43. 創発 - カオスの発生 (1999/8/19)


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ずっと前にカオスについて説明してから随分たつ。ようやくその続きを書くときが来たように思えるので書くことにする。

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seti@home というプロジェクトがある。これは、カリフォルニア大学バークレー校というコンピュータサイエンスなどで有名な大学の学生が興したプロジェクトみたいで、その目的は、宇宙から地球に届く電波の中から、宇宙人が発したかもしれない電波を探すことである。

地球に住む人間は、言葉で会話をする。言葉は音声であり、物理的には空気の振動である。遠いところにいる人間同士は、空気の振動である音声を電波に変換して遠くに飛ばすことで会話をする。ということは、もし宇宙人が宇宙のどこかにいるならば、宇宙人も電波を使って通信している可能性があるわけである。ならば、宇宙から地球に届く電波に、宇宙人が発した信号が含まれているかもしれない、と考えるのは自然な流れである。

ではどうやってそれを調べるのか。たとえば、我々の身の周りには沢山の音がある。車が走ればエンジンの音や空気を切る音がするし、手を叩けば手の音がする。その中で、人間が言葉を話せば人間の声の音がする。人間は、さまざまな音の中から、人間の声を聞き分けることが出来る。なぜなら、人間の音声というものが、他の音とは違う特徴を持っているからである。また、我々日本人は、英語やロシア語や中国語を喋る人が周囲にいても、日本語を喋る人の言葉を聞き分けることができる。また、たとえ英語をあまり知らなくても、なんとなくその人が中国語ではなく英語を喋っているのだということが分かる。それと同じように、我々は宇宙から来る電波を調べることで、宇宙人の言葉を聞き分けることが出来ないだろうか。

もちろんそう単純にはいかないだろう。そもそも宇宙人がどういう文化を持っているのか分からない。宇宙人がいたとしたら、我々地球人と同じような文化を持っている可能性もあるが、全く異なっていて理解不能である可能性も高い。だから、電波を解析することは大変難しいだろう。その電波を単純に音声にして自分の耳で聞いてみても意味がないだろう。

そこで、その電波をコンピュータに解析させてみてはどうかと誰かが考えた。だが、大量にあるデータを解析するのには性能の高いコンピュータととてつもない時間が掛かり、高度な解析をするには多くの人間と多額の金を要する。ではどうするか。前述のカリフォルニア大学バークレー校の人間は、インターネットを通じて多くの人の協力を仰ぐことにしたらしい。だが、協力といってもそんな慈善事業のために面倒なことをする人は少ないだろう。そこで、彼らは電波解析のためのプログラムを、スクリーンセーバーという形にした。スクリーンセーバーというのは、コンピュータを人間が使わないでいる時には画面を真っ暗にして画面の焼付けを防いだり、綺麗な映像を表示して目を楽しませるためにある。つまり、そのスクリーンセーバーが動いている間は、人間はコンピュータを使用していないわけだから、その間にインターネットを通じて電波のデータを取ってきて解析して送り返すようにするのである。

この方法は大成功した。今日の朝日新聞にも載ったのだが、記事によると 100万人ぐらいがその電波解析スクリーンセーバーをダウンロードしたらしい。電波のデータはかなり解析され、未解析のデータの残りが少なくなってきたらしい。そこで今度は、もっと高度で時間の掛かる解析を行うプログラムを作る予定らしい。

そこで恐らく普通の人には疑問が浮かぶだろう。なんでもかんでもコンピュータに解析させればうまくいくように思いがちであるが、ではどのような方法でコンピュータに解析させているのだろうか。朝日新聞によれば、彼らは電波データの不自然な偏りがないかどうかを調べているらしい。なぜデータの不自然な偏りが宇宙人の言葉を表すのだろうか。

ここで基礎知識として一つのことを説明しておこう。ラジオで、番組の無いチャンネルにつまみを合わせると、ザー、という雑音が聞こえる。これは、ホワイトノイズと呼ばれる音である。この音は、規則性のない電波を音に変換すると出る音である。このホワイトノイズからは、人間の言葉らしいものは当然聞こえないし、地球上に存在するあらゆる生命や現象が発するどんな音とも似ていない。つまり、何の規則性もない電波を音に変換すると、何の意味もない音が得られる。

我々が普段何気なく使っている「文字」というものも、形が偏っているからこそ意味を汲むことが出来る。たとえば、紙にめちゃくちゃに線を引いても文字にはならないし、砂浜に波が打ち寄せても砂浜には文字は浮かび上がらないし、風が落ち葉を吹き飛ばしても落ち葉が文字を構成することはない。つまり、人間がわざわざ、砂浜に枝で意図的に溝を作るからこそ文字が浮かび上がり、落ち葉を一定の形に並び替えるからこそ文字や絵が浮かび上がる。

つまりこういうことである。宇宙から地球に来る電波の中に、宇宙人が恣意的に偏らせた特徴が存在するかもしれない。電波が偏っているかどうかは、人間が時間を掛ければ調べることが出来る。

以上が seti@home の考えである。私はこのプロジェクトのことを友人から聞いた。なるほど、変わったことを真面目にやる集団もあるものだな、と思った。だが意地の悪い私は、その友人に以下のようなことをメールで話した。

「もし宇宙に多数の電波の干渉帯があって、その多数の干渉帯が電波にぐちゃぐちゃに干渉して、まるで意味を持っているかのような複雑な電波が地球に来ているとしたらどうだろう。そうしたら、seti@home のような人たちは、その複雑な電波を解析して『宇宙人からの電波だ!』などと勘違いするかもしれないし、もっと先走って『宇宙人が我々を侵略しようとしている!』などと思うかもしれないよ」

するとその友人はこう書いて送り返してきた。

「宇宙人が人間のような形をしているとは限らないじゃないか。その電波の干渉帯が実は宇宙人だってことも考えられる」

なるほど。確かにそうである。ついでに、このあとの話をわかりやすくするために、上の彼の言葉に対しての私の言葉をついでに出すことにする。

「宇宙人からのメッセージなんて探す暇があったら、まずイルカの言葉(?)を解読することから始めた方がいいんじゃないの」

生物学者の間では、イルカは高度な知性を持っているのではないかと信じられている。あの独特の知的な鳴き声や行動がそう思わせるのだろう。だったら、宇宙人なんていう存在しないかもしれないものの存在を確かめる前に、まずイルカの言葉をコンピュータで解析しようとする方がよっぽど楽で有意義じゃないだろうか。なにしろ、イルカが鳴いたら、我々はその時にイルカが何をしていたかを観察できるのである。行動を観察できるか出来ないかは、言葉を理解する上で非常に重要である。逆に、行動を観察しないでどうして言葉を理解できようか。タガログ語の会話のテープだけを聞くだけでタガログ語を理解できるだろうか? おそらく人間には無理だろう。ただし、コンピュータには可能であるが。

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ここで話が一見関係無い方向に進むが、アメリカが旧日本軍の暗号を解読できたことは歴史上の事実である。なぜ暗号を解読できたのだろうか。考えてみれば不思議ではないだろうか。暗号なんてものは、作る側が複雑なものを作ればいくらでも難解に出来るように思えないだろうか。だが、結論から言うと、あらゆる暗号は解読可能である。ただし、解読するには暗号の複雑さに応じた暗号文の量が必要であるが。

よくありがちなのは、文字をずらすことである。たとえば、「こんにちは」という言葉を五十音順に一つだけずらして「さあぬつひ」という風に暗号化したとする。つまり、「こ」という文字は「あいうえおかきくけこさしすせそ…」という順で一つだけ後ろにずらせば「さ」になる。このように暗号化した文があったとすれば、もしこの暗号を傍受した人間は、その人間が日本人であり五十音順という概念を知っていれば、いくらかの志向錯誤の末にあっさりと暗号を解読できるだろう。まあこれはちょっと例が単純すぎたので、もう少し補足説明する事にしよう。

文章というものは、文字に分解できる。先の例で言えば、「こんにちは」という文章は、こ、ん、に、ち、は、という文字に分解できる。そうやって文章の全てを文字に分解したときに、その文章が日本語であるならば、ある文字だけが多く現れ、逆に滅多に現れない文字があることに気づくはずだ。たとえば、英語の文章では、e という文字が最も多く現れる。だから、もし英語で単にアルファベットを入れかえるという暗号を使って文章を暗号化したとすると、もし仮にその暗号文に f が大量に現れるとすぐ分かる。その f は e をあらわすのだろうと容易に想像がつくのである。ちなみにこれは暗号の中では最も原始的な「シーザーの暗号」と呼ばれる。

それから、たとえ文字に寄らなくても、文章の意味から暗号が解読できる。たとえば、我々が友人と話すときに、その友人と何を話すかはある程度決まっている。まず最初に挨拶があるかもしれないし、最後に「バイバイ」と言うことが決まっているかもしれない。同じ友人と、毎日毎日何十回何百回と話すと、今回の会話が前回の会話の続きになっているかもしれない。すると、今回の会話は前回の会話の続きである可能性が高くなる。

極論を言うと、意味のあるメッセージをどんなに暗号化しても、何度も何度も同じ方法でメッセージをやりとりしていると、必ず暗号は解読されるのである。こう言っても多くの人は信じる事が出来ないかもしれないので、もっと話を限定してみよう。あなたが外国に旅行に出かけたとする。あなたはその国の言葉を全く知らないとする。そんな状態で、ある店の中に入ってみよう。仮に八百屋の中に入ったとする。そこで、1日中、客が来て買い物をしていく様子をずっと観察するといい。すると、その客が何を喋って物を買っていくのか、次第にパターンが分かって行くようになるだろう。もし日本だとすれば、店員はまず最初に「いらっしゃいませ」と言い、客が店を出て行くときには「ありがとうございました」と言うことに気づくはずである。もっと注意深く観察していると、キャベツのことをその国の言葉でなんと言うかがわかるようになるだろう。もしあなたが目の見えない人であるならば、キャベツがその国で何と呼ばれているのかは分からないかもしれないが、とにかくよく売れる品物がなんと呼ばれているのかぐらいは分かるだろう。目が見えなかったら、あなたが入った店が八百屋かどうかさえ分からないかもしれないが、その国で何軒も何軒も店に入ったら、その場所でどんな店が多いのか分かるし、多い店は恐らく食料品を売っているのだろうだとか、声の性質から客層が分かって店や商品のことを想像することが出来るだろう。

ここまで来て賢明なあなたなら気づくかもしれない。もしあなたが外国に行って店を覗いた時に、店員が客に向かって最初に何か喋って最後にもまた何か喋ったとして、どうしてその言葉が「いらっしゃいませ」であり「ありがとうございました」であるかが分かるというのだろう。それらはただ単に我々日本人の言葉から類推しただけではないか。現に、英語の「いらっしゃいませ(ご来店ありがとうございます)」は、彼らの意味としては「私はあなたのお役に立てるでしょうか」である。ネパールやインドの「いらっしゃいませ」がどんな意味なのか分かるはずはない。そんなのは、よっぽどその国のことを、その国の言語のことを調べないと分かるはずがない。

そもそも、我々が「ありがとうございました」と誰かに言ったときに、それは相手に対して感謝しているのであって、決して言葉通りに「あなたのしたことは私にとってはこの世に存在しにくいと思える行為でした」と伝えたいわけではない。つまり、日本語の「いらっしゃいませ」と英語の“May I help you?”は、意味が同じなのである。両者は、文法や言葉に分解してみると異なる意味になるが、普段我々が使っている言葉としては全く同じである。なぜ同じだといえるのかというと、それは、我々日本人と英語圏の人間が、似たような文化を持っているからである。

逆にいうと、根本的に異なった文化を持った相手に対しては、意味などというものを共有することは不可能であるのだ。そうなると、互いに相手の言葉を勝手に理解するしかなくなるわけである。たとえば、ある人が路上にいる子供にお金を渡したとしよう。その過程で一言ずつ言葉を交わしたとする。お金を渡した人と、受け取った子供が、全く異なる文化を持っていたら、その言葉の意味は全く違ってくる。お金を渡した人にとっては、

ある人「あなたにお金をあげましょう」
子供「どうもありがとう」

なのかもしれないが、子供にとってみれば、

ある人「こんなお金は俺にはゴミみたいなもんだ」
子供「ふん。馬鹿なヤツだ」

なのかもしれない。つまり、お金を渡した人にとっての世界と、お金を受け取った子供にとっての世界は、全く異なっているかもしれない。

だから、もし人間が宇宙人とうまくコミュニケーションできたと思っても、人間の思い描く世界と宇宙人の描く世界(があるかどうかは人間にとってみれば知らないが)は全く異なっているかもしれないのである。というか、コミュニケーションというものは、二つの個体が世界を共有することではなくて、あくまで個々の主体の内部で完結しているものなのである。

話を最初に戻すことにしよう。もし仮に人間が、宇宙からの電波を解析して宇宙人の存在を確認したとしても、それはあくまで人間がそう思ったからに過ぎないのである。

さらに極論しよう。あなたに親しい友人がいたとして、あなたが彼(彼女)と会話をして、その会話がうまくかみ合っているとあなたが思ったとしても、それはあくまであなたがそう思っているからに過ぎない。その友人の言動が、あなたに対してそう思わせているに過ぎないのである。そして、哲学的に言えば、あなたがその友人と話がかみ合っていると自分で思うこと自体が「(あなたにとっての)意志の疎通」と呼ばれるのである。決して、あなたと友人の両方の心の中が分かる神という存在がいて、その神があなたの心の中と友人の心の中を見比べて「あなたとその友人は理解しあっている」と判定するわけではない。

ここで「神」というものが出てきたが、この概念は非常に重要である。人間はこれまでの歴史の中で、さまざまな神を作ってきた。が、いまでは「神とは人間が信じるからこそ存在するもの」だという認識が一般的になってきている。その通りである。昔は、海が荒れたり異常気象が起きたりすると、神が機嫌を損ねたと思って祭りをしたり供え物をしたりした。自然現象を神格化(人格化)したのである。我々は、海が荒れたぐらいでは神が存在するとは思わないが、昔の人間は海の神が存在するのだと信じた。つまり、自然という不思議な現象の中に意志を感じたのであろう。

そこで話をまた最初に戻そう。私は友人に対してこう言ったのを思い出していただきたい。

「もし宇宙に多数の電波の干渉帯があって、その多数の干渉帯が電波にぐちゃぐちゃに干渉して、まるで意味を持っているかのような複雑な電波が地球に来ているとしたらどうだろう。そうしたら、seti@home のような人たちは、その複雑な電波を解析して『宇宙人からの電波だ!』などと勘違いするかもしれないし、もっと先走って『宇宙人が我々を侵略しようとしている!』などと思うかもしれないよ」

つまり彼らは、宇宙の自然現象を神だと奉っていることになるかもしれないわけである。

そんなわけで私は、seti@home を一種の宗教なのではないかと思うと同時に、なるほど、何かに対して意志を感じるということは「信じる」ということであって、人間の感じる「現実性」などというものは結局のところ「信心」から来ているのだなと思うのである。

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話は本当ならここで綺麗に終わるはずなのであるが、最後に今回の題名となっている「創発(emergent)」という言葉について説明することにしよう。この言葉は、一見何の規則性も意志も感じられない現象や物体が、実は何らかの規則や意志に基づいて変遷(発現・行動)しているのではないだろうか、と人間が疑う瞬間を意味している。

科学だけでは「生命」や「意志」を定義できないのである。そして哲学は、「生命」や「意志」が、人間の「信心」からくるということしか説明することが出来ない。


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