’00.02.28

閏年

400年に1度の閏年

さて、明日は、閏年。
ところが、この今回の閏年は、400年に1度の閏年って知ってます??

そもそも、閏年というものは何か。
1年というのが、365日以上あるためにもうけられたもの。
それが、4年に1度、1日分余るから、その1日分のために、
用意された日なのだが、本当に、1年は何日かと正確に言うと、
365.24219879日なのである。

つまり、約0.25日あまるから、4年に1度というわけなのだが、
さすがにそれがずっと続くと、今度は、その0.25−0.24219879日分、余ってしまう。
そこで、次は、100年に1度、閏年をない日を設ける。
これは、100で割り切れる年に当てはまるのだが、そうすると、
今年はないのでは、ってことになるであろう。
ところが、これが、また違うモノであり、
今度は、100年毎に閏年をなくしていくと、またずれていってしまうらしい。
そこで、400年に1度、閏年をなくすのをやめる(つまり閏年にする)ことにするそうだ。
これが、今年に当てはまるのである。

まとめよう。

4で割り切れる年を閏年とする。
ただし、100で割り切れる年は、閏年でないことにする。
ただし、400で割り切れる年は、閏年とする。

ということになる。
とまぁ、今、自分たちが使っている暦を、グレゴリオ暦というのである。
これはもともとは、紀元前46年に、ローマ皇帝ユリウス・カエサルによって制定された、
ユリウス暦というモノがあったのだが、これでは1年の長さが365.25日となるため、
1582年までに暦面が天象よりも10日ほど遅れる、という誤差を生じてしまう。
そこで、1582年10月15日、ローマ教皇グレゴリウス13世が、
ユリウス暦を少し補正して、グレゴリオ暦を制定したそうだ。

ちなみに、そのユリウス暦を補正した際、調整のため、
1582年10月5日を10月15日として、始めたそうだ。
つまり、1582年の10月5日から10月14日は、存在しないことになるのである。
今回もオチはなし。
あしからず。


’00.02.21

インターネット

インターネットは社会孤立への一歩?

酔ってます。(笑)
記事がいい加減にならないように、願います・・・。

さて、最近、おもしろい調査結果を見た。
アメリカのスタンフォード大学が調べた、
インターネットによる社会への影響についての研究なのだが、
その結果が、自分としては、なかなかおもしろい。

「週5時間の利用以上インターネットを使う人は、
 友人や家族と過ごす時間やボランティアなどの社会的活動に割く時間が減少、
 孤立化の傾向を強めていることが明らかになった。」

とのことだ。

この週5時間以上、インターネットを利用しているもののうち、
59%がテレビ、34%が新聞を見る時間が減少し、
25%が家族や友人と接触する時間が減少し、
10%が社会活動の参加の機会が減少しているそうだ。

さて、それでは、自分は、どうだろう。
言うまでもなく、週5時間以上、ネットを利用している。
っていうか、1日で余裕で越えるけどね。
で、上のことに当てはまるか。
・・・否。
別に、何の変化もないね。
テレビや新聞は、ネットやりながらでも見てるし、
家族や友人とは、別に何の変わりもない。
社会活動と言えば、してないから、減るよしもないし・・・。(笑)

でも、結局、どうだろう。
多分、うちらの周りの人は、これには、あてはまらんと思うな、なんか。
別に、ネットを推すわけじゃないけどさ、
メールとか、チャットとかも、社会の一つのような気がするんだけどね。
そういうの(とは言っても東風・・・)で知り合った人たちだし。
ネット社会も、一つの社会って言ったっていいでしょ。
たしかに、孤立っていうのは、多少は、当てはまってるかもしれない。
それは、ネット社会って言うのが、まだ、小さいもんだからだし。
本当の(言い方が変だけど)社会から見たら、違うもんだろうし。

さて、オチがつけられなくなりました・・・。
う〜ん、しゃ〜ない、飲も。
はい、ごめんなさい、ここでは、マジメを通すつもりだったんですがねぇ・・・。


’00.02.16

動物愛護

伊勢エビキャッチャー

伊勢エビキャッチャーって知ってます?
どう言うのかと言えば、UFOキャッチャーの原理で、伊勢エビを釣るってヤツ。
これがゲームセンターやちょっとした料亭で現れ始めたのだが、
やっぱりというべきか、動物愛護団体がクレームを付けてきた。
これに対して、店側の意見はと言えば、
「じゃあ釣り堀はどうなんだ?」ということである。

一見、かわいそうにも見える。
っていうか、かわいそうなのかな?
でも、だとしたら、店側の意見の通り、釣り堀はどうなんだろう。
釣り堀だって、つられるために、そこで、魚は住まわされる。
そこに住まわされた魚は、釣られると言う生き方しかできない。
愛護協会の意見としては、

「人間の娯楽のためのこのような企画は遺憾。
 動物観のゆがみや生命軽視の風潮につながってしまう危険性も大きい。」
 食べられるまで、もてあそび、不必要な苦痛を与えることは、
 倫理的に問題がある。」

と言っている。
でも、結局は、釣り堀とおなじじゃないか??

この伊勢エビキャッチャーって言うのは、釣られるところが、実際に見える。
それだから、釣られる合間というのは、たしかにかわいそうに見える。
ただ、もし釣り堀で釣られる合間というのが見れるとしたら、どうだろう。
針にエサをつけて、魚が飲み込もうとする瞬間。
これは、かわいそうではないのか?

それ以外にもある。
コインを入れて、伊勢エビを捕まえる。
この、コインを入れて、と言う感覚が、ゲームと言うことと繋がり、
それで、ゲームのおもちゃにするな、と言う意見があるが、
それは、金をはらって、釣り堀にはいるというのと、同じじゃないのか?
釣り堀は、その言い方で言ったら、釣りをするための、
リアリズムあふれたゲームと同じじゃないのか?

ところで、何が言いたかったのか。
ちなみに、釣り批判ではありません。
目に見えない部分ならば、何でもありなのかってこと。
もし、これが釣り堀感覚のようなしくみになったらどうだろう。
自分の予想としては、多分、何も言われなかったのではないだろうか。

ふぅ・・・。
今日のところは、これで、カンベンしてもらおっと。
まぁ、見えない部分じゃ、何でも有りなんかなぁってね。
そういうのって、結構、多いと思うよ。
ま、ウソも方便って、言葉も、世の中にはあるしね。
相手が知らなきゃ、何でもいいってわけじゃないっしょ。
ちなみに、こちらは、自分が知らなきゃ、
何でもしてかまわんのだけどね。
ただ、ばれたときは、知らんけどさ・・・。
ああ、でもメインは、伊勢エビキャッチャーの話よ、これは。
そこのところを勘違いせんようにね・・・。


’00.02.15

バレンタインデ−

本当のバレンタインの始まり

ひさびさだな・・・。
まじめにやらないとなこういうのは。
気合い入れてこ。
それにしても、気合いの入りにくい、ネタだけどね・・・。(笑)

さて、BBSで、くだらないバレンタインの話をいたしました。
じゃあ、本当のバレンタインの話って、どういうのでしょうね。

これには、どうやら、説がいろいろとあるようです。
さすがに共通しているのは、バレンタインという名前の由来。

今から約1800年前のローマ帝国時代、イタリア中部・テルニ市での、
聖バレンチノ(バレンタイン)の愛の伝説に基づく。
ローマ皇帝の権力を守るため、キリスト教が厳しく弾圧されていた紀元197年のこと。
ローマ軍兵士サビノとキリスト教信徒のセラピアという娘が恋に落ちた。
ローマ軍兵士がキリスト教を信じることは皇帝への反逆を意味する時代。
しかしサビノは、わが身を守るより愛に生きる道を選び、洗礼を受けることを決意。
テルニの司教、バレンチノが洗礼を行ったのだった。

聖バレンチノは、数々の奇跡を起こし人々を救ってきた人物。
彼のもとで愛を貫いたサビノだが、
運命の悪戯か最愛のセラピアは不治の病に倒れてしまう。
彼女の病気は誰にも治せないと知った彼は、天国での結婚式を願い、
聖バレンチノに「 彼女とともに天国へ 」と懇願する。
そして奇跡は起きた。
セラピアが息を引き取った瞬間、サビノも天国へ召されたのであった。

そのように、聖バレンチノは、ローマ軍兵士とキリスト教信者の恋愛を禁じることは、
人間性に反することとして反対し、若いカップルを祝福してきた
しかし、そんなことは、当然ながら、皇帝の命令に背いている。
その結果、聖バレンチノは、紀元273(269?270?)年2月14日に、処刑されてしまう。
しかし、彼のもとで結ばれた恋人たちを始め、
テルニの人々は彼のことを決して忘れなかった。
それから、聖バレンチノの命日がバレンタインの始まりとなったのであった。

とまぁ、これが、バレンタインの名前の由来。
それでは、さて、どうして、女性からの愛の告白の日になったか。
これには、いくつかの説があります。

その1.ルカパリア

「ルパカリア」とは古代ローマで行われていたジュノー女神のお祭り。
この祭りは2月15日に行われ、その最大の呼び物は前日の14日から行われていた、
求婚相手をクジで引き当てる行事であった。
2月14日に町の娘たちが自分の名前を書いた紙をカメの中に入れ、
祭りの当日青年たちがそれを引くわけです。
引き当てた紙の娘が求婚相手となるわけです。

バレンタイン司祭の死後キリスト教が公認宗教となり、
それ以外の宗教行事は禁止されてきたが、この「ルパカリア」だけは残り、
偶然日にちが一緒だった司祭の処刑の日と合わせバレンタインデーとした。
昔からの行事とキリスト教を融合させることにより、
キリスト教の権威を保ち「ルパカリア」の存続ができたわけ。
今のチョコレートがそのクジの役割なのかもしれない。

その2.親子の交換日記

もともとバレンタインデーは親子の間で行われたノートを交換する日であった。
そのノートにはお互いの愛への感謝の気持ちが書かれてあり、
だんだんそれが男女間の愛の告白に変化していったということだ。
そして、20世紀になって女性から男性への愛の告白になったそうだ。

その3.鳥の恋人探し

14世紀ごろ2月14日が鳥たちが春の訪れを前に相手を探し、
つがいとなって愛をささやく日だと信じられていた。
これから、少年や少女たちの間で相手を選び、
手紙のやりとりすることが始まり、後のカードのやりとりにつながったということだ。

とまぁ、いろいろとあるもんだ。
ちなみに、日本にバレンタインの習慣が始まったのは、1936年。
この年の2月12日付け英字新聞「ジャパンアドバタイザー」に、
ヨーロッパ各国のように、愛の贈り物としてバレンタインデーに、
チョコレートをお選びいただこうと、ファンシーチョコレートを広告されたことから。

この頃日本では2・26事件が起こり、第2次世界大戦に向かって、
内外とも混沌とした暗い世相の中で、「一箱のチョコレートに愛を託す」、
そんな心優しいメッセージを世に送ろうと、モロゾフという会社が始めたそうだ。

結局こうみると、共通点というモノが見える。
それは、「メッセージ」ということだ。
本来は、チョコレートを送る日ではない。
相手に「メッセージ」を送るという日である。
それから、やはり、愛の「メッセージ」を伝えるという日になっていったのではないだろうか。

いかかがなもんかな。
だから、ただ、チョコレートをあげるんじゃあ、バレンタインじゃないんだろうね。
ちょこっと、メッセージをそえたカードをつけるというのが、
本当のバレンタインというものである。
女性のみなさんは、ただ、チョコレートを渡しただけじゃないよね。
本当メインは、一言、言葉を添える行為なのですから。