したくなる。
 同じことは初読になる同人作品にもいえて、作者後書きにあるコトバを借りれば「ココロにフックする」ものがたくさんあります。表題作の「マフィアとルアー」もそうだし「LIVE WELL」もそうだし。んで、どうしようもなくフックしてしまったのが、自意識少々過多な男とそのそばにいる女の二人を描いた「R.P.E」。エレベーターのボタンの上で迷う手元が描かれてるだけの最後のページの、このセツナさかげんをどうしてくれよう。そしてまた読み返そうとして、タイトルページでまたフックされる。その繰り返し。

 みっつめ、ちと遅れましたが、「ふたつのスピカ/柳沼行」一巻と二巻まとめ読み。
 ロケットの墜落事故で母親を失い、父親はリストラくらってしまった少女、鴨川アスミが宇宙学校に入学して宇宙を目指すという物語。「プラネテス」とか「EVALADY」とはまた違う、宇宙モノの良作という感触。まだ物語は地上で、学園モノ的な内容ともいえますが、あったかい絵柄、厳しい展開になりつつも優しい語り口のストーリーなどなどで、やっぱりふつうの学園モノともちがいます。それからアスミの子供時代を描いた短編もいくつか収録されてるんですが、こっちの方はより切ないファンタジックなオハナシ。なにしろ題からして「カムパネルラの森」って具合ですし。
 こういう筆致でどんな宇宙を描いてくれるのか。とってもとっても期待期待。

 んで、観たもの、「ほしのこえ新海誠」。話題の個人製作アニメのDVD。
 2046年、中学生のミカコは国連宇宙軍の選抜メンバーになり火星へ。ノボルは普通に高校進学。ふたりをつなぐ携帯メールという絆はミカコの乗る調査艦隊が冥王星、シリウスと進むにつれて細くなっていく……などという世界設定は、いやもう、どこつっこんでいいかわかんないくらい、穴だらけっていうか、もはやザルです。絵的にも、どっかで観たような絵というのがいろいろいろいろいろいろあります。シーン単位、キャラ単位、ガジェット単位に解体しちゃえば新しいモノというのはほとんどないです。アニメな経験値の低いワタシでもこう思えるくらい、この作品、あからさまな引用をしちゃってます。
 んじゃ観るべきところはないか。あります。それを一言でいうと、詩情っていうやつでしょうか。雨や雪がふる場面の背景の止め絵であるとか、とつとつとしたモノローグとかにただよう感傷的な、ときに恥ずかしくなってしまうくらいの、詩情。たしかにこれは新しい。ココロにフック。
 個人のスキルと機材でココまでできちゃうのかっていうのが話題になってるこの作品ですけど、クリエイターの側にまわるなんてできない自分にとっては、そこらへんどうでもいいです。独り善がりともいえる設定とか、あからさまな引用は、個人製作の可能性よりむしろ限界をさらしているように思えて、正直観ててつらかった。ただ、ワタシのココロにフックした、詩情。これは従来の会社単位の製作であればナイーヴすぎってことで切り捨てられてしまってる部分でしょう。そういう制約を受けないプロダクションモデルを実例をもって示した意義というのは大きいと思います。
 で、もうお分かりかと思いますが、ワタシには「ほしのこえ」以上に、その詩情部分だけを抜き出したような「彼女と彼女の猫」(特典映像として収録)の方がキましたです。空気感とせつなさの表現がすばらすぃー。こちらは「ほしのこえ」以前に製作された5分ほどの小品ですが、同じヒトが作ったんだなーというのが、はっきりわかります。どちらも個人製作だから個性が出るのもあたりまえといえばあたりまえですが、でもアニメでそういう作家主義的な観点が可能な時代になったんだと思うと、視聴する側にしかいないワタシでも感慨深いものがあったりします。

2002/05/07

 追記。「ブラックホーク・ダウン」のBGMで何曲か使われてるアフリカっぽい曲ですが、歌ってるのはBaaba Maal。彼はソマリア人じゃないです。ワタシの記憶が確かならセネガル人。

2002/05/06

 連休中(四連休×2)やってたこと、そのいち。部屋の整理。
 といっても積読状態の本の積み場所を変えただけというハナシですが、そんとき発掘した新潮文庫を数えたら二十とちょいありましたんで「Yonda? マグカップ」でももらおうかねー、それとも五十冊の目覚し時計まで頑張るかねーとか思いつつも、新潮以上に多かったのが学研M文庫で自分の趣味の判りやすさにプチ鬱。

 そのに。戦術シム「パワードール5工画堂スタジオ
 ええ予約して発売日にげっとしてテレカももらいましたですとも判りやすいことこの上ない>自分。
 たぶんバグだと思うんですけど、後半のミッションで待機エリアに到着した支援砲撃部隊が展開時刻を過ぎても降下してくれなーいというのがありましてですね、高地制圧任務なんかですんげー苦労したですが、とにかく全ミッションクリア。4からの大きな変更点としては、ターン制の復活と、地雷弾、多用途弾の廃止。外観ではクォータビューになったことですかね。あとマニュアルからデータブックがなくなりました。とにかく一回クリアしただけなんですが、現段階での感想いわせてもらうと、細部でPD初心者にはとっつきにくいかなーってところですね。これまでのをサルのよーにやりこんだ人間なら迷わないと思いますが。
 後日詳しくレビュするかもしれませんけど、とりあえずマリたん萌え。

 そのさん。積読消化。
 というわけでよーやく読み終わったので感想を。まずは原作の方、「ブラックホーク・ダウン/マーク・ボウデン著 伏見威蕃訳」。舞台は内戦が激化していた1993年のソマリア。死者餓死者三十万という惨状に米軍をふくむ国連PKFが展開。その後、米軍の大部分が撤収すると、残った国連部隊にアイディド派(国連からは正統と認められなかった勢力)が攻撃を開始。これに対してアメリカは、大部隊でなく小規模の特殊部隊をおくって事態の収拾を図ろうとした……と、散文的な状況としてはこんなところです。この本で取り上げられているのは、米軍のタスクフォース(レインジャー部隊、デルタフォースなど百名ほどから編成)によるアイディド派幹部の拘束作戦。事実は、幹部の拘束は果たしたものの予想をはるかに越える米軍の被害にアメリカの世論が沸騰、議会はクリントン政権を激しく非難、これをきっかけにアメリカの外交自体がはっきり孤立主義に傾いていくんですが、じゃあなんでそんな大損害を出してしまったのか。理由は。経過は。それを詳述しています。文章自体は小説的ですが、感情的な主張はなく、むしろ淡々と事実をつづっていて、戦闘記録として読むことも可能です。
 それで、作中描かれてる戦闘経過なんですが、予想では一時間で終わるはずの作戦が、けっきょく市街地に突入した部隊が最終的に救出されるまで一昼夜かかって、しかも投入人員九九名中、戦死十八名。題にもなってますが、兵員輸送ヘリのブラックホークまで撃墜されるという、こりゃたしかにイラン大使館以来の大失敗。理由を一言でいえば、アイディド派民兵の抵抗力を過小評価していたってコトになるんですが、兵士の段階、現場指揮官の段階、将軍の段階で、それぞれに過小評価や連携のマズさやらのいろいろなミスがかさなってしまったというのがよくわかります。
 著者はアメリカ人なんで、もちろん実際に戦った米軍兵士への称賛も忘れてませんが、これはワタシも同意します。責任感、献身、自己犠牲、こういったものが発揮されるとき、それが敵と呼ぶ人間に銃を向けるという行為としてあらわれたとしても、やはり称賛されるべきでしょう。
 んが、やっぱり引っかかってしまうのは、これが米軍にとって敗北であるというならソマリア人にとって勝利といっていいものかということです。現地へ取材にも行った著者のマーク・ボウデンは、さすがにそういう意識は持っていて、この本では米軍の兵士たち、指揮官たちのさまざまな視点と並列して、ソマリア人の視点で記述される個所も(少ないですが)あります。自分の住んでる街に武装ヘリで特殊部隊を送り込まれた側の市民感情というものは、けっして無視しちゃならんでしょう。だからこそヘリが墜落した現場を民兵だけでなく、市民も含め激昂した数千人がとりかこむという状況が発生するし、アメリカ人を殺して死体を引きずりまわしてそれをCNNが放送するといった状況にもなってしまう。なにしろ戦死十八名といってアメリカ議会が大騒ぎになりますが、ソマリア人の方は民兵、市民あわせて千人規模で死んでるわけです。ならばこれはナントカ作戦とかいう程度のものじゃなくて、はっきり戦争と呼ぶべきでしょう。そして米軍をよく戦ったと誉めるなら、普段着、裸足で、ボディアーマーもつけず、AK47ライフルとRPG対戦車ロケットだけで装備の充実した米軍の最精鋭に立ち向かったアイディド派民兵も誉めなければならんでしょう。まあ、彼らの民間人と見分けがつかない格好(軍装でないのは正規軍だったら条約違反じゃなかったけ?)が民間人への被害を大きくした一因なんですが。

 次は映画の方。リドリー・スコット監督作品「ブラックホーク・ダウン」。基本的に原作に忠実な映画化といっていいと思います。とはいっても原作丸ごと放り込んでたら時間いくらあってもたりないんで、一部省略してます。ですんで、順序をいうなら原作→映画の方がいいかもです。もっともワタシは映画先でしたけど、それでわけわかんなくなるってコトもないです。まあ前提として、十年くらい前にソマリアでPKOがあった、くらいの知識でいいと思いますです。
 さて、原作をどう簡略化したかというと、アメリカ視点に、ということになります。ソマリア人市民、民兵は出てきますが、基本的に“名無しさん”です。セリフがあるのも二人だけ。ここで引用するのもナンですが今月のOURSの平野耕太氏のコメントが正鵠を得てます。曰く「ブラックホークダウンって敵の民兵、虫に変えるだけでスターシップトゥルーパーズになるって。マジで。」
 これはソマリア人蔑視だとかそーゆーんじゃなくて、作戦に参加した米軍兵士の目に徹したってコトでしょう。彼らが群がる群衆を目の前にして感じた絶望というのが、まさに虫やら獣に食い殺されそうになるときの絶望だったのなら、それが非常によくでています。とくに二機目のブラックホークが撃墜された現場での戦闘シーン。ソマリア人は“虫けらのように”バタバタ倒れていきます。それでもあとからあとから“虫のように”押し寄せる。そしてついに救助に降下した二人のデルタフォース隊員が撃たれ、その死体に“虫のように”よってたかって引きずりまわすソマリア人。パイロットは殺されずに捕虜になるんですが、彼の銃に弾がなくなったときの表情からうかがえる絶望というか、無力感というのは、強烈な印象があります。家族の写真の使い方というのも、月並みかもしれませんが効果的。
 また米軍兵士の方も、とくに個人個人を際立たせるって描き方はしてませんので、全体として群集劇って印象が強いです。まあ原作どおりにやったら百人ちかく隊員名がでてくるんで、かなり整理してあるんですけれど、それでもワタシはレインジャーで四、五人。デルタで二、三人くらいしか見分けられませんでした(コラ)。だけど特定のヒーローを作って、彼に物語を語らせるってことをしていないので、その点、原作を損なってはいません。
 それからラストシーン。ネタばれになっちゃいますんで、以下未見の方は読まないで。
 ここでリドリー・スコット監督、ブラックジョークともいえる強烈なシーンを用意してます。“名無しさん”ソマリア人民兵たちに追い立てられるようにして安全地帯であるスタジアムにかけこむレインジャーたち。スタジアム付近のソマリア人は、ここでレインジャーたちに手を振ってます。だけど、画面からは、戦争映画ラストにありがちの、義務を果たした兵士の達成感やら高揚感やらは、これっぽっちも伝わってきません。なぜか。徹底して相手を虫だとして戦ってきてしまった彼らには、ソマリア人を理解する余地が完全になくなってしまっているから。冒頭、出撃前にソマリア人に同情的な発言をしていた隊員もいたんですが、彼も汗まみれでスタジアムに駆け込むのがせいいっぱい。
 「映画で読み解く「世界の戦争」/佐藤忠男」では戦う相手も平等に描いて相互理解を示してこそ優れた戦争映画だという主張でしたが、この「ブラックホーク・ダウン」というのは、それとはまったく逆です。ですがもちろん、好戦的プロパガンダ映画でもありません。ワタシに評価させてもらえるならこれは、相互理解がまったく不可能になってしまった現実で起きた悲劇を描いた良作、です。


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