60. 国境などに関する雑感 (2000/5/26)


戻る前回次回

先号の SAPIO に、世界の大富豪の簡単な特集があった。それを見ると、いまはやはりアメリカのハイテク産業の成金が多いことが分かる。特集では、今年だけでなく十年ぐらい前まで遡って資産順位を挙げていて、一時期日本の土地持ちの西武グループの堤さんなんかが入っていたりしていたらしい。いまはソフトバンクを率いる孫さんが結構金持ちみたいである。

今回から章・節に分けて小題もつけることにする。

■余談:孫正義は日本をよくしてくれるか

本題に入る前に一つ孫さんに関して気に掛かる点がある。彼は在日韓国人かその血を引く人で、日本の学校が合わなかったからか差別されたのか理由はしらないが、アメリカに留学してアメリカの大学を出ているそうである。私は彼の血統に関して特に何も言うことはないのだが、もし彼が日本社会に何かしらのネガティブな感情を持っているのだとしたら恐ろしいなと思った。もしそうだとしてもそれはネイティブな日本人たちが悪いので自業自得だとも言えるが、彼の行動如何で日本を良くすることも悪くすることも出来るだろうから私は非常に気になる。

無論、日本の悪しき商慣習を打ち破ろうとする彼の行動は応援したい。日本の社会は閉鎖的であると言われ、私もそんな社会は改めるべきだと思う。しかし一方で、アメリカニズムと言われるアメリカの国益のために日本は安易に規制撤廃などすべきではなく、そのあたりを悪しき商慣習と一緒に考えてはいけないと思う。このへんに関しては私はまだ勉強不足なのでここでは多くは語るつもりはないが、私がこれまで日本の悪しき商慣習だと思っていたもののうちのいくつかが、実は日本の国益を他国から守るための正しい壁であったにも関わらず、他国の要求とそれを伝えるマスコミの論調がいかにも正しいもののように私に伝わっていたことに気づかされた。

■世界地図上には不自然な小国が多い

ブルネイの国王はかなりの金持ちらしい。資源があるからだそうである。国土は狭いし、技術力があるわけでもないが、資源があるというだけで贅沢な暮らしが出来る。多分国民もそれを享受できる。なんともうらやましい話ではあるが、何かおかしいものを感じる。働かなくて金持ちというのはなんなんなのだろう。一方で、働いても働いても貧乏な国がある。この矛盾に目を向けないのはおかしい。

世界地図を見てみると、ブルネイやクウェートなどの不自然な小国が意外にあることに気づく。前に取り上げたシンガポールに関してもそうである。

シンガポールに関しては、私がこれまで得た情報を総合すると、これまでマレーシアを牛耳っていた少数の華僑が、次第に民衆の不満によって国に居づらくなったので、小さな島を独立させてシンガポールを作った、といった感じである。現にシンガポールが独立するきっかけになったのは華僑虐殺事件があったからのようである。あるメーリングリストでは、シンガポールの繁栄こそが華僑の優秀性の証明である、というのがシンガポールの華僑の頂点に立つリー・クアンユーの考えではないかと言う人がいた。マレーシアではいまだに旧(現?)支配者の華僑に対する差別が行われているらしく、これはつまり「華僑に支配され甘い汁を吸われている民衆が華僑に反発した」という図式が恐らくマレーシアでは成り立っているのだろう。ここでもし、マレーシアから独立したシンガポールという華僑の国がマレーシアよりもずっと繁栄した場合は、というか繁栄しているらしいのだが、マレーシアには逆に「未開だった現地人を指導して豊かにしたにも関わらず国を追い出される華僑」という図式が成り立つようなのである。このあたりの問題は、私もまだまだ情報が足りないので安易に論ずることが出来ない。

翻ってブルネイやクウェートに関しては、私はほとんど知識を持ち合わせていないので何も分からない。クウェートに関しては、どうやらイラクから独立した国家のようである。独立にはどこか欧米の国が関わっていたという話を聞いた事がある。なんにせよ、クウェートには資源がある。どのようにして独立したのだろうか気になるところである。もちろん、現在も恐らく事実上の交戦状態にあるイラクと国連のこともある。クウェートには王族がいて、その王族がイラクに対してかなり無礼な言葉を吐いたという話を最近知った。そもそもクウェートの王族というのは何の王で、どういう根拠があって王族として君臨しているのか気になる。あのあたりに歴史上存在していた王家なのだろうか。

■日本から小国を独立させるなんてことが…

そこで私が思ったのは、もし日本がイラクのようになっていたら、ということである。日本には昔、有名な佐渡金山が佐渡にあり、大量の金が埋まっていたらしい。日本はそれを確か江戸時代に全て掘り尽くしたらしい。金に限らず、日本はかつて鉱物に恵まれていた国だったらしく、世界へ輸出していたこともあったらしい。

それはともかく、もし第二次世界大戦が日本の敗北によって終わった時点で、佐渡金山にまだ十分な量の金が眠っていたとしたらどうだろうか。ひょっとするとアメリカは、こんな能書きで日本から佐渡を独立させたかもしれないのだ。佐渡には現地人がいた、日本がいついつ併合してしまった、だから独立させなければならない、と。そしてどこからともなく佐渡の王を担ぎ出して、彼の一族を王とする国を作ってしまうわけである。もちろんそんな国は傀儡国家であり、裏で表でアメリカ企業というか国際資本が独占的な契約を結んで佐渡金山を掘るのである。

自分でフィクションを作っておきながらなんだが、佐渡の例はあまり現実的ではなかった。もしこれが沖縄だったらどうだろうか。もし沖縄に、戦後の調査で何らかの資源が埋まっていたとしたら…。佐渡なんかと違って、沖縄の独立に関しては十分過ぎるほどの理由が存在しているのである。なにせ沖縄は琉球王国であり、戦国時代以前は独立した王国であったらしい。人種だって多分違う。私は前の仕事で沖縄系の三人の人と仕事をしたのだが、明らかに人種の違いを感じた。ただしそう言われないと分からないだろう。

沖縄に大量の資源が埋蔵されていたとしたら、間違いなく戦後のアメリカは沖縄を日本から独立させていただろう。これは断言できる。先のフィクションと同様に、やはり琉球王朝の血筋を引く王族なんて簡単に見つかるだろうし、特に何の違和感もなくいま二国が並立しているに違いない。

余談だが、台湾を狙っている中国は、台湾を併合したとしたらそのあとは沖縄を狙う、と見る人もいるらしい。中国が沖縄を併合する大義名分は、歴史上中国は沖縄を領有したことはないのだが、琉球がかつて中国を中心とする華夷秩序に組み込まれていたことで十分な気がする。それはつまり、琉球の支配者は琉球王朝の王なのだが、琉球の皇帝は中国の王朝であると琉球自身が認めたことがあるということだからである。

■パレスチナ問題・イギリス悪玉論からアメリカ陰謀説へ

私がこのような国について興味を持ったのは、パレスチナつまり現在のイスラエルについての話からである。当時私が知った情報というのは、かつての大帝国イギリスが、ユダヤ人にもアラブ人にも戦後パレスチナに独立国家を作る約束をした、ということである。その話を知った私は、ああイギリスはとんでもない国だ、と思った。しかし最近になって非常に興味深いことも知った。イスラエル建国にはアメリカが強く関与しているらしい。

詳しくはアジア国際通信のバックナンバーを参照してほしい。ここでは簡単にまとめるだけにする。要するにイスラエルは、アメリカが中東ににらみを効かせるために人造的に作られた国家だということである。

我々が信じさせられている物語はこうである。これまでユダヤ人は虐げられてきた。定住するべき国は既になく、色々な国を渡り歩いては困難に遭い、ようやく国際社会から独立国を立てる約束を取り付けた。ところがそれは二重契約であり、自分たちの国を建てて守るためにアラブ人とやむなく戦争を始めた。

ところがである。既にユダヤ人たちはイスラエルではなく自分たちの国を手に入れているのだそうである。それがアメリカ合衆国である。もはやユダヤ人たちは、同一民族で一つの国家を作るという小さな志ではなく、あらゆる人種が暮らす自由と平等の国アメリカを祖国と思っているらしい。もちろんいまでも世界各国にユダヤ人がいて、それぞれ現地で根を降ろしているのだろう。実際どれだけのユダヤ人がアメリカに渡ったのか私は知らない。私が他の本から得た知識からすると、アメリカは先に移住してきた人種が有利な産業に早期から参入することで優位な立場を占めていて、もっとも優位な立場にあるアングロサクソン系の人々は WASP と呼ばれて主要な産業を独占しているらしい。後発のたとえばウェストサイドストーリーにも見られるプエルトリコ人なんかは差別されていたみたいだし、黒人は現在も手ひどい差別を受けている。ユダヤ人も例外ではなく、主要産業から締め出された彼らは、たくみに自分たちの銀行を作り、自分たちの仲間の商売を助け、広範なネットワークで商売を成功させてきた。そして一時期は新たな主要産業と呼ぶべき映画・マスコミで主要な位置を占めるに至り、その後は私の読んだ本によればユダヤ人だろうがなんだろうが関係なく繁栄していると聞く。

ところで、我々がユダヤ人という言葉を使うとき、二種類の意味があるのだそうである。一つは人種としてのユダヤ人で、もう一つはユダヤ教の信者としてのユダヤ人である。つまり、ユダヤ人というのは人種的な属性もあるが、ユダヤ教を信じる者という属性を指す言葉でもあるようなのである。これはある意味、アメリカ人、という言葉にも言える。アメリカという国家で、好き好まざるに関わらず、自由と平等もとい競争絶対主義という宗教まがいの思想を信じていることになっている彼らを表す言葉、それがアメリカ人なのである。

奇妙なことに、イスラエルの内部で生粋のユダヤ人が差別されていると聞く。また、ユダヤ人の中には、イスラエルという国は自分たちとは関係がないと感じている人も多いらしい。

ちなみに、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に関するいかなる反論も法律で禁じている国がいくつかあるらしい。私は最近、ホロコーストの存在・程度に関して疑問を持ってきたのであるが、その理由はこのような不自然な法律や言論統制がある。別に私は、ドイツに行ってアウシュビッツで調査してきたわけでも、調査してきた人のレポートを読んだのだが納得させられたわけでもないが、やはりいかなる反論も許さない法律の存在や、文藝春秋社のマルコポーロ廃刊の件を考えると、ホロコーストは本当は無かった或いは少なくとも数字に嘘があることは確実だと思っている。この件に関しては、いわゆる「言論統制」が行われているのだから、いかにユダヤ人の感情どうこうを考えたとしても、民主主義にあるまじきことだと私は思う。この件に関するマスコミの態度は自分を否定するにも等しいのだから、やはり何らかの圧力が掛かっていると考えるのが当然だろう。

■アフリカの国境は直線が目立つ

やっと国境という言葉が出てくるのだが、世界地図を見るとアフリカ大陸の国々の国境で直線で描かれているものが多い。これらの国々が、それぞれの国の歴史や民族や生活・文化から国境が定められているのではないことは明らかである。ヨーロッパの国々がアフリカを植民地にし、宗主国同士が勝手に国境線を引いた。だから、異なる民族同士が理不尽に一つの国に分けられたり、二つ以上の国に分けられてしまったりした。そこでつい最近もシエラレオネがどうこうとニュースでやっていたり、問題が噴出しているのだそうである。しかし残念ながら我々日本人にとっては、アフリカはあまりに遠すぎて関心の的にはならないようである。特に大規模な戦争が起きるわけでもなく、地域紛争は新聞の一面の微妙な位置に載っては通り過ぎていく。

アフリカ問題を含めて、国際的な問題というのは我々は知らなくても良いことなのだろうか。仮にマスコミが意図的に国際的な問題、中でも日本とは全く関係ない問題を報道しないというのはアリなのだろうか。マスコミというのは、NHKを除けば民間企業であり、国民が関心を持とうとしないものを無理矢理注目させる必要はない…? まあいわゆる需要の喚起、たとえば自分たちだけがアフリカ問題を取り扱っています、興味があるならぜひうちの新聞・局を、というのもあるだろう。なんにせよ、少なくとも私はここでジャーナリズムの志というものを持ち出すつもりはない。逆に言えば、ジャーナリズムの考え方以外に、我々日本人が日本と関係のない国際上の問題について知らなくてはならない理由があるのだろうか。現にジャーナリズム先進国と言われるアメリカでさえ、国民は諸外国への興味があまり無いらしいではないか。

ちなみに、私が国際問題に興味を持つのは、社会正義のためではなく、純粋な興味と、自分の利益に直結する日本の国益、そして憎悪と誇りという二つの感情のはけぐちの三点である。このような私からすると、アフリカ問題は取り立てて興味を引く事柄ではない。興味に関して言えば、他の問題と比べると面白みに欠ける。日本の国益と直結する話もあまり大きくは聞かない。それに日本はアフリカ問題でこれといった被害を受けているわけでもなく、まして解決に貢献しているわけでもないので、憎しみも誇りももてない。ただし日本は海外援助の一環として、アフリカでたとえば囲炉裏を作る技術を現地人に教えたりして、その技術が現地で大変役に立っていると聞いて誇らしくなるのだが、これはアフリカ問題ではない。

もし社会正義のためにアフリカ問題を解決すべきだと考えている人がいるならば、まずは人々の関心を喚起しなければならないだろう。

■民族対立という言葉で止まるな

現在進行形で、インドネシアからの独立を企てているアチェ特別区がある。そこではいまも凄惨な日々が続いており、その様子が SAPIO に特集されていた。独立紛争の原因は、インドネシアに大きな富をもたらしている天然ガスにあるらしい。アチェ特別区の人々は、自分たちの土地に出ている天然ガスなのに自分たちに利益が還元されていないと思っているらしい。…本当にそうなのだろうか? SAPIO は良い雑誌だと思うが、今回の特集では、独立させまいとする政府軍が強引なやり方をしているということだけを印象付けられた。いまどき、資源を独占することで自分たちの地域だけを豊かにしようというだけで、人々はわざわざ独立組織まで作って武力闘争をするものなのだろうか。私はあまりこの問題について知らないので、実は民族対立があるのかもしれない。しかし仮に民族対立があったとしても、またいかなる理由があったとしても、地域全体を紛争状態にしてまで守りたいものがあるのだろうか。また、人々はそこまで理性を無くすものなのだろうか。

我々は安易に「民族対立」と呼ぶことで、それ以上のことを考えないという誤りに陥っていないだろうか。異なる民族が並存している国は多いのに、なぜ特定の国だけが民族対立で紛争を起こしてしまうのだろうか。そしてなぜ我々は紛争の解決には「民族の自決」が一番だと考えてしまうのであろうか。一方でなぜ先進国では「民族の自決」が語られないのであろうか。私はいまのところ、民族対立と呼ばれる紛争には、実際には他の大きな理由があるものだと考えている。「民族対立」は現象に過ぎない。また、民族対立が紛争の主因ではないというのは多分現代の一般的な考え方であろう。民族対立は、主因でなければ、副因である。

このあたりの話は私の宿題としてまた勉強してから書くことにする。


戻る前回次回
gomi@din.or.jp