81. 月で走ると地球よりもはやいか? (2000/10/4)


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シドニーオリンピックが閉会してしまった。出来れば開会中に書くべきだった。というわけで今回は運動について考察する。

■月で走ると地球よりもはやい?

私が高校生の頃、友人とあることで言い争いになった。私は、月で走ると地球で走るよりも遅くしか走れないと言ったのだが、友人はいいやそんなことはないと言ってくる。私は、月で人がフワフワ歩いていることを例にあげながら、月だと引力が少ないので地面をうまく蹴れない、と主張した。友人は、あれは宇宙服が重いので遅くしか動けないのだと反論した。で、結局その言い合いは決着がつかなかった。

で、結局どちらが正しいのだろうか。

地球と月とでは色々な違いがある。

▼引力

月は引力が地球の六分の一ぐらいだった覚えがある。月に行くと体重が軽くなると言われている。普通の体重計を月に持っていくと確か体重が軽く計測される。そういえば、重さと質量の違いについて高校で習う。

まあそれはいいとして、地球上のスピードレースに関して言うと、大抵の場合「軽量化」が行われる。軽い方が少ない力で加速できるからだ。月だと体重が軽くなるのだが、残念ながら質量は減らない。物理学の運動の方程式によると、加速に要する力は質量に反比例するので、月で体重が軽くなるからといって月で速く走れるわけではないだろう。条件は同じである。

▼大気

月は大気が薄い。地球上で速く動くものを作ろうと思った場合、空気抵抗というものを考える必要がある。電車を見ると分かりやすい。町を走る電車は箱のようになっているが、新幹線ぐらいになると先頭がとがっている。スポーツカーや飛行機も同様である。これらは極力空気抵抗の影響を抑えるために形が考えられているのである。

逆にパラシュートなんかは、わざと空気抵抗を利用して遅く空から降りて着地するように出来ている。この原理は F-1 のブレーキにも使われている。

では、月の大気が薄いということは、地球よりも速く動けるということだろうか。多分そうだろう。しかし、実際のところ、人間が走るぐらいの速度では大した影響はなさそうである。…いや、確かに全力で走ると風を感じるので、この風の圧力が少なくなると少しは速く走れるのだろう。

▼摩擦で走る

ではそもそも、人間が走るというのは、どうやって加速しているのだろうか。走ることのたとえとしてよく「地面を蹴る」と言われている。人間は地面を蹴るから走れるのだ。しかし、ただ蹴っただけでは、真上に飛ぶだけである。なぜ走れるのだろうか。

それは、摩擦があるからである。地面とクツの間に摩擦があるからこそ走れるのである。その証拠に、ツルツルすべる氷の上を走ってみればよい。いや、それは危ないからやめたほうがいいだろう。逆に陸上競技用のクツにはスパイクやデコボコがあるのだが、それは地面を捉えて滑らないようにするためである。

走るために摩擦が必要なのは自動車も同様である。仮に自動車のタイヤがゴムではなくツルツルの物体だったとしたら走れるだろうか。

▼摩擦力の計算式

高校は義務教育ではないが 99%の人が行っている。物理は確か基礎的な部分は必修項目なので、高校を卒業した人は物理学の基礎を知っているはずである。だから私がこれから説明することは、まあ少なくとも大人の九割以上の人が理解できるはずのことである。

摩擦力は以下の式で表される。

F = μmg

μが摩擦係数であり、月と地球とで比べると、似たような岩なら大した違いはない。残りの mg は引力そのものである。つまり、月と地球とで比べると、月は mg が地球の数分の一なのである。つまり、月の摩擦力は地球の数分の一ということになる。

▼加速度

物体は摩擦力によって加速できる。計算を簡単にするために、μを 1 つまり絶対にすべらない地面の上を走るとする。g は地球では 9.8m/ss なので、地球だと摩擦力を利用する限り、一秒間に秒速9.8m 以上加速することは出来ない。単位を直すと、一秒間に 35km/h しか速度を上げることが出来ないことになる。いや、これは自動車とかでの話であって、人間が走るときには地面を文字通り蹴るので、実際にはもっと摩擦力が働くかもしれない。

陸上の 100m 走では、はやい人は 10秒を切るタイムで走ることが出来る。時速に直すと平均 36km/h である。となると、地球では最高で大体一秒ちょっとでトップスピードに乗ることが出来る。ところが月だと、摩擦力を利用する限り地球のその数分の一の加速度しか得られない。仮に六分の一だとすると、大体一秒間に 6km/h しか速度を上げることが出来ない。となると、36km/h になるまでに六秒掛かる計算になる。

▼最高時速の計算

人間の最高速度がどのくらいなのか私には分からない。そこでいくつかの場合について計算してみよう。計算方法は以下の図を見れば明らかである。


Figure 1. 100m を 10秒で走った人の、加速度とトップスピードの関係をあらわしたグラフ

縦軸が速度で、横軸が時間である。速度と時間を掛けると距離になる。縦の長さと横の長さを掛けると長方形の面積が求められるように、速度の大きさと時間の長さから距離を求めるのに、面積を用いることが出来る。これは初歩的な積分である。図では、グレーの部分が面積にあたり、グレーの部分が 100m であるときに 100m 走ったことになるのである。

ここで決まっているのは、走る距離が 100m であること、100m 走るのに 10秒ぴったり掛かること、である。トップスピードを T とし、トップスピードに乗るまでの時間を S とすると、台形の面積を求める式がそのまま利用できるので、

(上底+下底)×(高さ)÷2 = 100

つまり

(10-S + 10)×T÷2 = 100
(20-S)×T=200

20-S = 200/T  (T≠0)
S = 20 - 200/T

ところで摩擦力を利用した加速は重力加速度 g の値と同様の限界がある。そこで T と S の関係は以下の式でも表される。

g × S = T
S = T/g  (g≠0)

これを連立方程式として解くと

20 - 200/T = T/g
(1/g)TT - 20T + 200 = 0  (T≠0)
TT - 20gT + 200g = 0  (g≠0)
(T - 10g)**2 - 100gg + 200g = 0
T - 10g = ±sqrt(100gg - 200g)  (sqrtは平方根つまりルートとする)
T = 10g ±sqrt(100gg - 200g)

地球上では g = 9.8m/ss である。ところで最初に距離を 100m にしてしまったため、単位はメートルと秒とする。

T = 10×9.8 ±sqrt(100×9.8×9.8 - 200×9.8)
T = 98 ± 87.43
T = 10.57 , 185.43

∴S = 1.08 , 18.92

ただし S は 0秒より大きく 10秒より小さいという解の条件があるため、

T = 10.57
S = 1.08

が解である。

これを分かりやすくすると、トップスピード T を時速に直すと時速38km/h であり、この速度に 1.08秒で到達すると 100m を 10秒で走れることになる。

さて今度は月の場合である。月の引力が仮に六分の一だとすると、月の重力加速度ひいては摩擦を利用した加速度の最大は、9.8m/ss を単純に 6 で割って 1.63m/ss となる。これを先の式に代入すると、

T = 10×1.63 ±sqrt(100×1.63×1.63 - 200×1.63)

ルートの中身がマイナスになってしまうため、答えが出ない。ちょっと考えれば分かるが、そもそも たったこれだけの加速力で 100m を 10秒で走ることは出来ないのである。

▼結局月と地球ではどちらがはやく走れるの?

ところがこれまでの計算は、100m に限った話をしている。加速度が低い月で、短い距離を競うこと自体が不利なのである。走る距離が長ければ長いほど、トップスピードがどれだけ出るかによってはやく走れるかどうかが決まる。100m 走というのは、速くではなく早くなのだ。この競技は、最速の人間が勝つのではなく、最早の人間が勝つ競技である。最後の 10m をいかに速く走れても、それまでの 90m が遅ければどうしようもない。

では、トップスピードに関してでは、月と地球とではどちらが速いだろうか。

ニュートンの物理学では、物体は力が働きつづける限り速度を増す。だから、速度がこれ以上あげられないという点にまで達するトップスピードでは、走りつづけようとする力とそれを押さえつけようとする力とが均衡するのである。では、走りつづけようとする力と等しい逆方向の力とはなんだろうか。それは空気抵抗である。前述のとおり、月は地球よりも大気が薄い。空気抵抗とは、速度が上がれば上がるほど強くなる。そして空気が薄ければ薄いほど弱くなる。月が地球よりも空気が薄いということは、走りつづけようとする力と空気抵抗とが均衡する速度が高いということである。つまり、トップスピードで言えば月の方が地球よりも速く走れるのである。

ところで私が高校生の時に友人と言い争ったのは、文章ではなく口頭であったので、「速く」か「早く」か分からない。速く、であれば月で走ったほうが速い。早く、であれば距離が短ければ短いほど地球で走ったほうが早い。というわけで、この論争の結末は引き分けということでどうだろうか。…いや素直に負けを認めよう。あの頃の私は、感覚的に、月では速く走れるはずはないと思っていたからである。

*

というわけで、昔のどうでもいい話を前置きに、運動全般の話をしようと思っていたのだが、例によって前書きが膨らみすぎて終わってしまった。また回を改めて、運動全般について、もっと一般的で面白い話をしたい。


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